第57話 剣士の帰還
翌朝、目を覚ますと、窓の向こうから小鳥の鳴き声が聞こえていた。
久しぶりに眠った自分の寝台は、思っていた以上に心地よかったらしい。王都からの長旅で溜まっていた疲れも、昨夜ぐっすり眠ったおかげで随分と取れたように感じる。隣ではタクマがまだ眠っていて、その穏やかな寝顔を眺めていると、昨日ようやくノヴァグラードへ帰ってきたのだという実感が改めて湧いてきた。
私は起こさないようにそっと寝台を抜け出し、窓を開けた。朝の冷たい空気が部屋へ流れ込み、森の匂いが鼻をくすぐる。王宮では窓を開ければ整えられた庭園が見えたけれど、この家の周囲に広がっているのは、手入れのされていない木々と草花ばかりだ。季節によって景色が変わり、風が吹けば枝葉が揺れ、時には小動物が庭先を横切っていく。
それでも、私にはこちらの方が落ち着く。誰かが整えてくれた美しい庭園よりも、自分たちで選んだこの場所の方が、ずっと居心地がいいのだ。
「……おはよう、リカ」
背後から声がして振り返ると、タクマが寝台の上で身体を起こしていた。まだ少し眠そうな顔をしているけれど、私と目が合うと、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「おはよう。起こしちゃった?」
「いや、そろそろ起きようと思ってたところだよ。今日はハーケンさんとの約束もあるしな」
「ふふ。楽しみにしてるんだ?」
「ああ。久しぶりだからね。今の自分がどこまで通用するのか、確かめてみたいんだ」
「緊張してないの?」
「多少はね。でも、それ以上に楽しみかな」
そう答えたタクマの表情には、以前のような気負いがなかった。
前にハーケンと手合わせをした時、タクマは惜しいところまで追い詰めながら、最後には経験の差を見せつけられて敗れている。あの頃の彼は、まだショートソードを使っていたし、身体強化も今ほど自在には扱えなかった。日本で身につけた剣道の技術を土台に、この世界の剣術を少しずつ覚えている途中だったのだ。
けれど、今は違う。
ボーマンとの修行を経て、タクマはロングソードを扱う剣士になった。身体強化による高速戦闘だけでなく、魔法を組み合わせた独自の戦い方まで身につけている。私も何度となく彼の稽古を見てきたけれど、その成長には驚かされることばかりだった。
もちろん、ハーケンだって簡単に勝てる相手ではない。長年にわたって冒険者たちを指導してきた熟練の剣士なのだから、経験に裏打ちされた技術には今でも学ぶべきところがたくさんあるだろう。
だからこそ、今日の手合わせが楽しみだった。
朝食を済ませると、タクマはいつものロングソードを手に取り、鞘や柄の状態を確かめ始めた。今日は木剣を使うはずなのに、普段と変わらない手順で装備を点検している。
「今日は真剣を使わないんでしょ?」
「もちろん。でも、普段使ってる剣の感覚は確認しておきたいからな。木剣に持ち替えた時、違和感がないようにね」
「ふふ。真面目ね」
「ハーケンさん相手だからね。せっかくの機会だし、ちゃんとした手合わせにしたいんだ」
タクマはそう答えると、剣を鞘へ戻した。
私たちは支度を整え、森の転移魔法陣を使ってノヴァグラードへ向かった。
ギルドの訓練場に到着すると、そこにはすでに何人もの冒険者が集まっていた。
普段なら新人たちの稽古が行われている時間だけれど、今日は少し様子が違う。訓練場の中央には広めの空間が確保され、その周囲では冒険者たちが何やら楽しそうに話していた。どうやら、ハーケンとタクマの手合わせについて、すでに噂が広まっているらしい。
「おっ、来た来た!」
聞き慣れた声がして振り向くと、フリーダがこちらへ手を振っていた。その隣にはクルシュもいて、二人ともすっかり観戦するつもりのようだ。
「おはよう、フリーダ! クルシュも!」
「おはようございます、リカさん。タクマさんも」
「おはようございます」
タクマが挨拶すると、フリーダは早速その肩を叩いた。
「いやあ、楽しみにしてたんだよ。昨日からハーケンの奴、随分張り切ってたからな」
「そうなんですか?」
「ああ。前に惜しいところまで追い詰められた相手だろ? 今度こそ負けられないって顔してたぞ」
「フリーダ、少し話を盛っていませんか?」
クルシュが苦笑する。
「盛ってないって。まあ、あたしにはそう見えたんだよ」
二人のやり取りに、私も笑ってしまった。
フリーダとクルシュは、ボーマンとの修行が一区切りついた頃のタクマを知っている。久しぶりに冒険者として活動した時、彼の戦いぶりを目の当たりにしているのだ。だからこそ、今日の手合わせがどうなるのか、ある程度予想しているのかもしれない。
