【閑章8話】王冠の重さ
※以前のリカ脱走までの閑話についても加筆修正及びエピソードを追加しています。
よろしければそちらもお読み下さい。
王宮において、王位継承順位というものは絶対的な意味を持っている。
王国の法によって定められたその順位は、個人の能力や功績によって簡単に覆されるものではない。たとえ優れた政治手腕を持ち、多くの臣下から支持されていたとしても、それだけで王位を継ぐ資格が与えられるわけではなかった。
それは、王国というものが一人の人間の能力だけで成り立っているわけではないからだ。
王位継承のたびに有力者たちが候補者の能力を比較し、それぞれの支持する人物を擁立するようになれば、王宮はたちまち権力争いの場と化してしまうだろう。王位継承順位とは、そうした争いを未然に防ぐための仕組みでもある。
もっとも、その制度が、すべての人間にとって公平であるかと問われれば、答えに窮するところではあった。
生まれた順番によって、将来の役割が決まる。
第一王位継承者として生まれた者には、いずれ王国を統治する責任が課せられる。一方、その弟や妹たちは、どれほど優秀であろうとも、基本的には王を支える立場に置かれることになる。
王族として生まれること自体が、本人の意思とは無関係なのだ。
私は長年、そうした制度を当然のものとして受け入れてきた。王国の安定を守るためには必要な仕組みであり、多少の不公平があったとしても、それを理由に軽々しく変更できるものではないと考えていたのである。
しかし、近頃になって、その考えを改めて見つめ直す機会が増えていた。
原因は、言うまでもなく二人の王子殿下である。
*
ハインリヒ殿下が主導された軍制改革は、予想以上に順調な成果を上げていた。
各軍の共同作戦に関する指揮権が整理され、補給や通信についても共通の手順が整えられた。これまで各組織が独自に行っていた訓練の一部も合同で実施されるようになり、現場からは好意的な報告が寄せられている。
もちろん、すべてが円滑に進んでいるわけではない。
特に諸侯軍の運用については、各領主の権限との調整が続いていた。王国軍の指揮官がどこまで命令できるのか、戦時に必要となる物資を誰が負担するのか。制度として明文化するほど、それまで慣習によって曖昧にされていた問題が表面化する。
しかし、そうした問題に対しても、ハインリヒ殿下は粘り強く取り組んでおられた。
私は執務室で、軍務官僚から提出された報告書に目を通していた。
「……また、殿下のご提案か」
報告書には、合同訓練において明らかになった補給上の問題と、その改善策がまとめられていた。魔導士団が使用する魔法触媒の輸送と、野戦軍の食糧輸送を別々に管理していたため、同じ街道を複数の輸送隊が往復していたという。
ハインリヒ殿下は、それらを統合して管理する仕組みを提案されたらしい。
内容を確認する限り、合理的な改善策だった。
私は書類の余白に承認のための印を押し、次の報告書へ手を伸ばした。
そこには、若手軍務官僚たちによる意見書が添えられていた。
『第二王子殿下のご指導のもと、王国軍の近代化は着実に進展しております。今後も殿下を中心とした改革体制を維持し、さらなる制度整備を推進すべきと考えます』
私は、その一文を読んで手を止めた。
内容そのものに、誤りがあるわけではない。
ハインリヒ殿下が優れた能力を発揮しておられることは事実であり、改革を継続する必要があることにも異論はなかった。
しかし、私は「殿下を中心とした」という表現が気になった。
王国軍の制度改革は、国王陛下の裁可を受け、王太子ヴィルヘルム殿下の協力のもとで進められている国家事業である。ハインリヒ殿下の功績は大きいものの、殿下一人の事業ではない。
ところが、近頃は若手官僚たちの間で、改革をハインリヒ殿下個人の功績として評価する傾向が強まっていた。
それに対して、ヴィルヘルム殿下が担当されている仕事は、あまり目立たない。
諸侯との折衝、地方行政の監督、王国財政の調整、外交使節との協議。いずれも王国の運営には欠かせない仕事だが、成果が数字や制度として表れにくいのである。
