【閑章2話】王女殿下はご療養中
リカルティール王女殿下が王宮から姿を消されて、三日が経過した。
そして私は、宰相という仕事について、一つの重要な事実を学びつつあった。
国家の問題というものは、一つずつ順番に片づいてくれるわけではない。
むしろ、一つの問題を解決しようとすれば、その周囲から新しい問題が生まれてくる。しかも、それらは大抵の場合、こちらの都合など一切考慮してくれない。
「宰相閣下。こちらが今朝までの捜索報告でございます」
「ありがとう。そこへ置いてくれ」
部下から差し出された書類を受け取り、私は早速目を通した。
王宮周辺の街道、主要な宿場町、各地の関所。すでに相当な範囲へ捜索の手が伸びていたが、有力な情報は得られていない。
目撃情報そのものは、いくつも届いていた。
年頃の少女が一人で旅をしていた。魔法を使う若い女性を見かけた。珍しい書物を買い求めていた少女がいた。
しかし、調べてみれば人違いばかりである。
そもそも王女殿下は、身体強化と隠蔽魔法を使いこなす天才魔導士だ。王宮の警備を突破しただけでなく、魔力の痕跡まで巧みに隠しているため、魔法騎士団による追跡も難航していた。
捜索に当たっている者たちが無能なのではない。
追われる側が、あまりにも優秀なのだ。
実に困ったことである。
「引き続き、街道沿いの宿場町を中心に調査を進めてくれ。ただし、王女殿下の名は絶対に出すな。情報の取り扱いには十分注意するように」
「承知いたしました」
部下が退室すると、私は別の書類を手に取った。
翌週に予定されている王宮晩餐会の出席者一覧である。
そこには当然のように、リカルティール王女殿下の名があった。
私は小さく息を吐いた。
王女殿下がどこにおられるのか分からない以上、晩餐会へ出席していただくことはできない。しかし、王族の一人が突然姿を見せなくなれば、国内外の貴族たちは必ず理由を求めるだろう。
だからこそ、私は一つの説明を用意していた。
実に穏当で、余計な憶測を招きにくい説明である。
「……よし」
私は用意していた通達文へ署名した。
『リカルティール王女殿下は、現在ご療養中につき、当面の公式行事へのご出席を控えられます』
病名は明かさない。
王族の健康状態は、時として政治的な意味を持つ。詳細を公表しないこと自体は、さほど不自然ではないはずだ。
これで、しばらくは時間を稼げる。
そう考えていた。
少なくとも、この時点では。
*
「宰相閣下。王宮医師団から、王女殿下の診察について問い合わせが届いております」
通達を出してから、まだ半日も経っていなかった。
私は報告に来た部下を見つめた。
「……診察?」
「はい。王女殿下がご療養中と伺い、医師団長が直接診察したいと申し出ております」
なるほど。
実にもっともな話だ。
王女殿下が病気で療養されていると聞けば、王宮の医師たちが心配するのは当然だろう。
問題は、診察を受けるべき本人が、王宮にいないことである。
「医師団には、すでに適切な対応が取られていると伝えてくれ。今は静養を優先しているため、面会は控えていただきたいと」
「しかし、医師団長は、まだ自分たちが診察していないことを気にしておりまして……」
「気持ちはありがたいが、王女殿下には静かな環境が必要なのだ」
「承知いたしました」
部下は一礼し、部屋を出ていった。
私は安堵した。
王女殿下がご療養中という説明には、こうした問題もあるのだな。今後は、もう少し慎重に対応する必要がありそうだ。
そう思っていると、ほどなくして別の部下がやって来た。
「宰相閣下。宮廷貴族の方々から、王女殿下へのお見舞いの申し出が届いております」
「……見舞い?」
「はい。王女殿下のご病状を心配され、直接お目にかかりたいとのことでございます」
私は、しばらく黙った。
こちらも、実にもっともな話である。
「丁重にお断りしてくれ。現在は静養を優先しているため、面会は控えていただきたいと」
「承知いたしました」
部下が退室する。
私は机の上の書類へ目を落とした。
その時、扉が再び叩かれた。
「宰相閣下。王妃殿下のご実家から、お見舞いの品が届いております」
「…………」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうか」
「それから、王女殿下の回復を祈るため、宮廷礼拝堂で祈祷を行いたいという申し出も……」
私は目を閉じた。
王女殿下。
どうやら、あなたは大変多くの方々から愛されているようです。
それ自体は、実に喜ばしいことだと思います。
ですが。
できれば、その愛情は、もう少し別の形で示していただきたかった。
部下が退出した後、私は机の端に置かれた別の書類へ目を向けた。
王宮警備体制に関する調査報告書である。
その表紙には、関係者の名前がいくつか記されていた。
その中に、ユリアナ・シュタイナーの名がある。
私は、無意識に指を止めた。
