第41話 剣と魔法の狭間
二日酔いが治ったからといって、昨日の醜態までなかったことになるわけではない。
朝食を終えたタクマは、庭へ出る前から妙に気合いが入っていた。昨日はボーマンの配慮で軽い訓練だけにしてもらったものの、本人としては一日を無駄にしてしまった気分らしい。もっとも、あの状態でまともな修行ができたとは思えないので、私は休ませてもらえただけでも十分ありがたかったのだけれど。
「今日はちゃんと動けそうだな」
タクマはそう言いながら、壁に立てかけていた新しい剣へ手を伸ばした。
先日の休日、ノヴァグラードのバルグリムの店で購入したミスリル合金製の両手剣だ。木剣とは違う重みがあるらしく、買ってから何度も手に取っては重心や握り具合を確かめている。昨日も体調が回復してから少しだけ振っていたけれど、本格的に修行で使うのは今日が初めてだった。
「張り切るのはいいけど、無理しないでよ。まだ体調が戻りきってないかもしれないんだから」
「大丈夫だって。昨日は散々休ませてもらったし」
「だったらいいけど。ボーマン、今日は容赦しないと思うよ?」
「……それは覚悟してる」
タクマは苦笑しながら剣を腰へ下げた。
ボーマンは優しい人だ。けれど、修行に関しては決して甘くない。特にタクマのように、自分から強くなろうとする相手には、必要だと思えば遠慮なく課題を与える。
庭へ出ると、ボーマンは既に訓練の準備を整えていた。普段使っている木剣のほかに、細長い布に包まれた二本の剣が置かれている。
「おはようございます、リカ殿、タクマ殿。今朝はお二人ともお元気そうですな」
「おはよう、ボーマン。おかげさまでね」
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
タクマが頭を下げると、ボーマンは穏やかに笑った。
「いえいえ。体調が悪い時に無理をしても、よい修行にはなりませんからな。もっとも、今後は酒量にもお気をつけいただきたいものですが」
「……はい。反省してます」
「私も反省してるよ。次からは気をつけるって」
「ほほほ。それなら結構でございます」
私はその笑顔に、少しだけ嫌な予感を覚えた。
「で、今日は何をするの?」
「先日から取り組んでいる、剣術と魔法の組み合わせを進めてまいりましょう。せっかく新しい剣も手に入ったことですしな」
ボーマンはタクマの腰にある両手剣へ視線を向け、それから足元の包みをほどいた。
中から現れたのは、銀灰色の刀身を持つ二本の剣だった。片方はタクマの両手剣に近い長さで、もう片方は少し短い。どちらも金属製に見えるけれど、刃の部分には鋭さがなく、全体的に厚みのある造りをしている。
「これは、マリアベルの魔法騎士団で使用されている訓練用の模擬剣でございます」
「魔法騎士団?」
タクマが興味深そうに尋ねた。
「ええ。魔法を扱いながら剣術を用いる騎士たちのために作られたものでしてな。実剣に近い重さと重心を持ちながら、刃を落として安全性を高めております。さらに、刀身には魔力を通しやすい素材が使われておりますので、魔法を組み合わせた訓練にも対応できるのです」
「へえ……そんなものがあるんですね」
「もちろん、刃がないからといって安全とは限りません。身体強化を使えば、模擬剣でも十分に危険な武器になりますからな。今日は互いに出力を制限し、技術の確認を中心に進めましょう」
ボーマンは長い方の模擬剣をタクマへ差し出した。
受け取ったタクマは軽く持ち上げ、何度か握り直して感触を確かめる。どうやら、先ほどまで持っていたミスリル合金製の両手剣とは、また少し違った重さがあるらしい。
「まずは新しい剣の重心に慣れていただきます。魔法を使うのは、その後ですぞ」
「分かりました」
タクマはうなずき、訓練場の中央へ向かった。
◇
最初の訓練は、基本動作の確認だった。
タクマは模擬剣を両手で構え、ボーマンの指示に従って踏み込みと斬撃を繰り返していく。木剣よりも実剣に近い重さがあるため、振り終わりの姿勢や剣を戻す速さに微妙な差が生まれていた。
「少し剣先が流れておりますな。振り下ろした後の動作まで意識してみてください」
「はい」
タクマは構え直し、もう一度剣を振った。
