第52話 王宮の思惑
父上と母上との面会を終えて控室へ戻ると、タクマが真っ先に顔を上げた。
「おかえり、リカ」
「ただいま、タクマ」
私が微笑むと、タクマは安心したように表情を緩めた。どうやら、私が両親とどんな話をしてきたのか、随分と気にしてくれていたらしい。隣に座っていたシエラもこちらを見て、小さく微笑んでいる。
「ちゃんと話せたみたいだな」
「うん。父上も母上も、昔と変わらなかったわ。七年も経っているから、もっと色々なことが変わっていると思っていたんだけどね」
「そっか。よかったな」
タクマはそう言って笑った。
私は彼の隣に腰を下ろし、用意されていたお茶を一口飲んだ。父上と母上に会うまでは、あれほど緊張していたというのに、今は不思議なくらい気持ちが落ち着いている。七年間、心のどこかで避け続けてきたものと、ようやく向き合えたからなのかもしれない。
王宮を飛び出したことを後悔しているわけではないし、これからも王女としての生活に戻るつもりはない。でも、父上と母上が私の帰還を喜んでくれたことは、素直に嬉しかった。家族と向き合うことと、自分の人生を選ぶことは、必ずしも相反するものではないのだと、ようやく実感できた気がする。
「……よかったね、リカ」
シエラが静かに声をかけてきた。
「ありがとう、シエラ」
私は彼女にも笑いかけた。
シエラが父上の依頼で私を見守っていたことを知った時には、随分と驚いたものだ。七年間、自由に暮らしているつもりだったのに、実はすぐ近くで監視されていたのだから、面白くない気持ちがなかったわけではない。
けれど、今日、父上と母上がどれほど私を心配していたのかを改めて知ったことで、その気持ちも少し変わった。
もちろん、心配していたからといって、勝手に監視していいという話ではない。でも、父上が私を連れ戻さず、遠くから見守ることを選んだ理由は理解できるし、その役目を引き受けたシエラが、今では大切な友人になっていることも事実だった。
「……それにしても、タクマ」
「ん?」
「父上が、あなたに会いたいって言っていたわよ」
タクマの表情が固まった。
「……え?」
「ふふっ。そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「いや、そりゃ、いつかは挨拶しないといけないとは思ってたけど……」
タクマは困ったように笑った。
「相手は国王陛下だからな。普通に考えたら、緊張するだろ」
「私にとっては、ただの父上なんだけどね」
「リカはそうだろうけどさ……」
私は思わず肩をすくめた。
確かに、タクマにとって父上は一国の王なのだろう。私だって、父上が国王としてどれほど大きな責任を背負っているのかは理解しているし、政治的な判断を下す時の厳しさも知っている。
でも、少なくとも今日の面会では、昔と変わらない父上の姿を見ることができた。娘のことになると少し心配しすぎるところも、母上にからかわれると調子が狂ってしまうところも、七年前のままだった。
タクマにも、そんな父上を知ってもらえたら嬉しいと思う。
もっとも、父上が娘の恋人を前にして、どんな反応をするのかは少し気になるけれど。
*
それからしばらくして、ボーマンが控室へ戻ってきた。
「ほほほ。皆様、お待たせいたしました」
「あら、ボーマン。随分と時間がかかったのね」
「いやはや、執事長を退いたとはいえ、まだ私の顔を覚えている者が多いようでしてな。あれこれと話しかけられてしまいました」
「……数ヶ月前まで働いていたんだから、当たり前でしょう?」
「ほほほ。それもそうでございますな」
私は思わず笑ってしまった。
ボーマンが王宮を離れたのは、ほんの数ヶ月前のことだ。長年にわたって執事長を務めていたのだから、王宮の使用人たちにとっては、今でも頼りになる大先輩なのだろう。実際、現役時代には私たち王族の教育だけでなく、王宮内の様々な仕事を取り仕切っていたと聞いている。
きっと、退職したからといって、簡単に縁が切れるような人ではないのだ。
