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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章2】王女が消えた王宮

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【閑章4話】皇太子殿下は悪役


リカルティール王女殿下が王宮から姿を消されて、間もなく一年になる。


あれほど大騒ぎになった失踪事件も、今では表向き、すっかり落ち着きを取り戻していた。王宮の使用人たちは以前と変わらず働き、貴族たちは政務や社交に忙しく、諸外国との外交関係にも目立った変化はない。王女殿下の療養についても、公式には従来の説明が維持されており、日々の政務に支障が出るような事態には至っていなかった。


もちろん、それは王女殿下の失踪が解決したからではない。私たちが、解決したように見せかけているだけである。


王女殿下は現在、フロンティア大公国のノヴァグラードで冒険者として暮らしている。本人に帰国の意思はなく、王宮としても無理に連れ戻さない方針を取っていた。代わりに、独立したダークエルフの諜報組織と契約し、密かに安全を確保している。


現地の担当者は、シエラという名の女性だった。


報告書によれば、彼女自身も冒険者として活動できるだけの実力を備えており、対象者との接触を必要最小限に留めながら、その行動を把握しているという。危険が迫った場合には介入するものの、普段の生活には干渉しない。契約条件は厳しく、任務の性質上、現地担当者の判断に委ねなければならない部分も多かったが、これまで大きな問題が生じたことはなかった。


私としても、彼女の仕事ぶりには満足している。報告は簡潔で正確、必要な情報が過不足なく記されており、余計な感想や憶測が入り込む余地もない。王宮の官僚たちにも見習わせたいほどだったが、さすがに国外の諜報組織を手本にしろとは言いにくい。


ただし、その報告書を読むたびに胃の辺りが重くなることだけは、どうにも変わらなかった。


「……また魔物の討伐か」


私は机の上に広げた書簡を眺め、思わず呟いた。


王女殿下は冒険者として順調に経験を積んでいるらしい。依頼の達成率は高く、魔法の実力も周囲から評価されている。最近では冒険者ランクも上がり、以前より難度の高い依頼を受けるようになっていた。魔法学院で歴代最高の成績を収められた方なのだから、その才能が冒険者としても通用すること自体は不思議ではない。


しかし、魔法の才能と冒険者としての安全は、必ずしも同じものではない。


冒険者ランクが上がれば、受けられる依頼の幅も広がる。より高い報酬を得られるようになる一方で、危険な仕事に関わる機会も増える。魔物との戦闘には予測できない要素が多く、十分な実力を持つ者であっても、不意を突かれれば命を落とすことがある。まして王女殿下は、王宮で護衛に囲まれて育った方なのだ。実戦経験を積んでいるとはいえ、危険を軽く考えておられないかという不安は残る。


私は報告書の末尾を確認した。


『対象者の健康状態に問題なし。生命に差し迫った危険は確認されず』


ひとまず、安心してよいらしい。


もっとも、これを陛下に報告すれば、別の問題が発生することは目に見えていた。娘の成長を喜ばれる一方で、危険な仕事をしていると聞けば、必ず心配されるだろう。そして、その心配を受け止める役目は、当然ながら私に回ってくる。


私は書簡を閉じ、国王陛下への報告に向かうことにした。


◇


「リカルティールが昇格しただと!」


グスタフ陛下は、私の報告を聞くなり椅子から立ち上がられた。


「はい。現地の冒険者ギルドにおいて、これまでの実績が評価されたようです。魔法の技量だけでなく、依頼の達成状況についても良好な評価を受けているとのことでございます」


「そうか! やはりあの子は優秀なのだな!」


陛下は満面の笑みを浮かべ、何度も頷かれた。娘の才能が認められたことが、よほど嬉しかったのだろう。王女殿下が魔法学院で優秀な成績を収められた際にも、陛下は同じように喜ばれていた。あの頃は教師たちから届く報告書を何度も読み返し、わざわざ私を呼び出して内容を説明されたことさえある。