問題が起こらないように調整することが、最大の成果となる場合も少なくない。
私は、その重要性を誰よりも理解しているつもりだった。
しかし、宮廷のすべての人間が、同じように考えているわけではない。
「……困ったものだな」
私は小さく呟き、意見書を机の端へ置いた。
王国のために優秀な王子が二人おられることは、本来なら喜ばしいことのはずだった。
それなのに、いつの間にか、その優秀さを比較する者たちが現れ始めている。
私は、この状況をあまり好ましく思っていなかった。
*
その日の午後、私はヴィルヘルム殿下の執務室を訪ねた。
殿下は地方貴族から提出された陳情書に目を通しておられた。机の上には書類が山積みになっており、その量を見るだけで、私まで肩が重くなるような気がした。
「宰相。ちょうどよいところへ来てくれました」
殿下は私の姿を見ると、少し疲れた様子で微笑まれた。
「北部の領主たちから、また街道整備について陳情が届いています。軍用道路としての整備を求めているのですが、費用の負担について意見がまとまらないようです」
「以前から協議している件でございますな」
「ええ。必要な整備であることは分かっているのですが、王国の財政にも限りがありますから」
私は書類を受け取り、内容を確認した。
陳情そのものには一定の合理性がある。しかし、複数の領主がそれぞれ自領への整備を優先するよう求めており、すべてを同時に実施することは難しそうだった。
「優先順位を定める必要がございますな」
「私もそう考えています。ただ、どこかを優先すれば、別の領主が不満を持つでしょう」
「それを調整するのも、我々の仕事でございます」
私がそう答えると、ヴィルヘルム殿下は苦笑された。
「宰相は、いつもそう言いますね」
「事実でございますので」
「……ハインリヒなら、もっと大胆に進めるのでしょうね」
殿下は、机の上の陳情書へ視線を落とされた。
「必要な道路を決めて、王国の事業として一気に整備する。あいつなら、そういう方法を考えそうです」
「殿下にも、殿下のお考えがございます」
「分かっています。ただ、あいつの仕事ぶりを見ていると、時々羨ましくなることがあります」
私は少し驚いた。
ヴィルヘルム殿下が、弟君の能力を高く評価しておられることは知っている。しかし、それを羨ましいとまで表現されたことは、あまり記憶になかった。
「ハインリヒ殿下は、確かに決断の早い方でございます。しかし、殿下が慎重に調整を重ねておられるからこそ、改革が大きな反発を受けずに進んでいる面もございます」
「そう言ってもらえると、少し気が楽になります」
ヴィルヘルム殿下は微笑まれた。
その後、私たちは街道整備の問題についてしばらく協議した。
各領地の負担割合を再検討し、軍事上の重要度と交易への影響を考慮して整備の順序を決める。最終的には、関係する領主たちを集めて協議することになった。
仕事の話が一段落したところで、殿下は机の引き出しから一通の書簡を取り出された。
「そういえば、リカルティールの近況が届いたそうですね」
「はい。シエラからの定期報告でございます」
「少し、聞かせてもらえませんか」
私は頷き、報告の内容を説明した。
王女殿下は、冒険者として順調に活動しておられるらしい。最近では以前よりも行動範囲が広がり、魔法の研究にも引き続き熱心に取り組んでおられるという。
依頼の内容によっては、数日間にわたって街を離れることもあるらしい。
ヴィルヘルム殿下は、楽しそうに耳を傾けておられた。
「相変わらずですね。あの子は」
「ええ。王宮におられた頃と、あまり変わっておられないようです」
「いや、きっと変わっているのでしょう」
殿下は静かに首を振られた。
「自分で仕事を選び、知らない土地へ出かけて、自分の力で生活している。王宮にいた頃のリカルティールには、できなかったことばかりです」
私は、その言葉に頷いた。
王女殿下が自由を求めて王宮を去られたことは、王家にとって大きな出来事だった。
しかし、こうして報告を受けるたびに、あの方が自分の望んだ人生を歩んでおられることも分かる。
ヴィルヘルム殿下は、しばらく窓の外を眺めておられた。
「……少し、羨ましいですね」
