第34話 もしも、あのまま
乾いた音が、森の静けさを破った。
タクマの振るった木剣が、人の形を模した木製の的に打ち込まれる。衝撃で支柱がわずかに揺れ、関節を模して取り付けられた木の腕が軋んだ。
タクマは剣を振り抜いた姿勢から足を引き、もう一度構え直した。呼吸を整え、的との距離を確かめると、今度は先ほどよりも少し遠い位置から地面を蹴る。
踏み込みと同時に、身体強化魔法が働いた。
足元から身体を押し出すように、普段よりも速く間合いが縮まる。木剣が斜めに振り下ろされ、的の肩に当たると、タクマはその勢いを殺しながら後ろ足を引き寄せた。
今度は、姿勢が崩れなかった。
「……よし」
小さく呟いたタクマは、自分の足元を確認してから、再び構え直した。
私は少し離れた場所に置かれた椅子に腰掛け、その様子を眺めていた。
身体強化魔法を使い始めてから、数日が経っている。
最初は魔法によって生まれる力に身体がついていかず、踏み込むたびに転びそうになっていたタクマだったけれど、今では随分と安定してきた。もちろん、まだ魔法を使いながら自由自在に動けるわけではない。それでも、一歩踏み込み、剣を振り、姿勢を整えて次の動作へ移るという基本的な流れは、少しずつ身についている。
魔法そのものの扱いについては、あまり心配していなかった。
タクマは、魔法を使う時のイメージを組み立てるのがとても上手い。身体のどこを、どのように動かしたいのか。私が説明すると、すぐにその意味を理解し、自分なりに試してみることができる。
ただ、頭の中で思い描いた動きを、実際の身体で再現するのは別の話だった。
魔法の力を加えるタイミングが少しずれれば、剣を振る前に身体が進みすぎてしまう。逆に剣を振ることばかり意識すると、今度は足が止まる。魔法で強くなった脚が、必ずしも思いどおりに動くとは限らないのだ。
それに、タクマが使える魔力には限りがある。
身体強化を長く維持することは難しく、何度も続けて使えば疲労も大きくなる。そのためボーマンは、魔法を常に使い続けるのではなく、踏み込みの瞬間だけ力を加える練習を中心にしていた。
必要な時に、必要なだけ。
言葉にすれば簡単だけれど、実際にそれを行うには、魔法と身体の動きを細かく合わせなければならない。
結局のところ、身体の使い方を理解した後は、何度も繰り返して覚えるしかないのだ。
「……ふむ」
隣に立っていたボーマンが、満足そうに頷いた。
「だいぶ馴染んでまいりましたな」
「うん。最初の頃とは全然違うね」
「ええ。飲み込みも早く、物事をよく考えておられる。何より、教えたことをそのまま繰り返すだけではなく、なぜそうするのかを理解しようとなさるのがよろしい」
ボーマンはタクマの動きを見ながら、穏やかに続けた。
「当初は一年ほど滞在する覚悟でございましたが、半年ほどで何とかなりそうですな」
「……えっ?」
私は思わずボーマンを見上げた。
「そんなにいるつもりだったの!?」
「もちろんでございます」
ボーマンは何でもないことのように答えた。
「殿下の大切なお方をお預かりするのです。中途半端な指導で終わらせるわけにはまいりませんからな」
「いや、それは嬉しいけど……一年って、結構長いよ?」
「ご安心ください。こちらでの生活は、なかなか気に入っております。森の空気もよろしいですし、ログハウスの住み心地も悪くございません」
「そこを心配してるんじゃないって!」
私がそう言うと、ボーマンは楽しそうに笑った。
まったく、この人は。
昔からこういうところがある。
普段は誰よりも礼儀正しく、王宮でも厳格な人物として知られていたのに、私に対しては時々、妙にとぼけた返事をするのだ。こちらが真面目に話している時ほど、わざと話をずらしているような気さえする。
もっとも、私が幼い頃から知っているボーマンは、いつもこんな人だった。
「しかし、殿下。タクマ殿には、まだまだ覚えていただきたいことがございます」
「それは分かってるけど」
「剣術も魔法も、ようやく入口に立たれたところです。半年というのも、あくまで当面の基礎を仕上げるまでのお話。そこから先は、タクマ殿ご自身が経験を積んでいかねばなりません」
ボーマンの視線が、再びタクマへ向けられる。
