【閑章10話】七年目の帰還
ボーマン・ローゼンフェルトが王宮を去ってから、しばらくの月日が流れていた。
王宮の行政改革は、当初の予定に従って進められている。各部署の職務権限は整理され、長年の慣習に頼っていた業務にも、少しずつ明確な手続きが設けられるようになった。若手官僚たちは改革の成果を誇らしげに報告し、ハインリヒ殿下もまた、王宮の運営が近代的なものへ変わりつつあることに満足しておられるようだった。
実際、改革によって改善された部分は少なくない。以前であれば、誰の責任で処理するべきなのか曖昧だった案件も、今では担当部署が明確になっている。人事や予算の決定についても、正式な手続きを経ることで、後から判断の経緯を確認できるようになった。
しかし、制度が整えば、すべての問題が解決するというわけではなかった。
かつてボーマンが担っていた仕事の中には、書類に記載できないような細かな調整が数多く含まれていた。王族の予定を変更する際、誰に先に話を通すべきか。宮廷行事で不測の事態が生じた時、どの部署を動かせば最も早く対処できるか。あるいは、国王陛下が言葉にされない意向を、どのように汲み取るべきか。
そうした事柄は、必ずしも規則によって処理できるものではない。
ボーマンは長年の経験によって、それらを自然にこなしていた。彼が王宮を去った後、私たちは初めて、その仕事の多くが目に見えないところで行われていたことを知ったのである。
もちろん、だからといって改革が間違っていたとは思わない。特定の人物の経験に依存し続ける組織には、いずれ限界が訪れる。ボーマン自身も、そのことを理解していたからこそ、退任を受け入れたのだろう。
それでも私は、時折、彼の不在を寂しく感じていた。
そんなある日、シエラからの定期報告が届いた。
いつものように封を開き、王女殿下の近況に目を通していた私は、途中で思わず手を止めた。
ボーマンが無事にノヴァグラードへ到着し、リカルティール王女殿下との再会を果たしたという。
しかも、現在は王女殿下と行動を共にする青年に、剣術の指導を行っているらしい。
「……本当に、修行をつけ始められたのですか」
私は、思わず苦笑した。
王宮を去る前、ボーマンはタクマという青年の剣術に興味を示していた。あの時は、半ば冗談として聞いていたのだが、どうやら本人は最初から本気だったらしい。
報告によれば、青年は剣術の基礎をある程度身につけており、ボーマンの指導にも熱心に取り組んでいるという。まだ実戦経験は十分とは言えないものの、成長は著しく、王女殿下もその様子を興味深く見守っておられるようだった。
何より嬉しかったのは、ボーマン自身が充実した日々を過ごしているらしいということだった。
王宮では政治的な圧力を受け、長年務めてきた職を去ることになった老人が、遠く離れた冒険者都市では、再び若者の育成に情熱を注いでいる。
あの方らしいと思った。
私は報告書を読み終えると、しばらく窓の外を眺めていた。
王女殿下も、ボーマンも、今はこの王宮の外で暮らしている。かつて王宮に欠かせない存在だった人々が、それぞれの新しい人生を歩んでいるのだ。
少し寂しくはあったが、それ以上に喜ばしいことだと思えた。
*
その日の午後、私はハインリヒ殿下と行政改革の進捗について打ち合わせを行っていた。
殿下は相変わらず精力的に政務へ取り組んでおられた。地方行政の見直しや軍の補給体制の整備など、改革の対象は年々広がっている。提出される制度案には検討を要する部分も少なくなかったが、その着眼点の鋭さには、私もたびたび感心させられていた。
ひととおりの議題を終えたところで、殿下がふと思い出したように尋ねられた。
「そういえば、ボーマンは元気にしているのでしょうか」
「はい。ちょうど本日、近況が届いたところでございます」
「ほう。どちらに滞在しているのです?」
「フロンティア大公国のノヴァグラードでございます。リカルティール王女殿下とも、無事に再会されたそうです」
その瞬間、ハインリヒ殿下の表情がわずかに変わった。
「……ボーマンが、リカと?」
「はい。現在は王女殿下と行動を共にする青年に、剣術を教えておられるとか」
「そうですか……」
殿下は、少し考え込むように視線を落とされた。
「あのリカが、ボーマンを受け入れたのですね」
私は、その言葉にわずかな違和感を覚えた。