「……もしかして、仕事を頼まれたりしてないでしょうね?」
「ほほほ。さて、どうでしょうな」
「もう。せっかく退職したんだから、少しはのんびりすればいいのに」
「お気遣い、痛み入ります」
そう言いながらも、ボーマンは随分と楽しそうだった。本人にとっても、長年勤めた王宮は、そう簡単に忘れられる場所ではないのだろう。
「ところで殿下。陛下と王妃殿下には、無事にお会いできましたかな?」
「ええ。ちゃんと話せたわ。ボーマンにも、色々とお礼を言わないといけないわね」
「ほほほ。私は何もしておりませんよ」
「嘘ばっかり。父上が私のことをずっと見守ってくれていたのも、あなたが教えてくれたんじゃない」
「それは、陛下のお気持ちをお伝えしただけでございます」
私は小さく笑った。
相変わらず、何を言っても上手にはぐらかされてしまう。昔からそうだったけれど、ボーマンと口で勝負して勝てた記憶はほとんどない。
そんな話をしていると、控室の扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
現れたのはユリアナだった。
「殿下。陛下より、皆様にもお会いしたいとのお言葉を頂戴いたしました」
「……父上が?」
「はい。執務の予定を調整され、少しお時間を設けられるとのことでございます」
私は少し驚いた。
先ほどの面会では、タクマたちとの顔合わせは後日になると聞いていたからだ。父上も随分と忙しいはずなのに、わざわざ予定を変更してくれたらしい。
「分かったわ。みんなも大丈夫?」
「俺は大丈夫だけど……」
タクマはそう答えながら、少しだけ姿勢を正した。
ボーマンが楽しそうに笑う。
「ほほほ。いよいよですな、タクマ殿」
「……ボーマンさん、あんまり緊張させないでくださいよ」
「これは失礼いたしました」
まったく反省していない顔だった。
私は苦笑しながら立ち上がり、タクマの手を軽く握った。
「大丈夫よ。父上は怖い人じゃないから」
「……そうだといいんだけどな」
タクマは小さく笑い、私たちはユリアナに案内されて控室を後にした。
*
案内されたのは、先ほど両親と会った部屋とは別の応接室だった。
王宮の奥にあるその部屋は、公式の謁見の間ほど広くはないものの、落ち着いた調度品が並び、窓からは中庭を見渡すことができた。壁には歴代の王族を描いた絵画が飾られているけれど、どこか堅苦しさのない、私的な面会に使われる場所だった。
室内には、父上と母上が待っていた。
「よく来たな」
父上が私たちを迎えた。
私が軽く頭を下げると、タクマたちもそれに倣った。ボーマンは慣れた様子で深く一礼し、シエラも静かに頭を下げる。
「父上、母上。こちらがタクマです」
私は隣に立つタクマを紹介した。
「初めまして。タクマと申します」
タクマは少し緊張した様子だったけれど、丁寧に頭を下げた。
父上はしばらく彼を見つめていた。
「……そなたがタクマか」
「はい」
「ボーマンから話は聞いておる。娘が随分と世話になっているそうだな」
「いえ、むしろ俺の方が、リカには何度も助けられています」
タクマは少し照れくさそうに答えた。
「最初に森で出会った時も、リカが助けてくれなければ、今頃どうなっていたか分かりません。文字も読めなかった俺に、色々なことを教えてくれたのもリカです」
父上は静かに頷いた。
「……そうか」
「はい。だから、俺の方こそ感謝しています」
タクマはそう言って、もう一度頭を下げた。
私は少し恥ずかしくなった。
確かに、最初に出会った頃のタクマは、この世界のことを何も知らなかった。文字も読めず、魔法も使えず、森の中で途方に暮れていたのだから、放っておけなかったのは事実だ。
けれど、今では私の方が助けられることも多い。
家事を手伝ってくれることもそうだし、落ち込んでいる時には、いつも隣にいてくれる。何より、タクマと一緒に暮らすようになってから、私の毎日は随分と賑やかになった。
「父上。私だって、タクマには色々と助けてもらっているんですよ?」
