【閑章3話】王女殿下は冒険者
王女殿下が行方不明になられてから、三か月と少しが経過した。
その間、私は王国の宰相として数多くの問題を処理してきた。国境付近の領主同士による紛争、春先の長雨による農作物への被害、財務官僚たちが毎年のように繰り返す予算の取り合い。どれも国家の運営に欠かせない仕事であり、決して軽視できるものではない。特に今年は地方からの陳情が多く、王宮に届く書類の量も例年を上回っていた。
しかし、この三か月で私の頭痛の種となった問題を一つ挙げろと言われれば、迷わず王女殿下の失踪を選ぶだろう。
何しろ、当の本人がどこにいるのか分からないのである。
国内の街道には密かに捜索の手を伸ばし、近隣諸国にも身元を伏せたうえで情報収集を依頼していた。もっとも、王女の失踪を公表するわけにはいかないため、捜索の理由は曖昧にせざるを得ない。王宮から逃げ出した貴族の娘を探しているという説明を使うこともあったが、当然ながら、そのような少女は王女殿下以外にも存在する。
結果として、集まる報告のほとんどは空振りだった。
金髪の少女が街道を歩いていた、若い女性魔導士が宿に泊まった、貴族らしい娘が商隊に同行していた。そんな情報が届くたびに調査員を派遣し、そのたびに人違いだったという報告を受け取る。中には、すでに三十歳を超えている女性を王女殿下ではないかと報告してきた者までいた。年齢の確認くらい、現地で済ませてほしいものである。
おかげで私は、金髪の少女という言葉を見るだけで胃の辺りが重くなるようになっていた。
「宰相閣下。フロンティア大公国方面から、新たな報告が届いております」
執務室に入ってきた書記官が、封蝋の施された書簡を差し出した。私は手元の決裁書類から顔を上げ、差出人を確認する。国外の情報収集を担当している者からの報告だった。
「また目撃情報か?」
「はい。ただ、今回は少々事情が異なるようです。現地の協力者が、対象と思われる人物の身元をある程度確認できたとのことでございます」
「……ほう?」
私は書簡を受け取り、封蝋を切った。
フロンティア大公国。王女殿下が向かわれた可能性が高いと考えられていた国である。数か月前、国境方面へ向かう金髪の少女が目撃されて以来、特に重点的な調査を進めていた。もっとも、同国は広大な領土を持ち、首都ノヴァグラードだけでも相当な人口を抱えている。身元を隠して暮らす少女を探し出すのは、容易なことではなかった。
最初の数行を読んだところで、私は自然と背筋を伸ばした。
ノヴァグラードの冒険者ギルドに、リカと名乗る若い女性魔導士が登録されているという。年齢は十五歳前後。金髪で、魔法の扱いに非常に優れ、すでに複数の依頼を達成しているらしい。
リカという名前は、王女殿下が幼い頃から親しい者に呼ばせていた愛称である。もっとも、それだけで本人と断定することはできない。珍しい名前ではあるが、同名の女性が存在しないとは限らないし、金髪の若い魔導士という条件だけなら、これまでにも何人か候補が挙がっていた。
しかし、報告は続いていた。
その少女は複数の属性魔法を自在に扱い、一般的な魔導士とは異なる高度な術式構築能力を示しているという。現地の協力者が確認した容姿の特徴も、王女殿下のものと一致していた。さらに、魔法学院で学んだ者でなければ扱えないような複雑な術式を、ほとんど準備もなく使用していたとの証言まで添えられている。
私は書簡を机に置き、しばらく天井を見上げた。
間違いない。王女殿下だ。
あの方の魔法の才能は、王国でも広く知られていた。魔法学院における成績は歴代最高と評され、教師たちですら理解に苦しむ術式を独自に構築していたという。本人は研究の成果を試すことに夢中で、自分がどれほど異例の存在なのか、あまり自覚していなかったようだが。
「……見つかった」
「はい?」
「いや、何でもない。ご苦労だった。引き続き通常業務に戻ってくれ」
書記官を下がらせると、私は改めて書簡を手に取った。
ようやく見つかったのである。三か月以上も行方を追い続け、国内外の情報網を動員して探していた王女殿下が、ついに発見された。まだ本人との直接接触は避けているため、最終的な確認は必要だろう。それでも、これほど条件の一致する人物が偶然存在するとは考えにくい。
まずは無事であったことを喜ぶべきだろう。
そう思いながら報告書の続きを読むと、私は思わず眉間を押さえた。
王女殿下は現在、冒険者として活動しているらしい。
それも、名前を変えて身を隠しているだけではない。実際に冒険者ギルドへ登録し、依頼を受け、報酬を得て生活しているという。登録の際には身分を証明するための手続きも済ませており、現地では一人の新人冒険者として扱われているらしい。
「……冒険者?」
思わず声が漏れた。
