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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第4章】脱走王女は王宮に帰らない

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第55話 帰るべき場所


 国葬から三日が過ぎた。


 マリアベルクの街には、まだ喪に服する空気が残っていた。王宮や主要な建物に掲げられた黒い布はそのままで、通りを行き交う人々の服装にも、落ち着いた色合いのものが目立っている。王太子ヴィルヘルムの死は、王国にとってそれほど大きな出来事だったのだろう。


 それでも、街は少しずつ日常を取り戻し始めていた。朝になれば商人たちが店を開き、荷馬車が石畳の上を行き交い、広場には人々の声が戻ってくる。王太子を失った悲しみが消えたわけではないだろうけれど、だからといって人々の暮らしが止まるわけではない。誰もがそれぞれの生活を抱え、今日という一日を生きているのだ。


 私は宿舎の窓辺に立ち、そんな王都の様子を眺めていた。


「……そろそろ、帰るのね」


 口にしてから、自分でも少し意外に思った。王宮へ戻ることをあれほど嫌がっていた私が、今ではこの街を離れることに、わずかな名残惜しさを感じているのだから。


「名残惜しい?」


 背後からタクマの声がした。振り返ると、彼は荷物をまとめ終えたところらしく、旅支度を整えた鞄を足元に置いていた。


「……少しだけね」


 私は笑って答えた。


 七年前、王宮を飛び出した時には、二度と戻るつもりはなかった。今回だって、ヴィルヘルム兄上の訃報がなければ、マリアベルクへ帰ってくることはなかっただろう。


 けれど、実際に戻ってみると、懐かしいものがたくさんあった。王宮の廊下も、母上の部屋も、幼い頃に歩いた街並みも、記憶の中にある姿をほとんど変えずに残っていた。もちろん、七年という月日の間に変わったものもあるし、私自身も昔のままではない。それでも、ここで過ごした日々が消えてしまったわけではないのだと、改めて感じることができた。


 父上と母上に再会し、ハインリヒ兄上とも話すことができた。そして何より、ヴィルヘルム兄上をきちんと見送ることができた。


 兄上が亡くなった悲しみは、これからも簡単には消えないだろう。ふとした時に昔のことを思い出し、もう二度と会えないのだと実感することもあるはずだ。それでも、帰ってきてよかったと、今は心から思っている。


「でも、やっぱり帰りたいわ」


 私は窓の外へ目を向けた。


「ノヴァグラードには、私たちの家があるもの」


「だな」


 タクマは嬉しそうに笑った。


 私たちの家。


 以前は一人で暮らしていた森のログハウスも、今ではタクマと一緒に帰る場所になっている。朝起きれば彼がいて、一緒に食事をして、依頼へ出かけたり、魔法や剣の稽古をしたりする。何でもない日々の積み重ねが、あの家を私にとってかけがえのない場所にしていた。


 王宮での暮らしを懐かしく思う気持ちはある。けれど、今の私が帰りたい場所は、やっぱりあの森の家だった。


*


 出発の準備を整えた私たちは、最後の挨拶をするため王宮を訪れた。


 今回は公式な謁見ではなく、父上と母上の私室での面会だった。国葬の後処理や各地から訪れた弔問客への対応など、父上たちはまだ忙しいはずだけれど、私たちのために時間を作ってくれたらしい。


 案内された部屋へ入ると、父上と母上が待っていた。豪華な謁見の間とは違い、落ち着いた調度品が並ぶこの部屋には、私も幼い頃に何度か招かれたことがある。王国の統治者としてではなく、家族として過ごすための場所なのだ。


「おお、リカルティール。来たか」


「はい、父上」


 私は軽く頭を下げた。


 父上は以前よりも少し疲れているように見えた。国葬を終えたとはいえ、王太子を失った王国には、これから対応しなければならないことが山ほどあるのだろう。机の上には書類が積まれており、私たちが来る直前まで仕事をしていたことがうかがえた。


 それでも、私の姿を見ると、父上はいつものように笑ってくれた。


「もう帰るのか。随分と慌ただしいではないか」


「……はい。ノヴァグラードでも、色々とありますので」


「ふむ。冒険者というのも、なかなか忙しいものなのだな」


「そうですよ。父上が思っているより、ずっと」


 私が少し得意げに答えると、父上は声を上げて笑った。母上も微笑んでいる。


「リカルティール。今度は、七年も顔を見せないなんてことはしないでくださいね」


「……はい」


 私は少しだけ申し訳なくなった。王宮を出てからの七年間、私は自分の暮らしを守ることばかり考えていて、残された家族がどんな思いで過ごしていたのか、十分に考えようとしてこなかった。