「ほう?」
「料理も手伝ってくれますし、家のことも一緒にやってくれます。それに、冒険者としても随分と成長したんですから」
父上は少し感心したようにタクマを見た。
「なるほど。ボーマンが褒めておったのも、あながち大げさではなさそうだな」
「ありがとうございます」
タクマは恐縮した様子で答えた。
母上も、優しく微笑んだ。
「リカルティールが、こんなに楽しそうに誰かの話をするなんて、久しぶりですね」
「……母上」
「ふふっ。いいことですよ」
私は少し頬が熱くなるのを感じた。
父上はそんな私たちを見て、少しだけ表情を和らげた。
*
それから、父上はタクマの出身について尋ねた。
先ほど私から説明したことを、本人にも確認しておきたかったのだろう。
「そなたは、随分と遠方の出身だと聞いておる」
「はい。魔族領域より遥か東の、東方最辺境の出身です」
タクマは落ち着いて答えた。
「転移事故に巻き込まれたようで、気がついた時にはノヴァグラードの森にいました」
「……転移事故か」
父上は少し考え込んだ。
「珍しい話だな。本人にも、原因は分からぬのか?」
「はい。どうしてあの森に来たのか、今でも分かっていません」
「ふむ……」
父上はそれ以上深く追及しなかった。
私は少しだけ安心した。
タクマが異世界から来たことについては、ボーマンとも相談し、対外的には別の説明をすることにしている。父上に隠し事をするのは少し心苦しいけれど、建国神話との関係を考えれば、今は慎重になるべきだと思っていた。
タクマ本人も、そのことは理解している。
「故郷へ帰る方法は、見つかっていないのですね?」
母上が心配そうに尋ねた。
「はい。でも、今はリカと一緒に暮らせていますし、こちらでの生活にも慣れてきました」
「そうですか。それなら、少し安心しました」
母上は優しく微笑んだ。
タクマも、ようやく少しだけ緊張がほぐれたようだった。父上も母上も、彼を遠方からやってきた一人の青年として受け入れてくれている。そのことが、私には嬉しかった。
もちろん、今後もタクマの出自について説明しなければならない場面はあるだろう。けれど、少なくとも今日のところは、これ以上踏み込まれることなく済みそうだった。
*
続いて、父上はボーマンへ目を向けた。
「ボーマン。息災そうで何よりだ」
「おかげさまで、陛下」
ボーマンは慣れた様子で深く頭を下げた。ほんの数ヶ月前まで王宮の執事長を務めていたのだから、父上とのやり取りにも、長年培われた自然な親しさが感じられる。
「退職して少しはゆっくりできるかと思っておったが、どうやらそうでもないらしいな」
「ほほほ。おかげさまで、退屈する暇もございません」
「まったく。お前らしいことだ」
父上は苦笑した。
ボーマンは、かつて近衛兵団の団長を務め、その後は王宮の執事長として長年仕えてきた人物だ。私たち兄妹の教育も担当していたのだから、父上にとっても、単なる臣下以上の存在なのだろう。
「それにしても、退職して間もないというのに、今度はリカルティールを連れて戻ってくるとはな」
「ほほほ。私も、このような形で再び殿下のお供をすることになるとは思っておりませんでした」
「タクマの修行も見ておるそうだな」
「はい。なかなか見どころのある青年でございます」
ボーマンは楽しそうにタクマへ目を向けた。
「まだまだ未熟ではございますが、努力を惜しまぬところは評価しております」
「ありがとうございます」
タクマは少し照れくさそうに頭を下げた。
私は思わず苦笑した。ボーマンがああいう褒め方をする時は、たいてい次に厳しい課題が待っている。タクマも随分と鍛えられてきたけれど、本人はまだまだ満足していないらしい。
「タクマ、あまり無理しないでね」
「分かってるよ」
タクマは笑った。
その返事を聞いて、ボーマンがますます楽しそうな顔になったので、私は少しだけ不安になった。
*
父上は最後に、シエラへ目を向けた。
「シエラ。長い間、世話をかけたな」
シエラは静かに頭を下げた。
「……仕事ですから」