確かに、王女殿下の魔法の腕前は並外れている。魔法学院における成績も歴代最高と評されており、魔物を相手にしても簡単に後れを取るような方ではないだろう。実戦経験が十分とは言えないものの、少なくとも魔法の出力と技術だけなら、並の魔導士では比較にならない。
だが、それとこれとは話が別である。
冒険者という職業は、魔物の討伐だけを行うものではない。危険な地域への探索、商隊の護衛、時には盗賊との戦闘まで請け負う。依頼によっては命を落とす者も珍しくなく、王宮で育った十五歳の少女が選ぶ職業としては、あまりにも危険が大きい。
しかも、王女殿下はマリアベル王国の第三王位継承者なのだ。万が一にも身柄を拘束されれば、外交問題どころでは済まない。王位継承権を持つ王族が国外で活動しているというだけでも、政治的には十分な問題である。
それなのに、本人はそのような事情など気にも留めず、冒険者として依頼をこなしているらしい。
私は報告書の最後の一文に目を落とした。
『対象者は現在の生活を継続する意思を示しており、帰国を希望する様子は認められない』
なるほど。王女殿下は、実にお元気なようだ。
私は深く息を吐き、国王陛下への報告を準備することにした。少なくとも、これ以上、当てのない捜索を続ける必要はなくなったのである。
もっとも、それで仕事が減るなどという期待は、最初からしていなかった。
◇
「リカルティールが見つかっただと!」
報告を受けたグスタフ陛下は、椅子から立ち上がった。
私は書簡の写しを差し出し、これまでに確認された情報を説明した。ノヴァグラードで暮らしていること、冒険者ギルドに登録していること、そして何より、無事に生活していること。現地から届いた情報はまだ限られているが、少なくとも生命に危険が迫っている様子はない。
陛下はしばらく黙って報告書を読み、やがて大きく息を吐いた。
「……そうか。生きていたか」
その声には、国王としての威厳よりも、娘を案じ続けていた父親の安堵が滲んでいた。
「はい。現時点では、健康状態にも問題はないものと思われます」
「よかった。本当に、よかった……」
陛下は椅子に腰を下ろし、目元を押さえた。
私はその姿を見ながら、王女殿下が失踪された直後のことを思い出していた。陛下は表向きこそ平静を装っておられたが、毎日のように捜索状況を確認し、わずかな情報にも一喜一憂されていた。時には深夜になってから私を呼び出し、新たな報告が届いていないか尋ねられたこともある。
王としての責任と、父親としての心配。その二つを抱えながら過ごした三か月は、陛下にとっても長い時間だったのだろう。
しかし、安堵の時間は長く続かなかった。
「……待て。冒険者だと?」
陛下が再び報告書に目を落とした。
「はい。ノヴァグラードの冒険者ギルドに正式登録されているとのことです」
「魔物と戦う、あの冒険者か?」
「他に冒険者という職業がございましたら、私もぜひ教えていただきたいところですが」
口にしてから、余計なことを言ったと気づいた。
幸い、陛下はそれどころではなかったらしい。
「馬鹿な! あの子はまだ十五だぞ! 魔物との戦闘だけではない。盗賊もいれば、悪意を持った人間もいる。そんなところへ王女を放っておけるか!」
「おっしゃるとおりです」
「すぐに迎えを出せ。近衛騎士を選抜して、身分を伏せたまま連れ戻すのだ」
私は一礼したものの、すぐには返事をしなかった。
近衛騎士を派遣すること自体は難しくない。しかし、王女殿下が素直に帰還に応じるかとなれば、話は別である。あの方は王宮の警備体制を熟知したうえで、誰にも気づかれずに脱走した実績をお持ちなのだ。
しかも、今回は国外である。
王国の騎士が他国の領内で王女を拘束し、本人の意思に反して連れ戻すとなれば、いくら身分を隠していたとしても問題になる可能性がある。万が一、現地の衛兵に発見されれば、事情を説明することすら難しい。
「陛下。恐れながら、王女殿下が帰還を拒否された場合はいかがいたしましょうか」
「説得すればよかろう」
「説得に応じられるのであれば、そもそも王宮から脱走されていないのではないかと」
「……宰相。お前は時々、実に嫌なところを突いてくるな」
「職務でございますので」
陛下は不機嫌そうに腕を組んだ。
私は余計な言葉を重ねないことにした。陛下も、強制的な帰還が容易ではないことは理解しておられる。ただ、娘が危険な職業に就いていると聞いて、冷静ではいられないのだろう。
そのとき、部屋の扉が静かに開かれた。
「ずいぶん賑やかですこと。何かございましたか?」
入ってこられたのは、エリザベート王妃殿下だった。
陛下は妻の姿を見るなり立ち上がり、報告書を手にしたまま歩み寄った。
「エリザベート、リカルティールが見つかった!」
「まあ……!」
王妃殿下は両手を胸元で合わせ、目を見開いた。