タクマは私たちの会話に気づいていないらしく、黙々と木剣を振っていた。額には汗が浮かび、呼吸も少し荒くなっている。それでも、一度剣を振るたびに自分の動きを確かめ、次はどこを直すべきか考えているようだった。
「……本当に、真面目だよね」
私が呟くと、ボーマンは頷いた。
「ええ。あのひたむきさは、何よりの長所でございます」
そう言ってもらえるのは、何だか嬉しかった。
けれど、ふと別のことが気になった。
ボーマンは一年も滞在するつもりだったという。
王宮で長く仕えてきた人が、そんなに簡単に持ち場を離れてしまっていいのだろうか。もちろん、お父様の許可を得て来ていることは知っている。けれど、そこまで長期間の滞在を認めたというのは、少し意外だった。
そう考えたところで、私はあることに気づいた。
ボーマンがここへ来てから、もう何日も経っている。それなのに、私は故郷のことをほとんど尋ねていなかった。
別に、気にならなかったわけではない。
ただ、今の生活が忙しかったこともあるし、ボーマンが来たことで、昔のことを思い出す機会が増えたのも確かだった。だからこそ、かえって自分から話題にしなかったのかもしれない。
「……ねえ、ボーマン」
「はい、殿下」
「そういえば、あんまり詳しく聞いてなかったけど……今、マリアベルってどんな感じなの?」
ボーマンは少しだけ目を細めた。
意外な質問だったのだろう。
しばらく考えてから、穏やかに答えた。
「そうでございますな。王国は、概ね平穏でございます。陛下もお変わりなく、日々の政務に励んでおられます」
「お父様、元気なんだ」
「ええ。以前と変わらず、お忙しくなさっております」
「……そっか」
私は少し安心した。
お父様は昔から仕事熱心な人だった。
王国のこととなれば、どんなに忙しくても自分で確かめようとする。子供の頃は、もう少し休めばいいのにと思ったこともあるけれど、本人はそういう性格なのだから仕方がない。
「ヴィルヘルム兄様は?」
「王太子殿下も、お元気でいらっしゃいます。近年は政務をお任せになる機会も増え、陛下をよくお支えになっております」
「へえ……。やっぱり、相変わらず真面目なんだね」
私は少し笑った。
ヴィルヘルム兄様は、昔からそうだった。
私たち兄妹の中で一番年上ということもあって、いつも自分がしっかりしなければならないと思っていたのだろう。幼い頃から勉強も剣術も真面目に取り組み、王太子としての振る舞いを決して崩そうとしなかった。
その分、私には少し口うるさかったけれど。
魔法の研究に夢中になって食事の時間を忘れた時も、城の中を勝手に探検して怒られた時も、最後には必ず兄様が説教しに来たものだ。
けれど、本当に困った時には助けてくれた。
厳しいけれど、優しい兄だったと思う。
「じゃあ、ハインリヒ兄様は?」
私が尋ねると、ボーマンはわずかに言葉を止めた。
「……第二王子殿下も、お元気でいらっしゃいます」
「相変わらず、ヴィルヘルム兄様に張り合ってるの?」
「以前にも増して、精力的に活動しておられますな」
「……ああ、やっぱり」
私は苦笑した。
ハインリヒ兄様は、昔からヴィルヘルム兄様を意識していた。
勉強でも剣術でも、何かにつけて兄と比べられることを嫌がっていたし、自分だって負けていないと証明したがっていた。
もっとも、私に対しては、そこまで厳しい兄ではなかった。
時々、妙なところで意地を張ることはあったけれど、私が魔法の話を始めると、面倒くさそうな顔をしながらも聞いてくれたことがある。
だから、兄たちが今も張り合っていると聞いても、私はそれほど驚かなかった。
「……二人とも、変わらないんだね」
「そうでございますな」
ボーマンは静かに頷いた。
ただ、その返事には少しだけ間があった。
私は何となく気になったけれど、それ以上は尋ねなかった。
王宮には、王宮の事情がある。
それは、私がいた頃から変わらないのだろう。
王太子であるヴィルヘルム兄様を支持する貴族もいれば、ハインリヒ兄様に近づく者もいる。王族の周囲には、いつだってそういう人たちが集まっていた。
私は、ああいう空気があまり好きではなかった。
誰が誰と親しくしているとか、どの家がどちらの王子に近いとか、そんなことばかり気にしなければならない生活が、窮屈で仕方なかったのだ。