 もちろん、あの時の選択を後悔しているわけではない。王宮を出なければ、今の私はいなかっただろうし、タクマとも出会えなかったかもしれない。けれど、自由を求めることと、家族を心配させ続けることは、必ずしも同じではなかったのだ。


「約束します。今度は、ちゃんと手紙も書きますから」


「ええ。楽しみにしていますよ」


 母上は優しく頷いた。


 その笑顔を見て、私は少しだけ肩の力が抜けた。こうして家族と向き合うことは、思っていたほど難しいことではなかったのかもしれない。


 そんなことを考えていると、父上が少しだけ表情を改めた。


「さて、リカルティール。お前の今後について、少し話しておかねばならん」


「……今後、ですか?」


 私は思わず身構えた。


 まさか、また王宮へ戻れと言われるのだろうか。国葬への参列は私自身が決めたことだけれど、それをきっかけに王女としての役割を求められるのではないかという不安が、まったくなくなったわけではない。


 そんな私の様子を見て、父上は苦笑した。


「そう警戒するな。お前の暮らしを変えろと言うつもりはない」


「……本当ですか?」


「本当だとも。まったく、お前は父親を何だと思っておるのだ」


「……いえ、別に」


 私は少しだけ目を逸らした。


 父上はため息をつき、それから話を続けた。


「これまで、リカルティール王女は病気療養のため、公の場から離れていることになっていた」


「……はい」


 それは、私も知っている。


 七年前、私が王宮を飛び出した後、王家はその事実を公表しなかった。王女が突然姿を消したとなれば、国内外に大きな混乱を招きかねない。王家の威信に関わるだけでなく、王位継承権を持つ者の失踪は、政治的な問題にも発展する可能性があったからだ。


 そこで、私は長期の病気療養に入ったことにされた。


 事情を知っている者は限られており、少なくとも対外的には、その説明が七年間維持されてきたのだ。


「だが、今回の国葬で、お前は公の場へ姿を現した。元気な姿を多くの者に見せた以上、いつまでも病気療養という説明を続けるわけにはいかん」


「……それは、そうですね」


 私は頷いた。


 王都の葬列には多くの人々が集まっていたし、大聖堂には貴族や外国の使節も参列していた。私が元気に歩いている姿を見た人は、少なくないはずだ。


 そもそも、七年間も病気療養を続けていた王女が、突然国葬に現れたのだから、何らかの説明が必要になるのは当然だった。


 父上は静かに続けた。


「そこで、今後はフロンティア大公国へ留学していることにする」


「……留学?」


「うむ。療養を終えた後、魔法研究と見聞を広めるため、フロンティア大公国に滞在している。そういう説明だ」


 私は少し考えた。


 確かに、それなら不自然ではないかもしれない。


 私は魔法学院を首席で卒業しているし、魔法研究に強い関心を持っていることも、王宮ではよく知られている。王女が他国で魔法の研究を続けているという話なら、少なくとも病気療養を続けているという説明よりは、ずっと説得力があるだろう。


「……でも、実際には冒険者を続けるんですよ?」


「構わん」


 父上はあっさりと答えた。


「お前が何をして暮らすかまで、王家が逐一説明する必要はない。あくまで対外的な立場を整えるだけだ」


「……なるほど」


「それに、フロンティア大公国には、優秀な冒険者が数多く集まっておる。魔法研究のために滞在するという説明にも、十分な説得力があるだろう」


 私は少し安心した。


 王女としての身分を残したまま、冒険者としての生活を続ける。以前の私なら、そんな中途半端な立場を嫌がったかもしれない。けれど、今は王女であることと、自由に生きることが必ずしも矛盾しないのだと、少しずつ理解できるようになっていた。


 もちろん、王女という身分が残る以上、今後も何かと面倒なことはあるかもしれない。それでも、少なくとも父上は、私がノヴァグラードで暮らし続けることを認めてくれているのだ。


