【閑章1話】宰相就任十二日目
私がマリアベル王国の宰相に就任したのは、三十歳の春だった。
ヴァルテンベルク公爵家は、王国の建国以来、代々王家に仕えてきた家柄である。歴代当主の中には宰相を務めた者もいれば、軍を率いて国境を守った者もいた。父も長く王宮の政務に携わり、幼い頃から私は、いずれ王国のために働くのだと教えられて育った。
もっとも、三十歳で宰相に就くことになるとは、さすがに予想していなかった。
先代宰相の退任が決まった際、後任には経験豊富な重臣が選ばれるものと思っていた。私自身も、まだ十年ほどは政務の経験を積むつもりでいたのだが、グスタフ国王陛下から直々に任命を告げられたのである。
若すぎるという声がなかったわけではない。だが、陛下は私のこれまでの働きを評価してくださり、王太子ヴィルヘルム殿下も任命を支持してくださった。そうなれば、辞退する理由などあるはずもなかった。
私は王国のために尽くす覚悟を決め、宰相の職を拝命した。
そして、就任から十二日目の朝。
私は執務室の机に向かい、これから始める改革について考えていた。
王国の財政は、決して悪い状態ではない。豊かな農地と商業都市を抱え、周辺諸国との交易も安定している。しかし、地方ごとに異なる徴税方法や、長年見直されていない行政制度には、改善の余地が多く残されていた。
特に問題なのは、地方から中央へ上がってくる報告の形式が統一されていないことだ。ある地方では収穫量を基準に税収を報告し、別の地方では徴収した貨幣の額だけを記載する。さらに、その集計時期まで異なるものだから、王国全体の収支を正確に把握するだけでも相当な手間がかかっていた。
前任者たちが怠慢だったとは思わない。制度というものは長い年月をかけて積み重ねられ、必要に応じて継ぎ足されていくものだ。だが、だからこそ、どこかで整理しなければならない。
幸いなことに、ヴィルヘルム殿下はこうした問題に理解が深かった。先日も地方行政の改革案について意見を交わしたばかりで、殿下は私の説明を熱心に聞き、いくつかの有益な提案までしてくださった。
次代の国王があの方であれば、王国の未来は明るい。
私はそう確信していた。
「……よし」
机に広げた資料へ目を落とし、最初に取り組むべき案件を選ぶ。
まずは地方から提出される財政報告の書式を統一する。これなら大規模な制度変更を伴わず、比較的短期間で成果を出せるはずだ。次に各地の徴税制度を整理し、軍事費の配分を見直す。その後は交易政策にも着手したい。
やるべきことは山ほどある。
だが、不思議と気分は晴れやかだった。
王国のために働けるという喜びが、何よりも大きかったのである。
その時、執務室の扉が激しく叩かれた。
「宰相閣下! 宰相閣下!」
私は眉をひそめた。
この時間に、これほど慌ただしく訪ねてくるとは珍しい。何か急を要する案件でも発生したのだろうか。
「入りたまえ」
扉が開き、若い侍従が飛び込んできた。
顔色が悪い。呼吸も乱れている。王宮の侍従がこれほど取り乱すとは、よほどの事態に違いない。
「陛下が、至急お越しになるようにと!」
「分かった。だが、まずは落ち着きたまえ。何が起きた?」
「そ、それが……リカルティール殿下が……!」
私は椅子から立ち上がった。
「王女殿下がどうされた。お怪我か?」
「い、いえ! その……!」
「病気か? それとも何か事故でも?」
「お姿が見当たらないのです!」
「…………何?」
私は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
王女殿下の姿が見当たらない。
それはつまり、部屋にいらっしゃらないということだろうか。あるいは、予定していた場所へお越しにならなかったという意味か。
「……もう少し詳しく説明してくれ」
「昨夜から、どなたも殿下のお姿を確認しておりません! 今朝になって侍女が寝室を訪ねたところ、もぬけの殻だったそうで……!」
なるほど。
それは確かに問題だ。