その短い返事に、父上は少しだけ笑った。
「相変わらずだな」
私は二人の様子を眺めていた。
シエラが王宮からの依頼で私を監視し、護衛していたことは、すでに本人から聞いている。最初は随分と驚いたし、勝手に監視されていたことに腹も立ったけれど、今では彼女の事情も理解しているつもりだった。
それでも、こうして父上とシエラが直接話している姿を見るのは初めてだった。
「……父上」
「何だ?」
「シエラから、全部聞いていますからね」
父上は少しだけ眉を上げた。
「……何のことだ?」
「私の監視と護衛を頼んでいたことでしょう?」
父上は一瞬黙り、それから小さく苦笑した。
「……ああ。そのことか」
「そのことか、じゃありませんよ。七年間も、ずっと見られていたんですから」
「……すまんな」
父上は素直に謝った。
私は少し驚いたけれど、すぐに笑ってしまった。
「もう、怒っていませんよ」
「そうか?」
「ええ。もちろん、最初は面白くなかったですけど……」
私はシエラへ目を向けた。
「今では、シエラは私の大切な友人ですから」
シエラが少し驚いたように私を見た。
それから、静かに微笑んだ。
「……ありがとう、リカ」
父上はそんな私たちを見て、安心したように頷いた。
「……そうか。それなら、よかった」
私は少しだけ肩をすくめた。
「ただし、父上。私生活のことまで細かく報告させるのは、やめてくださいね?」
「……何?」
「特に、タクマとのこととか!」
父上は少しだけ目を見開いた。
母上が小さく笑い、タクマは困ったように視線を逸らした。
シエラだけが、いつものように穏やかな顔で頷いていた。
「……できるだけ」
「シエラ!」
私は思わず声を上げた。
その様子を見て、父上まで笑い始めた。
まったく、どうしてこうなるのだろう。
*
和やかな雰囲気が少し落ち着いたところで、シエラが静かに口を開いた。
「……陛下。一つ、ご報告があります」
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
父上もすぐに表情を引き締める。
「……何だ?」
「王都へ向かう途中、私たちは襲撃を受けました」
室内の空気が変わった。
父上は私たちを見回し、怪我がないことを確認してから、改めてシエラへ目を向けた。
「詳しく聞かせてくれ」
シエラは頷き、襲撃の状況を説明し始めた。
王都へ向かう途中、何者かに襲われたこと。相手が私たちの移動経路をある程度把握していた可能性があること。そして、単なる盗賊の襲撃とは考えにくい点があったこと。
父上は途中で何度か質問を挟みながら、慎重に話を聞いていた。
「つまり、偶然襲われたわけではない可能性があるということか」
「……はい」
シエラは静かに頷いた。
「少なくとも、私にはそう見えました」
父上は少し考え込んだ。
「心当たりはあるのか?」
シエラは一度言葉を切った。
それから、静かに答えた。
「……私たちの組織に、王宮から別系統の依頼が届いています」
父上の表情が変わった。
「……別系統?」
「はい。今回の護衛任務とは異なる経路からの依頼です」
「誰からだ?」
「……まだ、確認できていません」
シエラは淡々と答えた。
「依頼があったことは把握していますが、詳しい内容や発注者については、私にも知らされていません」
父上は黙っていた。
私は二人の会話を聞きながら、少しだけ不安になった。
王宮から、シエラたちの組織へ別の依頼が出されている。それだけなら、特に不思議なことではないのかもしれない。けれど、父上がその依頼を知らないというのは、少し気になる。
「……それって、今回の襲撃と関係があるの?」
私が尋ねると、シエラは首を横に振った。
「……まだ分からない」
「……そう」
「ただ、気になるから」
シエラは静かに続けた。
「陛下にも、伝えておいた方がいいと思った」
父上は頷いた。
「報告に感謝する」
*
父上は少し考えてから、シエラへ尋ねた。
「そなたたちの組織では、依頼の情報は共有されておらぬのか?」