もっとも、当時と今とでは事情が大きく異なる。


魔法学院での成績は、王女殿下の将来を期待させるものだった。しかし、冒険者としての昇格は、より危険な仕事に関わる可能性が増えることを意味している。陛下がその点に気づかれれば、喜びだけでは済まないだろう。


私は余計なことを考えず、報告を終えようとした。


「……待て」


陛下の笑顔が消えた。


「昇格ということは、今までより危険な仕事を任されるのではないか?」


やはり、そう簡単には終わらなかった。


「一般的には、そのようになります。もっとも、依頼の受注は本人の意思によるものですので、必ずしも危険な仕事を選ぶとは限りません」


「だが、あの子は魔物の討伐をしているのだろう?」


「はい」


「危険ではないか!」


「冒険者という職業でございますので……」


私はできる限り穏やかに説明した。王女殿下の実力を考えれば、一般的な魔物の討伐で重大な危険に陥る可能性は高くない。しかし、冒険者の仕事に絶対の安全など存在しない。しかも、現地からの報告によれば、王女殿下は自ら難しい依頼を選ぶ傾向があるらしい。


そのことまで正直に説明すべきか、私は少し迷った。だが、陛下に報告する情報を意図的に隠すわけにはいかない。何より、後になって事実が判明すれば、私自身が責任を問われることになる。


「……なお、王女殿下はご自身の判断で、比較的難度の高い依頼にも参加されているようです」


「何だと!」


陛下は再び立ち上がられた。


「なぜ止めない!」


「契約上、生命に差し迫った危険がない限り、行動への干渉は認められておりません」


「そんな契約を結んだのは誰だ!」


「陛下のご承認をいただいております」


「……そうだったな」


陛下はゆっくりと椅子に腰を下ろされた。


私は内心で安堵した。ここで護衛契約の見直しを命じられれば、また一から交渉をやり直さなければならない。現地担当者の裁量を制限すれば、王女殿下の自由を尊重するという当初の方針も揺らいでしまうだろう。


そのとき、部屋の扉が開かれた。


「あなた、ずいぶん賑やかですこと」


エリザベート王妃殿下が、穏やかな笑みを浮かべて入ってこられた。


「エリザベート! リカルティールが冒険者として昇格したそうだ!」


「まあ、それは素晴らしいことですわね」


「そうだろう! あの子は昔から優秀だったが、やはり外の世界でも通用するのだな!」


先ほどまでの心配はどこへ行ったのだろうか。陛下は再び嬉しそうに語り始められた。


王妃殿下も娘の成長を喜んでおられるようだったが、その表情は陛下とは少し異なっていた。王女殿下が自分の力で仕事をこなし、周囲から評価されていることを、静かに受け止めておられるように見える。


「そうだ、祝宴を開こう! あの子の昇格を祝って、盛大にな!」


私は思わず顔を上げた。


祝宴。それは非常にまずい。


王女殿下は現在、病気療養中ということになっている。しかも、実際には国外で冒険者をしているのだ。その昇格を祝う宴など開けば、何を祝っているのか説明できない。仮に王族だけの内輪の宴にしたとしても、料理人や使用人たちの間で話題になれば、余計な憶測を呼ぶ可能性がある。


私が口を開こうとしたところで、王妃殿下が先に尋ねられた。


「あなた。誰の昇格を祝うおつもりですか?」


「……リカルティールだが?」


「では、そのリカルティールはどこにいるのでしょう?」


陛下は沈黙された。


私はそっと視線を落とした。王妃殿下は、こういうとき実に頼りになる。私が長々と説明しなければならないことを、たった二つの質問で終わらせてしまわれた。


「……そうだったな」


陛下は肩を落とされた。


「せめて、何か祝いの品を送ることはできんのか?」


「それも難しいかと存じます。現地への物品の送付は、王女殿下の身元を探る手掛かりになりかねませんので」


私が答えると、陛下は残念そうに息を吐かれた。


王妃殿下はそんな夫の姿を見て、少しだけ微笑まれた。


「いつか帰ってきたときに、まとめてお祝いしてあげればよろしいではありませんか」


「……そうだな」


陛下は頷かれたが、その表情には寂しさが残っていた。


私はその様子を見ながら、王女殿下の不在が王宮にもたらしたものを改めて考えていた。娘の成長を喜びたくても、公に祝うことすらできない。王族としての立場を守るためには必要なことだが、父親としては何とも寂しい話なのだろう。