今度は剣を止めようとして腕に余計な力が入り、かえって動きがぎこちなくなる。
「力で抑え込む必要はございません。剣の重さを利用するのです」
「……なるほど」
ボーマンは自分の模擬剣で動作を示しながら、足の運びと腰の回転について細かく説明していく。タクマはその一つ一つを確認し、何度も同じ動きを繰り返した。
やがて、最初は少し乱れていた剣の軌道が、徐々に安定してきた。
「よろしいでしょう。では、次は身体強化を維持した状態で試してみましょう」
その言葉に、私はタクマの隣へ歩み寄った。
「前にやったのと同じで、最初は弱い身体強化だけね。いきなり出力を上げないでよ?」
「分かってるって」
「この前もそう言って、すごい火柱を出したんだから」
「それは言わないでくれ……」
タクマが苦笑する。
あの時の炎を思い出すと、私もまだ少し怖くなる。魔核の出力が以前より上がっていることは確かだけれど、その理由も限界も分かっていない。特に中級攻撃魔法については、本人の感覚と実際の威力が一致していないため、慎重に扱う必要があった。
ただ、身体強化については事情が違う。
以前の訓練で、低出力の身体強化を長時間維持できる可能性が確認されている。あれからまだ十分な検証ができたわけではないものの、少なくとも短時間の訓練であれば、安定して使えるようになってきていた。
「じゃあ、始めてみて」
タクマが小さくうなずき、身体強化を発動させた。
私は魔力の流れを確認する。全身へ広がる魔力は安定しており、以前のような無理な供給も見られない。タクマはその状態でゆっくりと剣を振り、足の運びや重心の移動を確かめていった。
「……どう?」
「うん。魔力の流れは安定してるよ。体の動きは?」
「少し軽く感じる。剣を振った後も、次の動作に移りやすいな」
「それなら、少しずつ動きを速くしてみようか」
タクマはうなずき、何度か踏み込みを繰り返した。
剣の速度が上がるにつれて、振り終わりの姿勢がわずかに乱れる。それでも、身体強化を使わない時よりも立て直しは速く、次の動作へ移るまでの時間も短くなっていた。
ボーマンはその様子を注意深く観察していた。
「ふむ。身体強化によって、剣の重さに対応する余裕が生まれておりますな。ただし、強化した力に頼りすぎてはいけませんぞ」
「はい。剣の動きそのものは、ちゃんと覚えないといけないんですよね」
「そのとおりです。身体強化は技術を補うものではありますが、技術そのものに代わるものではございません」
私はその説明にうなずいた。
魔法で力を増やすことはできる。けれど、増えた力を正確に扱うには、結局それに見合う技術が必要になるのだ。
◇
昼前になり、いよいよ風魔法を組み合わせる訓練が始まった。
以前、木剣で試した時には、風を加える方向やタイミングが合わず、タクマは何度も姿勢を崩していた。今回は魔力を通せる模擬剣を使うため、より実戦に近い条件で検証できる。ただし、魔法の出力はごく弱いものに制限し、剣の動きと風の流れを合わせることを優先した。
「タクマ。前にやった時のこと、覚えてる?」
「もちろん。最初から風を当てると、剣が変な方向に引っ張られるんだよな」
「そうそう。だから、剣が動き始めてから、同じ方向に風を流してみて」
タクマは剣を構え、ゆっくりと振り下ろした。
刀身の周囲に小さな風が生まれ、剣の動きに沿って流れる。以前よりも魔法の発動は安定していたけれど、振り終わりの姿勢がわずかに前へ崩れた。
「……まだちょっと引っ張られるな」
「うん。でも、風の方向は合ってたよ。今度はもう少し弱くしてみようか」
タクマはうなずき、再び構えを取った。
何度か繰り返すうちに、剣の動きと風の流れが少しずつ重なり始めた。身体強化によって姿勢を保つ余裕が生まれていることもあり、以前ほど大きく動作が乱れることはない。
ボーマンはその様子を見て、満足そうにうなずいた。
「よろしいですな。では、次は少しだけ速度を上げてみましょう」
「はい」
タクマは一度深呼吸すると、剣を構え直した。
踏み込みとともに剣が振り下ろされ、その途中で風魔法が発動する。空気を切る音が、先ほどよりも鋭く響いた。
「……おお!」
タクマが思わず声を上げる。