彼女が監督責任を問われる可能性は、最初から分かっていた。王族護衛に関わる魔法騎士団の副団長である以上、王女殿下の失踪という事態を、無関係で済ませることはできない。
しかし、彼女がどれほど優秀な騎士であるか、私は誰よりもよく知っている。
そして、彼女がどれほど真剣に職務へ向き合ってきたかも。
私は報告書を開こうとした。
その時、また扉が叩かれた。
「宰相閣下! 地方貴族の方々から、王女殿下へのお見舞いについて問い合わせが……!」
私は、そっと報告書を閉じた。
……王女殿下。
どうやら、あなたのご病状について、私が説明しなければならない相手は、まだまだ大勢いるようです。
*
翌日、私は国王陛下のもとへ捜索状況の報告に向かった。
グスタフ陛下は、私の顔を見るなり口を開かれた。
「宰相! リカルティールは見つかったか!」
「申し訳ございません。現在も捜索を続けておりますが、有力な情報は得られておりません」
「三日も経って、何一つ分からんのか!」
陛下は苛立ちを隠そうともされなかった。
娘が行方不明なのだから、当然の反応だろう。私も、王女殿下の身に何かあったのではないかという不安を感じている。
ただ、捜索が難航している理由については、何度かご説明したはずなのだが。
「恐れながら、殿下は隠蔽魔法に非常に長けておられます。魔力の痕跡もほとんど残されておらず、通常の追跡方法では限界がございます」
「ならば、もっと人を出せばよかろう!」
「すでに相当数の人員を投入しております。しかし、これ以上規模を拡大すれば、王女殿下の失踪が外部へ知られる危険がございます」
陛下は腕を組み、しばらく考え込まれた。
そして、何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ。冒険者を使えばよいではないか!」
「……冒険者、でございますか?」
「うむ。王国中の冒険者に捜索を依頼するのだ。あやつらは街道も山道もよく知っておる。王宮の騎士より、こういう仕事には向いておろう!」
私は、慎重に言葉を選んだ。
「陛下。確かに冒険者は、広範囲の捜索に適した人材でございます。しかし、今回の件は王位継承権を持つ王女殿下の失踪です。報酬を提示して無差別に捜索を依頼すれば、情報が広まり、殿下を狙う者が現れる可能性もございます」
「……むう」
「さらに、偽の目撃情報が大量に寄せられることも考えられます。そうなれば、かえって捜索が混乱するでしょう」
陛下は不満そうだったが、私の説明には納得してくださったようだった。
私は、ようやく安堵した。
ところが、陛下は再び顔を上げた。
「……ならば、魔法書はどうだ?」
「……はい?」
「リカルティールは、珍しい魔法書に目がなかろう。街道沿いの書店に、あの子が好みそうな魔法書を置かせるのだ!」
私は、言葉を失った。
「……陛下」
「うむ!」
「それは、いかがなものかと」
「何故だ! あの子は珍しい魔法書を見つければ、必ず興味を示すぞ!」
私は、しばらく考えた。
確かに、リカルティール殿下が魔法書を好まれることは有名だ。魔法学院を歴代首席で卒業されたほどの方なのだから、珍しい書物に興味を示す可能性は高いだろう。
しかし。
それを利用して誘い出そうという発想は、いかがなものか。
「……陛下。王女殿下を、野生動物か何かとお考えでしょうか」
口にした瞬間、私は失言を悟った。
しまった。
私は、何を言っているのだ。
「何だと!?」
陛下の眉が跳ね上がる。
「い、いえ! 決してそのような意味では……!」
「ならば、どういう意味だ!」
私は必死に言葉を探した。
王女殿下を餌でおびき寄せるような方法は、本人の意思を無視している。それを伝えたかっただけなのだが、どう説明しても先ほどの発言を取り消せる気がしない。
その時だった。
「陛下」
静かな声が響いた。
エリザベート王妃殿下だった。
「宰相の言うことにも、一理ございます」
「……エリザベート?」
「リカルティールは、珍しい魔法書があれば喜ぶでしょう。でも、あの子が本当に王宮へ戻りたくないと思っているのであれば、見つけてもまた逃げてしまうのではありませんか?」
陛下は、何も言われなかった。
王妃殿下は、少し寂しそうに微笑まれた。
「あの子は、昔から自分で決めたことを曲げない子でした。私たちが何を言っても、納得できなければ従いませんでしたもの」
「……だからといって、放っておくわけにはいかん」
「ええ。もちろんです。私も、あの子が無事でいるのか、心配でたまりません」
王妃殿下は、そっと陛下の手に触れられた。
「でも、もし無事に見つかったとしても、私たちはあの子と、きちんと話をしなければならないのでしょうね」
私は、静かに頭を下げた。
王妃殿下のおっしゃることは、もっともだった。
王女殿下がなぜ王宮を出たのか。その理由を理解しないまま連れ戻したところで、根本的な解決にはならない。
もっとも、今はまず無事を確認することが先決である。
私は改めて捜索の継続を約束し、陛下の私室を辞した。
廊下へ出たところで、ようやく息を吐いた。