それでも、陛下は王女殿下を無理に連れ戻すことを命じられなかった。


娘の自由を尊重するという決断は、今も変わっていないのである。


◇


王女殿下の冒険者生活が安定する一方で、王宮には別の問題が生じ始めていた。


療養中という説明が、限界に近づいていたのである。


王女殿下が公の場に姿を見せなくなってから、間もなく一年になる。最初の数か月は、体調不良による療養という説明で十分だった。王族が健康上の理由から公務を控えること自体は珍しくなく、周囲も無理に詳細を尋ねようとはしなかった。


しかし、これほど長期間にわたって公式行事への出席を控えているとなれば、当然ながら疑問を抱く者も現れる。特に王女殿下は、魔法学院での優秀な成績によって、国内外から注目を集めていた方である。将来的には王国の魔法研究や外交にも関わることが期待されており、その動向を気にかける者は少なくなかった。


諸外国からの問い合わせも、以前より増えていた。


ゲルマニア諸王国連合を構成するザクセンブルグ王国をはじめ、王国と関係の深い諸国からは、王女殿下の容体を案じる書簡が届いている。中には、再び見舞いの使節を派遣したいという申し出もあり、外交担当者たちはその対応に追われていた。


こちらとしても、丁重に回答を続けてはいる。しかし、具体的な病状を説明することは難しく、回復の見通しについても明確な返答ができない。あまりに曖昧な説明を続ければ、かえって重篤な病状を隠しているのではないかと疑われる可能性もある。


何しろ、王女殿下は病気ではないのだから。


私は外交担当者から提出された報告書を読み、深く息を吐いた。


国内の貴族たちの間でも、さまざまな憶測が広がり始めていた。王女殿下の病状は、実際には公表されている以上に重いのではないか。魔法の研究中に事故が起きたのではないか。あるいは、王家の内部で何らかの問題が発生しているのではないか。


どれも根拠のない噂だったが、完全に否定することも難しかった。


王女殿下が姿を見せないという事実だけは、変えようがないからである。


私は一度、王女殿下に短期間だけ帰国していただく案を検討したことがある。公式行事に一度でも出席していただければ、少なくとも病状に関する疑惑は解消できるだろう。さらに、王宮での生活に戻る必要はないと約束すれば、本人も応じてくださるかもしれない。


しかし、考えれば考えるほど、現実的ではないように思えた。


そもそも、王女殿下が帰還に応じる保証はない。仮に一度だけ帰国されたとしても、その後に再び王宮を離れれば、同じ問題が生じる。王女殿下の自由を尊重するという方針を維持しながら、王宮の都合に合わせて公務への出席を求めるのは、あまりにも身勝手ではないだろうか。


結局、私は王族による非公式の協議を提案することにした。


王女殿下の安全を確保する方法は、すでに整っている。次に必要なのは、あの方が王宮へ戻らなくても済むようにするための、政治的な説明だった。


◇


「つまり、療養中という説明だけでは、これ以上持たないということか」


グスタフ陛下は、私の報告を聞いて腕を組まれた。


「はい。少なくとも、今後も王女殿下が公務に復帰されないのであれば、何らかの説明が必要になるかと存じます。現状では、王女殿下のご容体を案じる声が増える一方であり、いずれは王宮の説明そのものに疑問を抱く者が現れるでしょう」


会議に出席しているのは、陛下、エリザベート王妃殿下、ヴィルヘルム殿下、ハインリヒ殿下、そして私だった。以前、王女殿下の帰還について話し合ったときと同じ顔ぶれである。


