第47話 旅立ちの支度
翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。
昨夜はなかなか寝つけなかったけれど、それでもいつの間にか眠っていたらしい。隣ではタクマが静かに寝息を立てていて、私が身じろぎしても起きる気配はない。私はしばらくその寝顔を眺めてから、起こさないようにそっと寝台を抜け出した。
窓を開けると、森の冷たい空気が部屋へ流れ込んできた。
木々の間から差し込む朝日が庭の一角を照らし、薬草畑には薄い朝露が降りている。どこかで小鳥が鳴いていて、時折、枝葉を揺らす風の音が聞こえた。
いつもと変わらない朝だった。
この家を建ててから、もう何年になるだろう。
王宮を飛び出したばかりの頃は、ノヴァグラードの安宿を転々としていた。冒険者としての仕事も覚えたてで、依頼を受けるたびに緊張していたし、稼いだお金をどう使えばいいのかもよく分かっていなかった。
それでも、少しずつ仕事に慣れ、生活にも余裕ができるようになった。やがて自分の家が欲しいと思うようになり、街の職人に頼んで、この森の中に家を建ててもらった。
誰にも邪魔されず、好きな時に起きて、好きな時に仕事をする。そんな暮らしがしたかったのだ。
家の周囲には認識を阻害する結界を張ってあるので、普通の人間が偶然ここへ迷い込むことはない。魔物も近づきにくいようにしてあるし、何か異常があればすぐに分かるよう、いくつかの魔法陣も設置している。
街から少し離れているのは不便だけれど、その分、静かで落ち着いた暮らしができる。街へ出かける時には転移魔法陣を使えばいいので、実際にはそれほど困ることもなかった。
私はこの家が気に入っていた。
そして今は、タクマも一緒に暮らしている。
以前は一人で使っていた食卓に、今では二人分の食器が並ぶ。台所には彼が使う調理道具も増えたし、居間にはタクマが読みかけの本を置いていくこともある。
最初は、誰かと一緒に暮らすなんて面倒だと思っていた。
でも、実際に始めてみれば、そんなことはなかった。むしろ、誰かが家にいるということが、こんなにも安心できるものなのだと知った。
私は窓の外を眺めながら、小さく息を吐いた。
しばらく、この家を離れることになる。
昨日、ヴィルヘルム兄上が亡くなったと知らされた。
まだ、実感が湧かない。
頭では理解しているつもりなのに、ふとした瞬間に、何かの間違いだったのではないかと思ってしまう。兄上は今も王宮で忙しく働いていて、私が訪ねれば、いつもの困ったような笑顔で迎えてくれるのではないだろうか。
そんなことを考えてしまう自分がいた。
けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
兄上の葬儀に参列すると決めたのだ。
まずは、そのための準備をしなければならない。
「……リカ?」
背後から声がした。
振り返ると、タクマが寝台の上で体を起こしていた。
「おはよう、タクマ」
「おはよう。……早いね」
「ちょっと、目が覚めちゃって」
タクマは私の顔を見て、少しだけ心配そうな表情になった。
「……眠れた?」
「ええ。少しはね」
「そっか」
彼はそれ以上尋ねず、寝台から降りた。
私はそんなタクマを見ながら、少しだけ笑った。
「今日は忙しくなるわよ。まずはギルドへ行って、しばらく依頼を受けられないことを伝えなきゃ」
「うん。エリナさんたちにも挨拶しておかないとね」
「それから、フリーダとクルシュにも話しておきたいことがあるの」
「……リカのこと?」
「ええ」
タクマは静かに頷いた。
私はもう一度窓の外を見た。
森は、いつもどおり穏やかだった。
その静けさが、今朝は少しだけありがたかった。
*
朝食を済ませた私たちは、戸締まりを確認して家を出た。
森の中を少し歩くと、木々に囲まれた場所に転移魔法陣がある。ノヴァグラード近郊に設置した魔法陣と繋がっていて、普段から街へ出かける時にはこれを利用していた。
以前は私にしか起動できなかったけれど、今ではタクマも使えるようになっている。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
タクマが魔法陣を起動させると、足元に淡い光が広がった。