私は改めて状況を説明した。王妃殿下は何度も娘の無事を確認され、そのたびに安堵したように頷かれたが、冒険者として暮らしていることを伝えると、少し考え込むような表情になられた。
そして、意外な質問を口にされた。
「それで、あの子は楽しそうにしているのですか?」
「……楽しそう、でございますか?」
「ええ。冒険者として暮らしているのでしょう? 嫌々やっているわけではないのでしょうね」
私は報告書を確認した。
「少なくとも、自発的に活動していることは間違いないようです。依頼も継続して受注しており、生活に困窮している様子もないとのことです。ただ、本人の心情までは確認できておりません」
「そう……」
王妃殿下は小さく微笑まれた。
「でしたら、あの子はようやく、自分の居場所を見つけたのかもしれませんね」
「エリザベート!」
陛下が声を上げた。
「何を悠長なことを言っている! あの子は冒険者になったのだぞ。危険な仕事をしているのだ!」
「分かっています」
「ならば、すぐに連れ戻すべきだろう!」
王妃殿下はしばらく夫の顔を見つめ、それから静かに首を振られた。
「あなた。あの子が王宮で、どれほど窮屈な思いをしていたか、ご存じでしょう?」
「それは……」
「私たちは、あの子に王女としての責任を教えてきました。礼儀も、教養も、王族としての振る舞いも。でも、あの子が何を望んでいるのか、きちんと聞いてあげたことがあったでしょうか」
陛下は答えなかった。
私もまた、何も言えなかった。
リカルティール殿下は優秀な方だった。王族としての教育を受け、魔法学院では誰よりも優れた成績を残し、将来は王国の大きな力になると期待されていた。特に魔法に関する才能は突出しており、軍部からもその能力を高く評価する声が上がっていた。
しかし、その期待が本人にとってどれほど重いものだったのか、私は考えたことがあっただろうか。
王女殿下は、求められる役割を理解しておられた。公式行事では礼儀正しく振る舞い、必要な場面では王族としての責務を果たそうとされていた。それだけに、私たち大人は、あの方が王宮での生活を受け入れているものと思い込んでいたのかもしれない。
「私は、あの子が黙って出て行ったことを許しているわけではありません」
王妃殿下は続けられた。
「でも、無理に連れ戻して、また同じ生活をさせることが正しいとも思えないのです。あの子は、自分の人生を自分で選びたかったのでしょう」
「……だが、危険だ」
「ええ。だからこそ、どうすればあの子を守れるのか、考えましょう。帰ってくるよう命じることだけが、親にできることではないはずです」
陛下は深く息を吐いた。
私は二人のやり取りを見守りながら、今回の問題が単なる失踪事件ではないことを改めて理解した。
王女殿下を連れ戻すだけなら、手段はいくらでもある。近衛騎士を派遣することもできるし、フロンティア大公国に正式な協力を要請することもできる。王国の権威を使えば、一人の少女を帰還させること自体は不可能ではないだろう。
だが、それで問題が解決するとは限らない。
むしろ、王女殿下が王宮から逃げ出した理由を理解しないまま連れ戻せば、同じことを繰り返すだけかもしれなかった。
◇
翌日、王族による非公式の会議が開かれた。
出席者はグスタフ陛下、エリザベート王妃殿下、第一王位継承者ヴィルヘルム殿下、第二王位継承者ハインリヒ殿下、そして私である。
議題はもちろん、リカルティール殿下の今後についてだった。
会議の場所には、普段の政務会議で使われる大広間ではなく、王族の私的な話し合いに用いられる小会議室が選ばれた。王女殿下の所在について知る者を増やさないためでもあるが、陛下としても、まずは家族の間で意見をまとめたいという思いがあったのだろう。
「私は、リカルティールの意思を尊重すべきだと思います」
最初に口を開いたのは、ヴィルヘルム殿下だった。
「妹が無事だったことは何よりです。本人が帰還を望んでいないのであれば、無理に連れ戻す必要はないのではありませんか」
「しかし、あの子は王女だ」
陛下が反論する。
「承知しています。ですが、王女である前に、リカルティールも一人の人間です。あの子が自分で選んだ道なら、私はできる限り尊重してやりたいと思います」
ヴィルヘルム殿下らしいお考えだった。
第一王位継承者としての責任感は強いが、それ以上に、他者の意思を尊重することを大切にされる方である。王宮の使用人に対しても分け隔てなく接し、身分の低い者の意見にも耳を傾ける。その姿勢は臣下からの信頼を集めており、次代の国王として期待される理由の一つになっていた。
妹君に対しても、その考え方は変わらないらしい。
私は内心で感心していたが、隣に座るハインリヒ殿下は少し違う表情をしていた。
「兄上のお考えは理解します」