ただ、王宮は広い。十五歳の少女が気まぐれに別の部屋で過ごしていたとしても、不思議ではないだろう。ましてリカルティール殿下は、魔法の研究に熱中すると時間を忘れることで知られている。
私は机の上の書類を揃えながら、侍従へ尋ねた。
「研究室は確認したのか?」
「はい!」
「図書室は?」
「確認済みです!」
「庭園や訓練場はどうだ?」
「そちらにもいらっしゃいません!」
……ふむ。
どうやら、少々厄介なことになっているらしい。
「分かった。すぐに参ろう」
私は上着を整え、侍従に続いて執務室を出た。
この時の私は、まだ事態を甘く見ていた。
王女殿下が少しばかり羽目を外したのだろう。王宮のどこかで見つかり、国王陛下からお叱りを受けて、それで終わる。
せいぜい、午前中の予定が多少遅れる程度だ。
そのように考えていたのである。
今にして思えば、実に幸福な数分間だった。
*
国王陛下の私室へ入った瞬間、私は自分の認識が甘かったことを悟った。
「一体どういうことだ!」
グスタフ国王陛下の怒声が響き渡る。
室内にはエリザベート王妃殿下、王太子ヴィルヘルム殿下、第二王子ハインリヒ殿下が集まっていた。さらに、王宮執事長ボーマン・ローゼンフェルト殿まで控えている。
王家の主要な方々が、これほど早い時間に一堂に会することは珍しい。
私は一礼した。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
「宰相!聞いたか!」
「リカルティール殿下のお姿が見当たらないと伺いました」
「見当たらないどころではない! どこにもおらんのだ!」
陛下は机を叩いた。
「警備の者は何をしておった! 王宮の中で王女が消えるなど、あってはならんことだろう!」
おっしゃるとおりである。
王位継承権を持つ王女が行方不明になるなど、国家の安全保障にも関わる重大事態だ。もし誘拐であれば、王国の威信を揺るがす事件となる。
私は慎重に口を開いた。
「陛下。まず、外部から侵入した者の痕跡は確認されておりますか?」
「それも分からん!」
「では、王女殿下がご自身の意思で外出された可能性は?」
「そんなことがあるものか!」
陛下は即座に否定された。
その時、ハインリヒ殿下が小さくため息をついた。
「……いや、父上。あいつなら、十分にあり得ると思いますよ」
室内の視線が、一斉にハインリヒ殿下へ集まった。
「何だと?」
「リカルティールですよ。前から何度も言っていたではありませんか。王宮の外で暮らしたい、冒険者になりたい、自由に魔法の研究をしたい、と」
「それは知っておる! だが、だからといって本当に出ていく者があるか!」
私は思わず、陛下の顔を見つめそうになった。
……陛下。
まさに今、その可能性について話し合っているところなのですが。
もちろん、口には出さない。
宰相に就任して十二日目である。まだ職を失いたくはなかった。
「ハインリヒ。今は冗談を言っている場合ではない」
ヴィルヘルム殿下が弟をたしなめた。
「リカルティールが一人で王宮を出たとしても、どこへ向かったか分からないのだ。危険な目に遭っているかもしれない」
「兄上は心配しすぎですよ。あいつの魔法の腕を忘れたのですか?」
「魔法の腕と、世間を知っているかどうかは別の問題だ」
ヴィルヘルム殿下の言葉には、私も同意した。
リカルティール殿下は、魔法学院を歴代最高の成績で卒業された天才である。十五歳にして、宮廷魔導士たちを驚かせるほどの実力を持つと聞いている。
しかし、王宮の外で暮らした経験はほとんどない。
魔法が優れているからといって、世の中のあらゆる危険に対処できるとは限らないのだ。
「……あの子は、昨夜も普段どおりだったのです」
エリザベート王妃殿下が、静かに口を開かれた。
「夕食の席でも、特に変わった様子はありませんでした。私が話しかければ、いつものように返事をしてくれましたし……」
王妃殿下の表情は、明らかに憔悴していた。
陛下が怒りを露わにされている一方で、王妃殿下は娘の身を案じておられるのだろう。