王女殿下とボーマンは、幼い頃から親しい間柄だった。ボーマンは王女殿下の剣術指南役を務めたこともあり、時には父親代わりのように世話を焼いていた。王女殿下が彼を歓迎することは、私にとって少しも不思議ではなかったのである。
「王女殿下も、再会を喜ばれたそうでございます。ボーマン殿にとっても、よい気分転換になっているようです」
「……なるほど」
ハインリヒ殿下は、もう一度小さく頷かれた。
そして、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻られた。
「それはよかった。あの方も長年、王家のために尽くしてくださいましたからね。今後は、ご自身のために時間を使っていただきたいものです」
「私も、同じように考えております」
その後、話題は再び政務へ戻った。
殿下は何事もなかったかのように改革案について意見を述べられ、私もそれに応じた。先ほどの小さな違和感は、やがて目の前の仕事に紛れていった。
ただ、なぜかあの時の表情だけは、妙に記憶に残った。
ボーマンが王女殿下と再会したことを、ハインリヒ殿下はなぜあれほど意外に思われたのだろう。
妹君が王宮を嫌っていることを、よほど強く意識しておられたのかもしれない。
当時の私は、その程度に考えていた。
*
ヴィルヘルム殿下と最後にゆっくりお話ししたのは、それから間もなくのことだった。
その日、私たちは地方諸侯との調整について打ち合わせを行っていた。
ハインリヒ殿下の改革は、王国の行政や軍制に多くの成果をもたらしていた。しかし、その一方で、従来の権限を制限される地方諸侯の間には不満も生じていた。中央政府が権限を強めれば、地方の有力貴族たちが警戒するのは当然のことである。
ヴィルヘルム殿下は、そうした不満を一つずつ丁寧に聞き取り、王国全体の均衡を保つことに力を注いでおられた。
「ハインリヒの改革が必要であることは、私も理解しています」
殿下は、机の上に広げられた書類を見ながらおっしゃった。
「ですが、正しい制度であれば、誰もが喜んで受け入れるというわけではありません。長年続いてきた仕組みには、それを支えてきた人々の事情もあるのです」
「おっしゃるとおりでございます」
「弟は、そのことも理解しているはずなのですが……時折、結果を急ぎすぎるところがあります」
私は、静かに頷いた。
ハインリヒ殿下は優秀な方だった。問題を見つければ、その原因を分析し、解決策を示すことができる。しかし、制度を変えるということは、人々の暮らしや立場を変えることでもある。理屈の上で正しい改革であっても、それを受け入れる側には相応の時間が必要だった。
ヴィルヘルム殿下は、そのことを誰よりも理解しておられた。
「私は、あれの能力を誰よりも認めているつもりです」
殿下は、少し寂しそうに微笑まれた。
「ですが、あれにとっては、私が王太子であるという事実そのものが、納得できないのでしょうね」
「殿下……」
「分かっているのです。ハインリヒには、私より優れたところがいくつもあります。あれが王国のために成し遂げてきたことも、決して小さなものではありません」
ヴィルヘルム殿下は、そこで一度言葉を切られた。
「それでも、私は王太子としての務めを果たさなければなりません。それが、私に与えられた責任ですから」
その言葉には、迷いがなかった。
殿下は、王位を望んでいるから王太子でいるのではない。王太子として生まれ、育てられた以上、その責任から逃れてはならないと考えておられるのだ。
私は、改めてその覚悟の重さを感じた。
「……いつか、ハインリヒ殿下にも、そのお気持ちが伝わるとよいのですが」
私がそう申し上げると、ヴィルヘルム殿下は小さく笑われた。
「そうですね。私も、そう願っています」
その笑顔には、かつて弟君と親しく語り合っていた頃の面影が残っていた。
やがて話題は、遠く離れた妹君のことへ移った。
「そういえば、ボーマンがリカと再会したそうですね」
「はい。現在はノヴァグラードに滞在しておられます」
「それはよかった。あの方には、随分と世話になりましたから」
殿下は、懐かしそうに目を細められた。
「リカも、喜んだでしょうね」
「そのように報告を受けております」
「……いつか、私もあれに会いたいものです」
私は、殿下のお顔を見た。
ヴィルヘルム殿下は、窓の外へ視線を向けておられた。
「もっとも、リカは王宮へ戻ることを嫌がるでしょうが」