ハインリヒ殿下が口を開いた。
「ですが、それでは王家としての責任を果たせません」
「どういう意味だ?」
「リカルティールは第三王位継承者です。本人が望むと望まざるとにかかわらず、その立場には政治的な意味があります」
ハインリヒ殿下は落ち着いた口調で続けた。
「仮に、あの子の正体がフロンティア大公国に知られたらどうなりますか。あるいは、王国に敵対する勢力が身柄を確保した場合は? 王位継承者を交渉材料として利用される可能性もあります」
「それは分かっている。しかし……」
「さらに、王女の失踪が公になれば、王家の威信にも関わります。現在は療養中という説明で各国を納得させていますが、いつまでも通用するとは限りません」
私は思わず頷きかけた。
ハインリヒ殿下の指摘は、どれも正しい。
王女殿下の自由を尊重することと、王国の安全を守ることは、必ずしも両立しない。特に王位継承権を持つ者の所在は、国内の貴族たちにとっても重大な関心事である。万が一、継承順位を巡る争いが生じた場合、国外にいる王女殿下の存在が政治的な争点になる可能性も否定できない。
さらに厄介なのは、フロンティア大公国との関係だった。
同国が王女殿下の身柄を確保する意図を持っていなかったとしても、国内に他国の王位継承者が滞在していると判明すれば、何らかの外交的対応を求められるだろう。逆に、こちらが正式な保護を要請すれば、王女殿下の所在を公に認めることになる。
いずれにせよ、慎重な判断が必要だった。
「自由を望むことと、責任を放棄することは同じではありません」
ハインリヒ殿下は兄を見つめた。
「兄上は、リカルティールが自由であれば、それでよいとお考えですか?」
「そうは言っていない」
「でしたら、王家として何らかの対応は必要でしょう」
ヴィルヘルム殿下はしばらく考え、それから頷いた。
「確かに、お前の言うことにも一理ある。だが、強制的に連れ戻すことだけが対応ではないはずだ」
「ええ。私も必ずしも強制帰還にこだわっているわけではありません。ただ、現状を放置することには反対です」
私は二人のやり取りを聞きながら、改めてその違いを感じていた。
ヴィルヘルム殿下は、人の意思を尊重することを何より大切にされる。一方、ハインリヒ殿下は、国家の秩序と責任を優先する。どちらも王族として必要な資質であり、どちらか一方が間違っているわけではない。
むしろ、二人が互いの考えを補い合うことができれば、王国にとって大きな力になるだろう。
ヴィルヘルム殿下の寛容さは人々の信頼を集め、ハインリヒ殿下の現実的な判断力は国家の安定を支える。私は以前から、二人が協力して国政を担う未来を期待していた。
その考えは、このときも変わらなかった。
「宰相」
突然、ハインリヒ殿下がこちらを向いた。
「あなたはどう考える?」
来た。
私は内心で深く息を吐いた。
できれば、このまま静かに会議が終わることを願っていたのだが、どうやらそうはいかないらしい。しかも、王族全員の視線が私に集まっている。ここで不用意な発言をすれば、誰かの意見を支持したものと受け取られかねない。
「……私といたしましては、まず王女殿下の安全を確保することが最優先かと存じます」
「帰還させるべきかどうかを聞いているのだが」
「帰還の是非につきましては、殿下ご本人の意思と、王国の安全保障上の問題を総合的に判断する必要がございます」
ハインリヒ殿下は少しだけ口元を緩めた。
「実に宰相らしい回答だ」
「恐れ入ります」
褒められた気はしなかった。
もっとも、私自身も結論を出せずにいるのだから、曖昧な回答になってしまうのは仕方がない。王女殿下の安全を守ることは当然として、そのために自由を奪うべきなのか。それとも、一定の危険を承知で本人の意思を尊重すべきなのか。
どちらを選んでも、何らかの問題は残る。
その後も議論は続いたが、結局、明確な結論は出なかった。
陛下は娘を連れ戻したい。王妃殿下とヴィルヘルム殿下は自由を尊重したい。ハインリヒ殿下は王国の安全を確保したい。
そして私は、そのすべてを満たす方法を考えなければならない。
宰相という仕事は、実に素晴らしい。
誰もが正しいことを言い、その結果として私の仕事だけが増えていくのだから。
◇
「まったく、どうしたものか……」
会議を終えた陛下は、私を私室へ呼び戻すと、椅子に深く腰掛けられた。
「ヴィルヘルムの言うことも分かる。エリザベートの気持ちも理解できる。だが、ハインリヒの指摘も無視できん」
「はい」
「お前はどう思う、宰相」
「私も同じことで悩んでおります」
「……役に立たんな」
「申し訳ございません」
正直なところ、これ以上どう答えればよいのか分からなかった。