「何か、悩みを抱えていたのでしょうか……」
その言葉に、室内が静まり返った。
私はリカルティール殿下と、さほど親しいわけではない。公爵家の当主として幼い頃から面識はあるが、王女殿下と宰相候補の貴族では、日常的に言葉を交わす機会など限られている。
ただ、殿下が王宮での暮らしを窮屈に感じているという噂は、以前から耳にしていた。
それを知っていながら、特に問題視してこなかったのは事実である。
私は、まず状況を整理する必要があると判断した。
「陛下。恐れながら、王女殿下の私室を確認させていただけますでしょうか」
「何?」
「外部からの侵入か、ご本人の意思による外出か。まずは、その点を明らかにするべきかと存じます」
陛下は少し考え、それから頷かれた。
「……よかろう。ボーマン、案内してやれ」
「かしこまりました」
白髪の老執事が、穏やかに頭を下げた。
「では、宰相閣下。こちらへ」
私はボーマン殿に続き、部屋を出た。
その背後では、陛下が再び警備責任者を呼ぶよう命じておられた。
……どうやら、今日の財政改革は午後に回すことになりそうだ。
*
リカルティール殿下の私室は、王宮の奥まった場所にあった。
扉の前には二人の衛兵が立っており、私たちの姿を見ると緊張した様子で敬礼した。
室内に入ると、私は少し驚いた。
王女の部屋と聞いて想像するような、華やかな装飾はほとんどない。もちろん、家具や調度品は上質なものばかりだが、目立つのは壁際に並べられた大量の書物と、机の上に積まれた研究資料だった。
魔法陣を描いた紙や、古代魔法文字についての書き付けも見える。
まるで魔法研究者の部屋だ。
「……ずいぶんと、研究熱心でいらっしゃるのですな」
「ほほほ。リカルティール殿下は、幼い頃から魔法がお好きでしたからな」
ボーマン殿は懐かしそうに微笑んだ。
「一度研究を始められると、食事の時間になってもなかなかお戻りにならず、侍女たちが困り果てることもございました」
「……それは、なかなか」
「ええ。実に熱心なお方でございました」
ボーマン殿は、どこか誇らしげだった。
私は室内を見回した。
争った形跡はない。家具が倒れている様子もなければ、物が散乱しているわけでもない。
寝台も整えられている。
少なくとも、ここで何者かに襲われたとは考えにくかった。
「衣服や所持品は確認されましたか?」
「はい。侍女たちに調べさせたところ、普段着の一部と、小さな鞄がなくなっているようです」
「……なるほど」
「それから、魔法に関する書物も何冊か見当たらないとのことですな」
私は腕を組んだ。
衣服と鞄、それに魔法書。
どう考えても、旅支度である。
「……ボーマン殿」
「はい」
「王女殿下は、以前から王宮を出たいとおっしゃっていたのでしょうか」
「ほほほ。ええ、それはもう」
老執事は、まるで昔話でもするような口調で答えた。
「幼い頃から、外の世界に強い関心をお持ちでした。冒険者の話を聞けば目を輝かせ、旅人が持ち込んだ珍しい魔道具があれば、いつまでも眺めておられましたな」
「……そうですか」
「近頃は、王女としての務めについて、少々思うところもおありだったようですが」
私はボーマン殿を見た。
「それは、陛下もご存じだったのですか?」
「もちろんでございます」
「……それで、何か対策は?」
「ほほほ。陛下は、いずれ落ち着かれるだろうと」
私は黙った。
そして、心の中で深いため息をついた。
……陛下。
どうやら、王女殿下は落ち着かれる前に、王宮から出ていかれたようです。
その時、机の上に置かれた一通の封書が目に入った。
他の研究資料とは少し離れた場所に、丁寧に置かれている。
「……これは?」
「おや」
ボーマン殿も、今気づいたらしい。
私は封書を手に取り、表書きを確認した。
そこには、家族へ、と記されていた。
嫌な予感がした。
「……ボーマン殿。こちらを陛下のもとへ」
「かしこまりました」
私たちは急いで国王陛下の私室へ戻った。