「タクマさん、あれからも鍛錬は続けていたんですよね?」
クルシュが尋ねると、タクマは頷いた。
「ええ。王都への旅の間も、ボーマンさんに稽古をつけてもらっていました」
「そうですか。それなら、今日の手合わせは興味深いものになりそうですね」
クルシュは穏やかに微笑んだ。
「以前の時点でも、すでに相当な腕前でしたから。そこからさらに鍛錬を重ねたとなれば、どれほど変わっているのか楽しみです」
「おいおい、あんまり褒めるなよ。タクマが緊張するだろ」
「そう言いながら、一番期待しているのはあなたでしょう?」
「そりゃそうさ!」
フリーダは豪快に笑った。
そこへ、エリナが訓練場の入り口から顔を出した。
「みんな、もう集まってるんだね!」
「エリナも見に来たの?」
「もちろん! ハーケンさんとタクマの再戦だもの。仕事の合間だけど、ちょっとくらいならいいでしょ?」
そう言って笑うエリナの後ろから、シエラも姿を現した。
「シエラ、おはよう!」
「おはよう」
「今日は早いね」
「手合わせを見るから」
「ふふ。そうだったね」
シエラはそう答えると、持っていた小さな包みを開いた。中には焼き菓子が入っていて、彼女は早速一つ取り出して口へ運ぶ。
「……シエラ、朝ご飯は食べた?」
「食べた」
「じゃあ、それは?」
「間食」
あまりにも当然のように答えるので、私は笑ってしまった。
「シエラさん、今日は見物ですからね。食べながらでも構いませんけど、あんまり散らかさないでくださいよ」
タクマがそう言うと、シエラは小さく頷いた。
「分かってる」
そんなやり取りをしているうちに、訓練場の奥からハーケンが姿を現した。相変わらずのがっしりした体格に、日に焼けた顔。手には二本の木剣を持っている。
「おう、揃ってるな! タクマ、準備はいいか?」
「はい。いつでも」
「よし。じゃあ、始めるとするか」
ハーケンは木剣を一本差し出しかけて、ふと手を止めた。
「そういや、お前、得物を変えたんだったな」
「ええ。今はロングソードを使っています」
「なら、こいつじゃ短いか」
ハーケンは手元の木剣を見てから、訓練場の武器棚へ向かった。そこには、さまざまな長さの木剣や木槍が並べられている。彼はその中からロングソードを模した長めの木剣を取り出すと、タクマへ差し出した。
「これならどうだ?」
タクマは受け取ると、軽く構えて重心を確かめた。片手で持ち上げ、両手で握り直し、ゆっくりと剣先を動かして感触を確かめている。
「ええ。ちょうどいいですね」
「ほう。随分と馴染んでるじゃないか」
ハーケンは感心したように頷いた。
「前はショートソードだったろ。今の師匠に教わって変えたのか?」
「そうです。修行の中で、こっちの方が自分には合っていると分かりまして」
「なるほどな。剣が長くなっただけじゃなさそうだ」
ハーケンは楽しそうに笑った。
タクマが今の剣を使い始めた頃のことを、私はよく覚えている。
最初は長くなった刀身の扱いに戸惑い、踏み込みと剣先の動きが噛み合わないこともあった。日本で身につけた剣道の感覚が役に立つ一方で、同じように振るえばいいというわけでもない。ボーマンはその違いを一つずつ指摘し、タクマが自分の身体に合った動きを見つけるまで、根気よく稽古を続けていた。
そして今では、長い剣を扱うことが当たり前になっている。構えには余計な力が入っておらず、剣先も静かに安定していた。
「ところで、タクマ」
ハーケンが尋ねた。
「身体強化は使うのか?」
「できれば、使わせてもらいたいです」
「構わん。ただし、攻撃魔法はなしだ。あくまで剣の手合わせだからな」
「分かりました」
「リカ、悪いが安全のために防御魔法を頼めるか?」
「もちろん!」
私は二人の木剣に、衝撃を和らげる魔法を施した。
完全に衝撃を消してしまうと、剣を受けた感覚までなくなってしまう。だから、打ち合いの手応えは残しながら、強い衝撃だけを抑えるように調整する。それでも、身体強化を使った剣士同士の手合わせだ。万が一に備えて、私はすぐに防御魔法を展開できる位置に立つことにした。
「準備できたよ」
「助かる」
ハーケンが頷き、タクマと向かい合った。
訓練場の周囲に集まっていた冒険者たちも、次第に静かになっていく。ハーケンは慣れた手つきで木剣を構え、タクマもそれに応じた。
互いの間合いを測るように、二人の視線が交わる。
やがて、ハーケンが小さく頷いた。
「よし。始めるぞ」
最初に動いたのは、タクマだった。