「王女殿下も、すでに立派な成人でいらっしゃいます。いつかは、お考えが変わることもあるかもしれません」
「いえ。無理に戻す必要はありませんよ」
殿下は、穏やかに首を横に振られた。
「あれは、自分の意思で人生を選んだのですから。王族としての立場を捨ててまで手に入れた自由を、私たちの都合で奪うべきではないでしょう」
私は、その言葉に少し驚いた。
かつての王宮では、王女殿下を連れ戻すことが当然のように考えられていた。国王陛下も、当初は帰還を強く望んでおられた。
しかし、ヴィルヘルム殿下は、妹君が選んだ人生を尊重しようとしておられる。
「ただ、兄として、もう一度顔を見たい。それだけなのです」
そうおっしゃって、殿下は少し照れくさそうに笑われた。
私は、その表情を今でも鮮明に覚えている。
王太子としての責務を背負い、王国の将来を案じながらも、弟と妹を大切に思っておられた一人の兄君。
それが、私の知るヴィルヘルム殿下だった。
あの日、私はいつもと同じように一礼し、殿下の執務室を後にした。
まさか、それが最後の会話になるとは、夢にも思っていなかったのである。
*
ヴィルヘルム王太子殿下が亡くなられた。
その報告を受けた時、私は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
早朝、執務室へ向かう途中で近衛兵の一人に呼び止められ、緊急の報告があると告げられた。兵士の顔は青ざめており、声も震えていた。
私は、何か重大な事故でも起きたのかと思った。
しかし、告げられた内容は、想像をはるかに超えるものだった。
「……何ですと?」
思わず聞き返した私に、兵士は同じ言葉を繰り返した。
ヴィルヘルム王太子殿下が、自室で亡くなっているのが発見されたという。
私は、すぐに現場へ向かった。
王太子殿下の居室がある一角には、すでに近衛兵たちが集まっていた。廊下には緊張した空気が漂い、誰もが声を潜めている。普段であれば整然と職務を果たしている兵士たちも、その日は明らかに動揺していた。
私は、部屋の前に立つ近衛兵団長へ事情を尋ねた。
「状況は?」
「今朝、侍従が殿下をお起こししようとしたところ、すでに息を引き取られていたとのことです。医師が確認しておりますが、詳しい原因はまだ……」
私は、それ以上の説明を待たずに部屋へ入った。
ヴィルヘルム殿下は、寝台の上に静かに横たわっておられた。
まるで、まだ眠っておられるかのようだった。
私は、そのお顔を見つめた。
つい先日まで、王国の将来について語り合っていた方である。諸侯との調整を進め、弟君の改革を支え、いつか妹君と再会したいと笑っておられた。
その方が、今はもう動かない。
「……殿下」
思わず、声が漏れた。
返事はなかった。
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、国王グスタフ陛下が駆けつけられた。
陛下は寝台へ歩み寄ると、息子の顔を見つめたまま動かなくなられた。
「……ヴィルヘルム?」
その声は、普段の威厳ある国王のものではなかった。
ただ、息子の名を呼ぶ父親の声だった。
陛下は、もう一度名前を呼ばれた。
しかし、ヴィルヘルム殿下が目を開けることはなかった。
私は、目を伏せた。
王国の第一王位継承者が亡くなられたという事実は、政治的にも極めて重大な意味を持つ。しかし、その時の私には、そうした問題を考える余裕すらなかった。
ただ、目の前で一人の父親が長男を失ったという事実が、あまりにも重く感じられたのである。
*
王宮は、静かな混乱に包まれた。
ヴィルヘルム殿下の死を知る者は、当初ごく限られていた。近衛兵団の幹部、王宮の医師、国王陛下と王妃陛下、そして政務に関わる一部の重臣たちである。
ハインリヒ殿下も、間もなく報告を受けて駆けつけられた。
殿下は、兄君の姿を目にすると、その場で足を止められた。
「……兄上?」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
やがてハインリヒ殿下は、私へ視線を向けられた。
「宰相。兄上は、なぜ亡くなられたのですか」
「……現在、医師が確認しております。詳しい原因については、まだ分かっておりません」
「そうですか……」
殿下は、深く息を吐かれた。
その表情には、兄を失った悲しみが浮かんでいるように見えた。