私も驚いた。剣の軌道は大きく乱れておらず、振り終わりの姿勢も安定している。まだ完全とは言えないけれど、以前よりも明らかにうまく扱えていた。
「今の、どうだった?」
「うん! かなり良かったと思うよ。風の向きも合ってたし、身体強化も安定してた」
「私から見ても、随分とよくなっておりますな」
ボーマンはそう言うと、少し考え込んだ。
「では、次は実際に相手がいる状態で試してみましょうか」
タクマが顔を上げた。
「模擬戦ですか?」
「ええ。せっかく魔法騎士団の模擬剣もございますからな。ただし、今日は技術の確認が目的です。攻撃魔法の出力は制限し、危険な打撃は避けるようにいたしましょう」
私は念のため、訓練場の周囲に防護魔法を展開した。さらに、万が一に備えて二人の動きをすぐに止められる位置へ移動する。
ボーマンは短い方の模擬剣を手に取り、タクマと向かい合った。
「では、参りましょう」
◇
最初の攻防は、タクマが仕掛けた。
低出力の身体強化を維持したまま踏み込み、模擬剣を振り下ろす。ボーマンはその軌道を見切り、余裕を持って横へかわした。タクマは剣を戻しながら間合いを取り直し、続けて二撃目を繰り出すが、これも難なく受け流されてしまう。
それでもタクマは焦らず、少し距離を取って呼吸を整えた。ボーマンの剣術が自分よりはるかに上であることは、これまでの修行で嫌というほど理解している。だからこそ、正面から剣を打ち合うだけでは通用しないことも分かっているのだろう。
次の攻撃では、剣が振り下ろされる途中で風魔法が発動した。
刀身の周囲に風が生まれ、剣先がわずかに加速する。先ほどまでの動作よりも明らかに速い斬撃だったけれど、ボーマンはそれを見切り、半歩下がるだけでかわしてしまった。
「……駄目か」
「いえ、速度は確かに上がっておりますぞ。ただし、少々分かりやすすぎますな」
ボーマンは模擬剣を下ろし、タクマへ向き直った。
「タクマ殿。今の攻撃は、風魔法を使うことが前提になっておりましたな?」
「はい。剣の速度を上げようと思って」
「それ自体は悪くありません。しかし、風魔法を使うことに意識を向けすぎて、攻撃の軌道が単調になっております。相手が最初から剣の軌道を読んでいれば、途中で多少速くなったところで対処は難しくありません」
タクマは少し考え込んだ。
「……確かに、振り下ろすことしか考えてませんでした」
「速い剣が必ず当たるわけではございません。相手がどこへ動くのか、何を警戒しているのか。それを考えたうえで、必要なところに魔法を使うのです」
私は二人のやり取りを聞きながら、先ほどの攻防を思い返していた。
確かにタクマの剣は速くなっていた。けれど、ボーマンほどの相手なら、剣を振り始める時点でおおよその軌道を読むことができる。途中で多少速度が変わったところで、十分に対応できてしまうのだろう。
「じゃあ、例えば踏み込みの時に身体強化を強くして、相手の予想より早く間合いを詰めるとか?」
私がそう尋ねると、ボーマンはうなずいた。
「ええ。それも一つの方法ですな。あるいは、剣を振る途中で風魔法を使い、相手が予想していた速度を変えることもできましょう。重要なのは、どの技術を使うかではなく、相手に何をさせたいかを考えることでございます」
「なるほど……」
タクマは模擬剣を見つめながら考え込んだ。
「つまり、速く振ることより、相手の予想を外すことが大事なんですね」
「そのとおりです。では、もう一度試してみましょう」
タクマはうなずき、再び構えを取った。
今度は最初から風魔法を使わず、通常の剣撃で攻め込む。ボーマンがそれをかわすと、タクマは一度間合いを取り直し、相手の足運びを注意深く観察した。
次の踏み込みでは、身体強化の出力を一瞬だけ高めた。
それまでよりも鋭い踏み込みに、ボーマンがわずかに体を引く。タクマはその動きを見て追撃を仕掛け、剣を振る途中で風魔法を発動させた。
しかし、ボーマンは模擬剣を差し込み、タクマの攻撃を受け流した。
「惜しいですな」
「くそっ……」
「ですが、今の攻撃は先ほどよりもよろしかった。踏み込みの速度が変わったことで、私も間合いを取り直す必要がございました」
タクマは驚いたように顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。ただし、その後の剣撃が少々素直すぎましたな。相手が距離を取ったからといって、必ずしもそのまま追いかける必要はございませんぞ」