「……全部ではありません」
シエラは静かに答えた。
「仕事によって、担当する人が違います。依頼者も、目的も、それぞれですから」
「……なるほど」
父上は頷いた。
シエラは少しだけ考え、それから続けた。
「私たちダークエルフは、同じ考えを持っているわけではありません」
私は彼女の顔を見た。
シエラが自分たちの一族について話すことは、あまり多くない。彼女がダークエルフであることは知っているし、故郷を離れて暮らしていることも聞いたことがあるけれど、その詳しい事情については、ほとんど知らなかった。
「昔、私たちはシルヴァノールに暮らしていました」
シエラは淡々と語った。
「でも、白エルフから迫害を受けて、故郷を追われました。今は、色々な国に散らばって暮らしています」
その声には、強い怒りも悲しみも感じられなかった。
けれど、それがかえって、長い年月の重さを感じさせた。
「……流浪の民、ということか」
父上が静かに呟いた。
「……はい」
シエラは頷いた。
「生き延びるために、色々な仕事をしています。護衛をする者もいれば、情報を集める者もいます。傭兵として戦う者もいます」
彼女はそこで少しだけ言葉を切った。
「でも、同じ一族だからといって、みんなが同じ考えを持っているわけではありません」
私は黙って聞いていた。
「王国と協力する者もいれば、誰とも関わろうとしない者もいます。仕事のために動く者もいれば、別の目的を持つ者もいます」
父上は静かに頷いた。
「……なるほど。組織の中でも、すべての情報が共有されているわけではないということか」
「……はい」
シエラは頷いた。
私は彼女の横顔を見つめた。
今まで、シエラがどこか遠くを見ているような表情をすることがあった。自分のことをあまり話さず、必要以上に誰かへ踏み込もうとしないのも、そういう事情があるからなのかもしれない。
もちろん、彼女のすべてを理解できたわけではない。
けれど、少なくとも、シエラがどんな世界で生きてきたのか、その一端に触れた気がした。
同じ故郷を失った者同士であっても、必ずしも同じ道を選ぶわけではない。生き延びるために王国と協力する者もいれば、誰にも頼らずに生きようとする者もいる。彼女たちがどんな事情を抱えているのか、私には想像もつかない部分が多い。
それでも、シエラが自分の意思で私の友人でいてくれると言ってくれたことは、今でも大切に思っている。
仕事として私を見守っていた彼女が、今は友人として隣にいてくれる。
そのことが、何より嬉しかった。
*
父上はしばらく考え込んでいた。
やがて、静かに口を開いた。
「今回の件は、こちらでも調べさせよう」
シエラは頷いた。
「……お願いします」
「ただし、現時点では確証がない。そなたも、無理に動く必要はない」
「……分かっています」
父上は私へ目を向けた。
「リカルティール。王都にいる間は、くれぐれも注意してくれ」
「分かっています。でも、私たちだって冒険者なんですから」
私は少し笑って答えた。
「そう簡単に、やられたりしませんよ」
父上は苦笑した。
「お前が強いことは知っておる。だが、強ければ危険に遭わないというわけではない」
「……それは、そうですけど」
「まして、相手の目的が分からぬのなら、なおさらだ」
父上の言葉には、国王としての警戒と、父親としての心配が入り混じっているように感じられた。
私は少しだけ姿勢を正した。
「……はい。気をつけます」
隣でタクマも頷いた。
「俺も、できる限りリカの力になります」
父上はタクマへ目を向けた。
しばらく彼を見つめ、それから静かに頷いた。
「……頼むぞ」
「はい」
タクマは真剣な表情で答えた。
私は二人の様子を見て、少しだけ嬉しくなった。
父上がタクマをどこまで認めてくれたのかは分からない。けれど、少なくとも、私の隣にいる人間として、彼の言葉を受け止めてくれたのだと思う。
それは、私にとって大きな意味があった。
*
その後、父上はユリアナを呼び、王都滞在中の私たちの安全に配慮するよう指示した。