私は顔を上げた。
「王女殿下が、でございますか?」
「ええ」
殿下は、どこか照れくさそうに微笑まれた。
「リカルティールは、自分がどう生きたいのかを知っていた。そして、そのために王宮を出ていくことができた。私には、とても真似できません」
「殿下は王太子でいらっしゃいますから」
「そうですね」
ヴィルヘルム殿下は、静かに頷かれた。
「私は、生まれた時から王になるものとして育てられました。父上の後を継ぎ、この国を治める。それが私の役割だと、幼い頃から教えられてきたのです」
その声に、不満や恨みのようなものは感じられなかった。
ただ、長年当たり前のように受け入れてきた事実を、改めて言葉にしておられるようだった。
「もちろん、王国を大切に思っています。父上のような王になりたいとも思っています。しかし……」
殿下は少し言葉を探された。
「もし私が、王太子ではない家に生まれていたら、どんな人生を送っていたのでしょうね」
私は、すぐには答えられなかった。
王太子殿下がそのようなことを考えておられたとは、想像したこともなかったのである。
「……殿下は、王位を継ぐことを望んでおられないのでしょうか」
慎重に尋ねると、ヴィルヘルム殿下は少し驚いたように私を見られた。
そして、穏やかに首を振られた。
「そういうことではありません」
殿下は、机の上の陳情書へ目を落とされた。
「王になりたいかと問われれば、正直なところ、よく分からないのです。私は王になることを前提に生きてきましたから、自分がそれを望んでいるのかどうか、考えたことさえありませんでした」
「……左様でございますか」
「ですが、望んだかどうかは関係ありません」
ヴィルヘルム殿下は、はっきりとおっしゃった。
「私は長兄として生まれ、王太子として育てられました。父上から受け継ぐべきものがあり、私を支えてくれる人々がいる。ならば、その責任を果たさなければなりません」
私は、深く頭を下げた。
実に、ヴィルヘルム殿下らしいお考えだった。
この方は、決して王位を軽んじておられるわけではない。むしろ、その重さを誰よりも理解しているからこそ、簡単に投げ出すことなど考えられないのだろう。
しかし、私は同時に、一つの懸念を抱いた。
もし、この言葉をハインリヒ殿下が聞かれたら、どう受け止められるだろうか。
その時の私は、まだ、その疑問の重さを十分に理解していなかった。
*
ハインリヒ殿下と将来について話す機会が訪れたのは、それから数日後のことだった。
殿下は軍制改革の追加案を携えて、私の執務室を訪ねてこられた。
今回の提案は、諸侯軍の動員手続きに関するものだった。戦時に各領主が保有する兵力を迅速に把握し、王国軍の作戦計画へ反映できるよう、平時から統一された報告制度を整備するという。
私は内容を確認し、その合理性を認めた。
ただし、地方貴族たちからの反発も予想された。
「殿下。これまで以上に諸侯の軍事力を王家が把握することになります。慎重に進める必要がございましょう」
「もちろんです。しかし、王国全体の防衛を考えるのであれば、各領地にどれほどの兵力があるのかを正確に把握しておくことは必要です」
「おっしゃるとおりでございます」
「兄上にも説明したのですが、もう少し時間をかけて調整すべきだとおっしゃっていました」
ハインリヒ殿下は、少し不満そうに息を吐かれた。
「兄上は、いつも慎重すぎるのです」
「ヴィルヘルム殿下は、諸侯との関係を重視しておられますから」
「それは分かっています。しかし、何かを変えようとすれば、必ず反発は起こります。すべての者が納得するまで待っていては、何も進みません」
私は、その言葉にも一理あると思った。
改革には決断が必要である。しかし、決断の速さだけで国家を運営できるわけでもない。
「殿下のお考えも理解できます。ただ、王国は多くの貴族や領民によって成り立っております。時には、時間をかけて理解を得ることも必要でございましょう」
「……宰相も、兄上と同じことを言うのですね」
殿下は苦笑された。
その表情には、いつもの穏やかさが残っていた。
私は、少し話題を変えることにした。