……危なかった。
宰相就任十五日目にして、不敬罪で処罰されるところだった。
*
王女殿下のご療養が公表されてから、一週間ほどが経過した。
私は、その間に数え切れないほどの見舞いの申し出を断っていた。
宮廷貴族、地方の有力者、王家と縁のある商人たち。王女殿下の回復を願う言葉が、毎日のように届けられる。
それ自体はありがたいことだ。
問題は、王女殿下がご病気ではないことである。
いや、正確には、ご病気であるかどうかすら確認できていない。
何しろ、本人がどこにおられるのか分からないのだから。
そんなある日、ザクセンブルグ王国から、王女殿下への見舞いを申し出る書簡が届いた。
ザクセンブルグは、ゲルマニア諸王国連合に属する有力な王国であり、マリアベル王国とも長年にわたり外交関係を築いている。
その使節団が、王女殿下のご療養を聞き、わざわざ見舞いの品を用意してくださったという。
私は、書簡を読みながら小さく息を吐いた。
断るわけにはいかない。
しかし、面会させるわけにもいかない。
私は外交用の礼服に着替え、使節団を迎えた。
「このたびは、リカルティール王女殿下のご病状を伺い、心よりお見舞い申し上げます」
「温かいお言葉、痛み入ります」
私は丁重に頭を下げた。
「王女殿下は現在、静かな環境で療養されております。皆様のお心遣いは、必ずお伝えいたします」
「それは何よりでございます。ところで、殿下のご病状はいかがでしょうか?」
私は、穏やかに微笑んだ。
「現在は安静を第一としております。詳細につきましては、王家のご意向により公表を控えさせていただいております」
「なるほど。では、我が公爵家の医師を派遣いたしましょうか?」
……何?
「お気遣いには深く感謝いたします。しかし、すでに王宮の医師団が対応しておりますので」
「そうでございましたか。実は、我がザクセンブルグには、珍しい薬草が数多くございましてな。王女殿下のご回復に役立つかもしれません」
「それは、ありがたいお申し出でございます」
「必要であれば、すぐにでも手配いたしますぞ」
「……お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」
私は、笑顔を崩さなかった。
相手は、純粋な善意で申し出てくださっている。
それは分かる。
よく分かるのだが。
王女殿下は、病気ではないのである。
薬草を送られても、使い道がない。
「何よりも大切なのは、王女殿下に静かな環境をお与えすることでございます。ご面会や新たな治療については、王家の医師団と相談のうえ、慎重に判断しております」
「なるほど。確かに、静養は重要でございますな」
使節は、深く頷いた。
私は、ようやく胸を撫で下ろした。
これで納得していただけただろう。
ところが、使節はさらに言葉を続けた。
「では、我が公爵家でも王女殿下のご回復を祈る祈祷会を開くことにいたしましょう!」
「…………」
私は、微笑んだまま固まった。
「王女殿下のご快復を、我が公爵家の者一同、心より願っております!」
「……それは、誠にありがたいことでございます」
私は、深々と頭を下げた。
使節団は、満足そうに帰っていった。
私は、その背中を見送った。
そして、心の中で呟いた。
……話が、どんどん大きくなっていないだろうか。
*
数日後。
私の懸念は、現実のものとなりつつあった。
王宮内で、リカルティール王女殿下の病状について、様々な噂が広がり始めていたのである。
病名が明かされない。
医師団ですら面会できない。
公式行事への欠席が続いている。
これらの情報が組み合わされ、王女殿下が重い病を患っているのではないかという憶測が生まれていた。
さらに、魔法研究中の事故によって重傷を負われたという噂まで流れ始めているらしい。
私は、頭を抱えた。
……どうして、そうなる。
確かに、病名を公表していないことは事実だ。しかし、それは王族の健康状態に関する情報を慎重に扱っているだけであり、重病を意味するものではない。
もっとも、事情を知らない者たちからすれば、そう考えるのも無理はないのかもしれない。
私は、ボーマン殿を執務室へ呼んだ。
「……ボーマン殿。少々相談がある」
「ほほほ。何でございましょう」
「王女殿下のご療養について、宮廷内で妙な噂が広まっている。どうやら、病状が深刻なのではないかと考える者が増えているようだ」
「ほほほ。皆様、殿下を心配しておられるのでしょうな」
「それは分かる。しかし、このままでは王女殿下が重病だという話が、国外へまで広まってしまう」
ボーマン殿は、少し考えた。
「では、殿下のご容体は安定していると、お伝えしてはいかがでしょう」
「容体が安定している?」
「はい。少なくとも、危篤の状態ではないと説明すれば、皆様も少しは安心されるでしょう」
私は、しばらく考えた。
確かに、それなら病名を明かさずに済む。
しかも、王女殿下が重病であるという噂を否定できる。
……いや、待て。
そもそも、王女殿下は病気ではない。