もちろん、私たちの行動を制限するつもりはないらしい。必要があれば護衛をつけることもできると言われたけれど、私は丁重に断った。冒険者として暮らしている以上、どこへ行くにも近衛兵がついてくるような生活は、さすがに遠慮したかったからだ。
父上は少し不満そうだったけれど、最後には私の意思を尊重してくれた。
「まったく、お前は昔から頑固だな」
「父上に似たんじゃないですか?」
「……誰がそんなことを言った」
「ふふっ。母上ですよ」
私がそう言うと、母上が楽しそうに笑った。
「まあ。私のせいにするの?」
「だって、本当のことでしょう?」
父上は小さくため息をついた。
そんなやり取りをしているうちに、先ほどまでの重い空気も少しだけ和らいだ。
面会を終えて立ち上がると、母上がタクマへ声をかけた。
「タクマさん」
「はい」
「リカルティールのことを、よろしくお願いしますね」
タクマは少し驚いた様子だったけれど、すぐに頷いた。
「はい。俺にできることは、精一杯やるつもりです」
母上は安心したように微笑んだ。
父上も静かに頷いた。
私は少し照れくさくなりながら、二人に頭を下げた。
「それじゃあ、また来ますね」
「うむ。気をつけて帰れ」
「ええ。また顔を見せてくださいね、リカルティール」
私たちはもう一度挨拶をして、応接室を後にした。
*
王宮の廊下を歩きながら、私は小さく息を吐いた。
今日は本当に色々なことがあった。
七年ぶりに父上と母上に会い、タクマを紹介し、シエラの仕事についても改めて話すことができた。もちろん、ヴィルヘルム兄上の死や、道中での襲撃については、まだ分からないことが多い。
それでも、少なくとも、私自身の気持ちは随分と整理できたように思う。
「リカ、疲れた?」
タクマが隣から尋ねてきた。
「少しね。でも、大丈夫よ」
「そっか」
「タクマこそ、緊張したでしょう?」
「……正直、かなり」
タクマは苦笑した。
「でも、思ってたより話しやすい人だったな」
「ふふっ。でしょう?」
「うん。国王陛下っていうより、普通のお父さんって感じもした」
「それ、父上が聞いたら喜ぶかもしれないわね」
私は笑った。
タクマも少し安心したように微笑んだ。
そんな話をしながら廊下を進んでいると、前方から数人の人影が近づいてくるのが見えた。
先頭を歩いているのは、上品な衣装に身を包んだ男性だった。年齢は三十歳前後だろうか。整った顔立ちに、落ち着いた物腰。周囲には貴族らしい男性が数人と、護衛と思われる騎士たちが付き従っている。
私は、その姿を見た瞬間、思わず足を止めた。
「……ハインリヒ兄上?」
男性も、私の声に気づいて足を止めた。
そして、こちらを見た。
一瞬、驚いたような表情を浮かべた後、すぐに穏やかな笑みへ変わる。
「……リカルティール?」
懐かしい声だった。
七年ぶりに聞く、もう一人の兄の声。
「久しいな」
ハインリヒ兄上は、ゆっくりと私たちの方へ歩み寄ってきた。
「七年ぶりか。元気そうで何よりだ」
「はい。お久しぶりです、兄上」
私は少し緊張しながらも、笑顔で答えた。
ヴィルヘルム兄上とは違い、ハインリヒ兄上は昔から何を考えているのか分からないところがあった。決して冷たい人ではなかったけれど、どこか一歩引いたところから周囲を見ているような印象があったのだ。
それでも、私にとっては大切な兄の一人だった。
「随分と雰囲気が変わったな」
ハインリヒ兄上は私の姿を眺め、少し笑った。
「髪も金色になっている。最初は別人かと思ったぞ」
「ふふっ。今はこの色で暮らしているんです。昔のままだと、色々と目立ってしまいますから」
「なるほど。確かに、王都で見かけても、すぐには気づかなかったかもしれんな」
兄上は穏やかに頷いた。
それから、少しだけ表情を改めた。
「帰還するという話は聞いていた。父上に呼び戻されたのか?」
私は首を横に振った。
「いいえ。私が自分で帰ってきたんです」
ハインリヒ兄上は、一瞬だけ目を見開いた。
「……自分の意思で?」