もっとも、今回の議題は少し異なっていた。


前回は、王女殿下を連れ戻すべきかどうかという問題だった。しかし、現在は本人の自由を尊重するという方針が固まっている。そのため、王女殿下が王宮に戻らないことを前提として、いかに王家の立場を守るかが議論の中心となっていた。


「国外の反応はどうなのだ?」


ヴィルヘルム殿下が尋ねられた。


「現時点では、王女殿下のご容体を案じる声が中心です。ただし、長期間にわたって姿を見せておられないことから、王宮の説明に疑問を抱く者も出始めております」


「なるほど……」


ヴィルヘルム殿下は考え込まれた。


隣に座るハインリヒ殿下が、静かに口を開く。


「このまま放置するのは危険でしょう。病状についての憶測が広がれば、いずれ王家そのものへの不信につながりかねません」


「そうだな」


ヴィルヘルム殿下も頷かれた。


「しかし、リカルティールを無理に帰還させることには反対だ」


「私も、今すぐ帰還させるべきだとは申し上げておりません。ただ、何らかの対応は必要です」


ハインリヒ殿下の言葉は、以前と変わらず現実的だった。


彼は王女殿下の自由そのものを否定しているわけではない。問題にしているのは、王位継承者が国外に滞在しているという事実が、政治的に利用される可能性である。王女殿下の所在が明らかになれば、諸外国との外交関係だけでなく、国内の貴族たちの動向にも影響が及ぶだろう。


私は二人のやり取りを聞きながら、何か有効な解決策がないものかと考えていた。


王女殿下の所在を明かすわけにはいかない。かといって、病気療養中という説明を続けるにも限界がある。公務への復帰を求めれば、本人の自由を尊重するという方針が揺らいでしまう。


どの選択肢にも、何らかの問題が残る。


そのとき、ヴィルヘルム殿下が静かに口を開かれた。


「では、私がリカルティールを公務に復帰させないことにしてはどうだろう」


私は思わず顔を上げた。


「……殿下?」


「私が、あの子の公務復帰を妨げているということにするんだ」


何をおっしゃっているのだろう。


私は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。王女殿下の公務復帰を妨げるなど、王太子殿下ご自身にとって何の利益もないはずである。むしろ、妹君の才能を認め、将来の王国に役立てようと考えておられる方だ。


「恐れながら、もう少し詳しくお聞かせいただけますでしょうか」


ヴィルヘルム殿下は頷かれた。


「リカルティールが姿を見せない理由を、病気ではなく、私の政治的な意図によるものだと思わせるんだよ」


「……政治的な意図、でございますか?」


「ああ。私は王太子だ。そしてリカルティールは、魔法学院で歴代最高の成績を収めた才女であり、第三王位継承者でもある。そんな妹の才能を警戒して、私が公務への復帰を妨げている。そういう噂を流せばいい」


私は息を呑んだ。


確かに、王宮では珍しくない話である。


王位継承を巡る争いは、どこの国でも起こり得る。特に、優秀な王族が複数存在する場合、その能力や人望が政治的な対立の原因になることもある。王太子の地位が確立していたとしても、他の王族に支持が集まれば、将来の政治的な不安要素になると考える者は少なくない。


ヴィルヘルム殿下が妹君の才能を警戒し、政治の表舞台から遠ざけている。


そのような噂であれば、貴族たちも理解しやすいだろう。病気という説明に疑問を抱く者であっても、王宮内の権力争いという理由なら、むしろ納得する可能性がある。


しかし、それは同時に、ヴィルヘルム殿下ご自身の評判を傷つけることを意味していた。


「殿下。それでは、殿下ご自身の名誉を傷つけることになります」


「そうだね」


「王太子殿下が妹君を政治的に排除しているなどという噂が広まれば、将来の王位継承にも影響しかねません。殿下の統治能力や人柄に疑問を抱く者が現れる可能性もございます」