次の瞬間、私たちはノヴァグラード近郊の林の中に立っていた。
ここからギルドまでは、そう遠くない。私たちは街へ向かって歩き始めた。
冒険者ギルドへ到着すると、受付にはいつものようにエリナが座っていた。
私たちの姿に気づいた彼女は、明るい笑顔を浮かべる。
「おはよう、リカ! タクマも!」
「おはよう、エリナ」
「おはようございます」
「今日は二人で依頼を受けるの? ちょうど良さそうなのが何件かあるわよ」
エリナはそう言いながら、手元の書類を取り出そうとした。
私は首を横に振った。
「……ごめん。今日は依頼を受けに来たんじゃないの」
「……え?」
エリナが顔を上げた。
「どうしたの?」
「しばらく、ノヴァグラードを離れることになったの」
彼女の表情が変わった。
「……しばらくって、どれくらい?」
「まだ、はっきりとは決まってないわ。数週間くらいになると思うけど、場合によってはもう少しかかるかもしれない」
「二人とも?」
「ええ。タクマも一緒よ」
エリナは私とタクマの顔を交互に見た。先ほどまでの明るい表情が少し曇り、私たちにだけ聞こえるくらいの声で尋ねてくる。
「……何かあった?」
私は一瞬、答えに迷った。
エリナは私の正体を知らない。もちろん、ヴィルヘルム兄上が私の兄だということも知らないはずだ。
王宮からの正式な発表がどうなっているのか分からない以上、今ここで詳しい事情を話すべきではないだろう。そもそも、暗殺された可能性があるという話は、シエラの組織が独自に得た情報なのだ。
「……ちょっと、故郷の方で用事ができたの」
「故郷?」
「ええ。マリアベルへ行くことになったのよ」
「……マリアベルって、あのマリアベル王国?」
「そうよ」
エリナは少し驚いたようだった。
私がマリアベル出身だということは知っているけれど、これまで帰郷するような話をしたことはほとんどなかった。私自身、あの国へ戻るつもりがなかったのだから、当然かもしれない。
「……そっか。随分遠いわね」
「そうね。でも、行かなきゃいけない用事なの」
エリナはしばらく私を見つめていた。
きっと、色々と聞きたいことがあったのだと思う。でも、彼女はそれ以上尋ねなかった。
「……分かった。じゃあ、しばらく依頼はお休みね」
「ええ。お願い」
「帰ってきたら、ちゃんと顔を出してよ? 最近は二人とも活躍してくれてるんだから、いなくなると困るんだからね」
エリナはいつもの調子で笑った。
私は少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
「……ありがとう、エリナ」
「何よ、急に改まって」
「ううん。何でもない」
エリナは不思議そうに首を傾げたけれど、それ以上は聞かなかった。
必要な手続きを済ませ、私たちはギルド長室へ向かった。
*
バルザックは、いつものように机に向かって書類を読んでいた。
私たちが入室すると、顔を上げて大きな椅子に背を預ける。
「おう、リカ。タクマも一緒か。どうした?」
「ちょっと、報告があって」
「報告?」
私は、しばらくマリアベルへ行くことになったと伝えた。
バルザックは一瞬だけ眉を動かしたけれど、すぐにいつもの表情へ戻った。
「……そうか」
それだけ言って、しばらく私を見つめる。
「タクマも行くのか?」
「はい。一緒に行くつもりです」
「分かった。ギルドの方は問題ねえ。戻ってきたら、また依頼を受けてくれりゃいい」
バルザックはそう言って頷いた。
彼は以前、私の出自を知っていることを打ち明けてくれた。詳しい事情を尋ねることもなく、今までどおり接してくれている。
今回も、マリアベルへ向かうと聞いて何かを察したのかもしれない。
「……リカ」
「なに?」
バルザックは少しだけ声を落とした。
「……向こうへ戻るつもりなのか?」
私は首を横に振った。
「いいえ。用事が済んだら、ここへ帰ってくるわ」
バルザックは私の顔をじっと見つめ、それから小さく笑った。
「……そうか」
大きな手で机を軽く叩く。
「だったら、帰ってきた時にはまた仕事を頼むぞ。最近はお前ら二人を当てにしてる連中も増えてきたからな」
「ええ。もちろんよ」
「タクマ、お前もだぞ。せっかくB級になったんだから、戻ってきたらしっかり働いてもらうからな」
「はい。頑張ります」
タクマが笑って答えると、バルザックも満足そうに頷いた。