つまり、容体が安定しているという説明も、厳密にはおかしな話ではないか。
私は、少しだけ考え込んだ。
しかし、今さらご療養中という説明を撤回するわけにもいかない。
それに、王女殿下が無事でおられるなら、少なくとも病気で危篤というわけではないだろう。
……うむ。
問題ない。
たぶん。
「……分かった。その方針で進めよう」
「かしこまりました」
ボーマン殿は、穏やかに微笑んだ。
「ほほほ。宰相閣下も、ずいぶんと王宮の仕事に慣れてこられましたな」
私は、その言葉を聞いて複雑な気分になった。
……これは、慣れてよい種類の仕事なのだろうか。
*
王女殿下の脱走から十日ほどが経過した頃、ヴィルヘルム殿下が私の執務室を訪ねてこられた。
「宰相。少し時間をもらえるだろうか」
「もちろんでございます、殿下」
私は立ち上がり、王太子殿下を迎えた。
ヴィルヘルム殿下は、いつものように落ち着いた表情をしておられたが、どこか疲れた様子でもあった。
妹君の行方が分からないのだから、無理もない。
「王女殿下について、何か新しい情報でも?」
「いや、残念ながら」
殿下は首を横に振られた。
「今日は、政務の話をしに来た。リカルティールのことは心配だが、だからといって王国の仕事を止めるわけにはいかないからね」
私は、深く頷いた。
「おっしゃるとおりでございます」
ヴィルヘルム殿下は、私が用意していた財政改革の資料へ目を通された。
地方ごとに異なる報告書式を統一する案について説明すると、殿下は熱心に耳を傾け、いくつかの質問を投げかけてこられた。
単に賛成するのではなく、実際に制度を運用する地方官吏たちの負担まで考えておられる。
私は、改めて殿下の優秀さを感じた。
この方が次代の国王となられるのであれば、王国の未来は明るい。
そう確信できることが、今の私にとって何よりの救いだった。
ひととおりの議論を終えたところで、殿下が静かに口を開かれた。
「……宰相」
「はい」
「リカルティールのことだが」
私は、姿勢を正した。
「何か、お考えが?」
「いや……ただ、少し考えていたんだ」
殿下は、窓の外へ目を向けられた。
「あの子は、昔から魔法が好きだった。誰かに命じられたからではなく、自分が知りたいと思ったことを、どこまでも追いかける子だったよ」
「……はい」
「魔法学院で歴代首席の成績を収めた時も、本人は成績そのものには、あまり興味がなかったように思う。新しい術式を理解できたことの方が、よほど嬉しかったんだろうね」
私は、王女殿下の部屋を思い出した。
大量の書物と研究資料。
王女らしい装飾よりも、魔法研究のための道具が目立つ部屋だった。
「……あの子の才能は、あまりにも優れていた」
ヴィルヘルム殿下は、静かに続けられた。
「だから、私たちはその才能を、王国のために役立てるべきだと考えた。軍事にも、国防にも、外交にも。あの子が王族である以上、それが当然だと思っていたんだ」
私は、何も言えなかった。
王族に生まれた者には、王族としての責務がある。
それは、私自身も当然のことだと考えている。
しかし、リカルティール殿下は、まだ十五歳だった。
その年齢で、王国のために自分の才能を捧げることを求められたとすれば、どのように感じただろうか。
「……私たちは、あの子のためだと思って、あの子の望まないものを与えようとしていたのかもしれない」
殿下の言葉には、深い後悔が滲んでいた。
私は、慎重に答えた。
「殿下。王族としての責務を果たすことは、決して間違いではございません。しかし、それをどのような形で果たすかについては、本人の意思も尊重されるべきなのでしょう」
「……そうだね」
ヴィルヘルム殿下は、少しだけ微笑まれた。
「リカルティールが戻ってきたら、今度はちゃんと話を聞いてやりたいと思う」
私は、深く頷いた。
その時、執務室の扉が叩かれた。
「兄上。こちらにいらしたのですか」
入ってこられたのは、ハインリヒ殿下だった。
ヴィルヘルム殿下は顔を上げられた。
「ハインリヒ。どうした?」
「父上が、また捜索の進捗を気にしておられましてね。兄上が何かご存じではないかと思いまして」
私は、思わず苦笑しそうになった。
陛下は、朝にも捜索状況を確認されたばかりである。どうやら、夕方まで待つことすら難しいらしい。
「残念ながら、新しい情報はまだ届いておりません」
私が答えると、ハインリヒ殿下は肩をすくめられた。
「そうですか。まあ、リカルティールのことですから、案外どこかで楽しくやっているかもしれませんよ」
「ハインリヒ」
ヴィルヘルム殿下が、少し呆れたように弟を見た。
「お前は、もう少し心配したらどうなんだ」
「心配していないわけではありませんよ。ただ、あいつが自分で出ていったのなら、無理に連れ戻しても意味がないでしょう」
ハインリヒ殿下は、私へ目を向けた。
「宰相も、そう思いませんか?」
私は、慎重に答えた。
「王女殿下の安全を確認することが、何よりも優先されるべきかと存じます」