だから、王宮を出た。
少なくとも、当時の私はそう思っていた。
けれど、今になって考えると、それだけが理由だったわけでもない気がする。
もっと単純に、自分の人生を自分で決めたかったのだろう。
私は、再びタクマへ目を向けた。
彼は少し疲れたらしく、木剣を下ろして額の汗を拭っていた。それでも、すぐに構え直し、また同じ動作を繰り返している。
七年前の私には、こんな未来を想像することなんてできなかった。
王宮を飛び出した時は、ただ自由になりたかった。
どこへ行くのか、何をするのか、誰と出会うのか。そんなことは、ほとんど考えていなかった。
ただ、あの場所から離れたかった。
それなのに、今はこうしてタクマと一緒に暮らしている。
冒険者として仕事をして、友達と笑い合って、家へ帰れば誰かが待っている。
不思議なものだと思う。
「……ねえ、ボーマン」
「はい」
「私、まだ王宮にいたら、今頃どうなってたと思う?」
ボーマンは、今度こそ少し驚いたようだった。
「……珍しいことをお尋ねになりますな」
「そう?」
「ええ。以前の殿下であれば、そのようなことをお考えになるのも嫌がられたでしょう」
「……まあ、そうかも」
私は苦笑した。
「でも、ちょっと気になったんだよね」
ボーマンはしばらく考え込んだ。
そして、穏やかに答えた。
「そうでございますな。おそらく、すでにご結婚なさっていた可能性が高いでしょう」
「……うわ、やだ」
思わず本音が出た。
ボーマンは小さく笑った。
「お相手によっては、国外でお暮らしになっていたかもしれません」
「……ますますやだ」
「ふふ。相変わらずでございますな」
「だって、知らない人と結婚して、知らない国で暮らすんでしょ? 絶対嫌だよ」
もちろん、政略結婚というものが王族にとって珍しくないことくらい、私だって知っている。
王家同士の婚姻は、単に二人が結ばれるというだけではない。国と国の関係を深め、時には争いを避けるための手段にもなる。
それがどれほど重要なことなのか、頭では理解していた。
けれど、理解できることと、自分が納得できることは別だ。
私は昔から、自分の人生を誰かの都合で決められるのが嫌だった。
「しかし、殿下。必ずしも、ご結婚だけが道ではなかったと思いますぞ」
「……そうなの?」
「ええ。殿下には、魔法において並外れた才能がございました。学院でのご成績を考えれば、王国の魔法研究や人材育成に関わる道もあったでしょう」
私は少し考えた。
確かに、そういう話がなかったわけではない。
学院にいた頃、研究を続けてはどうかと勧められたこともあったし、卒業後に王宮の魔法研究部門へ入るという選択肢も示されていた。
ただ、その頃の私は、そういう話を聞くだけで嫌になっていたのだ。
どんなに面白そうな研究でも、王女としての立場がついて回る。
自分の能力を評価されているのか、王家の人間だから期待されているのか。その区別が、どうしてもつかなかった。
「……でも、それって結局、王宮の中で暮らすってことでしょ?」
「そうとも限りません。王国のために働く道は、王宮の中だけにあるわけではございませんからな」
「……そっか」
私は少し考え込んだ。
当時の自分は、そこまで冷静に考えられなかったのかもしれない。
王宮にいるか、出ていくか。
その二つしか、選択肢がないように思っていた。
けれど、本当はもっといろいろな道があったのだろう。
もちろん、だからといって、あの時の選択を後悔しているわけではない。
「殿下には、多くのことを成し遂げる力がございました」
ボーマンが静かに言った。
「もし王宮に残っておられれば、今頃は王家の一員として、立派にお役目を果たしておられたことでしょう」
「……私が?」
「ええ」
「でも、私、逃げちゃったよ?」
「左様でございますな」
「……そこは否定してくれないんだ」
「事実でございますから」
私は思わず笑った。
相変わらず、こういうところは容赦がない。
けれど、ボーマンは続けた。
「ですが、殿下が王宮を出られたことを、私は間違いだったとは思っておりません」
私は顔を上げた。
ボーマンは、タクマの方を見ていた。