「ところで殿下。軍制改革が一段落した後は、どのようなお仕事をお考えでございますか?」
ハインリヒ殿下は、少し意外そうに私を見られた。
「そうですね。財政や地方行政にも、改善すべき点は多いと思っています」
「なるほど。将来は、王太子殿下を支える立場として、政務全般に関わっていただけると心強うございます」
私は、何気なくそう申し上げた。
しかし、その瞬間、ハインリヒ殿下の表情が変わった。
「……王太子を支える立場、ですか」
「はい?」
「宰相。あなたは、私が将来どうなると考えていますか?」
私は質問の意図を測りかねた。
「それは……王弟として、王国を支えていただくことになるかと」
殿下は、しばらく黙っておられた。
そして、静かに口を開かれた。
「私は、王弟として終わるつもりはありません」
私は思わず顔を上げた。
ハインリヒ殿下は、まっすぐに私を見つめておられた。
その表情に、冗談を言っている様子はなかった。
「……殿下。それは、どういう意味でございましょうか」
「言葉どおりの意味です」
殿下は落ち着いた声で答えられた。
「私は、この国をもっと強くしたい。軍制だけでなく、財政も、行政も、外交も、変えなければならないことが山ほどあります。そのために、私自身が責任を持って決断できる立場に立ちたいのです」
「しかし、王位継承順位は……」
「分かっています。兄上が第一王位継承者であり、私は第二王位継承者です」
殿下は、私の言葉を遮ることなく頷かれた。
「ですが、その順位が私の人生のすべてを決める理由にはならないでしょう」
私は返答に窮した。
王位継承順位は、王国の安定を守るために定められたものである。個人の希望によって変更できるものではない。
しかし、ハインリヒ殿下は、そのことを十分に理解したうえで、なお納得しておられないようだった。
「兄上は、優れた方です。私は、それを否定するつもりはありません」
殿下は続けられた。
「ですが、兄上は本当に王になりたいのでしょうか」
「……それは、どういうことでございますか」
「兄上は、リカルティールを羨ましく思っておられるのですよ」
私は、思わず息を止めた。
数日前、ヴィルヘルム殿下が口にされた言葉が、脳裏によみがえった。
ハインリヒ殿下は、私の反応を見て小さく頷かれた。
「やはり、宰相もお気づきでしたか」
「いえ、私は……」
「兄上は、昔からそういう方です。自分の望みよりも、果たすべき責任を優先する。誰かに何かを頼まれれば、自分のことを後回しにしてでも応えようとする」
その声には、兄君への理解と、どこか複雑な感情が混じっていた。
「私は、兄上のそういうところを尊敬しています。ですが、時々思うのです」
殿下は、机の上に置かれた改革案へ目を落とされた。
「兄上が本当に望んでいるのは、王になることではないのではないか、と」
私は、慎重に言葉を選んだ。
「ヴィルヘルム殿下は、王太子としての責務を深く理解しておられます。それは、王位を軽んじておられるということではございません」
「もちろん、分かっています」
ハインリヒ殿下は頷かれた。
「しかし、責任があるから王になるというのであれば、王になることを望んでいる者は、どうすればよいのでしょう」
私は、何も答えられなかった。
ハインリヒ殿下は、静かに微笑まれた。
「……難しい質問をしてしまいましたね。忘れてください」
そう言って殿下は、再び軍制改革の話へ戻られた。
私はその後も政務について協議を続けたが、先ほどの言葉が頭から離れなかった。
王弟として終わるつもりはない。
それは、単なる若い王族の野心として片づけてよい言葉なのだろうか。
*
二人の王子殿下が激しく言い争う姿を目にしたのは、それから十日ほど後のことだった。
その日、私は国王陛下へ提出する財政報告書を携え、王宮の奥にある会議室へ向かっていた。
廊下を歩いていると、少し先の扉の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「だから、私は反対だと言っているんだ」
ヴィルヘルム殿下の声だった。
普段の穏やかな口調とは異なり、明らかに強い感情が込められている。