「それはもちろんです」
ハインリヒ殿下は、あっさりと頷かれた。
「ですが、王族に生まれた以上、自由だけを求めることはできません。あいつも、いずれはその現実を理解する必要があるでしょう」
その言葉には、冷静な現実認識があった。
ヴィルヘルム殿下が、王族の責務と個人の意思の間で悩んでおられるのに対し、ハインリヒ殿下は、責務を果たすことを当然の前提として考えておられる。
どちらの考えにも、一理ある。
私は、二人の王子を見比べた。
ヴィルヘルム殿下は、誠実で思慮深い。
ハインリヒ殿下は、現実的で判断が早い。
性格は異なるが、互いの長所を認め合い、協力して王国を支えてくだされば、これほど心強いことはないだろう。
私は、心からそう思っていた。
この時は、まだ。
*
リカルティール王女殿下の脱走から、二週間が経過した。
王宮警備体制の調査がまとまり、関係者への処分が検討されることになった。
私は、執務室で一冊の報告書を開いていた。
王宮の警備配置、当夜の巡回記録、魔法による侵入防止措置の運用状況。そして、関係者から聴取した証言の数々。
調査は慎重に行われていた。
少なくとも、誰か一人に責任を押しつけるためのものではない。その点については、私自身が繰り返し指示していた。
しかし、報告書を読み進めるうちに、ある名前へ何度も目が留まった。
ユリアナ・シュタイナー。
魔法騎士団副団長。
王族護衛に関わる立場にあり、リカルティール殿下とも親しく接していた女性である。
そして。
私が、誰よりも大切に思っている女性でもあった。
私は、報告書から目を離した。
彼女と初めて出会ったのは、まだ私たちが十代の頃だった。
当時の私は、ヴァルテンベルク公爵家の跡取りとして、王宮で政治や行政について学んでいた。将来は父の跡を継ぎ、王国の政務に携わることを期待されていたのである。
一方、ユリアナは騎士爵家の娘だった。
決して裕福な家ではなかったと聞いている。だが、彼女は幼い頃から魔法の才能に恵まれており、自らの実力で魔法騎士になることを目指していた。
私たちが出会ったのは、王宮で行われた若い貴族や騎士候補生たちの合同研修だった。
あの頃の私は、今よりもずっと生意気だったと思う。
公爵家の跡取りとして、幼い頃から特別な教育を受けてきた。政治についても、法律についても、同年代の者たちより詳しいという自負があった。
そして、それを隠そうともしていなかった。
ある日の研修で、私は王宮警備の予算配分について意見を述べた。
限られた予算の中で、どの部門へ重点的に資金を配分するべきか。
私としては、十分に合理的な提案をしたつもりだった。
ところが、発言を終えた私へ、一人の少女が手を挙げた。
「その案では、現場の騎士たちが困ると思います」
私は、少し驚いた。
それまで私の意見に正面から反論する者は、ほとんどいなかったからだ。
「……どうしてだい?」
「訓練用の魔道具を減らして、その分を装備の更新へ回すとおっしゃいましたよね。でも、新しい装備を導入するなら、それを使いこなすための訓練も必要です。訓練の費用を削ってしまえば、装備だけ立派になっても意味がありません」
私は、返答に詰まった。
確かに、そのとおりだった。
私は装備の性能や費用対効果について考えていたが、それを実際に使う者たちの訓練について、十分に考慮していなかったのである。
それでも、若かった私は素直に認めることができなかった。
「だが、限られた予算の中で、すべてを満たすことはできないだろう?」
「それは分かります。でも、だからこそ現場の意見を聞くべきではありませんか?」
少女は、まっすぐに私を見つめた。
「公爵家のご子息だからといって、何でも正しいわけではないでしょう?」
周囲が静まり返った。
私も、しばらく言葉を失った。
……実に、失礼な少女だった。
だが、同時に思った。
この少女は、私の家柄ではなく、私の意見そのものを見ているのだと。
それが、ユリアナ・シュタイナーとの最初の出会いだった。
それから私たちは、王宮で顔を合わせるたびに言葉を交わすようになった。
彼女は魔法騎士として腕を磨き、私は政治と行政について学んだ。互いの専門分野は違っていたが、だからこそ話していて飽きることがなかった。
私が制度の理想を語れば、彼女は現場の現実を教えてくれる。
彼女が騎士団の不合理な慣習に腹を立てれば、私はそれが生まれた政治的な事情を説明する。
意見が食い違うことも多かった。
いや、むしろ食い違うことの方が多かったかもしれない。
それでも、彼女と過ごす時間は、私にとって何よりも心地よいものだった。
いつしか、私たちは互いを特別な存在として意識するようになった。
しかし、現実はそう簡単ではなかった。
私はヴァルテンベルク公爵家の当主となることを約束された身であり、彼女は騎士爵家の娘である。
公爵家の婚姻は、当人同士の問題だけでは済まない。王家との関係、他の有力貴族との均衡、家臣たちの期待。考慮すべきことはいくらでもあった。