「原因を調べてください。必要であれば、私も協力します」
「承知いたしました」
「王宮の混乱も、できる限り抑えなければなりませんね」
ハインリヒ殿下は、そうおっしゃると、再び兄君の姿へ目を向けられた。
私は、その横顔を見つめていた。
かつて二人が激しく言い争われた日のことが、脳裏をよぎった。しかし、兄弟の間に対立があったからといって、それがこの突然の死と結びつくわけではない。
何より、今の殿下は兄を亡くしたばかりなのだ。
私は、余計な考えを振り払った。
その後、医師による確認と、近衛兵団による調査が始まった。
しかし、事態は簡単には解決しなかった。
ヴィルヘルム殿下は、前日まで特に体調を崩しておられなかった。持病が悪化したという記録もなく、突然命を落とすような病状は確認されていない。
さらに、調査が進むにつれて、自然死とは考えにくい事情がいくつか明らかになった。
何者かが、王太子殿下の命を奪ったのではないか。
その疑いは、次第に強まっていった。
しかし、決定的な証拠は見つからなかった。
王宮への出入りの記録を調べ、殿下の身の回りに仕えていた者たちから事情を聞いたが、犯人を特定できるような情報は得られない。外部勢力の関与も検討されたものの、それを裏づける証拠もなかった。
王太子殿下が暗殺された可能性は高い。
しかし、誰が、どのようにして命を奪ったのかは分からない。
私は、調査報告を読むたびに、胸の奥が重くなるのを感じていた。
ヴィルヘルム殿下は、王国の将来を背負うはずだった方である。その死が何者かの意図によるものであったなら、私たちは王太子を守ることができなかったばかりか、犯人を捕らえることすらできていないのだ。
宰相として、これほど情けないことはなかった。
*
ヴィルヘルム殿下の死は、ただちに公表されることにはならなかった。
国王陛下は、王太子の死因が明らかになるまで、情報を厳重に管理するよう命じられた。
その判断には、政治的な理由もあった。
第一王位継承者の突然の死は、王国全体に大きな動揺をもたらす。まして、暗殺の疑いがあるとなれば、王宮の警備体制に対する不信や、王位継承をめぐる憶測が一気に広がるだろう。
地方諸侯の中には、ハインリヒ殿下の改革に反発する者もいる。王太子殿下の死をきっかけに、それまで抑えられていた不満が表面化する可能性もあった。
私たちは、少なくとも当面の間、王太子殿下は体調を崩して静養中であるという説明を用意した。
もちろん、長く続けられるものではない。王太子が公務に姿を見せなければ、いずれ疑問を抱く者が現れる。重要な会議への欠席が続けば、諸侯や外国の使節も事情を尋ねてくるだろう。
それでも、今すぐ公表することはできなかった。
王太子の死を受け止める時間が、王宮には必要だったのである。
私は、連日遅くまで執務室に残り、事件調査と公表準備の両方を進めた。王太子殿下が担当しておられた政務の引き継ぎ、諸侯への説明、葬儀に関する検討、そして王位継承問題への備え。考えなければならないことは、あまりにも多かった。
そんなある夜、私は国王陛下から呼び出しを受けた。
陛下は、私室の椅子に深く腰掛けておられた。
この数日で、随分とお痩せになったように見える。
「アルフォンス。調査は、どうなっておる」
「申し訳ございません。現時点では、犯人を特定できる証拠は見つかっておりません」
「……そうか」
陛下は、静かに目を閉じられた。
私は、しばらく言葉を待った。
「余はな……あの二人のことを、何も分かっていなかったのかもしれぬ」
突然の言葉に、私は顔を上げた。
「陛下……?」
「ヴィルヘルムも、ハインリヒも、幼い頃からよく知っているつもりであった。兄は真面目で、弟は聡明だった。二人とも、王国のために力を尽くしてくれるものと信じておった」
陛下は、ゆっくりと言葉を続けられた。
「だが、あの二人が何を考え、何に苦しんでいたのか。余は、父親として、どこまで理解していたのだろうな」
私は、返す言葉を見つけられなかった。
ヴィルヘルム殿下とハインリヒ殿下の間に深い溝が生まれていたことは、私も承知していた。しかし、二人が公務において協力を続けておられたこともあり、いつかは関係が改善するものと考えていたのである。
陛下もまた、同じように思っておられたのかもしれない。
「……証拠はない」
陛下は、低い声で呟かれた。