「はい。ヴィルヘルム兄上のことを聞いて、どうしても帰りたくなったので」
兄上はしばらく私を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
その声は、少しだけ意外そうだった。
「兄上?」
「いや、何でもない」
ハインリヒ兄上は穏やかに微笑んだ。
「お前が自分の意思で王宮へ戻ってくるとは、少し驚いただけだ。七年前のお前なら、考えられなかったことだからな」
「ふふっ。それは、そうかもしれませんね」
私は少し笑った。
確かに、七年前の私なら、王宮へ戻るなど考えもしなかった。あの頃は、自由になることしか頭になかったし、王女としての生活から離れることが何より大切だったのだから。
でも、今は違う。
王宮へ戻って暮らすつもりはないけれど、家族に会うことまで拒む必要はないと分かった。
「兄上も、随分と変わりましたね」
「そうか?」
「ええ。昔より、ずっと落ち着いた感じがします」
ハインリヒ兄上は小さく笑った。
「七年も経てば、少しは変わるさ」
その言葉に、私は頷いた。
確かに、私だって七年前とは随分と変わったのだから、兄上が変わっていても不思議ではない。
*
ハインリヒ兄上は、私の隣にいるタクマへ目を向けた。
「ところで、そちらの青年は?」
「ああ、紹介しますね」
私はタクマの腕に軽く触れた。
「タクマです。私の恋人なんです」
ハインリヒ兄上は少し驚いたように眉を上げた。
「……恋人?」
「はい」
私は少し照れながら頷いた。
タクマは一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。タクマと申します」
「そうか。妹が世話になっているようだな」
「いえ、こちらこそ、リカにはいつも助けられています」
タクマは少し緊張した様子だったけれど、落ち着いて答えた。
ハインリヒ兄上は彼をしばらく眺め、それから穏やかに微笑んだ。
「なるほど。随分と誠実そうな青年だな」
「ありがとうございます」
「どこの出身なのだ?」
「魔族領域より遥か東の、東方最辺境です。転移事故に巻き込まれたようで、今はノヴァグラードで暮らしています」
「……東方最辺境か」
兄上は少し興味を示したようだった。
「随分と遠いところから来たのだな」
「はい」
「なるほど。色々と苦労もあっただろう」
ハインリヒ兄上はそれ以上追及せず、私へ目を向けた。
「それで、リカルティール。今後は王宮で暮らすつもりなのか?」
私は首を横に振った。
「いいえ。ヴィルヘルム兄上の葬儀が終わったら、ノヴァグラードへ帰ります」
ハインリヒ兄上は少しだけ表情を緩めた。
「……そうか。お前らしいな」
「ふふっ。兄上も、昔から私が王宮を嫌がっていたことは知っているでしょう?」
「ああ。よく覚えているよ」
兄上は穏やかに笑った。
「お前が出ていった時、父上は随分と心配しておられた。だが、無理に連れ戻したところで、また逃げ出すだけだろうと思っていたよ」
「それは、否定できませんね」
私は苦笑した。
確かに、あの時の私なら、たとえ連れ戻されても、また逃げ出していただろう。父上が私の意思を尊重してくれたことは、本当にありがたかったと思う。
「でも、今回は違います」
私は兄上を見つめた。
「自分で帰ってきましたし、ちゃんと自分の意思で帰ります」
ハインリヒ兄上は少しだけ目を細めた。
「……そうか」
それから、穏やかに微笑んだ。
「ならば、よかった」
兄上は少しだけ考え、それから続けた。
「せっかく戻ってきたのだ。滞在中に一度、ゆっくり話そう」
「はい。私も、兄上と話したいです」
「うむ。では、また改めて時間を設けよう」
ハインリヒ兄上はそう言って、私たちに軽く頷いた。
そして、付き従っていた貴族や騎士たちを連れて、廊下の奥へ歩いていった。
*
兄上の姿が見えなくなってから、タクマが小さく息を吐いた。
「……あの人が、もう一人のお兄さんか」
「うん。ハインリヒ兄上よ」
「落ち着いた人だったな」