地面を蹴った瞬間、彼の身体が一気に前へ出る。身体強化によって生み出された加速は、普通の剣士の踏み込みとは比べものにならない。けれど、その動きには無駄がなく、上体もほとんど揺れていなかった。
ハーケンは反射的に木剣を合わせた。
乾いた音が訓練場に響く。
一撃目は受け止められた。しかし、タクマはそこで止まらない。木剣を引き戻すと同時に身体の向きを変え、別の角度から二撃目を繰り出す。ハーケンがそれを受け流すと、今度は踏み込みを変えて三撃目を放った。
「っ!」
ハーケンが大きく後退した。
三撃目は辛うじてかわされたものの、明らかに予想外の攻撃だったらしい。彼は木剣を構え直し、驚いたように目を見開いた。
「……おいおい。随分と速くなったじゃないか」
「まだまだですよ」
タクマは落ち着いた声で答えた。
私は二人の動きを見ながら、自然と頬が緩むのを感じていた。
今のタクマにとって、あの程度の加速は特別なものではない。ボーマンとの修行では、もっと速い動きを要求されることもあったし、実戦ではさらに複雑な状況で剣を振るってきた。けれど、以前のタクマを知るハーケンにとっては、まるで別人のように映っているのだろう。
「……何だよ、今の」
近くで見ていた冒険者の一人が呟いた。
「速すぎるだろ」
「いや、速いだけじゃない。あの連撃、全部角度が違ってたぞ」
周囲から驚きの声が上がる。
その中で、フリーダだけは嬉しそうに笑っていた。
「ほら見ろ!」
彼女は隣のクルシュの肩を軽く叩いた。
「言っただろ? タクマはもう、前とは全然違うんだよ!」
「ええ。以前の手合わせを見ていた方には、驚きでしょうね」
クルシュは頷きながら、真剣な目で二人を見つめていた。
「ですが……」
「ん?」
「以前より、さらに動きが洗練されていますね」
その言葉に、私はクルシュの方を見た。
「分かる?」
「ええ。以前は速度を生かして相手を圧倒する印象が強かったのですが、今は動きの切り替えが非常に滑らかです。身体強化の制御も、随分と細かくなっています」
「ふふ。さすがクルシュね」
「魔法使いとしては、どうしても気になってしまいますから」
クルシュは少し照れたように笑った。
私は再び訓練場へ視線を戻した。
ハーケンも、ただ驚いているだけではなかった。一度間合いを取ると、今度は自分から前へ出る。タクマの攻撃を受けるのではなく、先に動くことで主導権を握ろうとしているらしい。
ハーケンの木剣が鋭く振り下ろされた。
タクマはそれを受け流し、すぐに反撃へ移ろうとする。しかし、ハーケンはその動きを読んでいた。木剣を引き戻すと同時に体勢を変え、タクマの踏み込みに合わせて横から斬り込む。
「おっと」
タクマがわずかに身体を引いた。
木剣が彼の胸元をかすめるように通り過ぎる。ハーケンは追撃せず、すぐに構え直した。
「どうだ?」
「さすがですね。今のは危なかったです」
「そう簡単にやられてたまるかよ」
ハーケンも笑い返した。
私はそのやり取りを見て、改めてハーケンの実力を感じた。
確かに、純粋な速度ではタクマが上回っている。けれど、ハーケンには長年の経験がある。相手の動きを読み、間合いを調整し、わずかな隙を突く技術は、今でも十分に一流だ。特に、相手の攻撃を誘い出して反撃する技術は見事で、単純な力押しでは簡単に崩せそうにない。
だからこそ、タクマも油断できないのだろう。
二人は再び木剣を構えた。
今度はハーケンが、わずかに右側を開けるような構えを取った。一見すると、そこに隙があるように見える。けれど、私はすぐに気づいた。
誘っているのだ。
タクマが右側へ踏み込めば、ハーケンは木剣を返して反撃するつもりなのだろう。以前のタクマなら、あの隙を見逃さず攻め込んでいたかもしれない。
でも、今の彼は違った。
タクマは一歩踏み込む素振りを見せながら、途中で足を止めた。ハーケンの木剣がわずかに動いた瞬間、逆方向へ身体を滑らせる。
「なっ……!」
ハーケンが反応する。
けれど、タクマは無理に攻撃せず、再び間合いを取った。
ハーケンは一瞬呆気に取られたような顔をした後、苦笑した。
「……なるほどな」
「危ないところでした」
「よく言うぜ。完全に読まれてたじゃないか」
タクマは何も言わず、少しだけ笑った。
私はその様子を見ながら、ボーマンとの修行を思い出していた。
ボーマンは、ただ剣を速く振るうことだけを教えていたわけではない。むしろ、相手が何を狙っているのかを見抜き、その意図を逆に利用することを徹底して教えていた。タクマは何度も誘いに乗せられ、何度も打ち込まれながら、その技術を身につけてきたのだ。
だからこそ、今の彼は不用意に攻め込まない。速く動けるからといって、必ずしも速く動く必要はないことを、身をもって学んでいる。