「……なるほど」
タクマはうなずきながら、ボーマンの足元へ視線を向けた。
私はその様子を見て、少し嬉しくなった。以前のタクマなら、攻撃が通らなかったことばかり気にしていたかもしれない。けれど今は、なぜかわされたのか、どうすれば次の攻撃につなげられるのかを考えている。
そして何より、魔法を使うこと自体が目的ではなくなりつつあった。
剣術を主体にしながら、身体強化によって動きを補い、必要な瞬間に風魔法を重ねる。さらに、距離を取られた場合には攻撃魔法という選択肢もある。今のタクマがすべてを自在に使いこなせるわけではないけれど、相手からすれば、剣士だと思って距離を取ったからといって安心できるわけではない。
それは、これまでの剣士とも魔法使いとも少し違った戦い方になるのだろう。
「では、今度はこちらから参りますぞ」
ボーマンがそう告げると、タクマは表情を引き締めた。
次の瞬間、ボーマンの足元に小さな風が生まれた。
風魔法によって踏み込みが加速し、ボーマンの姿が一気にタクマへ迫る。タクマは慌てて剣を構えたものの、間に合わず、模擬剣の先端が胸元の手前で止まった。
「……速っ!」
「今のは、先ほどタクマ殿が試しておられた方法と同じでございます。ただし、風を使うタイミングを少し変えております」
ボーマンは距離を取り、もう一度同じ動作をゆっくりと見せた。
踏み込む直前に風を起こすのではなく、足が地面を離れる瞬間に合わせて風を流している。ほんのわずかな違いだけれど、それによって体の動きと魔法の力が自然につながり、余計な姿勢の乱れが生まれていなかった。
「なるほど……」
タクマは目を輝かせた。
「剣を振る時だけじゃなくて、足の動きにも合わせられるんですね」
「ええ。ただし、私と同じことをすぐに試す必要はございません。まずは今の技術を確実なものにしていきましょう」
私は思わず笑った。
ボーマンは相変わらず、教え方がうまい。
言葉で説明するだけでなく、実際に見せることで、タクマが何を目指せばよいのかを理解させている。それでいて、今すぐ同じことができるとは思わせない。できることと、これから身につけるべきことの境界を、きちんと示しているのだ。
タクマはもう一度模擬剣を構え、ボーマンへ向き直った。
「もう一回、お願いします」
「よろしいでしょう」
その後も何度か攻防を繰り返したけれど、タクマがボーマンに一撃を入れることはできなかった。
それでも、攻撃の組み立て方は少しずつ変わっていた。最初は剣撃を速くすることばかり考えていたのに、途中からは相手の足運びや間合いを意識し、どの瞬間に身体強化や風魔法を使うべきかを考えるようになっていたのだ。
ボーマンもその変化を感じ取ったらしく、最後の攻防を終えると満足そうにうなずいた。
「今日はこのくらいにしておきましょう。新しい技術を実戦で試す際は、疲労による判断の乱れにも注意が必要ですからな」
タクマは少し名残惜しそうだったが、素直に模擬剣を下ろした。
◇
夕方、訓練を終えたタクマは、庭の端に腰を下ろしていた。
「いやぁ……思ったより難しいな」
私は水を入れたコップを渡しながら、その隣に座った。
「でも、かなり良くなってたよ。前に風魔法を試した時なんて、何度も姿勢を崩してたんだから」
「確かに。今日は少しだけ、剣と魔法がつながった感じがした」
「うん。私もそう思う」
タクマはコップの水を飲み、しばらく自分の模擬剣を見つめていた。朝から何度も振り続けたせいか、握っていた手には少し赤みが残っている。それでも、疲れた顔にはどこか満足そうな表情が浮かんでいた。
「……でも、まだまだだな。ボーマンさんには全然届かない」
「そりゃあ、ボーマンだもん。あの人、昔から剣も魔法も上手だったし」
「簡単に言うなあ……」
「だって、私だってボーマン相手に簡単には勝てないよ?」
そう言うと、タクマは苦笑した。
「それ聞くと、余計に遠く感じるな」
「ふふっ。でも、前よりは確実に近づいてると思うよ」
タクマは少し考え込んでから、うなずいた。
「そうだな。少なくとも、どうすればいいのかは少し分かってきた気がする」