私は、思わず息を止めた。
「証拠がなければ、誰も罪には問えぬ。それは、余とて理解しておる」
「……陛下」
「だが、父親として……どうしても、考えてしまうのだ」
陛下は、それ以上何もおっしゃらなかった。
しかし、私は、その言葉が何を意味しているのかを察してしまった。
陛下は、ハインリヒ殿下を疑っておられる。
それも、単なる可能性としてではない。
父親として、二人の息子を見てきたからこそ、何かを確信しておられるのだ。
私は、背筋が冷たくなるのを感じた。
しかし、証拠はない。
陛下ご自身も、そのことを理解しておられる。
王国の第二王子を、まして亡くなられた王太子の弟君を、憶測だけで罪に問うことなどできるはずがなかった。
「……引き続き、調査を進めてまいります」
私は、それだけを申し上げた。
陛下は、静かに頷かれた。
その夜、私は執務室へ戻ってからも、しばらく仕事に手をつけることができなかった。
かつて、ハインリヒ殿下は私にこうおっしゃった。
『私は、王弟として終わるつもりはありません』
あの言葉が、今になって別の重みを持って思い出される。
しかし、それでも私は、殿下を犯人だと決めつけることはできなかった。
私は王国の宰相である。
個人的な感情や憶測によって、判断を下すわけにはいかないのだ。
*
ヴィルヘルム殿下の死を、いつまでも王女殿下へ知らせずにいるわけにはいかなかった。
私は、シエラへ緊急の連絡を送ることにした。
内容は、ヴィルヘルム王太子殿下が亡くなられたこと。そして、死因には不審な点があり、暗殺の疑いがあること。王宮ではまだ公表を控えているため、情報の取り扱いには十分注意してほしいということだった。
さらに、リカルティール王女殿下とボーマンへ、必ず直接伝えるよう指示した。
私は、文面を整えながら、何度も筆を止めた。
七年前、王女殿下は自らの意思で王宮を去られた。
あの方は、王族としての立場に縛られることを嫌い、自分の人生を自分で選ぶために、遠い異国へ旅立たれたのである。
私たちは、いつか帰ってきてほしいと願い続けていた。
しかし、今回ばかりは、その願いを簡単に口にすることができなかった。
兄君が亡くなられたのだ。
王女殿下にとって、それがどれほど大きな衝撃となるのか、私には想像することしかできない。
ヴィルヘルム殿下は、生前、妹君との再会を望んでおられた。
王宮へ戻ることを強制するつもりはなく、ただ兄として、もう一度顔を見たいとおっしゃっていた。
その願いが、二度と叶わなくなってしまった。
私は、深く息を吐いた。
王女殿下には、兄君の死を知る権利がある。
そして、帰還するかどうかを決める権利も。
私たちができるのは、事実を伝え、あの方の判断を待つことだけだった。
連絡を送ってから数日後、シエラから返信が届いた。
私は、封を開いてすぐに文面へ目を走らせた。
王女殿下は、兄君の死を知って大きな衝撃を受けられたという。
ボーマンもまた、長年仕えてきた王太子殿下の死を深く悲しんでいるらしい。
しかし、二人はタクマという青年とも相談したうえで、一つの決断を下していた。
王都へ向かう。
報告書には、そう記されていた。
同行者は、タクマ、シエラ、ボーマン。
四人は、すでにノヴァグラードを出立したという。
私は、その一文を何度も読み返した。
七年前、王女殿下は誰にも告げずに王宮を去られた。
私たちは、あの方を探して王宮中を駆け回り、国王陛下への報告に追われた。
そして今、あの方は自らの意思で王都へ戻ろうとしておられる。
しかも、かつて王宮に仕えていた老臣と、異国から現れた青年を伴って。
私は、報告書を手に取ると、急いで国王陛下のもとへ向かった。
「陛下。リカルティール王女殿下が、王都へ向けて出立されました」
陛下は、しばらく何もおっしゃらなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げられた。
「……そうか」
その声には、深い悲しみと、わずかな安堵が混じっていた。
「ヴィルヘルムも、喜んだであろうな……」
私は、静かに頭を下げた。
七年間、王女殿下の帰還を望み続けていた国王陛下にとって、それは待ち望んだ知らせだったはずである。
しかし、その帰還をもたらしたのが長男の死であるという事実が、あまりにも残酷だった。
*
王女殿下が王都へ向かっておられる間も、王宮ではヴィルヘルム殿下の死が秘匿されていた。