そして、封書を開いた。
内容は、実に簡潔だった。
自分の意思で王宮を出ること。
以前から望んでいたとおり、外の世界で自由に生きてみたいこと。
家族を嫌いになったわけではないこと。
心配をかけることへの謝罪と、これまで育ててくれたことへの感謝。
そして、探さないでほしいという願い。
私は、何度か手紙を読み返した。
そこには、十五歳の少女らしい率直な言葉が並んでいた。決して洗練された文章ではないし、王族としての立場を考えれば、あまりにも無責任な内容と言わざるを得ない。
しかし、書かれている言葉からは、強い決意が伝わってきた。
リカルティール殿下は、衝動的に飛び出したのではない。
十分に考え、準備を整えたうえで、自分の意思で王宮を去ったのだ。
「……あの子は」
王妃殿下が、手紙を握りしめた。
「本当に、行ってしまったのですね……」
その声には、悲しみと、どこか諦めにも似た響きがあった。
一方、国王陛下は顔を真っ赤にしておられた。
「探すなだと!? 何を馬鹿なことを!」
陛下は立ち上がった。
「十五歳の娘が一人で外へ出て、何ができるというのだ! すぐに連れ戻せ!」
私は一礼した。
「承知いたしました。ただし、殿下がご自身の意思で姿を隠しておられる以上、通常の捜索では難航する可能性がございます」
「何故だ!」
その問いに答えたのは、ハインリヒ殿下だった。
「父上。リカルティールは魔法学院の歴代首席ですよ。普通の家出娘を捜すつもりなら、まず見つからないでしょうね」
私は、その言葉の意味を考えた。
魔法学院の歴代首席。
それは単に、攻撃魔法が優れているという話ではない。
魔法には様々な種類がある。身体能力を高めるものもあれば、気配や魔力を隠すものもある。もし殿下がそうした魔法を使いこなせるのであれば、通常の警備網を突破することなど、難しくないのかもしれない。
私は改めて手紙へ目を落とした。
王女殿下は、自分の人生を選ぶために王宮を去った。
その意思は、尊重されるべきなのだろう。
しかし。
私は、マリアベル王国の宰相である。
第三王位継承者の失踪を、十五歳の少女の自由な選択として片づけるわけにはいかなかった。
*
その後、王宮では緊急の捜索会議が開かれた。
近衛騎士団、魔法騎士団、王宮警備隊の責任者たちが集められ、昨夜から今朝にかけての警備記録が確認された。
しかし、結果は芳しくなかった。
王宮の門を通った記録はない。
外壁付近で不審な人物を見た者もいない。
警備隊が巡回した経路にも、異常は報告されていなかった。
「……つまり、王女殿下がどこから出られたのかも分からないということか」
私の問いに、警備責任者は申し訳なさそうに頷いた。
「はっ。現在、改めて各所を調査しておりますが……」
「魔法の痕跡は?」
「そちらも、ほとんど確認できておりません」
私は眉をひそめた。
魔法を使えば、通常は何らかの魔力の痕跡が残る。もちろん、時間が経過すれば薄れていくし、使用された術式によっても残り方は異なる。それでも、王宮の魔法騎士団が調査している以上、何も分からないというのは奇妙だった。
その疑問に答えたのは、魔法騎士団副団長ユリアナ・シュタイナーだった。
「恐らく、殿下は身体強化と隠蔽魔法を併用されたのでしょう」
ユリアナは、凛とした姿勢で報告した。
ユリアナ・シュタイナー。私と同じ三十歳で、騎士爵家の出身ながら、その実力を認められて魔法騎士団副団長にまで上り詰めた女性である。髪を後ろでまとめ、騎士服を着こなした姿は、昔から少しも変わらない。もっとも、十代の頃に比べれば、その表情には騎士としての自信と落ち着きが加わっていた。
彼女とは、もう十年以上の付き合いになる。互いにまだ何者でもなかった頃から知っており、今では私にとって、誰よりも大切な存在となっていた。
ただし、私はヴァルテンベルク公爵家の当主であり、彼女は騎士爵家の娘である。その身分差は決して小さくなく、私たちの関係は、今も正式な婚約という形には至っていない。