「……分かりました。それなら、私も構いません」


「うむ。それでよい」


 父上は満足そうに頷いた。


 私はこれで話が終わったのだと思った。


 けれど、父上は今度はタクマへ視線を向けた。


「ところで、タクマ」


「……はい」


「お前にも、一つ勧めたいことがある」


 タクマは少し緊張した様子で姿勢を正した。


「何でしょうか?」


 父上は、何でもないことのように言った。


「フロンティア大公国で、貴族になれ」


「…………はい?」


 タクマが固まった。


 私も思わず父上を見つめた。


「ちょ、ちょっと父上! いきなり何を言ってるんですか!?」


「何を驚いておる。別におかしな話ではあるまい」


「おかしいですよ!」


 私が声を上げると、父上は楽しそうに笑った。


「フロンティア大公国は、そもそも開拓によって発展してきた国だ。優秀な冒険者が魔獣を討伐し、未開拓地を切り開く。その功績を認められた者が貴族として登用され、新たな領地を任されることも珍しくない」


 父上はそう言って、タクマへ視線を戻した。


「開拓地に人が集まり、村が生まれ、やがて街になる。そうした積み重ねによって、あの国は大きくなってきたのだ」


 私は少し考えた。


 確かに、フロンティア大公国にはそういう歴史がある。


 魔獣の脅威が強い地域では、まず冒険者たちが安全を確保し、その後に開拓民が入植することも多い。十分な功績を挙げた者が領主となり、開拓地を治める例もあると聞いたことがあった。


 もともとフロンティア大公国は、広大な未開拓地を抱えた国だ。豊かな土地があっても、そこに魔獣が棲みついていれば、人々は安心して暮らすことができない。だからこそ、魔獣と戦う力を持つ冒険者たちが、国の発展に深く関わってきたのだろう。


 ただ、そうした話は私にとって、どこか遠い世界の出来事だった。


 冒険者として依頼を受け、魔獣を討伐することはあっても、自分たちが領主になるなんて考えたこともなかったからだ。


「タクマ。お前はすでにB級冒険者なのだろう?」


「……はい」


「ボーマンから剣を学んでいるとも聞いておる。今後、十分な功績を挙げれば、貴族への道も決して夢物語ではあるまい」


 タクマは少し考え、それから慎重に答えた。


「……ありがとうございます。ただ、今は冒険者として、もっと実力をつけたいと思っています」


 父上は静かに頷いた。


「うむ。まずはそれでよい。だが、覚えておけ」


「……はい」


「お前が向こうで領主にでもなれば、話は変わる」


「……話、ですか?」


 父上はにやりと笑った。


「うむ。リカルティールとの間に子を成すことも、許してやらんでもないぞ」


「…………え?」


 今度は、私の思考が止まった。


 タクマも、何を言われたのか理解できていないようだった。


「ち、父上!?」


「こ、子供って、まだそんな話は……!」


 私とタクマの声が重なった。


 父上は、そんな私たちを見て豪快に笑った。


「はっはっは! 何を慌てておる。お前たちは恋人同士なのだろう?」


「そ、それはそうですけど!」


「ならば、いずれ考えることになる話ではないか」


 私は顔が熱くなるのを感じた。


 確かに、タクマとは恋人同士だ。


 将来のことをまったく考えていないわけではないし、いつかは結婚することだってあるかもしれない。タクマと一緒に暮らし、これからも同じ時間を過ごしていきたいという気持ちは、私の中ではっきりしている。


 でも、だからといって、父上から突然そんな話をされるとは思っていなかった。


 しかも、本人の目の前で!