私は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
王宮を出てから七年。私はずっと、自分の居場所を探していたのかもしれない。
でも、今は違う。
この街には、帰ってくる場所がある。
バルザックは、私が王女だと知っていても、冒険者として扱ってくれる。何か特別な役割を押しつけることもなければ、王宮へ戻るように説得することもない。
帰ってきたら、また仕事を頼む。
それだけだった。
その何でもない言葉が、今の私には何より嬉しかった。
*
ギルド長室を出て、受付の方へ戻ろうとしたところで、聞き慣れた声がした。
「おーい、リカ!」
振り返ると、フリーダとクルシュがこちらへ歩いてくるところだった。
フリーダはいつものように大きく手を振り、その隣ではクルシュが穏やかに微笑んでいる。
「おはよう、二人とも」
「おう! 今日はタクマも一緒か。何か面白そうな依頼でもあったか?」
「いえ、今日はちょっと用事があって」
タクマが答えると、フリーダは不思議そうに首を傾げた。
「用事?」
私は少しだけ迷ってから、二人へ向き直った。
「……ねえ、フリーダ、クルシュ。ちょっと話したいことがあるんだけど」
「ん? 何だ?」
「できれば、人のいないところで」
私の表情を見て、フリーダはすぐに真面目な顔になった。
「……分かった。じゃあ、奥の部屋でも借りるか」
クルシュも静かに頷いた。
私たちはギルドの小さな会議室を借り、四人でテーブルを囲んだ。
扉を閉めると、フリーダが腕を組んで私を見た。
「……で、どうしたんだ?」
私は一度、深く息を吸った。
この二人には、いつか話さなければならないと思っていた。
冒険者として一緒に仕事をし、何度も危険な目に遭い、酒場で笑い合ってきた仲間だ。私が失敗すれば遠慮なくからかってくるし、困った時には何も言わずに手を貸してくれる。
それなのに、私はずっと大きな秘密を隠していた。
もちろん、正体を明かせば色々と面倒なことになるかもしれない。王女だと知られれば、今までどおり付き合ってもらえなくなる可能性だってある。
でも、この二人なら。
私は、そう思った。
「……実はね。私、しばらくノヴァグラードを離れることになったの」
「……は?」
フリーダが目を丸くした。
「おいおい、せっかくタクマがB級になったってのに、もう長期休暇か?」
「休暇じゃないわよ」
「じゃあ、何だ?」
「……故郷へ帰るの」
「故郷?」
「ええ。マリアベルへ」
フリーダは少し考えるように首を傾げた。
「そういや、お前ってマリアベル出身だったな」
「ええ」
「で、わざわざあたしらを呼び出したってことは、ただの帰省じゃないんだろ?」
私は頷いた。
「……二人には、ちゃんと話しておきたいことがあるの」
クルシュが静かに口を開いた。
「……何でしょうか?」
私は二人の顔を見た。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……私の本当の名前は、リカルティール」
フリーダとクルシュが、黙って私を見つめる。
「マリアベル王国の、王女なの」
しばらく、誰も何も言わなかった。
フリーダは口を半開きにしたまま固まり、クルシュは何度か瞬きをしている。
やがて、フリーダがゆっくりと口を開いた。
「…………は?」
私は少しだけ苦笑した。
「だから、王女なのよ」
「……いや、聞こえたけどさ」
フリーダは私の顔をじっと見つめた。
「……お前が?」
「ええ」
「……王女?」
「そうよ」
「……マジで?」
「本当よ!」
思わず声を大きくすると、フリーダは椅子の背もたれに体を預けた。
「……いや、待て待て。ちょっと待て」
頭を抱えている。
クルシュはしばらく黙っていたけれど、やがてタクマの方を向いた。
「……タクマさん。これは、本当のお話ですか?」
「はい。本当です。俺も最近知ったんですけど」
「……そうですか」
クルシュは小さく息を吐いた。
それから、改めて私の方を向く。
「……驚きました」
「……そうよね」
「ええ。ですが、少し納得できるところもあります」
「……え?」
クルシュは穏やかに微笑んだ。
「リカさんは、時折とても自然に貴族の作法をご存じでしたから。冒険者としては珍しいことだと思っていました」