その成長は、単純な剣の速さ以上に大きなものなのかもしれなかった。
「……よし」
ハーケンが小さく息を吐いた。
「そろそろ、こっちも本気でいくぞ」
「お願いします」
タクマが答える。
次の瞬間、ハーケンが鋭く踏み込んだ。
先ほどまでとは違う、迷いのない攻撃だった。木剣が真正面から振り下ろされ、タクマがそれを受け止める。けれど、ハーケンはすぐに剣を返し、連続して攻撃を仕掛けた。
左右から繰り出される斬撃に、時折混じる突き。単純な連撃ではなく、タクマの反応を確かめながら攻撃の角度を変えている。わずかに体勢を崩したように見せかけ、相手が踏み込もうとすれば即座に反撃する。その一つひとつに、長年の経験で培われた技術が感じられた。
さすがはハーケンだった。
新人冒険者たちを指導する立場にあるとはいえ、その剣技は決して衰えていない。むしろ、長年にわたってさまざまな剣士と向き合ってきたからこそ、相手の動きに応じて柔軟に戦い方を変えられるのだろう。
けれど、タクマはそのすべてに対応していた。
受け止め、流し、かわす。必要以上に大きく動かず、相手の剣が通り過ぎるだけの距離を確保しながら、次の攻撃に備えている。
ハーケンが踏み込めば、タクマはわずかに退く。反対に、ハーケンが間合いを取り直そうとすれば、今度はタクマが前へ出る。二人の距離は目まぐるしく変わっていたけれど、その中心にいるタクマの姿勢は不思議なほど安定していた。
そして、ハーケンがわずかに踏み込みすぎた瞬間だった。
タクマの足元で、淡い魔力が揺らいだ。
風魔法。
ほんのわずかな風が、彼の身体を横へ押し出す。
普通なら体勢を崩してしまいそうな動きだ。けれど、タクマは身体強化によって重心を保ち、そのまま滑るようにハーケンの側面へ回り込んだ。
「っ!」
ハーケンが振り向く。
その時には、タクマの木剣がすでに振り上げられていた。
ハーケンは反射的に木剣を合わせる。一撃目は防いだものの、タクマはそこからさらに踏み込んだ。身体強化による加速と風魔法による補助を組み合わせ、相手が剣を返すよりも早く、その懐へ入り込む。
ほんの一瞬、彼の姿がぶれたように見えた。
次の瞬間、タクマの木剣がハーケンの首元へ伸びていた。
けれど、その刃が相手に触れることはなかった。
木剣は、ハーケンの首元でぴたりと止まっていた。
訓練場が静まり返る。
ハーケンはしばらく動かなかった。自分の首元に突きつけられた木剣を見つめ、それからゆっくりとタクマの顔へ視線を移す。
「……参った」
そう呟くと、彼は木剣を下ろした。
そして、豪快に笑い出した。
「はっはっは! こりゃ完全に負けたな!」
タクマも木剣を下ろし、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いやあ、参った参った。まさか、ここまで強くなってるとはな!」
ハーケンは笑いながら、タクマの肩を叩いた。
「前に手合わせした時とは、まるで別人じゃないか!」
「先生に、随分鍛えられましたから」
「だろうな。よほど厳しい修行だったんだろう」
ハーケンは感心したように頷いた。
「しかし、それだけじゃないだろう。お前自身が相当努力したはずだ。今の動きを見りゃ分かるぜ」
タクマは少し照れたように笑った。
「まあ、何度も打ちのめされましたけどね」
「はっはっは! そいつはいい修行だったな!」
その笑い声をきっかけに、周囲の冒険者たちも一斉に騒ぎ始めた。
「すげえな、タクマ!」
「ハーケンさんがあんなに押されるなんて、初めて見たぞ!」
「最後の動き、何だったんだ?」
「身体強化だけじゃないだろ、あれ!」
私はその声を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
タクマが強くなったことは、ずっとそばで見てきた私が一番よく知っている。けれど、こうして他の人たちが驚き、認めてくれる姿を見ると、やっぱり嬉しい。自分が褒められたわけでもないのに、思わず胸を張りたくなってしまう。
「ほら見ろって!」
フリーダが得意げに笑った。
「だから言っただろ! 今のタクマは強いんだよ!」
「フリーダ、あなたが勝ったわけではないでしょう」
クルシュが苦笑する。
「分かってるって。でも、嬉しいじゃないか!」
「ええ。それは、私も同じですよ」
クルシュは穏やかに微笑んだ。
「それに、以前見た時よりも、さらに動きが洗練されていました。特に、最後の風魔法を使った方向転換は見事でしたね」
「ふふ。あれ、ボーマンも随分褒めてたんだよ」
