第46話 届かなかった言葉
森へ入ってからも、シエラはほとんど口を開かなかった。
普段から口数の少ない人ではあるけれど、今日はいつもと少し様子が違う。私が話しかければ短く答えてくれるものの、自分から何かを話そうとはせず、ただ前を向いて歩き続けている。時折、何かを考えるように視線を落とすことがあり、そのたびに私は胸の奥が落ち着かなくなった。
隣を歩くタクマも、その様子に気づいているらしい。何度かシエラの背中へ視線を向けていたけれど、事情を尋ねようとはしなかった。
「……ねえ、シエラ」
「……なに?」
「マリアベルで、何かあったの?」
シエラは少しだけ足を緩めた。
「……うん」
「父上のこと?」
「……違う」
「じゃあ、王宮で何か問題でも?」
今度は答えがなかった。シエラは私の顔を一度だけ見て、それから静かに口を開いた。
「……ボーマンに会ってから」
「……分かった」
それ以上、聞くことはできなかった。
シエラは私の友人だけれど、王宮から依頼を受けている人間でもある。正確には、王宮から仕事を請け負った組織に所属していて、私の監視と護衛を任されているのだという。彼女がそのことを打ち明けてくれたのは、ボーマンが初めて私たちの家を訪ねてきた後だった。
仕事として私を見守っていたことには驚いたし、正直なところ、今でも少し複雑な気持ちはある。でも、シエラが私のことを友人だと思ってくれているのも本当だと分かったから、今までどおり付き合っていくことにした。
だからこそ、今日の彼女の様子が気になった。
シエラは必要のないことを話さないけれど、必要なことまで黙っている人ではない。それがボーマンに会うまで話せないというのなら、よほど重要な知らせなのだろう。
父上の体調に何か問題があったのかもしれない。あるいは、王宮の人事や、貴族たちの間で何か揉め事が起きたのだろうか。ボーマンは長年王家に仕えてきた人だから、そうした相談を持ちかけられても不思議ではない。
もしかすると、私を王宮へ戻そうという話が再び持ち上がったのかもしれなかった。
けれど、どれだけ考えてみても答えは出ない。
「……リカ」
隣から声をかけられ、私は顔を上げた。
タクマが、少し心配そうにこちらを見ていた。
「もうすぐ着くよ」
「……うん。そうね」
私は小さく頷き、前を向いた。
森の小道は、いつもどおり静かだった。木々の隙間から差し込む朝の光が地面に細長い模様を描き、足元には乾いた落ち葉が積もっている。少し離れた茂みでは小動物が動き回り、頭上からは鳥の鳴き声が聞こえていた。
つい先日まで、タクマはこの道を毎日のように通っていた。ボーマンの厳しい修行を終え、ようやく冒険者としての活動を再開したばかりなのだ。
その修行の成果には、私自身も驚かされた。
久しぶりに一緒に受けた魔獣討伐の依頼では、タクマが見事な一撃で魔獣を倒してしまい、フリーダとクルシュが揃って言葉を失っていた。あの時の二人の顔を思い出すと、今でも少し笑ってしまう。
それから数週間、私たちは普段どおり冒険者として働き、タクマはついにB級へ昇格した。
ようやく、いつもの暮らしが戻ってきたところだった。
私は前を歩くシエラの背中を見つめた。
その静かな足取りが、なぜだかひどく不安に思えた。
*
ボーマンのログハウスへ到着すると、庭先では本人が薪を整理しているところだった。
私たちの姿に気づいたボーマンは、いつものように穏やかな笑みを浮かべる。
「おや、殿下。今日は随分とお早いですな」
「おはよう、ボーマン」
「おはようございます。タクマ殿もご一緒で……おや?」
ボーマンの視線が、私たちの後ろに立つシエラへ向いた。