「王家にお生まれになった以上、殿下には果たすべきお役目があった。それは、今でも変わらぬ事実でございます」
「……うん」
「しかし、だからといって、殿下ご自身のお気持ちが、何の意味も持たないわけではございません」
ボーマンは穏やかに微笑んだ。
「私は長く王家にお仕えしてまいりました。王国にとって何が望ましいかを考えることも、私の務めでございます。ですが、それとは別に、幼い頃からお育ちになる姿を見てきた殿下には、幸せでいていただきたいとも思っております」
私は、すぐに返事ができなかった。
ボーマンは昔から、私に厳しかった。
剣術の稽古では何度も叱られたし、王女としての振る舞いについて注意されたことも、一度や二度ではない。
だから、私が王宮を出たことについても、きっと呆れているのだと思っていた。
けれど、今の言葉を聞いて、少しだけ胸が温かくなった。
「……ありがと、ボーマン」
「何のことでございましょう」
「もう。そういうところだって」
私が笑うと、ボーマンも穏やかに微笑んだ。
その時、少し離れた場所から声がした。
「……ふうっ!」
タクマが木剣を下ろし、大きく息を吐いている。
どうやら、決められた回数を終えたらしい。
ボーマンはそちらへ視線を向けると、いつもの表情に戻った。
「さて。そろそろ、次の授業とまいりましょうか」
「……次?」
私は首を傾げた。
「ええ。本日は、少々お話を聞いていただこうかと」
◇
休憩を終えたタクマは、私たちの前に置かれた椅子へ腰掛けた。
木剣は脇へ置かれ、代わりにボーマンが持ってきた簡単な図面が机の上に広げられている。
描かれているのは、道や建物、それに人の位置を示す印だった。
「……これは?」
タクマが尋ねる。
「戦闘時の位置取りを考えるためのものでございます」
ボーマンは図面の上に小さな木片を置いた。
「タクマ殿。例えば、こちらの道を殿下とお二人で歩いているといたしましょう」
「はい」
「そこへ、前方から三人の武装した者が現れた場合、どのようになさいますかな?」
タクマは少し考えた。
「……まず、相手が何者なのか確認します」
「よろしい。では、相手が明らかに敵意を持ち、武器を抜いて近づいてきたとしたら?」
「……リカと一緒に、逃げられるなら逃げます」
「その判断は間違っておりません。では、後方にも二人現れ、退路を塞がれた場合は?」
ボーマンは別の木片を置いた。
タクマは図面を見つめた。
「……うーん。どこか、横へ抜けられる場所がないか探します」
「なるほど。では、周囲に建物があり、道幅が狭いとしたら?」
さらに木片が置かれる。
タクマは困ったように笑った。
「……だんだん難しくなってきましたね」
「ふふ。実際の戦闘では、相手がこちらに都合のよい状況を用意してくれるとは限りませんからな」
私は二人のやり取りを聞きながら、少し感心していた。
ボーマンは、単に剣の振り方を教えているわけではない。
戦う前に何を考えるべきか、どこへ動くべきか、誰を優先して守るべきか。そうした判断を、タクマ自身に考えさせようとしているのだ。
それは、かつて王宮で近衛騎士たちを指導していた頃のボーマンのやり方でもあった。
ただ、しばらく聞いているうちに、私は少し気になることがあった。
話の内容が、随分と人間相手の戦闘に偏っているのだ。
魔獣との戦いであれば、相手の習性や身体の特徴、群れの動きなどを考える必要がある。けれど、ボーマンが説明しているのは、待ち伏せや包囲、逃走経路の遮断といった、人間同士の戦闘を想定したものばかりだった。
しかも、単に敵を倒すための話ではない。
護衛対象がいる場合の位置取りや、不意打ちを受けた時の判断まで含まれている。
「……ねえ、ボーマン」
「はい、殿下」
「さっきから、人間相手の話ばっかりじゃない?」
ボーマンは頷いた。
「左様でございます。意図して、そのようにしております」
「……どうして?」
私が尋ねると、ボーマンは少しだけ表情を引き締めた。
「今後、殿下にとって最も危険な相手となり得るのは、魔獣ではなく、人間だからでございます」
私は思わず黙った。
タクマも、少し驚いたようにボーマンを見ている。
「……どういうこと?」
私が尋ねると、ボーマンは静かに答えた。