私がそう言うと、クルシュは納得したように頷いた。
「そうでしたか。タクマさんがあれほど上達したのですから、よほど指導が上手な方なのでしょうね」
「うん。とっても厳しいけどね」
私は苦笑した。
ボーマンの修行を実際に見てきた身としては、あの厳しさを思い出すだけで少し気の毒になってしまう。もちろん、それだけタクマの才能を認めていたのだろうけれど、時には見ている私の方が心配になるほどだった。
シエラも小さく頷いた。
「強くなった」
「うん。そうだね」
私は笑って答えた。
その時、ハーケンがこちらへ歩いてきた。
「リカ、お前さんも大したもんだな」
「えっ、私?」
「魔法だよ。あの速度で木剣を振るって、あれだけ安全に手合わせできたんだからな」
「ふふ。まあ、それくらいはね」
「はっはっは! 相変わらず頼もしいな!」
ハーケンは笑うと、再びタクマの方を向いた。
「それにしても、今のお前ならB級冒険者の中でも相当上の方だろう。剣だけじゃなく、魔法まで使えるとなれば、そう簡単に相手をできる奴はいないはずだ」
「そうですかね」
「間違いない。もっとも、まだ伸びる余地はあるだろうが」
「ええ。先生にも、そう言われました」
「なら、これからも鍛錬を続けろ。俺も負けっぱなしじゃいられんからな」
タクマは笑って頷いた。
「もちろんです。またお願いします」
「おう。次はそう簡単には勝たせんぞ!」
二人は笑いながら握手を交わした。
その姿を眺めていると、私はハーケンという人のことを改めて好きになった。
自分が教えてきた相手に負けたというのに、悔しさよりも喜びの方が大きいのだろう。もちろん、剣士としての意地はあるはずだ。それでも、教え子の成長を素直に喜べるところが、彼の魅力なのだと思う。
タクマがこの街へ来たばかりの頃、ハーケンには随分とお世話になった。冒険者としての戦い方も、この世界で剣を振るうための基本も、彼から教わったことがたくさんある。その後、ボーマンとの修行によってタクマの剣技は大きく変わったけれど、それまで積み重ねてきたものがなくなったわけではない。
むしろ、ハーケンから学んだ基礎があったからこそ、あれほど厳しい修行にもついていけたのだと思う。
そして、ハーケン自身もそれを分かっているのだろう。
「さて、せっかくだ。今日はタクマの勝利を祝って一杯やるか!」
突然、フリーダが声を上げた。
「まだ昼前ですよ、フリーダ」
クルシュが呆れたように言う。
「昼前だから何だってんだ。飲んじゃいけない決まりでもあるのか?」
「ありませんが、あなたは昨日も飲んでいたでしょう」
「昨日は昨日、今日は今日だろ?」
「昨日も同じことを言っていましたよ」
二人のやり取りに、周囲から笑い声が上がった。
「まあまあ、クルシュ。せっかくのお祝いなんだし」
私がそう言うと、クルシュは少し困ったように笑った。
「リカさんまで……。分かりました。ただし、飲み過ぎないでくださいね」
「よし、決まりだ!」
フリーダは嬉しそうに手を叩いた。
こうして私たちは、訓練場からギルドの食堂へ移動することになった。
昼食の時間にはまだ少し早かったけれど、ギルドの食堂はすでに賑わっていた。
依頼を終えて戻ってきた冒険者や、午後の仕事を待つ者たちが思い思いに食事を取っている。私たちが大きなテーブルを囲むと、訓練場で手合わせを見ていた何人かの冒険者も、タクマに声をかけてきた。
「おい、タクマ! さっきのはすごかったな!」
「ハーケンさん相手にあんな勝ち方するとは思わなかったぜ!」
「今度、身体強化の使い方を教えてくれよ!」
タクマはそのたびに笑って応じていた。
以前なら、こんなふうに大勢の冒険者から声をかけられることは、あまりなかったように思う。私と一緒にいる時はもちろん、ギルドの中でも顔見知りは増えていたけれど、タクマ自身の剣技がここまで話題になったことはなかった。
私にとっては、ずっと隣で努力を続けてきたタクマの姿が当たり前になっていた。けれど、周囲の冒険者たちにとっては、今日初めて知る彼の一面も多かったのだろう。
「いやあ、いい気分だねえ!」
フリーダが上機嫌で杯を掲げた。
「ほら、タクマも飲め飲め!」
「いや、俺はまだ昼間ですし……」
「何だよ、つれないな!」
「フリーダさん、あなたは少し控えた方がいいですよ」
クルシュが横から口を挟む。
「分かってるって。今日はちゃんと加減するさ」
「その言葉を何度聞いたことか……」
クルシュはため息をついた。
私は笑いながら、運ばれてきた料理を取り分けた。シエラはすでに自分の皿を確保していて、黙々と食べ始めている。朝も焼き菓子を食べていたはずなのに、目の前の料理が次々と減っていくのだから、相変わらず見事な食欲だった。