彼女は軽く頭を下げる。
「……ボーマン」
「シエラ殿ですな。これは珍しい。何かご用でございますかな?」
「……うん」
短い返事だった。
けれど、それだけで何かを察したのか、ボーマンは少しだけ表情を改めた。
「……なるほど。では、中へお入りください」
案内された室内は、相変わらずきれいに片づいていた。
窓辺には小さな鉢植えが置かれ、テーブルの上には読みかけの本がある。暖炉の脇には新しく割った薪が積まれていて、棚には森で採ってきたらしい薬草がいくつか干されていた。
王宮で長年働いていた人の住まいとは思えないほど質素だけれど、ボーマンはこの生活を随分と気に入っているらしい。修行を終える際にも、もうしばらく森で暮らしたいと言っていた。
私としても、昔の恩師が近くにいてくれるのは嬉しい。タクマも時折稽古をつけてもらえるので、喜んでいた。
「ちょうど湯を沸かしたところでございます。少々お待ちを」
ボーマンは私たちに椅子を勧めると、お茶の準備を始めた。
「……ボーマン」
シエラが呼び止めた。
その声に、ボーマンの手が止まる。
「……王宮から、緊急の知らせ」
ボーマンは静かに振り返った。
「……承りましょう」
シエラは一度だけ私を見た。
いつも穏やかな彼女の目に、何かを迷うような色が浮かんでいる。
私は不思議に思ったけれど、何も言わなかった。
シエラは小さく息を吸い、口を開いた。
「……ヴィルヘルム第一王子が、亡くなった」
私は、彼女が何を言ったのか分からなかった。
「……え?」
聞き間違いだと思った。
ヴィルヘルム兄上。
その名前は、確かに聞こえた。
でも、その後に続いた言葉が、どうしても理解できない。
「……シエラ?」
私が呼びかけると、シエラは静かに頷いた。
「……亡くなった。数日前に」
私は彼女を見つめたまま、動けなくなった。
何かの間違いではないだろうか。同じ名前の別の人の話なのかもしれないし、あるいは大きな怪我をしたという知らせを、私が聞き違えたのかもしれない。
そんなことを考えてしまう。
けれど、シエラは冗談でこんなことを言う人ではない。
まして、こんな顔をして。
「……兄上が?」
「……うん」
「……どうして?」
シエラは少しだけ視線を落とした。
「……まだ、分からない」
隣で椅子が動く音がした。
ボーマンが、ゆっくりと席に着いていた。
「……シエラ殿」
その声は、いつもと変わらないように聞こえた。
けれど、私は気づいてしまった。
ボーマンの顔から、笑みが消えていた。
「詳しく、お聞かせいただけますかな」
シエラは頷いた。
「……王宮内で、亡くなった」
「死因は」
「……公には、まだ詳しく発表されていない」
「では、あなた方が得た情報では?」
シエラは少し間を置いた。
「……殺された可能性が高い」
ボーマンは目を閉じた。
私は、その言葉を聞いても、すぐには意味を理解できなかった。
殺された。
誰が。
どうして。
ヴィルヘルム兄上が?
「……何者かに、ですかな」
「……うん」
「犯人は」
「……不明」
「王宮内で、ということは……」
「……詳しい状況は、まだ」
ボーマンはそれ以上、すぐには質問しなかった。
シエラも黙っている。
私は二人のやり取りを聞きながら、ただ椅子に座っていた。
王宮内で人が亡くなること自体は、決して珍しい話ではない。病気になる人もいれば、事故で命を落とす人だっている。王族であっても、それは同じだ。
でも、ヴィルヘルム兄上が殺されたかもしれないというのは、どういうことなのだろう。
兄上は王位継承者だった。
父上の後を継ぎ、いずれマリアベル王国の国王になるはずだった人だ。
そんな兄上が、王宮の中で殺された?