すでに一週間以上が経過していたが、正式な公表には至っていない。
王太子殿下が公務に姿を見せないことを不審に思う者も現れ始めていた。静養中という説明を続けるにも限界があり、私は連日のように各部署との調整に追われていた。
その一方で、事件の調査は依然として進展していなかった。
不審な点はいくつもある。
しかし、それらを結びつけ、犯人を特定することはできない。
近衛兵団は警備記録を繰り返し確認し、王宮の関係者から事情を聞いていたが、決定的な証拠は見つからなかった。
私は、日に日に焦りを感じるようになっていた。
王太子殿下の死を公表すれば、王位継承問題が一気に表面化する。第二王子であるハインリヒ殿下を次の王太子に指名するのが、通常であれば自然な流れだろう。
しかし、国王陛下はハインリヒ殿下に対して、明らかに距離を置き始めていた。
殿下が政務の引き継ぎについて申し出られても、陛下は必要な範囲に留めるよう指示される。以前であれば積極的に意見を求めておられた改革案についても、判断を保留することが増えていた。
ハインリヒ殿下は、その変化に気づいておられるはずだった。
しかし、表立って不満を示すことはなかった。
むしろ、兄君の不在を補うように政務へ取り組み、王国の混乱を防ごうとしておられた。
その姿は、周囲の官僚たちから高く評価されていた。
私は、そんな殿下を見ながら、複雑な思いを抱いていた。
ハインリヒ殿下が優秀な政治家であることは間違いない。王国のために多くの改革を成し遂げ、今もまた、その能力を発揮しておられる。
しかし、国王陛下は、その息子を疑っておられる。
そして私自身も、かつての兄弟の対立を思い出すたびに、胸の奥に小さな不安が生じるようになっていた。
証拠はない。
その事実が、何よりも重かった。
私は、宰相として王国の安定を守らなければならない。
しかし、王家の中に生じた深い溝を、どうすれば埋められるのか。その答えを見つけることはできなかった。
*
ユリアナと二人で顔を合わせたのは、そんな日々の中でのことだった。
彼女もまた、魔導騎士団副団長として王宮の警備強化に携わっていた。ヴィルヘルム殿下の死を知る限られた人物の一人であり、事件の調査にも協力している。
その日の彼女は、いつもより疲れた表情をしていた。
「……調査は、まだ進んでいないの?」
私が頷くと、ユリアナは深く息を吐いた。
「そう……」
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「ヴィルヘルム殿下が、こんなことになるなんてね」
「ああ」
「昔から、真面目な方だったわ。自分のことよりも、王国のことを優先して……」
ユリアナは、言葉を切った。
彼女もまた、王族の成長を長年見守ってきた一人である。ヴィルヘルム殿下がまだ若かった頃から、その人柄をよく知っていた。
「……リカルティール様も、つらいでしょうね」
「そうだな」
「七年ぶりに帰ってこられる理由が、お兄様の死だなんて……」
私は、何も言えなかった。
私たちは、王女殿下の帰還を望み続けていた。
しかし、こんな形で実現することになるとは、誰も考えていなかったのである。
「……せめて、帰ってこられた時くらいは、安心して過ごしていただきたいわ」
ユリアナは、そう言って小さく微笑んだ。
私は、その言葉に頷いた。
王女殿下が王都へ戻られたとしても、王宮へ帰ることを決められたわけではない。あの方は、兄君の死を悼み、父君に会うために帰還されるのだ。
その意思を、私たちは尊重しなければならない。
七年前、私たちができなかったことを、今度こそ果たすべきなのだろう。
*
リカルティール王女殿下が王都へ到着されたという報告が届いたのは、それから数日後のことだった。
王都の警備担当者によれば、王女殿下は三名の同行者とともに市内へ入り、宿屋に滞在しておられるという。
同行者は、タクマ、シエラ、そしてボーマン。
私は、その名前を確認すると、思わず椅子から立ち上がった。
七年前、誰にも告げずに王宮を去られた王女殿下が、今、王都へ戻ってこられた。
その事実を、私はすぐには実感できなかった。
しかし、報告書には確かに、王女殿下の到着が記されている。
私は、急いで国王陛下のもとへ向かった。
「陛下。リカルティール王女殿下が、王都へ到着されました」