「現在、殿下がノヴァグラードでお暮らしになっていることは、広く知られておりません。ですが、それが今後も続くとは限らないのでございます」
「……それは、まあ、そうだけど」
「殿下は、マリアベル王国の第三王位継承者でいらっしゃいます。その事実は、王宮を離れられた今も変わっておりません」
私は少し眉をひそめた。
「でも、私、王位なんて興味ないよ。戻るつもりもないし」
「殿下のお考えは、よく存じております」
ボーマンは頷いた。
「ですが、他者が殿下のお考えを尊重するとは限りません」
その言葉に、私は返事ができなかった。
確かに、そうなのだろう。
私が王位を望まなくても、私を利用しようとする人間がいないとは限らない。王家の血を引くというだけで、政治的な意味を持ってしまうことは、私だって知っている。
だからこそ、王宮にいた頃は嫌だったのだ。
「……でも、私がここにいることなんて、ほとんど誰も知らないでしょ?」
「ええ。今のところは」
「だったら、そんなに心配しなくても……」
「殿下」
ボーマンは、穏やかだけれど、少しだけ強い声で私を呼んだ。
「危険というものは、目の前に現れてから考えていては、遅いこともございます」
私は口を閉じた。
ボーマンは続ける。
「そして、殿下を脅かす者が、必ずしも他国の者とは限りません」
「……え?」
「王宮の内側にいる者が、殿下を利用しようと考える可能性もございます」
私は、思わずボーマンを見つめた。
「……身内ってこと?」
「その可能性も、否定はできません」
ボーマンは慎重に言葉を選んでいた。
「王宮には、さまざまなお考えを持つ方々がおられます。殿下をお迎えしたいと考える者もいれば、殿下の存在を都合が悪いと考える者もいるかもしれません」
「……そんな」
「もちろん、今すぐ何かが起きると申し上げているわけではございません。ただ、王家に連なる方である以上、そうした可能性を考えておく必要があるのでございます」
私は、少し考え込んだ。
王宮にいた頃、私はあまり政治の話に関わろうとしなかった。
けれど、何も知らなかったわけではない。
誰がどの王子に近いとか、どの貴族がどんな思惑を持っているとか、そういう話は嫌でも耳に入ってきた。
それでも、実際に自分が誰かの敵になるかもしれないなんて、考えたことはほとんどなかった。
私は王位を望んでいない。
誰かと争うつもりもない。
それなのに、私の存在そのものが、誰かにとって邪魔になることがあるのだろうか。
「……そこまで考えなきゃいけないんだ」
私が呟くと、ボーマンは静かに頷いた。
「考えずに済むのであれば、それが最善でございます」
そして、少しだけ声を落とした。
「ですが、考えずにいたために取り返しのつかないことになるのは、避けねばなりません」
私は、それ以上何も言えなかった。
◇
「タクマ殿」
ボーマンが、今度はタクマへ向き直った。
「はい」
「あなたは、お優しい方でございますな」
「……え?」
突然そう言われて、タクマは戸惑ったようだった。
ボーマンは穏やかに続ける。
「不必要に命を奪うことを好まず、できることなら争いを避けようとなさる。そのお人柄は、決して欠点ではございません」
タクマは黙って聞いていた。
私も、ボーマンの言葉を待つ。
「ですが、殿下のおそばにいる以上、いつか人間を相手に剣を抜かねばならない時が訪れるかもしれません」
タクマの表情が、少し硬くなった。
その変化を見て、私は胸の奥が小さく痛むのを感じた。
タクマは、まだ人間を相手に戦ったことがないわけではない。
以前、隊商の護衛を引き受けた時、盗賊に襲われたことがあった。
あの時、御者のマルセルが危険にさらされ、タクマは彼を助けようとして剣を振るった。その結果、盗賊の一人が命を落とした。
タクマが初めて、人間の命を奪った時だった。
あの夜、彼はひどく悩んでいた。
助けたかった人を助けることができた。それなのに、別の誰かを死なせてしまったことが、どうしても心に引っかかっていたのだ。
私は、そんな彼に自分の経験を話した。
王宮を出て間もない頃、三人の追いはぎに襲われたことがある。剣を抜いた男を前に、私は反射的に火魔法を使い、その男を殺してしまった。
残りの二人は逃げ、後に衛兵からは正当防衛だと判断された。