私は自分の手を見つめた。
指先が、ひどく冷たく感じられた。
*
ヴィルヘルム兄上は、昔から真面目な人だった。
私が子供の頃から、何をするにもきちんとしていて、勉強も剣術も、決められたことを怠けずに続けていた。ハインリヒ兄上が適当なことを言って私を笑わせると、いつも困った顔をしていたけれど、本気で怒ることは少なかった。
私が失敗した時も、頭ごなしに叱るのではなく、どうすればよかったのかを一緒に考えてくれる人だった。
そういえば、十五歳の頃だっただろうか。
魔法の授業で先生に褒められた私は、兄上に対して少し申し訳ない気持ちになったことがあった。
王位継承者である兄上より、妹の私の方が魔法に優れている。それを面白く思わない人たちがいることは、当時の私にも何となく分かっていた。
だから、兄上の前で自分の力を見せることに、少しだけ遠慮していたのだ。
でも、兄上はそんな私を見て、言った。
『俺に気を遣って、自分ができることをやらない妹など見たくない』
あの時の兄上は、少しだけ怒っていた。
私が兄上を困らせたからではない。自分の立場を気にするあまり、私が本来できることまで諦めようとしたのが嫌だったのだと思う。
兄上は、私の魔法の才能を誰よりも喜んでくれた。
少なくとも、私にはそう見えた。
それから、王になることについて話したこともあった。
兄上は、自分が王になりたいから努力しているわけではないと言っていた。
『嫌でもやる。それが俺の役目だからだ』
当時の私は、その言葉を十分には理解できなかった。
どうして、嫌なことを自分から引き受けるのだろう。どうして、もっと自由に生きようとしないのだろう。
私には分からなかった。
王女として生きることに息苦しさを感じていた私にとって、兄上の考え方はあまりにも遠いものだった。
でも、今なら少しだけ分かる気がする。
兄上は、自分の役目を誰かに押しつけようとはしなかった。王位継承者として生まれた以上、その責任を果たすのが当然だと考えていたのだろう。
自分が何を望んでいるかよりも、何をしなければならないかを大切にする人だった。
私は、そんな兄上を尊敬していた。
王位継承者だからではない。
私の兄として。
「……兄上は」
気づけば、声が出ていた。
ボーマンとシエラが、こちらを向く。
「……兄上は、王様になるんじゃなかったの?」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
そんなことを聞いても、何も変わらない。王になる予定だったからといって、死なないわけではない。
それくらい、分かっている。
でも、兄上はずっと、そのために生きてきたのだ。
好きなことを我慢して、やりたいことを後回しにして、いつか父上の後を継ぐために努力してきた。
その姿を、私はずっと見てきた。
「……まだ、王様になってないじゃない」
誰も答えなかった。
私は俯いた。
胸の奥が、少しずつ苦しくなってきた。
兄上が亡くなったという言葉が、ようやく自分の中に入り込んできた気がした。
*
「……陛下は、ご無事ですかな」
しばらくして、ボーマンが口を開いた。
シエラは頷いた。
「……うん」
「王妃殿下は」
「……ご無事」
「ハインリヒ殿下は」
「……王宮にいる」
「……そうですか」
ボーマンは小さく息を吐いた。
その顔には、いつもの穏やかな笑みがなかった。
私は、あの老人がこんな表情をしているところを、ほとんど見たことがない。
王宮で何か問題が起きても、ボーマンはいつも落ち着いていた。誰かが失敗しても慌てることなく対処し、必要なことを一つずつ片づけていく。私たち兄妹が喧嘩をした時でさえ、困ったように笑いながら仲裁してくれた。
そんな人が、今は何も言わずに座っている。
テーブルの上に置かれた手が、強く握りしめられていた。
ボーマンにとっても、ヴィルヘルム兄上は大切な人だったのだ。
幼い頃から教育に関わり、剣術も魔法も、王族としての振る舞いも教えてきた。兄上がどれだけ努力していたのか、私以上によく知っている人かもしれない。
王宮で過ごした年月を考えれば、ボーマンにとって兄上は、将来仕えるべき国王である以前に、自分の手で育ててきた教え子だったのだろう。
その兄上が亡くなった。
私だけではない。
ボーマンも、兄上を失ったのだ。
「……ボーマン」
私が呼びかけると、老人はゆっくりと顔を上げた。
「……はい、殿下」
「……大丈夫?」
自分でも、変なことを聞いたと思った。
大丈夫なはずがない。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
ボーマンはしばらく私を見つめ、それから小さく頷いた。
「……お気遣い、ありがとうございます」
いつものように笑おうとしたのだと思う。