「……陛下」


 それまで黙っていた母上が、笑いをこらえながら口を開いた。


「あまり二人をからかってはいけませんよ」


「む? わしは真面目に話しておるのだが」


「真面目なお話でしたら、もう少し順序というものがございますでしょう?」


「……それもそうか」


 父上は少し考え、それからまた笑った。


 私は思わずため息をついた。


 まったく、この人は。


 王国を治める国王だというのに、娘をからかう時だけは、どうしてこうも楽しそうなのだろう。


 けれど、タクマは少しだけ真剣な表情をしていた。


「……陛下」


「うむ?」


「今すぐ貴族になるとか、領主になるとか、そういうことは考えられません。でも、リカのことは、これからも大切にしたいと思っています」


 私は思わずタクマを見た。


 彼は少し緊張しているようだったけれど、まっすぐ父上を見つめていた。


 父上も、しばらくタクマを見つめ返していた。


 それから、静かに頷いた。


「……うむ。それでよい」


 その声は、先ほどまでの冗談めいたものとは少し違っていた。


「まずは、お前自身の道を進め。リカルティールのことも、頼んだぞ」


「……はい」


 タクマは深く頭を下げた。


 私は二人のやり取りを見つめながら、少しだけ胸が温かくなった。


 父上は、タクマのことを認めてくれているのだろう。少なくとも、私たちの関係を頭ごなしに否定するつもりはないらしい。


 それが、今の私には何より嬉しかった。


 ただ、父上がどうして突然、貴族になることを勧めたのかは、少し不思議だった。タクマが貴族になれば、王女である私との身分差が小さくなるということなのだろうか。


 もちろん、私自身はそんなことを気にしていない。


 けれど、父上は国王なのだ。私たちがどれだけ自由に生きたいと願っても、王族としての立場を完全に無視することはできないのかもしれない。


 そう考えると、先ほどの冗談も、ただの冗談ではなかったような気がした。


 もっとも、今の私には、そんな先のことまで考える余裕はなかった。


 何しろ、父上から突然、子供の話をされたばかりなのだから。


*


 父上たちとの面会を終え、私たちは王宮の廊下へ出た。


 そこで待っていたのは、ボーマンだった。


「ほほほ。お話は済みましたかな?」


「はい。……色々とありましたけど」


 私が少し疲れた声で答えると、ボーマンは楽しそうに笑った。


「それは何よりでございます」


 タクマは少し困ったような顔をしていたけれど、ボーマンは気にしていない様子だった。むしろ、私たちの反応を見て、何となく事情を察しているようにも思える。


 そして、少しだけ表情を改めた。


「さて、お二人にお伝えしておかねばならぬことがございます」


「……何でしょう?」


 タクマが尋ねる。


「わしは、もうしばらく王都に残ることになりましてな」


「……えっ?」


 私は思わずボーマンを見つめた。


「一緒に帰らないの?」


「ええ。少々、こちらで片づけねばならぬことができまして」


 ボーマンは穏やかに答えた。


 私は少し考えた。


 ボーマンは、つい数ヶ月前まで王宮の執事長を務めていた人だ。引退したとはいえ、王宮には今でも多くの知り合いがいるだろうし、国葬を終えたばかりの今、何かと頼られることもあるのかもしれない。


「……王宮のお仕事?」


「ほほほ。まあ、そのようなものですな」


 ボーマンは笑った。


「年寄りの昔の仕事が、少しばかり残っておったということです」


 それ以上、詳しい説明はなかった。


 けれど、私は何となく察した。


 ヴィルヘルム兄上を失ったことで、王国の情勢は大きく変わろうとしている。父上も、ハインリヒ兄上も、これから様々な問題に向き合わなければならないのだろう。


 ボーマンが王都に残るのも、きっとそうした事情が関係しているのだと思う。


 彼は長年、王宮の内側を見てきた人だ。近衛騎士団を率い、王宮の執事長として仕えてきた経験は、今の王国にとって貴重なものなのだろう。引退したからといって、その知識や人脈まで失われるわけではない。


 ただ、本人が話そうとしない以上、無理に尋ねるつもりはなかった。


「……そっか。ちょっと寂しくなるわね」


「ほほほ。そう言っていただけるとは、ありがたいことです」


 ボーマンは嬉しそうに笑った。


「それにしても、あの森の家はなかなか居心地がよかった。朝の静けさも、薪の匂いも、王宮では味わえませんからな」


「……そうだったの?」


「ええ。王宮では、どうしても人の出入りが多くなりますからな。森の中で過ごす静かな時間というものは、なかなか得難いものでございました」


 私は少し驚いた。


 ボーマンは、王宮で長年働いてきた人だ。だから、森のログハウスでの生活は不便に感じているのではないかと思っていた。


 けれど、本人は意外にも気に入っていたらしい。


 確かに、あの家は王宮とはまったく違う。豪華な調度品もなければ、大勢の使用人がいるわけでもない。朝になれば鳥の声が聞こえ、夜になれば森の静けさに包まれる。薪を割り、火を起こし、自分たちで食事を用意する。そんな暮らしは、王宮で長く働いてきたボーマンにとって、新鮮なものだったのかもしれない。


「……じゃあ、また戻ってきてくれる?」


「もちろんですとも」


 ボーマンは頷いた。


「まだタクマ殿の稽古も、途中でございますからな」


 そう言って、今度はタクマへ視線を向けた。


「タクマ殿。剣の稽古を怠ってはなりませんぞ」


「……はい!」


「わしが戻った時、腕が鈍っておれば承知しませんからな」


 タクマは少しだけ苦笑した。


「……分かりました。ちゃんと続けます」


「ほほほ。それでよろしい」


 ボーマンは満足そうに頷いた。


 私はそんな二人のやり取りを見ながら、少しだけ安心した。


 ボーマンが王都に残るのは寂しいけれど、これでお別れというわけではない。また、あの森の家で一緒に過ごせる日が来るのだろう。


 それに、タクマにとってボーマンは、ただの剣の師匠ではない。異世界からやってきた彼が、この世界で自分の力を身につけていくために、何度も手を差し伸べてくれた人なのだ。