「ああ!」
フリーダが突然、声を上げた。
「そういや、お前、妙なところで育ちがよかったもんな!」
「妙なところって何よ!」
「いや、だってさ。酒場じゃ普通に飲んで騒ぐくせに、変なところで礼儀正しいし、偉そうな貴族相手でも全然物怖じしねえし!」
「それは別に、王女だからってわけじゃないでしょ!」
「あと、魔法が最初からおかしかった!」
「それは関係ないわよ!」
思わず言い返すと、フリーダは声を上げて笑った。
クルシュも、口元を押さえて微笑んでいる。
私は少しだけ呆れたけれど、同時に安心していた。
もっと驚かれると思っていた。
あるいは、距離を置かれてしまうかもしれないと、少しだけ怖かった。
でも、二人はいつもどおりだった。
「……それで」
クルシュが静かに口を開いた。
「今回、マリアベルへ向かわれるのは、王家に関係するご用件なのですね?」
私は頷いた。
そして、少しだけ視線を落とした。
「……兄が、亡くなったの」
フリーダの笑顔が消えた。
クルシュも、真剣な表情になる。
「……そうか」
フリーダが小さく呟いた。
「……それは、辛いな」
「ええ。だから、葬儀に参列しようと思って」
私は、兄上の死について詳しく話さなかった。
王宮で亡くなったことや、殺された可能性があることは、まだ公にされていない情報だ。二人を信用していないわけではないけれど、今の段階で余計なことを知らせる必要はないだろう。
フリーダはしばらく黙っていたけれど、やがて静かに頷いた。
「……そっか。そりゃ、行かなきゃな」
クルシュも頭を下げた。
「お悔やみ申し上げます、リカさん」
「……ありがとう」
私は小さく頷いた。
それから、二人の顔を見た。
「……今まで黙っていて、ごめんなさい」
フリーダは首を傾げた。
「何が?」
「……私が王女だったこと」
「ああ、そんなことか」
あまりにもあっさり言われたので、私は少し驚いた。
「……そんなこと?」
「そりゃ驚いたけどさ。別に、だからどうしたって話だろ?」
フリーダは肩をすくめた。
「冒険者なんて、色んな事情のある奴ばっかりだ。昔のことを話したくない奴だって珍しくねえし、あたしらだって全部を知ってるわけじゃない」
そう言って、にっと笑う。
「王女だろうが何だろうが、あたしらにとっちゃリカはリカだろ」
私は何も言えなかった。
クルシュも静かに頷いた。
「ええ。私も同じ気持ちです。こうして話してくださったことが、何より嬉しいですよ」
「……二人とも」
胸の奥が、少し温かくなった。
私は、二人に正体を知られることが怖かったのかもしれない。
王女だと分かれば、今までの関係が変わってしまうのではないか。気を遣われたり、距離を置かれたりするのではないか。
でも、そんな心配は必要なかった。
フリーダとクルシュにとって、私は王女リカルティールではなく、冒険者のリカなのだ。
「……ありがとう」
私は小さく笑った。
「でも、このことは他の人には秘密にしておいてほしいの」
「おう、分かってる」
「もちろんです」
二人は迷わず頷いた。
私は、心から安心した。
*
午後になってから、私たちはボーマンのログハウスを訪れた。
ギルドでの用事を済ませた後、ノヴァグラード近郊の転移魔法陣を使って森へ戻り、そこから少し歩いてボーマンの住まいへ向かった。つい最近までタクマが毎日のように修行に通っていた場所なので、今ではすっかり馴染みのある道だ。
ログハウスへ到着すると、既にシエラも来ていた。
ボーマンは私たちを室内へ案内し、いつものようにお茶を用意してくれた。けれど、今日はあまり笑わなかった。昨日の知らせを受けてから、きっと色々なことを考えているのだろう。
私も、まだ気持ちの整理がついたわけではない。
でも、決めたことがある。
「……ボーマン」
「はい、殿下」
「私、マリアベルへ行くわ」
ボーマンは静かに頷いた。
「……承知いたしました」
「兄上のお葬式に、参列したいの」
「はい。私も、そのつもりで準備を進めておりました」
私は少し驚いた。
「……ボーマンも?」
「もちろんでございます。ヴィルヘルム殿下には、長年お仕えしてまいりました。最後のお見送りをさせていただきたく存じます」
ボーマンは静かに答えた。
その声には、昨日と同じように深い悲しみが滲んでいた。