でも、その表情は、少しだけぎこちなかった。
「ヴィルヘルム殿下は……」
ボーマンはそこまで言って、言葉を止めた。
私は続きを待ったけれど、老人はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「……立派な方でございました」
それだけだった。
でも、その短い言葉に込められたものが、私には痛いほど伝わってきた。
私は小さく頷いた。
「……うん」
兄上は、立派な人だった。
本当に。
*
タクマは、ずっと隣にいてくれた。
シエラが話している間も、ボーマンが質問している間も、何も口を挟まなかった。ただ、私の様子を気にかけてくれていることだけは、何となく分かった。
タクマはマリアベルの政治事情を詳しく知らないし、ヴィルヘルム兄上にも会ったことがない。私が王女だったと知ったのも、つい最近のことだ。
だから、きっと何を言えばいいのか分からなかったのだと思う。
それでも、無理に励まそうとはしなかった。
やがて、ボーマンとシエラの会話が途切れた。
室内には、窓の外から聞こえる鳥の声だけが響いていた。
「……リカ」
タクマが、静かに私を呼んだ。
私は顔を上げた。
「……私ね」
「うん」
「兄上に、七年も会ってないの」
タクマは何も言わずに聞いていた。
「王宮を出てから、一度も。手紙だって、ほとんど書かなかった」
私は自分の手を見つめた。
七年前、私は王宮を飛び出した。
あの時は、とにかく自由になりたかった。誰かに決められた人生を歩くのが嫌で、王女として扱われることにも疲れていた。
父上や母上には申し訳ないと思ったし、兄上たちにも心配をかけるだろうとは考えた。
でも、戻るつもりはなかった。
王宮を離れてからは、冒険者として生きることに夢中だった。知らない土地へ行き、新しい人と出会い、自分の力で仕事をする。最初は失敗も多かったけれど、少しずつ暮らしに慣れて、友人もできた。
そして、タクマと出会った。
今の生活が、私は本当に好きだった。
だから、王宮のことを考える時間は、自然と少なくなっていった。
父上や母上が元気にしているだろうかと考えることはあったし、兄上たちがどうしているのか気になることもあった。でも、手紙を書こうと思っても、何を書けばいいのか分からなかった。
元気にしています、とだけ書けばいいのかもしれない。
冒険者として暮らしています、と伝えてもよかったのかもしれない。
でも、それを書いたら、次には何を聞かれるのだろう。いつ帰ってくるのかと尋ねられたら、私は何と答えればいいのだろう。
そんなことを考えているうちに、手紙を書く機会を逃してしまった。
「……いつか、会えると思ってた」
私は小さく呟いた。
「別に、今すぐ会わなくてもいいって。兄上は元気にしてるだろうし、私だって、いつでも帰ろうと思えば帰れるんだからって……」
そこまで言って、言葉が詰まった。
いつでも会える。
そう思っていた。
でも、もう会えない。
七年間、一度も会わなかった兄上に、これから先、何年経っても会うことはできないのだ。
「……私、兄上に会いたかった」
声が震えた。
タクマが、そっと私の手を握った。
「……うん」
「もっと、話したかった。今の暮らしのことも、タクマのことも、ちゃんと話して……」
兄上なら、何と言っただろう。
私が冒険者になったと聞いたら、きっと驚いただろう。危険な仕事をしていることを心配して、少しくらい小言を言ったかもしれない。
でも、最後には笑ってくれた気がする。
私が自分で選んだ道を歩いていると知れば、きっと認めてくれた。
あの人は、そういう兄だった。
「……会いたかったよね」
タクマが静かに言った。
その言葉を聞いた瞬間、涙がこぼれた。
私は慌てて目元を拭ったけれど、次から次へと涙が出てきて、どうにもならなかった。
「……うん」
タクマは何も言わなかった。
ただ、私の手を握ったまま、隣にいてくれた。
私は俯き、しばらく泣いた。
ボーマンもシエラも、何も言わなかった。
誰も、泣き止むようにとは言わなかった。
それが、今はありがたかった。
*
どれくらい時間が経ったのだろう。
ようやく涙が落ち着いた頃、ボーマンが静かに口を開いた。
「……シエラ殿」
「……なに?」
「ヴィルヘルム殿下の葬儀について、何か知らせはございますかな」
「……準備が進んでる」
「日程は」
「……まだ、正式には」
「……そうですか」
ボーマンは小さく頷いた。
王国の第一王位継承者が亡くなったのだ。葬儀の準備だけでも、相当な時間と手間がかかるだろう。国内の貴族たちへの通達はもちろん、他国の王族や使節にも知らせなければならない。
私が王宮にいた頃にも、王族の葬儀が行われたことはあった。あの時はまだ幼かったので詳しいことは覚えていないけれど、王宮中が慌ただしくなり、普段は見かけない人たちが大勢訪れていたことだけは覚えている。