もちろん、家格の違う者同士の婚姻が禁じられているわけではない。
私が強く望めば、実現する道もあるだろう。
だが、それによって彼女が公爵家の内部で不当な扱いを受けるようなことがあってはならない。
何より、ユリアナ自身が、私の立場を利用して地位を得たと思われることを嫌っていた。
彼女は、自分の実力で魔法騎士団副団長にまで上り詰めたのだ。
その誇りを、私の都合で傷つけるわけにはいかなかった。
だから、私たちは正式な婚約には至っていない。
それでも、互いの気持ちが変わったことは一度もなかった。
王宮の者たちは、私たちの関係を知らない。
知っているのは、私とユリアナだけ。
……いや。
おそらく、もう一人いる。
ボーマン・ローゼンフェルト殿である。
あの老執事は、何もかも見透かしたような顔で、いつも「ほほほ」と笑っている。
私たちが特別な関係にあると、直接口にされたことはない。
だが、若い頃から何度も顔を合わせている以上、気づかれていないと考える方が不自然だった。
もっとも、ボーマン殿は余計なことを口にする人物ではない。
その点については、信頼している。
……たまに、あの笑顔が妙に腹立たしく感じられることはあるが。
私は、報告書へ目を戻した。
そこには、ユリアナが王女殿下の脱走計画に関与した証拠はなく、警備上の重大な過失も確認されなかったと記されていた。
しかし、王族護衛を担う魔法騎士団の副団長として、監督責任を免れることは難しいとも記されている。
私は、深く息を吐いた。
彼女が優秀な魔法騎士であることは、誰よりもよく知っている。
そして、彼女に責任があることも理解していた。
宰相という立場を利用すれば、処分を軽くするよう働きかけることは可能かもしれない。
だが、それをすれば彼女の誇りを傷つける。
何より、王国の法と秩序を守るべき宰相が、私情で判断を曲げるわけにはいかない。
私は、報告書を閉じた。
……まったく。
宰相という仕事は、どうしてこうも難しいのだろうか。
*
翌日、私は国王陛下へ調査結果を報告した。
ユリアナに脱走計画への関与がなかったこと。
王女殿下の魔法能力が極めて高く、通常の警備では完全な阻止が難しかったこと。
そして、警備体制そのものにも改善すべき点があること。
私は、調査結果を一つずつ説明した。
「恐れながら、ユリアナ副団長の能力と忠誠心に疑いはございません。今回の件は、王女殿下ご自身が周到に準備された結果であり、特定の一人へ責任を負わせることは適切ではないと考えます」
陛下は、険しい表情で私の説明を聞いておられた。
「……それは分かっておる」
「では、処分については慎重にご判断いただきたく存じます」
「だが、王女が王宮から消えたのだぞ。何の責任も問わぬわけにはいくまい」
私は、返す言葉を失った。
陛下のおっしゃることも、もっともだった。
王族の安全を守るための組織が、その役割を果たせなかった。
事情がどうあれ、その事実は残る。
王宮の秩序を維持するためには、何らかの処分が必要なのだろう。
「……ユリアナ副団長を処罰したところで、王女殿下が戻られるわけではございません」
「分かっておる、宰相」
陛下は、深く息を吐かれた。
「余も、あの者の忠誠を疑ってはおらん。リカルティールも、よく懐いておった」
その言葉を聞いて、私は少しだけ胸が痛んだ。
ユリアナは、幼い頃から王女殿下の魔法を正当に評価していた。
王女だからといって無条件に褒めるのではなく、優れた点は認め、未熟な点は指摘する。
リカルティール殿下が彼女を慕っていたのは、そうした誠実さゆえだったのだろう。
しかし、だからこそ。
王女殿下の脱走を予見できなかったことは、彼女にとって何よりも悔しいはずだった。
私は、陛下へ深く頭を下げた。
「……ご判断を、お願いいたします」
陛下は、しばらく沈黙された。
そして、重い口を開かれた。
「ユリアナ・シュタイナーを、魔法騎士団副団長の職から解く。階級についても、一段階の降格とする」
私は、静かに頷いた。
「……承知いたしました」
それが、国王陛下のご判断だった。
私が宰相として行うべきことは、その決定を適切に執行することである。
たとえ、それが愛する女性にとって、どれほど辛いものであろうとも。
*
ユリアナへの処分は、翌日正式に通達された。
私は、その場に立ち会った。
彼女は、いつもと変わらぬ姿勢で立っていた。
背筋を伸ばし、視線をまっすぐ前へ向けている。
その姿には、長年の鍛錬によって培われた騎士としての誇りが感じられた。
私は、用意された書類を読み上げた。
「ユリアナ・シュタイナー。今回の王宮警備に関する件について、陛下はあなたのこれまでの功績を高く評価しておられる。しかし、王族護衛に関わる立場として、監督責任を免れることはできない」
ユリアナは、静かに頭を下げた。
「承知しております」
「……何か、申し開きは?」
「ございません」
彼女は、まっすぐに私を見た。
「王女殿下が、王宮を出たいと望んでおられたことは存じておりました。ですが、私はそのお気持ちを、十分に理解できておりませんでした」