私は小さく頷いた。
「……そうね。一緒に行きましょう」
「ありがとうございます、殿下」
すると、シエラが口を開いた。
「……私も行く」
私は彼女を見た。
「……シエラも?」
「……うん」
「でも、仕事は大丈夫なの?」
「……これも仕事。王宮との連絡もあるから」
シエラはそう言ってから、少しだけ微笑んだ。
「……それに、友達だから」
私は思わず笑ってしまった。
「……ありがとう、シエラ」
「……うん」
こうして、私たち四人でマリアベルへ向かうことが決まった。
もっとも、行くと決めたからといって、すぐに出発できるわけではない。
ノヴァグラードからマリアベルクまでは、決して近い距離ではなかった。
ボーマンは棚から地図を取り出し、テーブルの上へ広げた。
「さて、まずは行程を考えねばなりませんな」
私は地図を覗き込んだ。
ノヴァグラードから西へ向かい、いくつかの街道を経由してマリアベル王国へ入る。そこからさらに進めば、王都マリアベルクへ到着する。
地図の上ではそれほど遠く見えないけれど、実際にはかなりの距離がある。
「通常の馬車であれば、二週間以上は見ておく必要がございます。途中の街道状況によっては、さらに日数がかかるでしょう」
「……そんなに?」
タクマが驚いたように言った。
「はい。ですが、今回は騎馬での移動を考えております」
「馬で?」
「ええ。四人とも騎乗に問題がなければ、十日前後で到着できるかと」
私はタクマを見た。
「……タクマ、馬には乗れる?」
「……いや、ほとんど経験ないけど」
私は少し考えた。
そういえば、タクマが馬に乗っているところを見たことがない。
これまで商隊の護衛をしたことはあるけれど、その時も基本的には馬車での移動だったはずだ。
「……じゃあ、ちょっと練習が必要ね」
「……だよね」
タクマは苦笑した。
ボーマンは穏やかに頷いた。
「ご心配には及びません。タクマ殿であれば、基本的な騎乗はすぐに習得なさるでしょう。もっとも、長距離を馬で移動するとなれば、また別の苦労がございますが」
「……何だか嫌な予感がしますね」
「ほほほ。剣の修行に比べれば、随分と楽なものでございますよ」
タクマは何とも言えない顔をした。
私は少しだけ笑ってしまった。
そこで、ふと思い出したことがあった。
「……そういえば、ボーマン」
「はい?」
「前にマリアベルから来た時、随分早かったわよね?」
「……そうでございましたな」
「確か、往復で二週間くらいだったんじゃなかった?」
ボーマンは少しだけ苦笑した。
「ほほほ。あの時は、途中で何度も馬を替えましてな。随分と無理をいたしました」
タクマが目を丸くした。
「……往復で二週間!?」
「ええ。急ぎの用件でございましたので」
「……あの距離を?」
「王宮に仕えていた頃から、急ぎの移動には慣れておりました。もっとも、今となっては少々無茶をしたと思っております」
私は呆れてしまった。
「……もう、歳を考えなさいよ」
「ほほほ。殿下にそう仰っていただけるとは、ありがたいことでございますな」
ボーマンは笑ったけれど、私は本気で心配していた。
あの老人は、見た目こそ穏やかだけれど、昔から無茶をするところがある。タクマの修行でも、年齢を感じさせない動きを見せていたし、今でも十分に強いことは分かっている。
でも、だからといって無理をしていいわけではない。
「今回は、ちゃんと休みながら行くのよ」
「承知しております。今回は皆様とご一緒ですからな」
ボーマンはそう答え、地図の上に指を置いた。
「まずは、主要街道を利用して西へ向かいます。途中の宿場町で馬を休ませ、必要に応じて交換馬を手配いたしましょう」
シエラも頷いた。
「……国境の手続きは、私が確認する」
「頼める?」
「……うん」
ボーマンは地図の上にいくつかの印をつけながら、宿泊できそうな街や、街道の分岐について説明してくれた。
私もマリアベルからノヴァグラードへ来たことはあるけれど、七年前のことだ。しかも、あの時は王宮から逃げることばかり考えていたので、道中の細かなことはあまり覚えていない。
今回は、ボーマンとシエラが一緒にいてくれる。
それだけでも、随分と心強かった。
*
行程が大まかに決まったところで、ボーマンがタクマへ向き直った。
「……さて、タクマ殿」
「はい?」