もちろん、今この場で、そのような私情を持ち込むつもりはなかった。
彼女は王族護衛に関わる魔法騎士団の副団長であり、リカルティール殿下の魔法の才能を誰よりも正当に評価していた人物でもある。王女殿下とは以前から親しく接しており、その実力についても深く理解しているはずだった。
「身体強化で警備の手薄な場所を突破し、隠蔽魔法によって自身の気配と魔力を覆い隠したのであれば、通常の捜索では追跡が困難になります」
「……魔力の痕跡そのものを隠せるということか?」
「はい。完全に消し去るわけではありませんが、痕跡を極めて薄くすることは可能です。特に殿下ほどの術式構築能力をお持ちであれば、追跡を妨げるための工夫もされているでしょう」
私は頭を抱えたくなった。
つまり、王女殿下は警備を突破するだけでなく、その後の追跡まで困難にする準備を整えていたということになる。
十五歳の少女が。
王宮の中で。
誰にも気づかれずに。
……一体、いつから計画していたのだろうか。
「ユリアナ副団長」
「はい」
私は、いつもどおりの口調で彼女に問いかけた。ここは王宮の会議室であり、周囲には警備責任者たちが控えている。彼女との個人的な関係がどうであれ、宰相として確認すべきことを確認しなければならない。
「殿下がそのような魔法を扱えることは、以前からご存じだったのか?」
「はい。身体強化も隠蔽魔法も、殿下は高い水準で習得されておりました」
「……なるほど」
私は一度、言葉を切った。
「では、今回の脱走を予測できた可能性は?」
ユリアナの表情が、わずかに曇った。
「……殿下が自由を望んでおられたことは、存じておりました。しかし、実際に王宮を離れる計画を立てておられたとは、考えておりませんでした」
彼女は静かに頭を下げた。
「王族護衛に関わる者として、私の認識が甘かったことは否定できません」
私は、しばらく彼女を見つめた。
ユリアナは優秀な魔法騎士だと聞いている。王宮内での評価も高く、部下からの信頼も厚い。リカルティール殿下の魔法を正当に評価し、実戦的な助言を与えていたという話も耳にしていた。
だからこそ、彼女が今回の件に関与しているとは考えにくかった。
しかし、王女の脱走を防げなかったという事実は残る。
「……分かった。まずは警備体制の調査を続けてくれ。責任の所在については、事実関係を確認したうえで判断する」
「承知いたしました」
ユリアナは一礼した。
私は、その背中を見送りながら考えた。
王女殿下が本気で脱走を計画していたのであれば、誰か一人の責任にするのは酷というものだろう。まして、リカルティール殿下ほどの魔法の使い手が、周到な準備を重ねていたのであれば、どれほど優秀な護衛であっても、その行動を完全に防ぐことは難しい。
しかし、王宮という組織である以上、責任を曖昧にしたまま終わらせるわけにもいかない。王族の安全を守るために設けられた組織が、その役割を果たせなかったという事実は、決して軽いものではないのだ。
そして、その責任を問われる者の中に、ユリアナが含まれていることも理解していた。
私は宰相である。たとえ相手が誰であろうと、公平に判断しなければならない。
……頭では、分かっているのだが。
私は小さく息を吐き、次の報告書へ手を伸ばした。
*
午後になっても、捜索は進展しなかった。
王宮周辺の街道や主要な門には、極秘の捜索指示が出された。王女殿下の特徴を知る者は限られているため、情報が外部へ漏れないよう、連絡先や報告経路にも細心の注意を払う必要がある。
さらに、国境の警備隊へも、身元を伏せたうえで不審な旅人の確認を求めることになった。
もっとも、これで見つかるとは限らない。
リカルティール殿下が隠蔽魔法を使いこなしている以上、通常の警備では見逃してしまう可能性が高い。魔法の痕跡も追跡が困難となれば、頼れるのは目撃情報や旅人の記録くらいしかないのだ。
そして、問題は捜索だけではなかった。
「宰相閣下。来週の王宮晩餐会についてですが……」