強制帰還は確実な方法ではない。王女殿下ほどの魔法の使い手を、本人の意思に反して連れ戻すとなれば、相応の戦力が必要になる。下手をすれば、フロンティア大公国の領内で王国の騎士が騒動を起こすことになりかねない。
かといって、そのまま放置するわけにもいかなかった。
王女殿下が冒険者として活動する以上、危険な依頼を受ける可能性は常に存在する。魔法の才能がどれほど優れていようと、不意を突かれれば命を落とすこともあるだろう。まして、本人の正体を知る者が現れれば、危険はさらに増す。
私は机上の地図に目を落とした。
マリアベル王国とフロンティア大公国は、国境を接しているとはいえ、政治体制も文化も異なる国家である。王国の騎士を派遣するにも、現地の協力者を確保するにも、慎重な準備が必要だった。
私が考え込んでいると、扉が静かに開いた。
「ほほほ。お二人とも、ずいぶん難しいお顔をなさっておりますな」
茶器を載せた盆を手に現れたのは、王宮執事長のボーマン・ローゼンフェルトだった。
かつて近衛騎士団長を務めた人物であり、現在は王宮の執事たちを束ねている。穏やかな物腰と柔和な笑顔からは想像しにくいが、若い頃は王国でも屈指の武人として知られていたという。
私が宰相に就任する以前から王宮に仕えており、陛下からの信頼も厚い。王族の私的な事情についても深く理解している人物である。
「ボーマン。お前ならどうする?」
陛下が尋ねた。
老執事長は茶を注ぎながら、少し考えるような仕草を見せた。
「そうでございますな。殿下が冒険者として暮らしておられるのでしたら、そのまま続けていただけばよろしいのでは?」
「お前までエリザベートと同じことを言うのか!」
「ほほほ。ですが、陛下は殿下の安全を案じておられるのでしょう?」
「当然だ」
「でしたら、安全だけを確保すればよろしいのです」
私は顔を上げた。
「……どういう意味でしょうか」
ボーマンは穏やかに微笑んだ。
「殿下のご意思を尊重しつつ、密かに見守る者を付けるのでございます。危険が迫った際には助け、普段は干渉しない。それならば、殿下の自由を損なうこともございません」
「護衛を付けるということか?」
「はい。ただし、王国の騎士では目立ちます。現地に溶け込み、情報収集にも長けた者が望ましいでしょう」
私は腕を組んだ。
「王国の密偵を国外で活動させることになります。発覚すれば外交問題になりかねません」
「それでしたら、王国に所属しない者を雇えばよろしいのでは?」
「……傭兵ですか?」
「少々異なりますな」
ボーマンは茶器を置き、私に向き直った。
「ダークエルフの諜報組織をご存じでしょうか」
私は思わず眉を上げた。
もちろん、存在は知っている。
特定の国家に所属せず、独自の情報網を持つダークエルフたちの組織である。情報収集や要人の警護を請け負うこともあると聞くが、その活動実態はほとんど知られていない。各国の情報機関が接触を試みたこともあるらしいが、彼らは国家間の争いに直接加担することを避け、独立した立場を保っているという。
もっとも、そのような組織であればこそ、今回の依頼には適しているのかもしれない。
王国の騎士や密偵を派遣すれば、発覚した際に国家の関与を疑われる。しかし、独立した組織との契約であれば、少なくとも表向きには王国の軍事行動と切り離すことができる。
もちろん、契約そのものが明るみに出れば、王家との関係を追及される危険は残る。それでも、直接人員を派遣するよりは政治的な負担が小さい。
「存在は承知しております。しかし、彼らと接触する手段がありません」
「ほほほ。それでしたら、私が紹介いたしましょう」
「……紹介?」
「ええ。昔の知り合いがおりましてな」
私はボーマンを見つめた。
王宮の執事長が、国家に属さない諜報組織との連絡手段を持っている。しかも、それをまるで近所の商店を紹介するような気軽さで口にしている。
元近衛騎士団長という経歴を考えれば、国外にも人脈があること自体は不思議ではない。しかし、諜報組織との接触手段まで持っているとなると、話は別である。
「ボーマン殿。差し支えなければ、どのようなお知り合いなのか伺っても?」
「ほほほ。昔のことでございますので」
答えになっていなかった。
しかし、陛下は特に驚いた様子もなく、茶を口にされている。どうやら、私だけが知らない事情があるらしい。
私はそれ以上追及するのをやめた。
この老執事長の過去については、知らない方がよいこともあるのだろう。
「……分かりました。では、契約条件を検討いたします」
「うむ。頼んだぞ、宰相」
陛下はようやく少し安心したような表情を見せられた。
私は一礼し、部屋を後にした。
また仕事が増えた。
もっとも、今回は少しばかり気分が違っていた。
王女殿下を連れ戻すためではなく、あの方が自由に暮らせるようにするための仕事なのだから。
◇
数日後、私は執務室で一通の契約書と向き合っていた。