その声には、後悔が滲んでいた。
「殿下は、私が考えていた以上に、ご自身の人生を真剣に考えておられたのでしょう。私は、それに気づくことができませんでした」
私は、何も言えなかった。
ユリアナは優秀な魔法騎士である。
その能力を疑う者は、ほとんどいないだろう。
しかし、優秀であることと、責任を免れることは別の問題なのだ。
私は、改めて王宮という場所の難しさを感じた。
ここでは、正しい者が必ず報われるとは限らない。
そして、責任を取るべき者が、必ずしも悪いことをした者とは限らないのである。
処分の通達が終わると、ユリアナは深く一礼し、部屋を退出した。
私は、その背中を見送った。
そして、胸の奥に重いものが残るのを感じた。
……私は、彼女を守れなかった。
*
その日の夕刻。
私は、王宮の人通りが少ない廊下で、ユリアナと顔を合わせた。
偶然ではない。
彼女がこの時間に、騎士団の執務室から戻ることを知っていたのだ。
ユリアナは、私の姿を見つけると足を止めた。
「……宰相閣下」
周囲に人がいないことを確認してから、彼女は小さく微笑んだ。
「こんなところで、どうしたの?」
私は、しばらく言葉を探した。
言いたいことはいくらでもあった。
だが、いざ彼女を前にすると、どの言葉も十分ではないように思えた。
「……すまない、ユリアナ」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
彼女は、少し驚いたように目を見開いた。
「どうしてあなたが謝るの?」
「私は、君を守れなかった」
「……アルフォンス」
ユリアナは、静かに首を横に振った。
「あなたは宰相として、正しいことをしたわ」
「だが……」
「私が処分を受けたのは、あなたのせいじゃないでしょう?」
私は、答えられなかった。
彼女の言うことは正しい。
今回の処分は、国王陛下のご判断によるものであり、私はその過程で不当な扱いが行われないよう努めた。
それでも、私には何かできたのではないかという思いが消えなかった。
「……君は、本当に納得しているのか?」
私が尋ねると、ユリアナは少しだけ笑った。
「納得なんて、していないわ」
その答えは、あまりにも率直だった。
「悔しいに決まっているでしょう。副団長になるために、どれだけ努力してきたと思っているの?」
「……そうだな」
「魔法騎士団に入ったばかりの頃なんて、騎士爵家の娘がどこまでやれるものかって、随分と馬鹿にされたものよ。それでも、誰にも文句を言わせないだけの実力を身につけようと思って、必死にやってきたんだから」
私は、彼女の言葉に耳を傾けた。
その苦労を、私は知っている。
彼女が夜遅くまで訓練を続けていたことも、任務で負傷してなお、翌日には平然と職務へ戻っていたことも。
誰よりも努力し、誰よりも自分に厳しかった。
その結果として得た地位を失ったのだ。
悔しくないはずがない。
「でもね」
ユリアナは、少しだけ表情を和らげた。
「だからといって、あなたに何とかしてもらおうとは思わないわ」
「……ユリアナ」
「私は騎士よ。あなたに守られるために、この道を選んだわけじゃない」
彼女は、まっすぐに私を見つめた。
「それに、私が好きになったのは、公爵家の当主だからでも、宰相だからでもないわ」
私は、思わず息を止めた。
「昔から、馬鹿がつくほど真面目な、あなたよ」
そう言って、彼女は笑った。
私は、何も言えなくなった。
昔から、彼女には敵わない。
どれほど言葉を尽くしても、最後には彼女の方が正しいことを言う。
そして、私はそれを認めざるを得なくなるのだ。
「……私は、そんなに真面目だろうか」
「ええ。呆れるくらいにね」
ユリアナは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「だから、私のことで変なことをしないでね。あなたが宰相を罷免されたら、私たち二人とも無職になってしまうでしょう?」
私は、思わず笑ってしまった。
「……それは、確かに困るな」
「でしょう?」
彼女は、そっと私の胸元に手を添えた。
ほんの短い時間だった。
それでも、その温もりは、私の胸に残っていた重いものを少しだけ和らげてくれた。
「……ありがとう、ユリアナ」
「お礼を言うのは、まだ早いわ」
「……どういう意味だ?」
「私は、また副団長に戻るつもりだから」
その言葉には、迷いがなかった。
「今度は、誰にも文句を言わせない形でね」
私は、静かに頷いた。
「……ああ。君なら、きっとできる」
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
私たちは、自然に距離を取った。
ユリアナは姿勢を正し、いつもの騎士らしい表情へ戻る。
「それでは、宰相閣下。失礼いたします」
「……ああ。今後の働きにも期待している」
彼女は一礼し、廊下の向こうへ歩いていった。