「シエラ、さっきも焼き菓子食べてたよね?」
「食べた」
「それで、もうお腹空いたの?」
「空いた」
「……そう」
私はそれ以上何も言えなくなった。
その様子を見ていたフリーダが、ふと首を傾げた。
「そういや、シエラ」
「ん?」
「お前、随分と二人に馴染んだな」
シエラは食事の手を止め、フリーダを見た。
「そう?」
「ああ。前から一緒に依頼を受けてたのは知ってるけどさ。何ていうか、前よりずっと自然に話してるじゃないか」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
シエラはもともと口数が少なく、誰に対しても必要以上に親しく接することはなかった。私たちと行動を共にするようになってからも、最初の頃はどこか一定の距離を保っていたように思う。
でも、今回の旅では違った。
一緒に食事をし、宿を取り、何日も同じ街道を歩いた。王都では私の事情にも深く関わることになったし、タクマとも以前よりずっと気軽に言葉を交わすようになっている。何か特別な出来事が一つあったというよりも、そうした日々の積み重ねが、少しずつ私たちの距離を縮めてくれたのだろう。
「何だ? 旅の間に何かあったのか?」
フリーダが面白そうに尋ねた。
シエラは少しだけ考えるように視線を落とした。
そして、いつもの落ち着いた声で答えた。
「絆ができた」
「……へえ?」
フリーダが目を丸くした。
クルシュも少し驚いたようにシエラを見ている。
「絆、ですか」
「うん」
シエラはそれだけ答えると、再び料理を口へ運んだ。
あまりにも自然な返事だったので、私は思わず笑ってしまった。
「ふふ。そうだね。私もそう思う」
「俺もだな」
タクマが頷く。
フリーダはそんな私たちを順番に見てから、にやりと笑った。
「何だよ、随分いい関係になってるじゃないか」
「変な意味じゃないからね?」
「分かってるって!」
そう言いながらも、フリーダはどこか楽しそうだった。
「まあ、シエラがそんなこと言うようになるとは思わなかったけどな」
「私も少し驚きました。ですが、いいことですね」
クルシュが穏やかに笑う。
シエラは二人の言葉に特に反応することもなく、黙々と食事を続けていた。
私はその横顔を見ながら、少しだけ嬉しくなった。
シエラが私のそばにいる理由は、普通の冒険者仲間とは少し違う。けれど、今ではそれだけではないのだと、彼女自身の言葉で聞けた気がした。王家の命令や立場とは関係なく、私たちと一緒にいることを、シエラ自身も大切に思ってくれている。
それが、何より嬉しかった。
「それにしてもさ」
フリーダが杯を置き、今度はタクマの方へ顔を向けた。
「今日の手合わせ、実に痛快だったよ」
「そんなにですか?」
「ああ。そりゃもう、見ていて気分がよかったね」
「ハーケンさんに勝ったからですか?」
「それもあるけど……まあ、ちょっと違うな」
フリーダはそう言って、少しだけ声を落とした。
「お前、ギルドで自分が何て言われてたか、知ってるか?」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「え?」
タクマは少し考えてから、苦笑した。
「……まあ、何となくは」
「何となく?」
「俺がリカと一緒にいることを、面白く思ってない人もいるだろうな、とは思ってましたよ」
その答えに、フリーダは小さく頷いた。
「そうだろうな。お前、最初から随分恵まれてたからさ」
私は思わず眉をひそめた。
「恵まれてた?」
「ああ。考えてもみろよ、リカ。こいつは冒険者になったばかりの頃から、A級冒険者のお前と一緒に行動してたんだぞ?」
「……それは、そうだけど」
「普通の新人冒険者なら、まずは同じくらいの腕前の連中と組んで、危険な依頼をこなしながら少しずつ実績を積んでいくんだ。失敗すりゃ怪我もするし、運が悪けりゃ命だって落とす。そうやって何年もかけて、ようやく一人前になる奴だって珍しくないんだよ」
フリーダはそこで、タクマの方を見た。
「ところが、お前は最初からリカと組んでた。しかも、同じ家に住んでるときたもんだ」
「……まあ、そうですね」
タクマは苦笑した。
確かに、言われてみればそのとおりだった。
私にとっては、森で出会ったタクマを助けて、一緒に暮らすようになっただけのことだった。けれど、事情を知らない冒険者たちから見れば、突然現れた新人がA級冒険者の私と行動を共にするようになったのだから、不思議に思われても仕方がないのかもしれない。