私は足を止めた。
「兄上は、いつもそうおっしゃる!」
続いて聞こえてきたのは、ハインリヒ殿下の声だった。
どうやら、二人だけで話し合っておられるらしい。
私は一瞬、その場を離れるべきか迷った。
王子殿下方の私的な会話に、宰相とはいえ無断で立ち入るべきではない。しかし、声の様子からすると、単なる意見の相違では済まなくなっているようだった。
「私は改革そのものに反対しているわけではない。だが、諸侯の権限を一方的に制限すれば、必ず反発が起こる」
「だからこそ、王家が主導して進める必要があるのです。いつまでも諸侯の顔色をうかがっていては、王国は変わりません!」
「ハインリヒ。王国を変えることと、王国を不安定にすることは違う」
「では、何もしないことが正しいと?」
「そんなことは言っていない!」
私は思わず眉をひそめた。
ヴィルヘルム殿下が、あれほど声を荒らげられることは珍しい。
扉の向こうでは、しばらく沈黙が続いた。
そして、ハインリヒ殿下が静かに口を開かれた。
「……兄上は、いつもそうですね」
「何がだ」
「何かを変えようとすれば、必ず慎重であるべきだとおっしゃる。もちろん、それが間違っているとは言いません。しかし、兄上は自分が王太子だからこそ、そう言えるのではありませんか」
「どういう意味だ?」
「兄上には、何もしなくても王位が約束されているということです」
私は息を呑んだ。
扉の向こうの空気が、一瞬にして張り詰めたように感じられた。
「……ハインリヒ」
ヴィルヘルム殿下の声が低くなった。
「お前は、私が王位を当然のものとして考えていると思っているのか」
「違うのですか?」
「私は、そんなつもりで王太子を務めているわけではない」
「ええ。存じています。兄上は、責任を果たそうとしておられるのでしょう」
ハインリヒ殿下の声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
「ですが、私はそれが理解できないのです」
「何が理解できない?」
「兄上は、本当に王になりたいのですか?」
長い沈黙があった。
私は扉の前で立ち尽くしていた。
ここで立ち去るべきだと分かっていながら、足が動かなかった。
「……王になりたいかどうかは、問題ではない」
やがて、ヴィルヘルム殿下が答えられた。
「私は長兄として生まれ、王太子として育てられた。父上の後を継ぐことが、私に課せられた責任だ」
「また、それですか」
ハインリヒ殿下の声が、わずかに震えた。
「責任、責任と……兄上は、いつもそればかりだ」
「王位とは、そういうものだ」
「違う!」
突然、激しい声が響いた。
私は思わず肩を震わせた。
「兄上は、リカルティールが羨ましいのでしょう!」
ヴィルヘルム殿下は答えなかった。
ハインリヒ殿下は続けられた。
「自分の人生を自分で選び、王宮を出ていった妹が。王族としての責任を捨て、自分の望む生き方を手に入れたリカルティールが、羨ましいのでしょう!」
「……羨ましいと思うことと、責任を放棄することは違う」
「だったら!」
ハインリヒ殿下の声が、さらに強くなった。
「だったら、なぜ兄上が王にならなければならないのですか!」
私は、ついに扉へ手を伸ばした。
しかし、その直前にヴィルヘルム殿下の声が響いた。
「それが、私の務めだからだ!」
今まで聞いたことのないほど、強い声だった。
「私は王太子だ。王国を守り、父上の後を継ぎ、民を導く責任がある。望むと望まざるとにかかわらず、果たさなければならない務めがあるんだ!」
再び、沈黙が訪れた。
その静けさの中で、ハインリヒ殿下が低く呟かれた。
「……望んでもいないくせに」
「何?」
「兄上は、望んでもいないくせに!」
その声には、怒りだけではなく、深い悔しさが込められていた。
「私がどれほど望んでも手に入らないものを、兄上は義務だからと引き受けるとおっしゃる。私がどれほど努力し、どれほど成果を上げても、兄上が長兄として生まれたというだけで、すべてが決まってしまう!」
「ハインリヒ。私は、お前の能力を誰よりも認めている」
「だったら、なぜ!」
ハインリヒ殿下は、兄君の言葉を遮られた。