ダークエルフの諜報組織との交渉は、ボーマン殿を通じて進められている。組織側も依頼そのものには関心を示しているらしく、条件が整えば契約は成立する見込みだった。
問題は、その条件である。
王女殿下の安全を確保すること。正体を秘匿すること。行動を制限しないこと。必要な場合を除いて接触しないこと。そして、生命に差し迫った危険がある場合には、最小限の介入を認めること。
文章にすれば簡単だが、実際の運用は難しい。
例えば、王女殿下が魔物の討伐依頼を受けた場合、それを危険と判断して止めるべきなのか。冒険者である以上、魔物と戦うことは日常の一部であり、そのたびに護衛が介入していては、本人の自由を尊重するという方針そのものが成り立たない。
一方で、明らかに手に負えない魔物と遭遇した場合や、悪意ある者に狙われた場合には、速やかな介入が必要になる。どの段階で危険と判断するかは、現地の担当者に相当な裁量を与えなければならないだろう。
さらに、報告の範囲についても問題があった。
王女殿下の行動を逐一記録させれば、安全の確認には役立つ。しかし、それでは事実上の監視になってしまう。王妃殿下やヴィルヘルム殿下が望んでいるのは、あくまで王女殿下の自由を守ることであり、王宮から生活を管理することではない。
私は何度か文章を書き直し、必要最小限の情報だけを定期的に報告させる方針をまとめた。
それでも、最後まで解決できない問題が一つ残った。
王女殿下が、見守られていることに気づいた場合である。
あの方なら、間違いなく怒るだろう。
そして、おそらく監視の目を振り切ろうとなさる。
その結果、今度は監視役を捜索するための人員が必要になるかもしれない。
「……何をやっているのだろうな、私は」
思わず呟いた。
王女殿下を捜すために三か月も働き、ようやく見つかったと思えば、今度は王女殿下に気づかれないよう見守るための契約書を作っている。しかも、その契約を成立させるためには、相応の費用を用意しなければならない。
国家の宰相として、これが正しい仕事なのかどうか、少々自信がなくなってきた。
そのとき、扉が叩かれた。
「宰相閣下。魔法騎士団のシュタイナー殿がお見えです」
「通してくれ」
ほどなくして、ユリアナ・シュタイナーが入室した。
以前と変わらぬ凛々しい騎士服姿だったが、胸元に付けられた階級章は、かつてのものとは異なっている。
リカルティール殿下の失踪に伴う監督責任を問われ、彼女は魔法騎士団副団長を解任されたうえ、一階級降格となっていた。
もっとも、本人はその処分に不満を述べることもなく、現在も任務に励んでいる。王宮警備に関する実務能力は依然として高く、上官からの評価も悪くないと聞いていた。
「宰相閣下。先日ご依頼のありました、王宮警備に関する報告書をお持ちしました」
「ありがとう。そこに置いてくれ」
ユリアナは書類を机に置き、私の顔を見た。
私は扉の向こうに人の気配がないことを確認してから、椅子の背にもたれた。
「……今日はもう、誰も来ないはずだ」
「そう」
彼女は小さく息を吐き、表情を和らげた。
「それで、アルフォンス。あの子は本当に見つかったの?」
「ああ。間違いないだろう。ノヴァグラードで冒険者をしているらしい」
「冒険者?」
ユリアナは目を丸くした。
そして、少しの間を置いて笑い始めた。
「ふふっ……本当に、あの子らしいわね」
「笑い事ではないんだが」
「だって、あの子ならやりかねないでしょう?」
「それは否定できない」
私は苦笑した。
ユリアナは王女殿下が幼い頃から、王家の護衛任務などを通じて親しく接してきた。魔法の技術についても助言を与え、王女という立場に遠慮せず、率直に意見を述べていた数少ない人物の一人である。
だからこそ、彼女には分かるのだろう。
王女殿下が冒険者として生きる道を選んだことも、その生活を楽しんでいるらしいことも。
「でも、よかったじゃない」
ユリアナは私を見つめた。
「生きていたんだから」
「……そうだな」
私は静かに頷いた。
どれほど問題が山積みであろうと、それだけは間違いない。
王女殿下は無事だった。
それ以上に喜ばしいことはないだろう。
「ところで、ユリアナ。君の方はどうなんだ?」
「何が?」
「騎士団での仕事だ。無理はしていないか」
彼女は少しだけ肩をすくめた。
「大丈夫よ。以前より時間はあるくらいだもの」
「……それは副団長を解任されたからだろう」
「そうね。でも、いつまでもこのままでいるつもりはないわ」
ユリアナはまっすぐに私を見た。
「必ず副団長に戻ってみせる。そのためにも、今は与えられた仕事をきちんとこなすだけよ」
私は彼女の表情を見て、少し安心した。
彼女は決して、今回の処分を王女殿下のせいにしていない。自分の責任として受け止め、そのうえで前へ進もうとしている。