しかも、私はタクマのことを隠そうともしていなかった。ギルドでは普通に一緒に過ごしていたし、依頼を受ける時も、彼と組むことが当たり前になっていた。私にとっては自然なことでも、周囲からは特別扱いに見えていたのだろう。
「それでね。陰じゃ結構、好き勝手言われてたんだよ」
フリーダは少し呆れたように笑った。
「『リカの小判鮫』だの、『リカの男娼』だの。まあ、ろくでもない連中がいるもんさ」
「……は?」
思わず、低い声が出た。
「ちょっと待って。何それ?」
「だから、そういう陰口を叩く奴もいたって話だよ」
「男娼って……!」
私は思わずタクマを見た。
けれど、当の本人はそれほど驚いた様子もなく、少し困ったように笑っていた。
「まあ、そういうことを言われても仕方ない部分はあったと思うよ」
「仕方なくないでしょ!」
思わず声が大きくなる。
「タクマはちゃんと依頼も受けてたし、頑張ってたじゃない! 何も知らない人たちに、そんなこと言われる筋合いないよ!」
「リカ、落ち着いて」
「でも!」
「俺は大丈夫だから」
タクマは穏やかに笑った。
「実際、最初の頃はリカに頼りっぱなしだったのも事実だしな。そう見られても仕方ないところはあったと思う」
「それと、そんなこと言われるのは別でしょ!」
「まあ、それはそうなんだけど」
タクマは少し照れたように頭を掻いた。
「でも、だからこそ強くなりたかったんだよ」
その言葉に、私は口を閉じた。
「リカと一緒にいることを、誰かに認めてもらうためじゃない。ただ、俺自身がちゃんと冒険者としてやっていけるようになりたかったんだ」
タクマはそこで少し笑った。
「それに、いつまでもリカに守ってもらうばかりじゃ、格好つかないだろ?」
「……もう」
私は何だか、怒るに怒れなくなってしまった。
タクマがそんなことを考えていたなんて、知らなかった。
もちろん、彼が強くなろうと努力していたことは知っている。ハーケンの稽古にも、ボーマンの修行にも、毎日のように真剣に取り組んでいた。けれど、その理由の一つに、周囲からどう見られているかという思いもあったのだろうか。
そう考えると、少しだけ胸が痛んだ。
私にとってタクマは、最初から大切な相手だった。強いか弱いかなんて関係なく、一緒にいたいと思ったからそばにいた。だからこそ、彼が私と一緒にいることで嫌な思いをしていたかもしれないなんて、考えたこともなかったのだ。
でも、タクマはそんな私の気持ちを知っていたのだろう。
彼は私を安心させるように笑うと、そっと手を握ってくれた。
「本当に大丈夫だよ。俺は今、こうしてリカと一緒にいられることが嬉しいんだから」
「……うん」
私は小さく頷いた。
それでも、やっぱり腹は立つ。
タクマがどれだけ頑張ってきたのか、何も知らない人たちに勝手なことを言われたくはなかった。
「まあ、そういうことだ」
フリーダが満足そうに頷いた。
「だから、今日の手合わせは痛快だったんだよ。今まで好き勝手言ってた連中も、さすがに黙るだろうさ」
「ええ。今日の戦いを見れば、タクマさんの実力を疑う人はいないでしょうね」
クルシュも静かに頷いた。
「もっとも、私は以前から十分な実力があると思っていましたが」
「だよな!」
フリーダは嬉しそうに笑った。
「ほら見ろって、言ってやりたいくらいだよ!」
「実際、さっきから言っているでしょう」
「そうだったか?」
「ええ。何度も」
クルシュの返事に、私たちは思わず笑ってしまった。
フリーダたちは、タクマの実力を知っていた。ボーマンとの修行を終えて冒険者として活動した時も、その強さを自分たちの目で確かめている。だからこそ、今日の手合わせを楽しみにしていたのだろう。
私たちの知らないところで、そんなふうにタクマのことを気にかけてくれていたのだと思うと、少しだけ嬉しくなった。
その時、シエラがふと顔を上げた。
「タクマは、強い」
「うん。そうだね」
私が頷くと、シエラは続けた。
「前から、ちゃんと頑張ってた」
その言葉に、タクマが少し驚いたように彼女を見た。
「……ありがとう、シエラさん」
「うん」
シエラは短く答え、再び食事へ戻った。
フリーダはその様子を見て、また笑った。
「いやあ、本当に仲良くなったもんだな、お前ら」
「だから、絆ができたって言った」
シエラが真顔で答える。
そのあまりにも真剣な様子に、今度こそ私たちは声を立てて笑ってしまった。
それからしばらく、私たちは食堂で賑やかな時間を過ごした。
フリーダは今日の手合わせについて何度もタクマに質問し、クルシュは身体強化と風魔法の組み合わせについて興味深そうに話を聞いていた。エリナも仕事の合間に顔を出しては、タクマがハーケンに勝ったことを嬉しそうに話していた。