「一つ、確認しておきたいことがございます」
「何でしょう?」
「マリアベルクへ到着した際、タクマ殿をどのような立場で王宮へお連れするか、ということでございます」
タクマは少し考えた。
「……立場、ですか?」
「はい。殿下の同行者であることは間違いございませんが、王宮では身分や立場によって対応が変わることもございますので」
私は、すぐに口を開いた。
「私の恋人よ」
ボーマンは一瞬だけ言葉を止めた。
「……それは存じておりますが」
「だったら、それでいいじゃない」
「王宮への正式な連絡では、もう少し穏当な表現が必要かと存じます」
私は首を傾げた。
「……どうして?」
「殿下。王宮という場所は、些細な言葉一つで余計な騒ぎが起きることもございます。特に今は、ヴィルヘルム殿下の葬儀を控えた大切な時期でございますので」
私は少し考えた。
確かに、ボーマンの言うことは分かる。
王宮には、何かにつけて人の噂をする人たちがいる。王女が七年ぶりに帰ってきただけでも大騒ぎになるだろうに、その隣に見知らぬ男性がいたら、余計な憶測を呼ぶかもしれない。
でも、だからといって、タクマとの関係を隠すつもりはなかった。
「……別に、隠すことじゃないでしょ?」
「もちろんでございます。ただ、順番の問題でございますな」
ボーマンは穏やかに答えた。
タクマも苦笑している。
「……俺も、いきなり王様に恋人ですって紹介されるのは、ちょっと緊張しますね」
「……そう?」
「そりゃそうだよ。普通に考えたら、すごいことだと思うけど」
私は少しだけ不満だったけれど、二人の言うことも理解できた。
結局、タクマは当面、私の同行者として扱うことになった。
王宮へ到着してから、必要に応じて関係を説明すればいいということらしい。
「……でも、私は隠すつもりないからね」
「承知しております」
ボーマンは笑った。
「殿下は、昔から一度決めたことを曲げない方でございましたな」
「……そうだったかしら?」
「ええ。随分と苦労させられたものでございます」
私は少しだけ頬を膨らませた。
タクマとシエラが、揃って笑っていた。
*
それから私たちは、旅立ちの準備を進めることになった。
ボーマンは宿場町や馬の手配について調べ、シエラは国境を越えるための書類や、王宮側への連絡を確認する。
私とタクマは、旅に必要な装備を整えることにした。
マリアベルへ向かうとはいえ、街道を進む以上、魔獣に遭遇する可能性はある。私は魔法を使えるし、タクマも今ではB級冒険者だ。戦闘になっても大きな問題はないと思うけれど、だからといって油断するわけにはいかない。
武器や防具の点検を済ませ、旅に必要な道具を揃える。
タクマは荷物を整理しながら、何度も持ち物を確認していた。
「……これ、全部持っていく必要あるかな」
「何を?」
「いや、野営道具とか。宿場町を使うなら、そこまで必要ないのかなって」
「でも、途中で何があるか分からないでしょ。最低限は持っていった方がいいと思うわ」
「……そうだよね」
タクマは頷き、荷物を詰め直した。
私はその様子を眺めながら、ふと七年前のことを思い出した。
あの時も、こうして荷物をまとめた。
王宮から逃げるために。
誰にも知られないように、必要なものだけを選び、持ち運べるだけの荷物を用意した。何を持っていけばいいのかもよく分からず、何度も荷物を入れ替えたことを覚えている。
あの時の私は、とにかく王宮から離れたかった。
自由になりたかった。
だから、後ろを振り返ることもなく、ただ前へ進んだ。
今は違う。
私は、自分の意思でマリアベルへ向かおうとしている。
兄上に、最後のお別れを言うために。
そして、今回は一人ではない。
タクマがいる。
ボーマンも、シエラも一緒だ。
七年前には想像もできなかったことだった。
「……リカ?」
タクマに呼ばれ、私は顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや、何か考え込んでたから」
「……ちょっと、昔のことを思い出してたの」
「昔?」
「ええ。王宮を出た時のこと」
タクマは少しだけ驚いたようだった。
「……そっか」
私は小さく笑った。
「でも、今度は違うわ」
「……うん?」
「今度は、一人じゃないもの」
タクマは私を見つめ、それから微笑んだ。