部下の一人が、恐る恐る声をかけてきた。
「何だ?」
「リカルティール殿下も、ご出席の予定となっております」
「……そうだったな」
「各国の使節団にも、そのように案内しておりますが……」
私は黙った。
そうだ。
来週には、近隣諸国の使節を招いた晩餐会が予定されている。リカルティール殿下も王族の一員として出席することになっており、すでに招待状や席次の調整が進められていた。
しかし、肝心の本人がいない。
「……欠席の理由を考えねばならんな」
「はい。それから、殿下への面会を希望している使節もおります」
「……そうか」
「さらに、王女殿下が参加される予定だった来月の式典についても、確認が必要かと」
私は目を閉じた。
王女殿下が一人いなくなっただけで、これほど多くの予定に影響が出るとは。
いや、王族なのだから当然なのだ。
王族の一挙手一投足は、政治的な意味を持つ。公式行事への出席も、他国の使節との面会も、単なる個人の予定ではない。王国としての意思表示に関わる場合すらある。
だからこそ、王女殿下が突然姿を消したという事実を、軽々しく公表するわけにはいかなかった。
「……ひとまず、体調不良ということにしておこう」
「体調不良、でございますか?」
「そうだ。詳細は追って説明すると伝えてくれ。今の段階で余計な情報を出すべきではない」
「承知いたしました」
部下は一礼し、部屋を出ていった。
私は椅子の背にもたれた。
体調不良。
実に便利な言葉である。
少なくとも、王女殿下が王宮から脱走したと説明するよりは、はるかに穏当だろう。
ただし、いつまでも使える理由ではない。
王女殿下が見つからなければ、いずれ別の説明が必要になる。
その時、私はまだ知らなかった。
この何気ない一言が、後に七年間も続く壮大な説明の始まりになることを。
*
夕刻。
ようやく執務室へ戻った私は、机の上を見て絶句した。
朝から取り組む予定だった財政改革の資料が、まったく手つかずのまま残っている。
その上には、王女殿下の捜索に関する報告書が積み上げられていた。
さらに、王宮内の情報統制に関する指示書、各地の警備隊への連絡文、公式行事の予定変更に関する資料まで追加されている。
……これは、何だ。
私は、机の上に積まれた書類を見つめた。
宰相に就任してから、まだ十二日しか経っていない。
この十二日間、私は王国のために働くことを誇りに思い、改革を進めるための準備を重ねてきた。
それなのに、今日一日で私が行った仕事は、ほとんどすべてが王女殿下の脱走に関するものだった。
財政改革はどうなった。
地方行政の整理は。
軍事費の見直しは。
私は、王国の未来を変えるために宰相になったのではなかったか。
……いや、落ち着こう。
王女殿下の失踪も、立派な国家の問題である。
むしろ、王位継承権を持つ王族が行方不明になったのだから、財政改革より優先されるのは当然だろう。
そう自分に言い聞かせ、私は書類へ手を伸ばした。
その時、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、ボーマン殿だった。
手には銀の盆を持ち、その上には湯気の立つ茶器が載せられている。
「ほほほ。宰相閣下、お疲れのご様子ですな」
「……ボーマン殿」
私は思わず、救いを求めるような目を向けてしまった。
「何か、新しい報告でも?」
「いえ。少々お疲れのようでしたので、お茶をお持ちしただけでございます」
「……それは、ありがとうございます」
ボーマン殿は穏やかに微笑み、机の端へ茶器を置いた。
私は温かいお茶を一口飲んだ。
香りがよい。
朝からろくに休憩も取っていなかったことを思い出し、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いた。
「……ボーマン殿」
「はい」
「リカルティール殿下は、昔からあのようなお方だったのですか?」
「ほほほ。ええ。大変に行動力のあるお方でございました」
「……行動力、ですか」