私は、その背中を見送った。
いつか、彼女が人目を気にせず私の名を呼べる日が来るのだろうか。
そんなことを考えていると、背後から穏やかな声が聞こえた。
「ほほほ。よい夕暮れでございますな、宰相閣下」
私は、肩を跳ねさせた。
「……ボーマン殿!?」
振り返ると、そこには王宮執事長ボーマン・ローゼンフェルト殿が立っていた。
いつものように、穏やかな笑みを浮かべている。
「……いつから、そこに?」
「さて。年寄りは、歩くのが遅いものでございますから」
「……答えになっていないのだが」
「ほほほ」
私は、しばらく彼を見つめた。
ボーマン殿は、何も言わない。
ただ、穏やかに微笑んでいる。
……やはり、この方には敵わない。
「……ボーマン殿」
「はい」
「今のことは……」
「ほほほ。何のことでございましょう?」
私は、深く息を吐いた。
……実に、頼もしい方である。
できれば、もう少しだけ、こちらの心臓に優しくしていただきたいものだが。
*
王女殿下の脱走から、三週間ほどが経過した。
その間、私は王女殿下のご療養に関する説明を繰り返し、各国の使節団への対応を続け、宮廷内の噂を抑えるために奔走していた。
幸いなことに、王女殿下の失踪そのものは、まだ外部へ知られていない。
王宮からは、王女殿下の容体は安定しており、長期の静養が必要であると説明している。
これにより、重病説はある程度落ち着いた。
ただし、見舞いの品は今も届き続けている。
王宮の倉庫には、薬草や滋養のある食品、各地の珍しい品々が積み上げられているという。
王女殿下。
どうか、お早めにお戻りください。
あなたのために用意された見舞いの品で、倉庫が埋まりそうです。
もっとも、そんな願いが叶う気配はなかった。
私は、ようやく少しだけ余裕のできた執務室で、財政改革の資料へ目を通していた。
地方から提出される報告書式の統一について、ようやく具体的な案がまとまりつつある。
就任から一か月近くが経過して、ようやく本来の仕事を進められるようになったのだ。
私は、少しだけ満足していた。
その時、扉が叩かれた。
「宰相閣下。捜索担当者から、至急の報告が届いております」
私は、顔を上げた。
「……王女殿下についてか?」
「はい」
部下は、一通の報告書を差し出した。
私は、すぐに封を開いた。
そこには、王女殿下と思われる少女の目撃情報が記されていた。
年齢は十五歳前後。
魔法を使いこなす若い女性。
身なりは質素で、旅人のような服装をしていたという。
ただし、髪の色が異なっていた。
「……金髪?」
私は、思わず呟いた。
リカルティール殿下の髪は、栗色である。
目撃された少女は、明るい金髪だったという。
「人違いではないのか?」
「その可能性もございます。しかし、魔法の実力や年齢、行動の特徴など、いくつか一致する点がありまして……」
私は、報告書を読み進めた。
少女は、王国の北東方面へ向かったと見られている。
しかも、通常の旅人とは異なり、魔法を使って移動していた可能性があるという。
私は、しばらく考えた。
髪の色を変えることは、染料を使えば不可能ではない。まして、リカルティール殿下ほどの魔法の才能を持つ方なら、変装の手段などいくらでも考えつくだろう。
「……引き続き調査を進めてくれ。ただし、まだ本人と断定するな」
「承知いたしました」
部下が退室すると、私は机の上に地図を広げた。
目撃情報があった場所を確認し、そこから北東へ視線を移す。
街道を辿った先には、国境があった。
そして、その向こうに広がるのは、フロンティア大公国。
さらにその先には、冒険者たちが集まる都市、ノヴァグラードがある。
私は、地図の上に指を置いた。
ノヴァグラード。
魔獣の討伐や未開拓地の調査を目的として、多くの冒険者が集まる街。
王宮の規律や貴族社会の慣習とは、まるで異なる世界だ。
リカルティール殿下が、以前から憧れていたという、自由な世界。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
……まさか。
本当に、冒険者になるおつもりなのだろうか。
その時、机の端に置かれた書類が目に入った。
王女殿下のご療養に関する、次回の公式発表案である。
私は、それをしばらく見つめた。
そして、ユリアナのことを思い出した。
彼女は、今も魔法騎士団で職務に励んでいる。
副団長の地位を失ったことは、決して小さな出来事ではなかった。それでも、彼女は前を向いている。
王女殿下が自由を求めて王宮を出たことで、多くの人々の人生が変わり始めていた。
しかし、それを理由に、王女殿下を責めることはできない。
誰かが自由を求めることと、その周囲にいる者たちが責任を果たすことは、必ずしも相反するものではないはずだ。
私は、そう信じたかった。
……王女殿下。
どうか、ご無事で。
そして、できれば一通で結構ですので、手紙をお送りください。
あなたのご病状について、私もそろそろ新しい説明を考えるのが限界なのです。