今も、きっと同じような状況なのだろう。
ただし、今回は亡くなったのがヴィルヘルム兄上だ。
父上の後を継ぐはずだった、第一王位継承者。
その死が王国にどんな影響を与えるのか、私にはまだ分からなかった。
「……殿下」
ボーマンが私へ向き直った。
「ヴィルヘルム殿下のお見送りについて、どうなさいますかな」
私は顔を上げた。
「……お見送り?」
「はい。葬儀に参列なさるかどうか、ということでございます」
私はすぐには答えられなかった。
兄上の葬儀。
それは、マリアベルへ戻るということだ。
七年前に飛び出した、あの王国へ。
王宮には、父上も母上もいる。ハインリヒ兄上もいるだろう。私がいなくなってから七年も経っているのだから、王宮の人々も随分と変わっているはずだ。
そして、私が戻れば、きっと色々なことを言われる。
王女として戻ってきたのか。
これからどうするつもりなのか。
いつまで冒険者を続けるのか。
そんなことを聞かれるのかもしれない。
私は、王宮へ戻りたくなかった。
あの場所で、もう一度王女として暮らすつもりはない。
でも。
兄上が亡くなったのだ。
それなのに、私はまだ、自分が王宮へ戻ることばかり気にしている。
そう思うと、胸の奥が苦しくなった。
「……私」
言いかけて、言葉が止まった。
ボーマンは、急かさなかった。
「今すぐお決めになる必要はございません」
その声は、いつもどおり穏やかだった。
「葬儀の日程も、まだ正式には決まっておりません。どうか、ご自身のお気持ちを大切になさってください」
「……うん」
私は小さく頷いた。
シエラも、何も言わなかった。
ボーマンはその後、王宮からの情報を確認する方法についてシエラと短く相談していた。正式な知らせが届き次第、葬儀の日程や参列の手続きについても確認するつもりらしい。
私には、その話を詳しく聞く余裕がなかった。
ただ、ボーマンが私のために動いてくれていることだけは分かった。
*
ログハウスを出た頃には、日が少し傾き始めていた。
シエラはもう少しボーマンと話すことがあるらしく、私たちとはそこで別れることになった。
「……リカ」
帰り際、シエラが私を呼んだ。
「……なに?」
「……ごめん」
私は少し驚いた。
「どうして謝るの?」
「……こんな知らせを、持ってきて」
シエラは視線を落とした。
私は首を横に振った。
「……シエラが悪いわけじゃないでしょ」
「……うん」
「教えてくれて、ありがとう」
シエラは私を見つめ、それから小さく頷いた。
「……うん」
いつものように微笑もうとしたのか、彼女の口元がほんの少しだけ動いた。
私はそれを見て、少しだけ安心した。
シエラは、私の友達だ。
仕事として知らせを持ってきたのだとしても、私のことを心配してくれているのは分かる。彼女だって、こんな知らせを伝えるために私たちを訪ねたかったわけではないだろう。
「……またね、シエラ」
「……またね」
私たちは別れ、タクマと二人で森の小道を歩き始めた。
帰り道、私はほとんど話さなかった。
タクマも、無理に話しかけようとはしなかった。時折、足元の悪い場所で手を差し出してくれるだけで、後は私の歩調に合わせて歩いてくれた。
森は、朝と変わらず静かだった。
木々の間から差し込む夕日が地面を赤く染め、風が吹くたびに枝葉が揺れている。鳥の鳴き声も聞こえるし、遠くでは小さな動物が走り去る音がした。
いつもなら、そんな景色を眺めながらタクマと他愛のない話をしている。
でも、今日は何も思いつかなかった。
兄上が亡くなった。
その事実が、何度も頭の中に浮かんでは消えていく。
何かの間違いだったらいいのに。
そう思ってしまう自分がいた。
*
家に戻ってからも、私はなかなか普段どおりにはなれなかった。
夕食の準備をしようと台所へ立ったものの、何を作るつもりだったのか思い出せない。食材を取り出してみても、手が止まってしまう。
いつもなら、タクマと話しながら料理をする時間が好きだった。
今日はどんな依頼を受けたとか、ギルドで誰に会ったとか、そんな何でもない話をしながら夕食を作る。時にはタクマが手伝ってくれることもあるし、彼が日本の料理について教えてくれることもあった。
そんな時間が、今はひどく遠く感じられた。
「……リカ」
タクマが隣に立った。
「今日は俺が作るよ」
「……でも」
「大丈夫。簡単なものなら作れるから」
私は少し迷ったけれど、素直に頷いた。
「……お願い」
「うん」
タクマは私を食卓へ座らせると、台所へ向かった。
しばらくして、温かいスープとパンが並べられた。普段なら私が作ることの多い料理だけれど、タクマも最近は随分と手際がよくなっている。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