陛下は、静かに顔を上げられた。
「……そうか」
しばらく沈黙した後、深く息を吐かれた。
「迎えを出してくれ」
「承知いたしました」
「ただし、無理に連れてくる必要はない。あの子が来ると言うのであれば、迎え入れてやってほしい」
私は、静かに頭を下げた。
七年前、王女殿下が姿を消された時、国王陛下は何としても連れ戻そうとしておられた。
しかし、今は違う。
あの方の意思を尊重しようとしておられる。
それが七年間の歳月によるものなのか、長男を失った悲しみによるものなのか、私には分からなかった。
ただ、陛下もまた、変わられたのだと思った。
*
私は、ユリアナを呼ぶことにした。
彼女は王女殿下が幼い頃から親しくしていた人物であり、王宮の中でも数少ない信頼できる存在だった。
七年ぶりの再会に、これほどふさわしい人物はいないだろう。
「ユリアナ。王女殿下を迎えに行ってもらえないだろうか」
私がそう頼むと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「……リカルティール様が、帰ってこられたの?」
「ああ。先ほど、王都へ到着されたそうだ」
ユリアナは、しばらく黙り込んだ。
彼女にとっても、七年前の出来事は忘れられないものだったはずである。
王女殿下の脱走によって監督責任を問われ、副団長の職を解かれた。その後、長い年月をかけて実績を積み重ね、ようやく副団長へ復帰したのである。
しかし、彼女は王女殿下を恨んだことなどなかった。
むしろ、あの方が無事に暮らしておられることを、誰よりも喜んでいた。
「……分かったわ。私が迎えに行く」
ユリアナは、静かに頷いた。
「私も同行しよう」
私がそう言うと、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
「あなたも?」
「ああ。七年前、王女殿下が出奔された時、私は宰相に就任したばかりだったからな」
私は、思わず苦笑した。
「せめて、今度はきちんとご挨拶をしておきたい」
ユリアナは、少しだけ笑った。
「そうね。それがいいと思うわ」
私は、彼女に宿屋の場所を伝えた。
そして、最後に一つだけ付け加えた。
「王女殿下には、無理をさせないでほしい」
「ええ。分かっているわ」
「七年前とは、何もかもが変わってしまった。あの方も、きっと戸惑われるだろう」
ユリアナは、少し寂しそうに微笑んだ。
「それでも……リカルティール様は、リカルティール様よ」
私は、その言葉に小さく頷いた。
確かに、そのとおりなのだろう。
七年間、王女殿下は王宮の外で暮らしてこられた。
私たちが知らない経験を重ね、私たちが知らない人々と出会い、私たちが知らない人生を歩んでこられた。
しかし、それでも、あの方がリカルティール王女殿下であることに変わりはない。
私たちが幼い頃から見守ってきた、あの少女なのだ。
*
馬車が王宮の門を出た時、私は窓の外へ目を向けていた。
王都の街並みは、七年前と大きく変わっていない。商人たちは店先で客を呼び込み、荷馬車が石畳の道を行き交い、子供たちが楽しそうに駆け回っている。
王宮では王太子殿下が亡くなり、王国の将来を左右する重大な問題が生じている。
しかし、街の人々は、まだそのことを知らない。
彼らにとっては、今日も昨日と変わらない一日なのだ。
私は、その光景を眺めながら、七年前のことを思い出していた。
宰相に就任したばかりだった自分。
王女殿下の脱走によって王宮中が混乱し、その対応に追われた日々。
当時の私は、王国の政治について、まだ分からないことばかりだった。
それでも、宰相としての責務を果たさなければならなかった。
あれから七年。
ヴィルヘルム殿下とハインリヒ殿下の対立、王宮改革、ボーマンの退任、ユリアナの降格と復帰。
さまざまな出来事を経て、私はようやく宰相としての仕事にも慣れてきた。
しかし、今度はヴィルヘルム殿下が亡くなり、王国は再び大きな危機を迎えている。
私は、この七年間、王宮の安定を守ろうとしてきた。
しかし、最も大切な王家の絆を守ることはできなかった。
そのことが、今も胸の奥に重く残っている。
「……随分と難しい顔をしているわね」
隣に座るユリアナが、私を見て小さく笑った。
「そうか?」
「ええ。まるで、これから国王陛下に叱られに行くみたい」
私は、思わず苦笑した。