けれど、正当防衛だったからといって、何も感じずに済むわけではない。
命を奪ったという事実は、その後もずっと残る。
私とタクマは、あの夜、そんな話をしたのだった。
「……ボーマンさん」
タクマが静かに口を開いた。
「俺、一度だけ、人を殺したことがあります」
ボーマンは驚いた様子を見せなかった。
「……そうでございましたか」
「隊商の護衛をしていた時です。盗賊に襲われて、御者の人が殺されそうになって……。助けようと思って剣を振ったら、相手が死んでしまって」
タクマは、机の上に置かれた自分の手を見つめた。
「その時は、必死だったんです。相手を殺そうとか、そういうことを考える余裕もなくて。ただ、目の前の人を助けなきゃって……」
私は黙って聞いていた。
タクマは、少し言葉を探すように間を置いた。
「後になって、すごく怖くなりました。もし自分が動かなかったら、マルセルさんが死んでたかもしれない。でも、俺が動いたから、盗賊は死んだんです」
彼は顔を上げた。
「……あれが正しかったのか、今でもよく分かりません」
ボーマンは、しばらくタクマを見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。すでに、そのようなご経験をなさっていたのですな」
「……はい」
「では、私がお伝えしたいことも、少しはお分かりいただけるかもしれません」
ボーマンは静かに続けた。
「人の命を奪うということは、決して軽いものではございません。たとえ正当な理由があったとしても、その事実が消えるわけではない。タクマ殿が悩まれるのも、当然のことでございましょう」
タクマは黙って頷いた。
「ですが、あの時、あなたが剣を振るわなかった場合、どうなっていたと思われますかな?」
「……マルセルさんが、殺されていたかもしれません」
「ええ。そして、その場にいた他の方々も、危険にさらされていた可能性がございます」
ボーマンは、そこで一度言葉を区切った。
「私は、あなたが盗賊を斬ったことを褒めようとしているのではございません。まして、人を殺すことに慣れていただきたいわけでもない」
その言葉に、タクマが顔を上げた。
「ただ、守るべきものがある時、すべてを傷つけずに済ませることができるとは限らないのでございます」
ボーマンは、机の上の木片を一つ手に取った。
「戦いを避けられるのであれば、避けるべきでしょう。相手を殺さずに退けられるのであれば、それも立派な判断でございます。しかし、相手がすでに刃を振り下ろそうとしている時、その一瞬に何を優先するのか。そこだけは、迷ってはならない場合がございます」
タクマは、じっとボーマンを見つめていた。
「タクマ殿。あなたは、お優しい方でございます。人を傷つけることを嫌い、できることなら誰も死なせたくないとお考えなのでしょう。そのお気持ちは、どうか失わずにいていただきたい」
ボーマンの声は穏やかだった。
けれど、次の言葉には、長年剣を握ってきた人間だけが持つ重みがあった。
「ですが、殿下をお守りするのであれば、時として冷酷な判断を下さねばならないこともございます。相手が何者であろうと、どのような事情を抱えていようと、殿下の命が危険にさらされているのであれば、ためらってはならない。その覚悟だけは、心に刻んでおいていただきたいのです」
タクマは、唾を飲み込んだ。
私は隣に座る彼を見た。
いつものタクマなら、何かを教わればすぐに頷き、分からないことがあれば質問する。
けれど、今は違った。
彼は、以前の隊商護衛で起きたことを思い出しているのだろう。
あの時、彼は自分の意思で剣を振った。
誰かを助けるためだった。
けれど、その結果を受け止めることは、簡単ではなかった。
そして今、ボーマンは彼に、もう一度同じような選択を迫られる可能性があると告げている。
「……正直に言うと」
タクマが、ゆっくりと口を開いた。
「次に同じことが起きた時、迷わず動けるかは分かりません」
ボーマンは黙って頷いた。
「でも、あの時、マルセルさんを助けようとしたことは、後悔してないんです」
タクマは、少しだけ視線を落とした。
「……人が死んだことは、今でも嫌です。できるなら、別の方法があればよかったと思います。でも、あの時の自分が何もしなかった方がよかったとは、思えなくて」