「なぜ、私では駄目なのですか!」
私は、もう迷わなかった。
扉を叩き、返事を待たずに開いた。
「殿下方。失礼いたします」
会議室には、ヴィルヘルム殿下とハインリヒ殿下が向かい合って立っておられた。
机の上には、諸侯軍の動員制度に関する資料が広げられている。
二人とも、私の姿を見て驚かれた。
ヴィルヘルム殿下は険しい表情のまま立ち尽くし、ハインリヒ殿下は強く握りしめていた拳を、ゆっくりと開かれた。
「……宰相」
ヴィルヘルム殿下が、気まずそうに口を開かれた。
「申し訳ございません。お話し中のところ、失礼いたしました」
私は深く頭を下げた。
「しかし、廊下までお声が聞こえておりました。このままでは、他の者にも聞かれてしまいます」
ヴィルヘルム殿下は、はっとした表情になられた。
ハインリヒ殿下は、何もおっしゃらなかった。
私は、できる限り穏やかな声で続けた。
「殿下方。ご意見が異なることは、決して悪いことではございません。しかし、王太子殿下と第二王子殿下のご対立は、王宮全体へ影響を及ぼします。どうか、そのことをお忘れなきようお願いいたします」
ヴィルヘルム殿下は、深く息を吐かれた。
「……分かっています。少し、感情的になりすぎました」
私はハインリヒ殿下へ視線を向けた。
殿下は、しばらく兄君を見つめておられた。
その表情からは、先ほどまでの激しい怒りが消えていた。
「……兄上」
ハインリヒ殿下は、静かに口を開かれた。
「私は、兄上のことを尊敬しています」
ヴィルヘルム殿下は、少し驚いたように弟君を見られた。
「ですが、兄上の考えを、すべて受け入れることはできません」
「……分かっている」
「私も、少し頭を冷やす必要があるようです」
ハインリヒ殿下は、私へ向き直られた。
「宰相。お騒がせしました」
「いえ……」
「本日の協議は、ここまでにいたしましょう」
殿下は、丁寧に一礼された。
そして、兄君へもう一度頭を下げると、会議室を出ていかれた。
私は、その背中を見送った。
不思議なことに、先ほどまで激しく怒っておられたハインリヒ殿下は、退出される時には驚くほど落ち着いておられた。
その変化に、私は少しばかり戸惑いを覚えた。
*
ハインリヒ殿下が去られた後、私はヴィルヘルム殿下と向かい合って座った。
殿下は、しばらく何もおっしゃらなかった。
机の上に広げられた資料へ視線を落とし、深く考え込んでおられる。
「……宰相」
「はい」
「私は、あいつの気持ちを分かっているつもりでした」
殿下は、静かに口を開かれた。
「ハインリヒは昔から優秀でした。何を学ばせても覚えが早く、私には思いつかないような考えを示すことも珍しくありませんでした」
私は頷いた。
二人の王子殿下が、それぞれ異なる才能を持っておられることは、私もよく知っている。
「私は、あいつが頼もしかった。いずれ私が王になった時も、きっと力になってくれると思っていました」
ヴィルヘルム殿下は、苦しそうに微笑まれた。
「……ですが、それこそが間違いだったのかもしれません」
「と、おっしゃいますと?」
「私は、あいつが私を支えてくれることを、当たり前のように考えていたのです」
私は、何も言えなかった。
「ハインリヒにも、自分の望む人生がある。リカルティールがそうだったように、あいつにも、自分で選びたい未来があるのでしょう」
殿下は、静かに息を吐かれた。
「それなのに、私は長兄だからという理由で、あいつの未来まで決めてしまっていたのかもしれません」
「殿下。それは……」
「分かっています」
ヴィルヘルム殿下は、私の言葉を遮ることなく頷かれた。
「だからといって、王位を譲ることが正しいとは思いません。王位は、私たち兄弟の間で好き勝手に譲り合えるものではありませんから」
私は深く頷いた。
そのとおりだった。
王位継承は、王国全体の安定に関わる問題である。個人の希望や兄弟の感情だけで決められるものではない。
「ですが、あいつの気持ちを、もっと真剣に考えるべきだったのでしょう」
ヴィルヘルム殿下は、窓の外へ目を向けられた。
「……あいつとは、もう一度きちんと話をしなければなりませんね」