「分かっているよ」


ヴィルヘルム殿下は、穏やかに微笑まれた。


「でも、リカルティールが自由に生きられるなら、私が多少嫌われるくらい構わないさ」


私は返す言葉を失った。


殿下は、自分の提案がどのような意味を持つのか、十分に理解しておられるのだろう。王太子としての名誉が、個人の評判だけに留まらないことも承知しているはずだ。


それでも、妹君の自由を守るために、自ら悪役を引き受けようとしている。


何とも、ヴィルヘルム殿下らしいお考えだった。


「私は反対だ」


グスタフ陛下が、低い声で告げられた。


「王太子が自らの評判を落とすような真似を、国王として認めるわけにはいかん」


「父上。私の評判よりも、今はリカルティールの安全を優先すべきではありませんか」


「それとこれとは別の話だ。お前は次の国王になるのだぞ」


陛下の言葉には、父親としての心配だけでなく、国王としての責任が込められていた。王太子の評判は、単なる個人の名誉ではない。将来の国王に対する信頼にも関わる。そこを意図的に傷つけるというのは、国家の安定を考えれば決して軽い判断ではなかった。


私も、陛下のお考えに賛成だった。


しかし、そのときである。


「……私は、悪くない手だと思います」


ハインリヒ殿下が口を開かれた。


私は思わず、そちらへ顔を向けた。


「ハインリヒ殿下?」


「兄上の提案は、政治的には十分に合理性があります」


ハインリヒ殿下は、落ち着いた口調で説明を始められた。


「現在、貴族たちが疑問に思っているのは、リカルティールがなぜ姿を見せないのかという点です。病気療養中という説明に疑問を抱き始めているのであれば、別の理由を与えればよい」


「しかし、その理由が王太子殿下による政治的な排除では……」


「だからこそ、説得力があるのです」


ハインリヒ殿下は私を見た。


「王位継承者が、自らの地位を守るために他の継承者を遠ざける。貴族たちにとって、これほど理解しやすい理由はありません」


私は黙って耳を傾けた。


確かに、そのとおりだった。


病気という説明には、いずれ回復するのか、いつ公務に復帰するのかという疑問がつきまとう。しかし、王太子の政治的な意図によるものだと考えられれば、公務に復帰しない理由は長期間にわたって成立する。たとえ王女殿下の健康状態が回復していると噂されても、王太子が復帰を望んでいないという説明なら矛盾しない。


さらに、王女殿下の所在を詮索する者の関心を、王太子の政治的な動向へ向けることもできる。


王女殿下がどこにいるのかではなく、王太子殿下が何を考えているのか。人々の関心がそちらへ移れば、王女殿下の自由を守るうえでも有利になるだろう。


「ただし、問題もあります」


ハインリヒ殿下は続けられた。


「兄上の評判が必要以上に傷つけば、王位継承そのものに影響します。噂の内容は限定しなければなりません」


「限定、でございますか?」


「ええ。兄上がリカルティールの公務復帰を妨げているという印象は与えても、妹に危害を加えたとか、王位を巡る陰謀を企てているといった方向には発展させないことです」


私は頷いた。


政治的な噂は、一度広がれば人々の思惑によって形を変える。最初は些細な話であっても、尾ひれが付いて大きな問題になることは珍しくない。特に王位継承に関わる話題は、貴族たちの利害と結びつきやすく、意図しない方向へ利用される危険がある。


その危険性を、ハインリヒ殿下は十分に理解しておられた。


「また、噂を流す相手も慎重に選ぶべきでしょう。必要に応じて修正できる経路を確保しておくことも重要です。最初から広範囲に流すのではなく、王宮内の限られた人間の間で広め、その反応を確認するのがよいかと」