昔から、そういう人間だった。
十代の頃から知っている彼女は、どれほど困難な状況でも、自分の責任から逃げようとはしなかった。公爵家の当主として育てられた私とは異なり、騎士爵家の娘である彼女は、自らの実力で地位を築いてきた。その努力を間近で見てきたからこそ、私は彼女を尊敬している。
そして、その気持ちは今も変わらない。
「……君には敵わないな」
「何よ、急に」
「いや。少し見習うべきかと思ってね」
「だったら、まずはその机の書類を減らしたら?」
私は机の上を見た。
王女殿下の護衛契約書。各国への外交回答案。財務省から届いた予算要求書。地方領主からの陳情書。
どれも、私が処理しなければならない書類だった。
「……減らしている最中なんだが」
「増えているように見えるけど?」
「君の気のせいだ」
ユリアナは楽しそうに笑った。
私はその笑顔を見ながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
彼女と二人きりで話す時間は、以前よりも少なくなっている。私が宰相に就任してからというもの、政務に追われる日々が続き、以前のように気軽に会うことも難しくなっていた。
公爵家の当主と騎士爵家の娘。互いに若い頃から想いを寄せ合っていても、その立場が簡単に変わるわけではない。婚約すらしていない私たちの関係は、王宮の誰にも知られてはならないものだった。
もっとも、ボーマン殿だけは何かを察しているような気がする。
あの老執事長の前では、こちらがどれほど慎重に振る舞っていても、すべて見透かされているような気分になるのだ。
それでも、こうして変わらずに接してくれることが、今の私にはありがたかった。
「……無理はしないでね、アルフォンス」
「ああ。君もな」
ユリアナは頷き、再び騎士としての表情に戻ると、執務室を後にした。
私はしばらく扉を見つめ、それから契約書へ視線を戻した。
王女殿下が無事だった。
それだけで、今日の仕事には少し意味があるように思えた。
◇
それから数週間が経過した。
ダークエルフの諜報組織との契約は無事に成立し、ノヴァグラードにおける監視体制も整った。
契約の詳細を知る者は、王族を除けばごく限られている。報告書も通常の外交文書とは別の経路で届けられ、私自身が直接確認することになっていた。
契約内容については、最後までいくつかの調整が必要だった。特に、王女殿下の行動にどこまで干渉するかという問題については、組織側からも慎重な意見が示された。彼らとしても、依頼対象者の意思を無視して行動を制限することは、今回の契約の趣旨に反すると考えているらしい。
最終的には、生命に差し迫った危険がある場合を除き、原則として介入しないという条件で合意した。
私はこの方針を陛下に報告し、正式な承認を得た。陛下は最後まで不安そうな表情をされていたが、王妃殿下とヴィルヘルム殿下の意見も踏まえ、最終的には納得されたようだった。
ハインリヒ殿下も、王女殿下の安全が確保されるのであれば、当面はこの方法でよいと判断された。ただし、王女殿下の正体が外部に知られた場合には、直ちに対応を見直すべきだという条件を付けられた。
私としても、その点に異論はなかった。
こうして、王女殿下の自由を尊重しながら安全を確保するという、何とも難しい任務が始まったのである。
そして今日、最初の正式報告が届いた。
私は封を切り、書面を読み始めた。
王女殿下は相変わらず冒険者として活動しているらしい。朝には冒険者ギルドへ向かい、依頼を確認し、必要に応じて街の外へ出る。帰還後は報酬を受け取り、買い物を済ませて宿へ戻る。
時には他の冒険者と会話を交わし、街の商人とも顔見知りになりつつあるという。報告書には、日用品を自分で購入していることや、食事を取る店を自分で選んでいることまで記されていた。
私はその記述を読みながら、思わず苦笑した。
王宮にいた頃の王女殿下は、身の回りのことを自分で行う機会がほとんどなかった。衣服の用意も食事の準備も、すべて侍女や使用人が整えていたのである。
それが今では、自分で買い物をし、食事を選び、仕事の報酬で生活しているという。
王女殿下がそのような暮らしをしている姿は、正直なところ、私にはなかなか想像できなかった。
しかし、報告書に記された生活は、確かに王宮で過ごしていた頃とはまるで違っていた。
決められた時間に起床し、教師から王族としての教育を受け、公式行事に出席する。護衛に囲まれ、自由に街へ出ることもできない。食事の時間も、着る服も、会う相手も、王族としての立場に従って決められる。
それが、王女殿下にとっての日常だった。
今は違う。
自分で仕事を選び、自分で報酬を得て、自分の意思で一日を過ごしている。危険もあれば苦労もあるだろうが、そのすべてを自分自身の判断で引き受けているのだ。