「はい。私も、そう思います」
私は、心からそう答えた。
今回の言い争いは、決して小さなものではなかった。
しかし、兄弟である以上、話し合うことで理解し合える部分もあるはずだ。
私は、そう信じたかった。
*
それから数日間、ハインリヒ殿下は政務の場に姿を見せられなかった。
体調を崩されたわけではない。軍制改革に関する資料の整理や、地方軍務官僚との協議を行っておられるという報告は届いていた。
ただ、王太子殿下との直接の協議だけは、しばらく控えたいとのことであった。
私は何度か面会を申し入れたが、殿下からは丁寧な返答が届くばかりだった。
『先日の件につきましては、私も反省しております。今しばらく考える時間をいただきたく存じます』
私は、その返答を読んで小さく息を吐いた。
少なくとも、殿下はご自身の感情を整理しようとしておられるのだろう。
それならば、無理に面会を求めるよりも、少し時間を置いた方がよいかもしれない。
そう考えたのである。
しかし、王宮の空気は、少しずつ変わり始めていた。
若手官僚たちの間では、ハインリヒ殿下の改革をさらに進めるべきだという意見が強まっている。
一方、諸侯との関係を重視する者たちは、ヴィルヘルム殿下の慎重な姿勢を支持していた。
どちらも、表向きには王国のために意見を述べている。
しかし、その議論の中には、次第に二人の王子殿下を比較する言葉が混じるようになっていた。
『第二王子殿下の決断力こそ、これからの王国には必要だ』
『王太子殿下の慎重さがなければ、諸侯との関係はとうに悪化している』
私は、そうした意見を耳にするたびに、注意を促した。
王太子殿下と第二王子殿下は、互いに競い合うために政務を担っておられるのではない。
王国を支えるために、それぞれの役割を果たしておられるのだ。
しかし、人は時として、自らの支持する人物の優秀さを示すために、別の人物を低く評価しようとする。
その傾向は、私が思っていた以上に根深いものだった。
*
ハインリヒ殿下が再び王太子殿下と同席されたのは、それから一週間ほど後のことだった。
その日は、軍制改革の進捗を確認するための定例会議が開かれていた。
私は議長席に座り、各軍の代表者から報告を受けていた。
ハインリヒ殿下は、以前と変わらない様子で席についておられた。
発言は的確で、他の出席者の意見にも丁寧に耳を傾けておられる。諸侯軍の動員制度についても、王太子殿下の懸念を踏まえ、段階的な導入へ変更する案を提示された。
私は、その内容に少し驚いた。
以前のハインリヒ殿下であれば、制度の合理性を優先し、もう少し大胆な改革を主張されていたはずである。
しかし、今回は違った。
「兄上のご指摘も、もっともだと思います」
ハインリヒ殿下は、穏やかな表情でそうおっしゃった。
「諸侯との関係を損なってまで、改革を急ぐべきではありません。まずは王家直轄の軍勢で制度を運用し、その成果を示したうえで、各領地へ段階的に広げるのがよいでしょう」
ヴィルヘルム殿下は、少し驚いたように弟君を見られた。
「……そうしてもらえると、私も助かる」
「ええ。私も、少々急ぎすぎていたのかもしれません」
ハインリヒ殿下は微笑まれた。
そのやり取りを見て、私は胸を撫で下ろした。
どうやら、二人は再び協力できるようになったらしい。
少なくとも、政務の場では互いの意見を尊重し、冷静に話し合うことができている。
会議が終わった後、私はハインリヒ殿下へ声をかけた。
「殿下。先日の件につきましては、私も少々心配しておりました」
殿下は、申し訳なさそうに微笑まれた。
「ご心配をおかけしました。私も、少し感情的になりすぎていたようです」
「ヴィルヘルム殿下も、殿下と改めてお話ししたいとおっしゃっておられました」
「ええ。いずれ、きちんと話すつもりです」
殿下は、静かに頷かれた。
「ただ、兄上のお考えが変わらないことも、よく分かりました」
「……殿下」
「私は、兄上を尊敬しています。それは今も変わりません」
ハインリヒ殿下は、廊下の向こうへ視線を向けられた。
「ですが、私にも、譲れないものがあります」
私は、慎重に尋ねた。
「それは、王位のことでございましょうか」