「昔からそうなの。ヴィルヘルム兄上とは、少し違う感じだったけど」
私は少し考えた。
ヴィルヘルム兄上は、昔から真面目で責任感の強い人だった。何事にも正面から向き合い、誰に対しても誠実であろうとするところがあった。
一方、ハインリヒ兄上は、もっと柔軟な考え方をする人だったように思う。物事を一歩引いたところから眺め、どうすれば上手く進むのかを考える。そんなところが、昔からあった。
どちらが良いというわけではない。
二人は性格こそ違っていたけれど、私にとってはどちらも大切な兄だった。
「……それにしても、少し驚いていたわね」
「何が?」
「私が、自分の意思で帰ってきたって話」
タクマは少し考えた。
「まあ、七年前に家出した妹が、自分から帰ってきたって言われたら、そりゃ驚くんじゃないか?」
「……そうね」
私は小さく笑った。
確かに、そのとおりかもしれない。
七年前の私なら、王宮へ戻るなど考えもしなかった。父上や母上に会いたいと思うことはあっても、王女としての生活へ引き戻されるのが怖くて、帰国することを避け続けていたのだから。
けれど、今の私は違う。
王宮で暮らすつもりはないし、王女としての役割に戻るつもりもない。それでも、家族を大切に思う気持ちは変わらないし、会いたい時には会いに来ればいいのだと分かった。
ハインリヒ兄上が驚いたのも、きっと、そんな私の変化を知らなかったからなのだろう。
「さて、そろそろ戻りましょうか」
私はタクマたちへ声をかけた。
「今日は随分と長い一日だったものね」
「そうだな。俺も、さすがに少し疲れたよ」
タクマは苦笑した。
シエラも静かに頷き、ボーマンはいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
私たちはユリアナに案内され、王宮の出口へ向かって歩き始めた。
七年ぶりに戻ってきた王宮には、懐かしい景色も、変わってしまったものも、たくさんあった。父上と母上に会い、タクマを紹介し、ハインリヒ兄上とも再会できた。ヴィルヘルム兄上のことを考えると、まだ胸が苦しくなるけれど、それでも、今日ここへ来てよかったと思う。
ただ、王宮の中には、私の知らない事情がいくつもあるらしい。兄上の死が公表されていないことも、王太子が決まっていないことも、シエラたちの組織へ別系統の依頼が届いていることも、今の私には分からないことばかりだった。
王宮で暮らしていた頃の私は、こうした事情を知ろうともしなかった。王女としての役割から逃げ出したくて、政治の話にはできるだけ関わらないようにしていたからだ。
今も、積極的に関わりたいとは思っていない。
それでも、父上や母上が何かを抱えていることは分かるし、ヴィルヘルム兄上の死についても、まだ明らかになっていないことがある。家族のことなのだから、知らないままでいいとは思えなかった。
ただ、今はまだ、何をどうすればいいのか分からない。
私は隣を歩くタクマを見上げた。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「今日は、一緒に来てくれてありがとう」
タクマは少し驚いたように私を見た。
それから、いつものように笑った。
「当たり前だろ。俺たち、恋人なんだから」
「……ふふっ。そうね」
私は微笑んだ。
タクマが隣にいてくれたから、今日の私は落ち着いて両親と向き合えたのだと思う。もちろん、父上と母上に会うのは私自身の問題だったけれど、王宮の外に戻れば、いつもの暮らしが待っている。その安心感が、思っていた以上に大きかった。
私は少しだけタクマとの距離を縮め、再び前を向いた。
王宮の外には、明るい午後の日差しが広がっていた。
七年前、私はこの場所から逃げ出した。
そして今、私は自分の意思でここへ戻り、再び自分の意思で外へ出ていこうとしている。
その違いを、私は確かに感じていた。
ただ、その時の私はまだ知らなかった。
王宮の中で、私の知らない思惑が少しずつ動き始めていることを。