 そのつながりが、これからも続いていくことを嬉しく思った。


*


 王宮を出る前、シエラとも今後のことを確認した。


 彼女はこれまでどおり、私たちと一緒にノヴァグラードへ戻ることになっている。ただし、今回の帰郷を機に、王宮との連絡役を正式に引き受けることになったらしい。


「何かあれば、私に言って。王宮へ伝えるから」


 シエラはいつものように、涼しい顔で言った。


「……なんだか、ますます便利な人になってない?」


「今さら?」


 私は思わず笑ってしまった。


 シエラは、七年前から私のことを見守ってくれていた。もちろん、そのことを知った時には驚いたし、少し複雑な気持ちにもなった。けれど、今では彼女がそばにいてくれたことを、ありがたく思っている。


 彼女自身は王宮に直接仕えているわけではない。シエラが所属する独立した組織が王宮から依頼を受け、その仕事の一つとして私の様子を見守ってきたのだ。


 今回も、その関係は変わらないらしい。


 ただ、これからは私の方からも、必要があれば王宮へ連絡を取れるようになる。王宮からの連絡も、シエラを通して受け取ることができるという。


「……でも、助かるわ。何かあった時、どうやって連絡しようかと思ってたから」


「手紙でもいいけど、急ぎなら私を通した方が早い」


「そうね。頼りにしてるわ」


「任せて」


 シエラは小さく頷いた。


 その表情は、いつもと変わらない。


 けれど、私は少しだけ嬉しかった。


 七年前、私は王宮とのつながりを断ち切ろうとしていた。それが今では、王宮と連絡を取り合うための手段を、自分から受け入れようとしている。


 私も少しは変わったのかもしれない。


 もちろん、シエラが抱えている仕事は、連絡役だけではない。王都へ向かう途中で私たちを襲った者たちのことも、まだ何も解決していないのだ。


 けれど、今はそれを考えても仕方がない。


 何か分かれば、シエラが教えてくれるだろう。私はそう信じることにした。


*


 出発の時間が近づいた。


 王宮の門へ向かうと、父上と母上が見送りに来てくれていた。


 私は少し驚いた。国葬を終えたばかりで、二人とも忙しいはずなのに、わざわざここまで足を運んでくれたのだ。


「……父上、母上」


「リカルティール」


 母上が歩み寄り、私を抱きしめた。


「どうか、元気で。今度は手紙をくださいね」


「……はい、母上」


 私は母上の背中へ腕を回した。


「ちゃんと書きます。約束します」


「ええ。楽しみにしていますよ」


 母上は優しく微笑んだ。


 私は少しだけ目頭が熱くなった。


 七年前、王宮を出た時には、こんなふうに見送ってもらうことなど考えもしなかった。あの時の私は、ただ逃げることに必死だった。王女としての立場から離れ、自分の自由を手に入れるためには、家族との別れさえ受け入れなければならないと思っていた。


 けれど、今は違う。


 私は自分の意思で、ノヴァグラードへ帰ろうとしている。そして、父上も母上も、それを認めてくれているのだ。


 母上から離れると、今度は父上が私の前へ立った。


「……リカルティール」


「はい、父上」


 父上は少しだけ言葉を探しているようだった。


 国王としての威厳を保とうとしているのか、いつもよりも表情が硬い。けれど、その目には、私が幼い頃から知っている父親としての優しさがあった。


 やがて、父上は静かに口を開いた。


「……困ったことがあれば、いつでも帰ってこい」


 私は父上を見つめた。


「お前がどこで暮らしていようと、ここはお前の生まれた場所だ。わしらは、いつでもお前を迎える」


 その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。


 七年前、私はこの場所を、自分を縛るものだと思っていた。


 王宮は、自由を奪われる場所。王女という立場は、逃げ出さなければならないもの。そんなふうに考えていた私は、ここに残ることも、ここへ戻ることも、自分の人生を諦めることと同じだと思い込んでいた。