殿下は、しばらく黙っておられた。
そして、私へ向き直られた。
「……宰相。あなたは、王国のために何が必要だと考えますか?」
突然の質問に、私は少し戸惑った。
「それは、国王陛下をお支えし、王国の安定を守ることでございます」
「ええ。私も、そう思います」
殿下は穏やかに微笑まれた。
「だからこそ、私も自分の立場でできることを考えなければなりません」
私は、その言葉を聞いて頷いた。
第二王子として、王国のために何ができるのか。
ハインリヒ殿下は、ようやくそのことを冷静に考え始められたのだろう。
そう受け取ったのである。
しかし、今になって思えば、私はあの時、殿下の言葉を自分に都合のよい形で理解していたのかもしれない。
殿下は、王弟として生きることを受け入れたとは、一言もおっしゃっていなかったのだから。
*
その日の夕刻、私は執務室で一人、書類を整理していた。
窓の外には、夕暮れの王都が広がっている。
王宮の庭園には、仕事を終えた使用人たちの姿が見えた。遠くからは、近衛兵団の訓練を終える号令が聞こえてくる。
いつもと変わらない、穏やかな夕刻だった。
私は、机の上に置かれた軍制改革の報告書へ目を落とした。
ハインリヒ殿下の改革は、着実に成果を上げている。
ヴィルヘルム殿下も、その成果を認め、必要な協力を惜しんでおられない。
二人が力を合わせれば、この王国はさらに発展していくだろう。
私は、そう信じていた。
しかし、同時に、先日の言い争いが頭から離れなかった。
『兄上は、望んでもいないくせに!』
ハインリヒ殿下の声が、今も耳に残っている。
あれほど激しい感情を露わにされた殿下が、わずか数日で以前の落ち着きを取り戻されたことに、私は安堵していた。
しかし、本当にそうだったのだろうか。
怒りを鎮めたことと、考えを改めたことは、同じではない。
私は、その違いについて、深く考えようとはしなかった。
むしろ、ハインリヒ殿下が再び兄君と協力する姿を見て、問題は解決へ向かっているのだと信じたかったのである。
王太子殿下は、王位を自ら望んでおられるわけではない。
しかし、王太子としての責務を放棄するつもりもない。
一方、第二王子殿下は、王位を強く望んでおられる。
そして、王弟として終わることを、決して受け入れようとはなさらない。
その二つの意思が、同じ王宮の中に存在している。
私は、ようやくその事実の重さを理解し始めていた。
かつてボーマンは、私にこう言ったことがある。
『正しいことをしていると信じる者同士が、互いを許せなくなることでございます』
あの老人は、二人の王子殿下の間に生じ始めたものを、すでに感じ取っていたのかもしれない。
私は、窓の外へ目を向けた。
王宮の塔の向こうに、夕日が沈もうとしていた。
その光景を眺めながら、私は改めて決意した。
二人の王子殿下が互いを理解し、協力して王国を支えていけるよう、宰相として力を尽くそう。
それが、私に与えられた務めなのだから。
しかし、あの日の私は、まだ知らなかった。
ハインリヒ殿下が再び穏やかな微笑みを浮かべるようになった時、あの方の胸の内では、すでに一つの可能性が形を取り始めていたのかもしれないということを。
兄君が王位を譲らないのであれば、兄君が王位を継げなくなる未来を考える。
それは、口にすることさえ許されない、恐ろしい考えだった。
だが、人は一度思いついてしまった可能性を、簡単に忘れ去ることができるのだろうか。
私は、今でも時折考える。
あの日、会議室の扉をもう少し早く開いていれば、何かが変わっていたのだろうか。
あるいは、ハインリヒ殿下が再び微笑まれた時、その理由をもっと深く尋ねていれば、違う未来があったのだろうか。
答えは、分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
あの頃の私は、王家の未来を守るために働いているつもりでいた。
そして、二人の王子殿下もまた、それぞれの信じる王国の未来のために歩んでおられた。
その道が、いつか取り返しのつかない場所へ行き着くことなど、私は考えたくもなかったのである。