その言葉を聞いて、私は嬉しくなった。
タクマはいつも、自分に足りないものを見つけるのが早い。けれど、それを嘆くだけで終わらず、どうすれば補えるのかを考え続ける。今日の訓練でも、最初は風魔法で剣を速くすることばかり考えていたのに、最後には相手の動きを見ながら使うタイミングを変えようとしていた。
剣術も魔法も、覚えただけでは実戦で役に立たない。どれほど優れた技術でも、相手や状況に合わせて使えなければ意味がないのだ。そのことをタクマは、ボーマンとの手合わせを通じて少しずつ理解し始めているのだろう。
その時、ボーマンが私たちの方へ歩いてきた。
「タクマ殿。少々よろしいでしょうか」
「はい。何でしょう?」
「明日は一つ、試していただきたいことがございます」
タクマが顔を上げた。
「これまで学んできた技術をすべて使って、私に一撃を入れてみせてください」
タクマは一瞬、言葉を失った。
「……ボーマンさんに、ですか?」
「ええ。剣でも魔法でも構いません。ただし、どちらか一方に頼るだけでは認めませんぞ。これまでの修行で身につけた技術を、どのように組み合わせるのか。それを見せていただきたいのです」
「いや、それは相当難しいんじゃ……」
「もちろん、簡単ではありませんな」
ボーマンは穏やかに笑った。
「ですが、今のあなたなら、挑むだけの力はついております。私に勝つ必要はございません。ただ一度、私の予想を上回る攻撃を見せていただければ、それで結構です」
タクマは私の方を見た。
助けを求めるような視線だったけれど、残念ながら私にもどうすることもできない。
「頑張ってね、タクマ」
「リカ、他人事だと思って……」
「だって私、ボーマンと戦うの嫌だもん」
「おい!」
ボーマンが声を上げて笑った。
「ははは。リカ殿は昔から、勝ち目の薄い勝負には慎重でしたからな」
「ボーマン! 余計なこと言わないでよ!」
「おや、事実ではありませんかな?」
私は思わず頬を膨らませた。
ボーマンは昔からこうだ。普段は穏やかで優しいのに、時々こちらが言い返せないことを平然と言ってくる。しかも、私が反論しようとすると、決まってあの穏やかな笑顔で受け流してしまうのだから、余計に腹が立つ。
タクマはそんな私たちのやり取りを見て笑っていたけれど、やがて模擬剣を見つめながら小さく息を吐いた。
「……分かりました。やってみます」
その声には、以前のような迷いがなかった。
「勝てるとは思いませんけど、今の自分にできることを全部試してみます」
ボーマンは静かにうなずいた。
「それでよろしい。勝敗だけが修行の成果ではありません。大切なのは、何を考え、どのように戦うかです」
私はタクマの横顔を見つめた。
最初に出会った頃の彼は、この世界のことを何も知らず、魔法も使えず、森の魔獣にさえまともに立ち向かえなかった。あの頃から剣術の経験はあったけれど、この世界の魔獣や魔法を相手にするには、あまりにも知らないことが多すぎたのだ。
けれど、今は違う。
タクマは自分の剣術を磨き、この世界の魔法を学び、身体強化や風魔法を組み合わせることで、新しい戦い方を身につけようとしている。もちろん、ボーマンとの実力差が簡単に埋まるわけではない。それでも、以前なら手も足も出なかった相手に対して、どうすれば届くのかを考えられるようになった。
私はその成長が嬉しくて、そっと彼の手を握った。
「明日、楽しみにしてるね」
「ああ。せめてボーマンさんを一回くらい驚かせたいな」
「ふふっ。じゃあ、私も期待してる」
タクマが笑い返してくれた。
ボーマンはそんな私たちを見守りながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。けれど、その表情には、今日までの修行でタクマがどこまで成長したのかを確かめようとする、師としての期待も感じられた。
明日の試練がどんなものになるのか、私にも分からない。ボーマンが本気で相手をするのなら、タクマが一撃を入れることは容易ではないだろうし、私自身も彼がどんな戦い方を見せるのか想像できていなかった。
それでも、きっと何かを見せてくれる。
そう思えるだけの時間を、私たちは一緒に積み重ねてきたのだから。