「……そうだね」
私は頷き、再び荷物の整理を始めた。
*
旅立ちの準備が一段落した頃には、すっかり日が暮れていた。
明日の朝、ボーマンのログハウスで合流し、四人で出発することになっている。
私は荷物を部屋の隅へ置き、タクマと一緒に食卓へ座った。
夕食を終えた後、タクマは少し考え込むようにしていた。
「……どうしたの?」
私が尋ねると、彼は少しだけ苦笑した。
「……いや、俺、本当に行っていいのかなって」
「どうして?」
「だって、王族の葬儀だろ? 俺なんかが行っても大丈夫なのかなって」
私は少し考えた。
確かに、タクマは王族でも貴族でもない。
それどころか、この世界の人間ですらない。
でも、そんなことは私にとって関係なかった。
「タクマは、私の恋人でしょ?」
「うん」
「だったら、私が一緒にいてほしいと思うのは、おかしなことじゃないわ」
タクマは少し驚いたようだったけれど、すぐに笑った。
「……そっか」
「そうよ」
私は頷いた。
それから、少しだけ視線を落とした。
「……でもね」
「うん?」
「本当は、ちょっと怖いの」
タクマは私を見た。
「……王宮に戻るのが?」
「……うん」
私は小さく頷いた。
七年ぶりの帰郷。
兄上の死。
変わってしまったかもしれない家族。
そのすべてが、私には不安だった。
父上や母上は、私のことをどう思っているのだろう。七年前、何も言わずに王宮を飛び出した娘を、今でも家族として迎えてくれるのだろうか。
ハインリヒ兄上は、どうしているのだろう。
あの人も、ヴィルヘルム兄上を失って辛い思いをしているはずだ。
私が帰ったところで、何かできるとは思わない。
それでも、会いたかった。
「……私ね」
私はゆっくりと口を開いた。
「王宮を出たことを、後悔してるわけじゃないの」
「うん」
「でも、兄上に会わなかったことは……やっぱり、後悔してる」
タクマは何も言わずに聞いていた。
「もっと話しておけばよかった。手紙だって、書けばよかった。そんなことばかり考えちゃうの」
私は小さく息を吐いた。
「……だから、今度はちゃんと会いに行きたいの」
タクマは静かに頷いた。
それから、私の隣へ移動し、そっと抱き寄せてくれた。
「……大丈夫。俺も一緒に行くから」
私は彼の胸に顔を寄せた。
温かかった。
昨日からずっと胸の奥にあった冷たいものが、少しだけ和らいだ気がした。
「……ありがとう」
「うん」
私はしばらく、そのままでいた。
タクマは何も言わず、ただ抱きしめてくれていた。
それが、今は何より嬉しかった。
やがて、私は顔を上げた。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「明日から、長い旅になるわよ」
「……そうだね」
「馬に乗る練習も、ちゃんとしなきゃね」
タクマは少しだけ顔をしかめた。
「……やっぱり、そこが一番不安なんだよなあ」
私は思わず笑ってしまった。
「大丈夫よ。ボーマンがいるもの」
「……それ、逆に不安なんだけど」
タクマの言葉に、私は声を上げて笑った。
久しぶりに、心から笑えた気がした。
兄上が亡くなった悲しみが消えたわけではない。
これから先、マリアベルで何が待っているのかも分からない。
でも、私は一人ではない。
タクマがいる。
ボーマンも、シエラもいる。
そして、この街には、帰りを待ってくれる人たちがいる。
私はそのことを、改めて嬉しく思った。
明日、私たちはマリアベルへ向けて旅立つ。
七年前、私は王宮から逃げるために、あの国を離れた。
今度は、兄上に別れを告げるために、あの国へ戻る。
王宮へ帰るつもりはない。
でも、家族に会いに行く。
それは、私が自分で決めたことだった。
私はタクマの手を取り、静かに微笑んだ。
「……明日から、よろしくね」
「うん。こちらこそ」
その夜、私たちはいつもより少し早く寝台へ入った。
窓の外では、森の木々が夜風に揺れ、遠くから梟の声が聞こえていた。家を包む結界はいつもどおり静かに働いていて、ここが外の世界から少しだけ切り離された、私たちの居場所なのだと感じさせてくれる。
私はタクマの温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
明日から始まる旅のことを考えながら。