私は報告書を読みながら、以前の王女殿下の姿を思い出していた。
魔法の研究について話すとき、あの方の目はいつも輝いていた。王族としての礼儀作法を学ぶときとは、明らかに違う表情だった。新しい術式を思いつけば、周囲の者に説明したくて仕方がないといった様子で、時には教師たちを困らせることもあったという。
そして、時折、王宮の窓から外を眺めておられたことも思い出す。
あのとき、王女殿下は何を考えておられたのだろう。
王宮の外に広がる世界を見て、いつか自分も自由に歩いてみたいと願っていたのかもしれない。
私たちは、あの方が優秀な王女であることを誇りに思っていた。しかし、その優秀さが本人にとって重荷になっていることには、十分に気づいていなかったのだろう。
私は報告書の最後の一文に目を落とした。
『対象者は現在の生活に満足している様子であり、帰国を希望する兆候は認められない』
その文章を、しばらく眺めていた。
王女殿下は、王族としての責任から逃げたのだろうか。それとも、ようやく自分自身の人生を手に入れたのだろうか。
私には分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
王女殿下は今、王宮にいた頃よりも自由に生きている。
そして、その自由を守るために、私たちは少なからぬ労力と費用を費やしている。
何とも奇妙な話だった。
王族としての義務から解放された王女殿下を守るために、王国の宰相が契約書を作り、国王が承認し、国外の諜報組織が動いている。本人がその事実を知れば、きっと余計なお世話だと怒るだろう。
それでも、私は今回の判断が間違っていたとは思わなかった。
王女殿下が自分の意思で選んだ道を歩むことができるのであれば、少なくとも今は、それを支えることにも意味があるはずだ。
私は報告書を閉じ、椅子の背にもたれた。
そのとき、執務室の扉が叩かれた。
「宰相閣下。少々よろしいでしょうか」
「入ってくれ」
書記官が、分厚い書類の束を抱えて入ってきた。
「王女殿下のご療養期間延長に伴う、各国への回答案でございます。特にザクセンブルグ公爵家からは、改めてお見舞いの使節を派遣したいとの申し出がありまして……」
私は目を閉じた。
そうだった。
王女殿下が無事に見つかったからといって、対外的な問題が解決したわけではない。
各国に対しては、今も療養中という説明を続けている。しかも、長期間にわたって姿を見せないため、病状についての問い合わせが増え始めていた。
特にザクセンブルグ公爵家は、以前にも見舞いの使節を派遣してきた経緯がある。こちらとしては丁重に対応したつもりだったが、どうやら先方は王女殿下の容体を相当に心配しているらしい。
もちろん、その厚意を無下にするわけにはいかない。
だが、実際には王女殿下は病床に伏しているどころか、遠く離れたノヴァグラードで元気に魔物と戦っておられるのである。
「……回答案をそこに置いてくれ」
「かしこまりました。それから、王女殿下のご容体について、もう少し具体的な説明が必要かと存じます」
「具体的な説明?」
「はい。ご療養の経過や、今後のご公務復帰の見通しなどです。先方からは、長期にわたる療養を案じる声も届いておりますので」
私は机の上に置かれた書類を見た。
王女殿下は現在、ノヴァグラードで元気に冒険者をしておられる。魔物と戦い、依頼をこなし、報酬を受け取って生活している。健康状態に問題はなく、むしろ王宮にいた頃より活動的な毎日を送っている可能性すらある。
それを各国に説明できれば、どれほど楽だろう。
しかし、王女殿下が国外へ脱走した事実を明かせば、王家の威信は大きく傷つく。第三王位継承者が自らの意思で王宮を離れたという事実は、国内外にさまざまな憶測を呼ぶだろう。
まして、王女殿下の居場所が知られれば、せっかく確保した自由と安全が脅かされる可能性もある。
結局、今のところは療養中という説明を続けるしかないのだ。
「……分かった。私の方で検討しよう」
「よろしくお願いいたします、宰相閣下」
書記官が退出すると、私は新たに積み上がった書類を眺めた。
王女殿下は自由を手に入れられた。
王宮を離れ、誰にも命じられることなく、自分の意思で日々を過ごしておられる。危険な仕事ではあるが、それも本人が望んで選んだ道なのだろう。
それは、きっと喜ばしいことなのだ。
少なくとも、私はそう思いたかった。
ただし、その自由を支えるために、私がどれほど苦労しているかについては、いつか一度くらい知っていただきたいものである。
私はため息をつき、羽根ペンを手に取った。
王女殿下が冒険者として自由を謳歌されている頃、私は今日も、存在しない療養生活の詳細を考える仕事に追われていた。