 けれど、今は少しだけ違う。


 王宮は、私が生まれ育った場所でもある。父上と母上がいて、兄上たちと過ごした思い出がある場所なのだ。


 ここへ帰ってくることと、ここで暮らし続けることは、必ずしも同じではない。


 私は自分の意思で、また旅立つことができる。


 そして、いつか戻ってくることもできるのだ。


 私はゆっくりと頷いた。


「……はい、父上」


 そして、少しだけ笑った。


「行ってきます」


 父上は一瞬だけ目を見開いた。


 それから、静かに頷いた。


「……うむ。行ってこい」


 その言葉を聞いて、私はようやく、本当に王宮を離れられる気がした。


 七年前、私は誰にも告げずに逃げ出した。


 けれど、今日は違う。


 父上と母上に見送られ、自分の意思で帰っていく。


 それだけのことが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。


*


 王宮の門を出ると、馬車が待っていた。


 タクマとシエラが先に乗り込み、私は最後に振り返った。


 王宮の高い塔が、青空の下にそびえている。


 七年前、私はこの景色を見ながら、二度と戻らないと心に決めた。あの時の私は、自由になるためには、過去をすべて捨て去らなければならないと思っていたのだ。


 けれど、今はそんなことを思わない。


 また来ればいい。


 父上と母上に会いに来てもいいし、タクマと一緒に街を歩いてもいい。懐かしい場所を訪ね、昔の思い出を話してもいいのだ。


 私はもう、王宮から逃げる必要はない。


「リカ?」


 馬車の中から、タクマが声をかけてきた。


「……ううん。何でもない」


 私は笑って、馬車へ乗り込んだ。


 やがて馬車が動き出した。


 窓の外では、マリアベルクの街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。王宮へ続く大通りを抜け、商人たちが店を並べる通りを通り過ぎると、やがて街の外壁が見えてきた。


 私はしばらく、その景色を眺めていた。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「帰ったら、何する?」


 タクマは少し考えた。


「そうだな……まずは、ゆっくりしたいな」


「私も!」


 私は思わず笑った。


「しばらく依頼はお休みね」


「えっ、いいのか?」


「いいのよ。今回の帰郷、結構疲れたんだから」


 王都へ向かう途中では襲撃にも遭ったし、王宮へ戻ってからは、久しぶりの家族との再会や国葬への参列など、落ち着かない日々が続いていた。肉体的な疲れもあるけれど、それ以上に、気持ちの面でずいぶんと消耗していたのだと思う。


 帰ったら、しばらくは何も考えずに過ごしたい。


 朝はゆっくり起きて、タクマと一緒に食事をして、気が向いたら森を散歩する。そんな何でもない日常が、今はとても恋しかった。


 すると、向かいに座っていたシエラが口を挟んだ。


「ギルドのエリナ、困るかもね」


「……なんで?」


「リカが戻ってくるの、楽しみにしてると思うから」


「それと依頼は別でしょ!」


 私が言い返すと、タクマが笑った。


 シエラも小さく笑っている。


 私は少しだけ頬を膨らませたけれど、結局、つられて笑ってしまった。


 こうして三人で話していると、ようやくいつもの日常へ戻ってきたような気がする。


 王宮で過ごした時間は、決して無駄ではなかった。父上と母上に会えたことも、兄上を見送れたことも、私にとって大切な経験だった。


 けれど、私がこれから生きていく場所は、やっぱりノヴァグラードなのだ。


 私は窓の外へ目を向けた。


 王都の城壁が、少しずつ遠ざかっていく。


 七年前、私は自由を求めて王宮を飛び出した。


 あの時は、自由になるためには、何もかも捨てなければならないと思っていた。家族も、王女としての名前も、生まれ育った場所も、すべてを遠ざけなければ、自分の人生を生きることはできないと信じていたのだ。


 けれど今は、少しだけ違う。


 私はリカルティールであることを、完全に捨てる必要はない。父上と母上の娘であることも、ヴィルヘルム兄上の妹であることも、変わらない。


 それでも、冒険者リカとして生きていくことはできる。


 大切なものを持ったままでも、自由でいることはできるのだ。


 私はそう信じている。


 隣にはタクマがいて、向かいにはシエラがいる。


 これからも、色々なことがあるだろう。楽しいことばかりではないかもしれないし、思いがけない困難に出会うこともあるかもしれない。


 それでも、今の私には、一緒に歩いてくれる人たちがいる。


 そして、帰る場所がある。


 私は小さく微笑み、遠ざかっていく王都へ最後の視線を向けた。


 また、いつか。


 馬車は、ノヴァグラードへ向かって進んでいった。


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