私は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
あの夜、タクマは自分の行動が正しかったのか分からないと言っていた。
今も、その答えが完全に出たわけではないのだろう。
けれど、彼なりに考え続けてきたのだ。
「……だから」
タクマは、ボーマンをまっすぐに見た。
「次に誰かを守らなきゃいけない時、ちゃんと動けるようになりたいです。できれば誰も殺したくない。でも、それで大切な人を失うのも嫌なんです」
ボーマンは、静かに頷いた。
「それで結構でございます」
「……え?」
「今すぐ、すべての答えを出していただく必要はございません。大切なのは、そうした選択を迫られる可能性があることを理解し、備えておくことでございます」
タクマは、少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、私はどうしても黙っていられなかった。
「……ちょっと待って」
二人がこちらを見る。
「ボーマン。タクマに全部背負わせるみたいな言い方、やめてよ」
「殿下?」
「私だって戦えるし、危ないことがあったら自分で何とかするよ。それに、タクマに人を斬らせるために一緒にいるわけじゃないんだから」
ボーマンは、少しだけ目を細めた。
「もちろん、殿下のお力は存じております」
「だったら……」
「ですが、殿下が常に万全の状態でいらっしゃるとは限りません」
私は言葉を止めた。
「お二人が離れている時もございましょう。殿下が別の方をお守りになっている間に、タクマ殿が判断を迫られることも考えられます」
「……それは」
「私は、タクマ殿に殿下のすべてを背負っていただこうとは考えておりません。ただ、殿下のおそばにいるということが、時にどのような意味を持つのか。それを知っておいていただきたいのでございます」
私は、反論できなかった。
ボーマンの言っていることは、間違っていない。
私は強い。
少なくとも、普通の冒険者や魔獣を相手にするのであれば、そう簡単に負けるつもりはない。
けれど、どんな状況でも必ずタクマを守れるかと聞かれれば、絶対とは言えない。
不意打ちを受けることもあるだろうし、誰かを助けるために離れなければならないこともある。
そうした時、タクマが自分で判断しなければならない場面は、確かにあるのだ。
「……リカ」
タクマが、静かに声をかけた。
「ん?」
「俺、リカに守ってもらうだけじゃなくて、一緒に戦えるようになりたいんだ」
私はタクマを見た。
彼は、少し真面目な顔をしていた。
「もちろん、今すぐそんなことができるとは思ってない。でも、いつまでもリカに頼ってばっかりじゃ嫌だし……。もし何かあった時、自分でできることを増やしておきたい」
「……うん」
「だから、ボーマンさんの話も、ちゃんと聞いておきたい」
私は少し困った顔をした。
タクマが強くなりたいと思う気持ちは、よく分かる。
それに、私だって彼が成長していく姿を見るのは嬉しい。
けれど、その先にあるものが、必ずしも楽しいことばかりではないのだと、改めて思い知らされた気がした。
私は少し考えてから、頷いた。
「……分かった」
タクマがこちらを見る。
「でも、無茶だけはしないでね」
「うん」
「それと、何かあったら私にもちゃんと相談して。勝手に一人で決めたりしないでよ?」
タクマは少し笑った。
「分かってるよ」
「……本当に?」
「本当だって」
私は小さく息を吐いた。
すると、ボーマンが穏やかに微笑んだ。
「それでよろしいのです」
私はボーマンを見た。
「……何が?」
「お二人で考え、お二人で決める。それが、何より大切なことでございましょう」
私は少しだけ目を丸くした。
ボーマンは、いつものように落ち着いた顔をしている。
……まったく。
最初から、そう言ってくれればいいのに。
◇
その日の修行が終わる頃には、森の木々の間から差し込む光が、すっかり夕方の色に変わっていた。
タクマは木剣を片づけ、ボーマンに礼を言うと、私と一緒に家へ戻った。
帰り道、彼はいつもより少し口数が少なかった。
疲れているのか、それとも今日の話を考えているのか。たぶん、両方なのだろう。