「一度何かをお決めになると、なかなか周囲の言葉には耳を貸されませんでしたな。もっとも、決してわがままというわけではございません。ご自身で考え、納得したことを実行される方なのです」
私は少し考えた。
確かに、手紙の内容からも、そのような性格はうかがえた。
王宮での暮らしを嫌い、自由を求め、自分の意思で外の世界へ出ていく。
十五歳の少女としては、あまりにも大胆な決断だ。
しかし、その行動力が魔法研究へ向けられていたからこそ、歴代首席という成果を残せたのかもしれない。
「……なるほど。よく分かりました」
「ほほほ。それは何よりでございます」
「ただ、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「何なりと」
私は、深いため息をついた。
「そのような重要な情報は、できれば昨日までに教えていただきたかった」
ボーマン殿は、少しだけ目を細めた。
「ほほほ。まさか本当に王宮を出ていかれるとは、わしも思いませんでしたので」
私は何も言えなかった。
……この王宮では、どうやら常識というものが、私の知っているものとは少し違うらしい。
*
夜になっても、王女殿下は見つからなかった。
各地から届く報告は、いずれも有力な手がかりなしというものばかりだった。王宮の警備体制に重大な欠陥があった可能性も調べられていたが、少なくとも現時点では、外部からの侵入者がいた形跡は確認されていない。
つまり、リカルティール殿下は、ほぼ間違いなく自力で王宮を脱出したのである。
私は最後の報告書へ目を通し、静かに机へ置いた。
……見事なものだ。
認めたくはないが、十五歳の少女が王宮の警備を突破し、追跡の手がかりすらほとんど残さず姿を消したのだ。その計画性と実行力は、並大抵のものではない。
もっとも、だからといって感心している場合ではない。
王女殿下の身に何かあれば、王国全体が大きな混乱に陥る。
私の責任も、決して軽くは済まないだろう。
私は椅子にもたれ、天井を見上げた。
思えば、宰相就任を告げられた時、私は王国の未来を変える仕事をするのだと意気込んでいた。
それがどうだ。
就任十二日目にして、王女殿下の脱走事件である。
私は、何か悪いことをしただろうか。
いや、していない。
少なくとも、心当たりはない。
私は幼い頃から学問に励み、父の教えに従って政務を学び、王国のために働いてきた。貴族としての務めを果たし、国王陛下への忠誠を誓い、ようやく宰相の地位を得たのである。
その結果が、これだ。
私は机の引き出しを開け、白紙の書類を一枚取り出した。
そして、しばらく眺めた。
辞表。
その二文字が、頭の中に浮かんだ。
……いや、待て。
ここで辞めてどうする。
私が宰相を辞したところで、リカルティール殿下が戻ってくるわけではない。むしろ、後任者にこの混乱を押しつけることになる。
それは、あまりにも無責任だ。
私はヴァルテンベルク公爵家の当主である。
王国建国以来、代々王家に仕えてきた家の名誉を、こんなことで汚すわけにはいかない。
……そうだ。
これは、宰相としての最初の試練なのだ。
王国を支える者として、どれほど困難な事態にも冷静に対処しなければならない。
私は白紙の書類を引き出しへ戻し、深く息を吐いた。
そして、朝から手をつけられなかった財政改革の資料を開いた。
今日の予定は大幅に狂ってしまったが、まだ夜は長い。
少しでも仕事を進めておこう。
明日こそは、予定どおりに政務を進められるはずだ。
そう考えた、その時だった。
執務室の扉が、激しく叩かれた。
「宰相閣下! 宰相閣下!」
私は手を止めた。
……何だ。
今度は何だ。
「陛下が、至急お越しになるようにと!」
私は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、しばらく天井を見上げた。
……私は、何か悪いことをしただろうか。
宰相就任十二日目。
私の苦労は、まだ始まったばかりだった。