「なるほど。そこまで考えていなかった。助かるよ、ハインリヒ」


ヴィルヘルム殿下が微笑まれた。


「兄上がご自分の評判を犠牲にされるのですから、せめて無駄にならないようにすべきでしょう」


ハインリヒ殿下も、わずかに笑みを浮かべられた。


私は二人のやり取りを見ながら、少し不思議な気持ちになっていた。


ヴィルヘルム殿下は、妹君の自由を守るために自ら悪役を引き受けようとしている。一方、ハインリヒ殿下は、その提案を政治的に実行可能な策へと整えようとしている。


考え方は異なるが、互いの意見を尊重し、協力している。ヴィルヘルム殿下の寛容さと、ハインリヒ殿下の現実的な判断力。その二つがうまく噛み合えば、王国にとって大きな力になるだろう。


私は以前から、この二人が力を合わせれば、王国の将来は安泰だと考えていた。


その思いは、今も変わらない。


ただし、今回ばかりは少々困ったことになった。


何しろ、この二人が協力して考え出した策を、実際に実行するのは私なのである。


◇


結局、グスタフ陛下は最後まで難色を示された。


しかし、ヴィルヘルム殿下の意思は固く、ハインリヒ殿下も政治的な効果を丁寧に説明された。エリザベート王妃殿下も、王太子自身が責任を持って判断したことであれば、その意思を尊重すべきだと助言された。


王妃殿下は、今回の提案を単なる自己犠牲とは考えておられないようだった。ヴィルヘルム殿下が将来の国王として、自らの判断に責任を持とうとしている。その姿勢を認めるべきだというお考えなのだろう。


最終的に陛下は、いくつかの条件を付けたうえで提案を認められた。


噂を流す範囲は限定すること。王太子の名誉を著しく傷つける事態になれば、直ちに中止すること。そして、王女殿下の安全に関わる情報は一切漏らさないこと。


どれも当然の条件だった。


問題は、それを実行する方法である。


「……宰相という職務に、虚構の宮廷陰謀を制作する仕事が含まれていたとは知りませんでした」


会議が終わった後、私は思わず呟いた。


ヴィルヘルム殿下は申し訳なさそうに笑われた。


「すまないね、宰相。君にはまた苦労をかける」


「いえ。殿下のお考えは理解しております」


理解していることと、実行するのが容易であることは別問題だが。


「噂を流すのであれば、王宮に出入りする貴族の従者や、地方領主との連絡役を利用するのがよいでしょう」


ハインリヒ殿下が、早速具体的な方法を検討し始められた。


「ただし、王宮から直接流したと分かるような経路は避けるべきです。あくまで、貴族たちの間で自然に生まれた憶測として扱わせる必要があります」


「……承知いたしました」


私は頷きながら、頭の中で必要な手順を整理した。


情報を流す相手の選定、噂の内容の調整、拡散状況の確認、問題が生じた場合の修正。どれも慎重に進めなければならない。特に、噂の出所を王宮に結びつけられないようにすることは重要だった。


王女殿下の失踪を隠すために、王太子が妹を政治的に排除しているという噂を流す。


国家の宰相として、実に奇妙な仕事だった。


しかも、その策を考えた王太子殿下は穏やかに微笑み、第二王位継承者殿下は冷静に実行手順を検討している。


私は、この兄弟が協力すると実に頼もしいと同時に、非常に厄介であることを痛感した。


◇


それから数週間が経過した。


王宮の貴族たちの間で、王女殿下の公務復帰が遅れている理由について、新しい噂が広まり始めた。


王太子殿下が、妹君の政治的な影響力を警戒しているらしい。魔法学院で歴代最高の成績を収めた王女殿下が、将来の王位継承に影響することを恐れているのではないか。王女殿下が公務に復帰できないのも、王太子殿下の意向によるものだという。


噂は、予想以上に自然に受け入れられた。


私は各方面から届く報告を読みながら、少し複雑な気持ちになっていた。


ヴィルヘルム殿下は普段から温厚で、公平な人物として知られている。臣下の意見にもよく耳を傾け、身分によって人を判断することも少ない。その人柄は多くの貴族から高く評価されており、次代の国王として期待する声も強かった。