ハーケン自身も、訓練を終えてから食堂へやってきた。
「おう、まだやってるのか!」
「ハーケン! 主役の一人が遅いじゃないか!」
フリーダが声を上げる。
「誰が主役だ。俺は負けた方だぞ」
「だからこそ、祝ってやろうってんだよ!」
「何を祝うんだ、何を!」
そう言いながらも、ハーケンは笑って私たちの席へ加わった。
タクマは少し照れくさそうにしていたけれど、ハーケンに勧められて杯を手に取ると、改めて頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「おう。いいもの見せてもらったぜ」
ハーケンは笑いながら杯を掲げた。
「しかし、強くなったもんだな。最初に会った頃のお前からは、想像もできん」
「自分でも、ここまで来られるとは思ってませんでしたよ」
「はっはっは! まだまだこれからだろうが!」
その言葉に、タクマも笑った。
私はそんな二人を眺めながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じていた。
この街へ来たばかりの頃、タクマは何も知らない異世界で、どうにか自分の居場所を見つけようとしていた。私にできることは、彼を助け、冒険者として生きていくための手助けをすることくらいだった。
でも、今は違う。
ハーケンから剣を学び、ボーマンとの厳しい修行を乗り越え、フリーダやクルシュたちと肩を並べて戦えるようになった。そして今日、かつて自分を教えてくれたハーケンに勝った。
それは、単に剣が強くなったというだけではない。
タクマ自身が、この世界で自分の居場所を築いてきた証なのだと思う。
「リカ、どうした?」
隣から声をかけられ、私は顔を上げた。
タクマが不思議そうにこちらを見ていた。
「何でもないよ」
「そうか?」
「うん。ただ、嬉しいなって思っただけ」
「何が?」
私は少し考えてから、笑って答えた。
「タクマが、みんなに認められてること」
彼は一瞬きょとんとした後、照れくさそうに笑った。
「……ありがとう」
「ふふ。どういたしまして」
その時、フリーダが突然大きな声を上げた。
「おいおい、二人で何をいい雰囲気になってんだよ!」
「別に、そういうわけじゃ……!」
タクマが慌てて答える。
「何だよ、照れるなって!」
「フリーダ、あまりからかわないでください」
クルシュがたしなめる。
「いいじゃないか。せっかくめでたい日なんだから!」
「それとこれとは別です」
「相変わらず堅いねえ、お前は!」
「あなたが自由すぎるんですよ」
二人のやり取りに、また笑い声が上がった。
エリナも楽しそうに笑い、ハーケンは豪快に杯を掲げる。シエラはそんな騒ぎを気にすることもなく、いつの間にか追加で注文していた料理を黙々と食べていた。
私はその光景を眺めながら、自然と笑顔になっていた。
王都では、いろいろなことがあった。悲しいことも、辛いことも、簡単には忘れられないこともあった。七年ぶりに故郷へ帰り、懐かしい人たちと再会できたことは嬉しかったけれど、同時に、もう昔と同じ場所には戻れないのだということも思い知らされた。
けれど、ここには変わらず迎えてくれる仲間たちがいる。
タクマがいて、シエラがいて、フリーダとクルシュがいて、エリナやハーケンがいる。みんなと一緒に笑い、食事をして、くだらない話で盛り上がる。誰かの顔色を窺う必要もなければ、自分の立場を気にする必要もない。
そんな時間が、私は好きだった。
「よし! じゃあ、改めて乾杯といこうじゃないか!」
フリーダが杯を高く掲げた。
「タクマの勝利と、三人の無事の帰還を祝って!」
「乾杯!」
私たちも杯を掲げる。
賑やかな声が食堂に響き、あちこちで笑い声が上がった。隣ではタクマが楽しそうに笑い、向かいではフリーダが早速次の酒を注文しようとしてクルシュに止められている。シエラはいつの間にか空になった皿を脇へ寄せ、新しい料理が運ばれてくるのを静かに待っていた。
私はそんな仲間たちの姿を眺めながら、杯に口をつけた。
王都で過ごした日々も、そこに残してきた人たちのことも、決して忘れるつもりはない。けれど、私がこれから生きていきたい場所は、やっぱりここなのだと思う。
そして、その隣にはタクマがいる。
ふと目が合うと、彼は何も言わずに微笑んだ。私も笑い返し、テーブルの下でそっと彼の手を握る。
今日もまた、ノヴァグラードのギルドは賑やかだった。
その騒がしさが、今の私には何より心地よかった。