「実際、それに近い心境かもしれないな」
「どうして?」
「何しろ、七年前の騒動の当事者に、今から会いに行くのだから」
ユリアナは、少し考えてから笑った。
「……そういえば、あなたにとっては、そういうことになるのね」
「ああ。宰相に就任して間もない頃だったからな」
「大変だったものね」
「大変どころではなかったよ」
私は、当時のことを思い出して深く息を吐いた。
王女殿下の脱走が発覚した時、私はまだ宰相としての仕事を十分に理解していなかった。国王陛下への報告、近衛兵団との調整、各国への情報管理。何もかもが初めての経験であり、毎日が手探りだった。
その後も、王女殿下の所在を確認するために多くの人々が動き、ようやく無事が判明した時には、心底安堵したものだった。
しかし、今となっては、それも懐かしい思い出である。
「……あの頃のあなたは、今よりずっと若かったわね」
ユリアナが、楽しそうに言った。
「君も同じだろう」
「そうね。でも、私は今の方がいいわ」
「なぜだ?」
「いろいろあったけれど、それでも、ここまで来られたもの」
私は、彼女の横顔を見つめた。
七年間、私たちはそれぞれの立場で多くのことを経験してきた。
時には苦しいこともあった。
しかし、それでも、こうして二人で並んで座っている。
私は、そのことをありがたく思った。
やがて、馬車は目的の宿屋へ到着した。
*
宿屋は、王都の大通りから少し入った場所にあった。
決して豪華な建物ではないが、清潔に保たれており、旅人たちが安心して滞在できそうな宿だった。
私は、馬車を降りると建物を見上げた。
王女殿下が、このような宿に滞在しておられる。
七年前であれば、考えられないことだった。
しかし、今のあの方にとっては、これが当たり前の生活なのだろう。
「それじゃあ、私が先に行ってくるわ」
ユリアナが、そう言って宿屋の入口へ向かった。
「ああ。頼む」
私は、馬車の傍で待つことにした。
ユリアナが宿屋の扉を開け、中へ入っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は少しばかり緊張している自分に気づいた。
七年ぶりに王女殿下とお会いする。
しかし、私があの方と直接言葉を交わした機会は、決して多くない。
何しろ、宰相に就任してから、わずかな日数しか王宮におられなかったのだ。
王女殿下は、私のことを覚えておられるだろうか。
私は、そんなことを考えて苦笑した。
やがて、宿屋の扉が開いた。
最初に姿を現したのは、ユリアナだった。
その後ろから、一人の若い女性が出てくる。
明るい金髪に、どこか懐かしい面影のある顔立ち。
七年前、王宮を去られたリカルティール王女殿下だった。
しかし、当時の少女とは、随分と印象が違っていた。
身につけておられるのは、王宮で見慣れた華やかな衣装ではない。冒険者としての活動に適した、実用的な服装だった。立ち姿にも自然な落ち着きがあり、周囲の様子を確かめる視線には、長年の経験によって培われたものが感じられる。
王女殿下は、確かに大人になっておられた。
その後ろには、見知らぬ青年が続いていた。
黒い短髪に、落ち着いた表情。報告書に記されていたタクマという青年だろう。
さらに、シエラの姿も見えた。
そして、その後ろから現れた老人を見て、私は思わず笑みを浮かべた。
ボーマンだった。
彼は、私と目が合うと、懐かしそうに微笑んだ。
私は、軽く頷いて応えた。
王宮を去った時と変わらない、穏やかな表情だった。
どうやら、遠い異国での生活は、あの老人にとって悪いものではなかったらしい。
しかし、今はまず、王女殿下への挨拶が先だった。
私は、一歩前へ進み出た。
王女殿下が、こちらへ視線を向けられる。
私は、丁寧に一礼した。
「お久しぶりでございます。リカルティール王女殿下。王国宰相のアルフォンス・ヴァルテンベルクです」
王女殿下は、少し困惑したように首を傾げられた。
「えっと……貴方は……?」
私は、その反応に思わず苦笑した。
どうやら、予想は当たっていたらしい。
「お忘れになられていても、致し方ありません。何しろ殿下は、私が宰相に就任して十二日目に出奔されたのですから」
その瞬間、隣にいたユリアナが堪えきれずに笑い出した。
王女殿下は、目を丸くされた。
そして、ようやく事情を理解されたらしい。
「……それは、本当に申し訳なかったわ……」