私たちは向かい合って食事を始めた。
けれど、私はほとんど食べられなかった。
スープを一口飲んでは、しばらく手を止める。パンをちぎってみても、なかなか口へ運ぶ気になれない。
タクマは何も言わずに、自分の食事を進めていた。
その気遣いが、ありがたかった。
しばらくして、タクマが静かに口を開いた。
「……リカ」
「なに?」
「お葬式、行きたい?」
私は顔を上げた。
昼間、ボーマンに尋ねられたことだった。
あの時は、答えられなかった。
でも、今は少しだけ、自分の気持ちが分かる気がした。
「……うん」
私は小さく頷いた。
「……行きたい」
「じゃあ、行こう」
タクマは迷わず答えた。
私は少し驚いた。
「……でも、マリアベルだよ」
「うん」
「私、王宮から逃げてきたのよ」
「知ってる」
「戻ったら、また色々言われるかもしれない」
タクマは少し考えた。
「でも、リカは王女に戻りたいわけじゃないんだろ?」
「……うん」
「だったら、お兄さんにお別れを言いに行けばいいんじゃないかな」
私は何も言えなかった。
タクマは続けた。
「王宮に戻ることと、お兄さんのお葬式に行くことは、別の話だと思うよ」
その言葉を聞いて、私はゆっくりと息を吐いた。
そうだ。
私は、王宮へ戻りたいわけじゃない。
王女としての生活に戻るつもりもない。
でも、兄上には会いたい。
もう生きている兄上に会うことはできないけれど、せめて最後に、お別れを言いたい。
それくらい、許されてもいいはずだ。
「……そうね」
私は小さく頷いた。
「私、兄上に会いに行く」
タクマが微笑んだ。
「うん。一緒に行こう」
私は顔を上げた。
「……いいの?」
「もちろん。恋人なんだから」
あまりにも自然に言われたので、私は少しだけ笑ってしまった。
「……そういうもの?」
「そういうものだと思うけど」
「……そっか」
私は俯き、もう一度小さく笑った。
タクマはマリアベルのことを、ほとんど知らない。王宮がどんな場所なのかも、王族の葬儀がどういうものなのかも、きっと想像がつかないだろう。
それでも、一緒に行くと言ってくれた。
私が行きたいなら、自分も行く。
ただ、それだけのこととして。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
私はタクマの手を取った。
彼は少しだけ驚いたようだったけれど、すぐに握り返してくれた。
その温かさを感じていると、また少し涙が出そうになった。
でも、今度は泣かなかった。
私はもう一度スープを口へ運んだ。
すっかり冷めてしまっていたけれど、それでも少しだけ、お腹が空いていることを思い出した。
*
その夜、私はなかなか眠れなかった。
隣では、タクマが静かに寝息を立てている。
私は天井を見つめながら、ヴィルヘルム兄上のことを考えていた。
最後に会ったのは、七年前。
王宮を出る少し前だったと思う。
あの時、兄上は何を話していたのだろう。私は何と答えたのだろう。
不思議なことに、はっきりとは思い出せなかった。
もっと昔のことなら、いくつも覚えている。
魔法の授業で褒められた時のこと。
ハインリヒ兄上と一緒に悪ふざけをして、ヴィルヘルム兄上に叱られたこと。
三人で食事をしながら、くだらない話で笑ったこと。
そんな何でもない出来事ばかりが、次々と思い浮かんでくる。
兄上は、いつも真面目だった。
でも、笑わない人ではなかった。
私たちがふざけていると、困ったような顔をしながら、最後には一緒に笑ってくれることもあった。
私は、そんな兄上が好きだった。
王宮を出たことを、後悔しているわけではない。
あのまま王女として暮らしていたら、きっと今の私はいなかった。タクマにも出会えなかったし、フリーダやクルシュ、エリナたちと過ごす毎日もなかっただろう。
私は、自分で選んだ今の人生が好きだ。
それでも。
もう少し、兄上と話しておけばよかった。
たまには手紙を書いて、元気にしていることを知らせればよかった。
いつか会えるからと、先延ばしにしなければよかった。
そんなことを考えていると、また胸が苦しくなった。
私は寝返りを打ち、隣で眠るタクマの方を向いた。
彼は私の気配に気づいたのか、眠ったまま少しだけ腕を動かした。
私はその腕にそっと触れ、目を閉じた。
マリアベルへ行こう。
兄上に、最後のお別れを言うために。
王宮へ帰るつもりはない。
でも、兄上の葬儀には参列したい。
そして、父上や母上にも会おう。
きっと、二人とも辛い思いをしているはずだ。
私が何かできるとは思わないけれど、せめて顔を見せるくらいはしたかった。
そう考えているうちに、少しずつ眠気が戻ってきた。
私はタクマの手を握り、静かに目を閉じた。
明日になったら、ボーマンに伝えよう。
私も、兄上の葬儀に行くと。