私は無理に話しかけず、隣を歩いた。
しばらくして、タクマが口を開いた。
「……リカ」
「ん?」
「王宮にいた頃って、そんなに大変だったの?」
私は少し考えた。
「んー……大変だったこともあるけど、楽しかったこともいっぱいあったよ」
「……そうなんだ」
「うん。お兄様たちと遊んだこともあるし、ボーマンに剣を教わったり、学院で魔法を勉強したり。嫌なことばっかりだったわけじゃないんだ」
タクマは頷いた。
「そっか」
「でも、ずっとあそこにいたいとは思わなかったんだよね」
私は少し笑った。
「何をするにも、王女だからって言われるし。どこへ行くにも誰かがついてくるし。自分で決められないことが多すぎてさ」
「……それは、窮屈そうだな」
「でしょ?」
私は頷いた。
「だから、飛び出しちゃった」
タクマは少し笑った。
けれど、すぐに真面目な顔へ戻った。
「……でもさ」
「ん?」
「俺、リカがここにいてくれてよかったって思ってるけど……それって、リカがいろんなものを置いてきたからなんだなって」
私は少し驚いた。
そんなふうに考えていたのか。
タクマは続けた。
「家族とか、昔から知ってる人とか……。俺も、こっちに来てから元の世界のこと考える時があるからさ」
その言葉を聞いて、私は少し胸が痛くなった。
タクマは、自分の意思でこの世界へ来たわけではない。
突然、知らない世界へ放り出されて、元の世界へ戻る方法も分からないまま、ここで暮らしている。
私とは、事情が違う。
私は自分で王宮を出た。
けれど、タクマはそうではないのだ。
それでも、彼は今の生活を大切にしようとしてくれている。
「……タクマ」
「ん?」
「そんなこと、気にしなくていいよ」
私は笑った。
「ここに来たのは、私が決めたことだし。王宮を出たのも、冒険者になったのも、全部自分で選んだんだから」
「……うん」
「それにさ」
私は少しだけ、タクマの顔を覗き込んだ。
「王宮にいたら、タクマとは会えなかったかもしれないでしょ?」
タクマは少し驚いたように私を見た。
それから、嬉しそうに笑った。
「……そうだな」
「だから、私は今の方が好き」
私はそう言って、タクマの手を取った。
彼は自然に握り返してくれる。
その温かさを感じながら、私は少しだけ安心した。
今日、ボーマンから聞いた話は、決して気持ちのいいものではなかった。
王宮を離れても、私は王家の人間であることから逃れられない。
今は誰も私の居場所を知らなくても、いつか知られてしまうかもしれない。
その時、私を利用しようとする人間が現れる可能性もある。
考えたくないことだった。
けれど、ボーマンの言うとおり、考えずに済ませていいことでもないのだろう。
私は、隣を歩くタクマを見た。
彼は今日も、何度も木剣を振っていた。
身体強化魔法を使い、少しずつ動きを覚え、できなかったことをできるようにしている。
そして、剣を振るうことの意味についても、彼なりに考え続けている。
あの隊商護衛の夜から、タクマはずっと、人を殺してしまったという事実を抱えてきた。
それでも、彼は前へ進もうとしている。
私は、そんな彼の姿を見ていると、自分も少しだけ前を向ける気がした。
七年前、私は自由になりたくて王宮を飛び出した。
あの時は、王女である自分を置いていけると思っていたのかもしれない。
けれど、今になって分かる。
どこへ行っても、私は私なのだ。
王宮で生まれ育ったことも、王家の血を引いていることも、なかったことにはできない。
それでも、今の暮らしを選んだことまで、間違いだったとは思わない。
私はタクマの手を、少しだけ強く握った。
「……リカ?」
「ん? 何でもない」
私が笑うと、タクマも笑った。
夕暮れの森を、二人で並んで歩く。
これから先、何が起きるのかは分からない。
もしかしたら、ボーマンが心配しているようなことが、本当に起きる日も来るのかもしれない。
けれど、その時はその時だ。
私は、もう一人ではないのだから。
……もっとも。
だからといって、タクマにばかり無茶をさせるつもりもない。
そのあたりは、明日にでもボーマンへもう一度、ちゃんと言っておこう。
私はそんなことを考えながら、タクマと一緒に家へ帰った。