しかし、王位継承を巡る争いという話題になると、人々は容易に疑念を抱く。


優れた人物であっても、権力の座にいる以上、野心を疑われる。まして、王位継承者が複数存在する場合には、本人たちの意思とは無関係に、周囲が対立を想像することもある。


それが王宮という場所なのだろう。


一方、王女殿下の所在を詮索する声は、少しずつ減っていった。


王女殿下が公務に復帰しないのは、王太子殿下の政治的な意向によるものだ。そう考える者が増えたことで、病状についての疑問も以前ほど話題にならなくなったのである。


政治工作としては成功だった。


ただし、問題がないわけではなかった。


噂の一部には、すでに尾ひれが付き始めていた。王太子殿下と王女殿下は以前から不仲だったらしい。王女殿下の才能を恐れた王太子殿下が、王宮内での活動を制限しているという。中には、王女殿下の療養そのものが王太子殿下の意向によるものだと考える者まで現れていた。


私は情報網を使って噂の拡大を抑えようとしたが、一度広がった話を完全に消すことは難しかった。


人々は、自分が信じたい話を信じる。そして、王宮の権力争いという話題は、貴族たちにとって実に魅力的なものらしい。


私は改めて、噂を政治的に利用することの危険性を実感していた。


こちらが流したのは、あくまで王太子殿下が妹君の公務復帰を妨げているという話だけである。しかし、人々はそこに自分たちなりの理由を付け加え、勝手に物語を作り上げていく。


それを完全に制御することは、誰にもできないのだろう。


◇


「思っていたより、私は悪人として扱われやすいらしいな」


夕刻、ヴィルヘルム殿下は私の報告を聞き、少し困ったように笑われた。


私は王太子殿下の私室を訪れ、噂の広がり方と、その影響について説明していた。当初の目的は達成されつつある。しかし、殿下ご自身の評判にも、少なからず影響が出始めていた。


今のところ、王太子殿下の地位を揺るがすほどの問題にはなっていない。それでも、貴族たちの間で殿下の人柄に疑問を抱く声が増えていることは、無視できない事実だった。


「殿下。必要であれば、噂を打ち消す方向へ動くことも可能です」


「いや、今はまだその必要はないよ」


ヴィルヘルム殿下は静かに首を振られた。


「リカルティールが無事なら、それでいい」


「しかし、殿下のご評判は、将来の王国の統治にも関わります。今のうちに対処しておかなければ、後になって取り返しのつかない問題になる可能性もございます」


「君が心配してくれていることは分かっている。だが、私が引き受けると決めたことだ」


私は言葉を飲み込んだ。


殿下は、いつもそうだった。


他者のために何かを引き受けると決めたとき、その負担を周囲に押し付けようとはしない。今回の件も、妹君の自由を守るために必要だと考えたからこそ、自ら悪役になることを選ばれたのだろう。


もちろん、王太子としての責任を軽んじているわけではない。殿下は、今回の策が将来の統治に影響する可能性を理解しておられる。そのうえで、今は妹君の自由を守ることを優先すべきだと判断されたのだ。


「……リカルティールは、昔から外の世界に憧れていたんだ」


ヴィルヘルム殿下が、ふと口を開かれた。


「魔法の研究をしているときは本当に楽しそうだったし、知らないことを見つけると、すぐに調べたがった。王宮の外へ出る機会があると、いつも嬉しそうにしていたよ」


「はい。私も、そのようなご様子を何度か拝見しております」


「それなのに、私たちはあの子が王女として生きることを当然だと思っていた。本人が何を望んでいるのか、十分に考えてやれなかったのかもしれないね」


私は黙って耳を傾けた。


ヴィルヘルム殿下は、窓の外へ視線を向けられた。


夕暮れの光が王宮の庭園を照らし、遠くの木々が長い影を落としている。王女殿下が幼い頃、よく遊んでおられた庭園も、その先に見えていた。


「今頃、何をしているんだろうな」


「報告によれば、冒険者として順調に活動されているとのことです。現地では他の冒険者たちとの交流も増え、日々の生活にもすっかり馴染んでおられるようです」


「そうか。それならよかった」


殿下は小さく微笑まれた。


「いつか帰ってきたら、いろいろ話を聞いてみたいものだ。どんな魔物と戦ったのか、どんな人たちと出会ったのか。きっと、私たちの知らない世界をたくさん見ているんだろうね」


「そうでございましょう」


「もっとも、勝手に出て行ったことについては、きちんと叱らなければならないけどね」


その言葉に、私は思わず笑ってしまった。


「殿下が叱られても、王女殿下は素直に反省されるでしょうか」


「……難しいだろうな」


ヴィルヘルム殿下も苦笑された。


私はその姿を見ながら、いつか王女殿下が帰還されたときのことを想像していた。


きっと、陛下は大喜びされるだろう。王妃殿下は穏やかに迎えられ、ハインリヒ殿下は何か小言をおっしゃるかもしれない。そしてヴィルヘルム殿下は、妹君を叱りながらも、最後には笑って許されるのだろう。


そんな日が、いつか訪れることを願っていた。


王女殿下が自由を満喫し、やがて自分の意思で王宮へ帰ってこられる。そのときには、今回の騒動も笑い話になるのかもしれない。


少なくとも、私はそう信じていた。


◇


その日の夜、私は執務室に戻り、ノヴァグラードから届いた新たな報告書を開いた。


王女殿下は相変わらず冒険者として活動しており、健康状態にも問題はないという。依頼の達成状況も良好で、現地の冒険者たちとの交流も増えているらしい。報告書には、日常生活における特筆すべき問題は認められないと記されていた。


私はその内容を確認しながら、昼間のヴィルヘルム殿下の言葉を思い出していた。


王太子殿下は、妹君の自由を守るために自ら悪役を引き受けられた。その結果、王宮では殿下が妹君を政治的に排除しているという噂が広まり始めている。


しかし、そのことを王女殿下は知らない。


遠く離れたノヴァグラードで、自分の意思で仕事を選び、報酬を得て、自由な生活を続けている。王宮でどのような噂が流れているのかも、兄君が何を犠牲にしているのかも、おそらく知る由はないだろう。


私は、ヴィルヘルム殿下の選択が正しかったのか、まだ判断できずにいた。


政治的な効果は確かに出ている。しかし、その代償として殿下の評判が傷つき始めていることも事実だった。今は小さな噂に過ぎなくても、将来どのような影響を及ぼすかは分からない。


それでも、妹君のために自ら負担を引き受けようとする姿勢には、確かな意味があるように思えた。


王太子殿下は、王国の将来を背負う立場にありながら、妹君が自分の人生を選ぶことを認めようとしている。その判断が正しいかどうかは、今後の時間が証明するのだろう。


私は報告書を閉じようとして、最後の一文に目を留めた。


『対象者は明日、魔物の討伐を含む依頼に参加する予定。現時点で重大な危険は確認されず』


私はしばらく、その文章を見つめた。


王女殿下は、今日もお元気なようだ。そして明日も、元気に魔物と戦われるらしい。


私は深く息を吐き、報告書を机に置いた。


「……陛下には、どう説明したものか」


王太子殿下が妹君のために悪役を引き受けられた一方で、私は今日も、王女殿下の冒険者生活を国王陛下に説明するという難題を抱えていた。


どうやら、王女殿下が自由である限り、私の仕事が減ることはなさそうだった。


閑章第4話「王太子殿下は悪役」完成原稿 Ver.1 終


今回の仕上げでは、段落の密度を整えつつ、特に後半の噂が広がる過程とヴィルヘルムの私室での会話を厚くしてある。


ヴィルヘルムは優しいだけの人物ではなく、王太子として政治的な代償を理解したうえで判断できる人物。ハインリヒも、兄の考えを補強できる優秀な王族として描いた。


そしてアルフォンスにとっては、二人の協力関係が王国の未来への希望になっている。


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