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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
異世界人の修行編

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第30話 老騎士の授業


昨日まで何もなかった場所に、一軒の家が建っている。


朝食を終え、タクマと一緒に外へ出た私は、木々の向こうに見える小さなログハウスを眺めながら、改めてその事実を実感していた。


丸太を積み重ねた壁に、きちんと取り付けられた扉と窓。傾斜のついた屋根には雨を防ぐための処理も施され、家の周囲には排水用の溝まで設けられている。昨日の朝には、そこに生えていた木をボーマンが切り倒していたというのに、今ではすっかり人の住まいになってしまった。


もちろん、細かな内装や家具はまだ揃っていない。それでも、昨夜は問題なく眠れたらしく、ログハウスの前には朝から元気そうな老人が立っていた。


「おはようございます、殿下。タクマ殿」


「おはよう、ボーマン」


「おはようございます!」


タクマは張り切った様子で挨拶を返した。昨日は一日中家を建てていたというのに、疲れた様子もない。むしろ、今日から始まる修行を楽しみにしているらしく、朝食の時から妙に落ち着かなかった。


一方の私は、少し眠い。


昨日は木材を乾燥させたり、土を掘ったり、石を運んだりと、思っていた以上に魔法を使わされた。魔力が足りなくなるような作業ではなかったけれど、朝から晩までタクマの細かな注文に付き合わされたことを思い出すと、今でも少し腹が立つ。


「ボーマン。今日は静かな朝だったわね」


「それは何よりでございます」


「昨日みたいに、誰かさんが朝から木を倒してなかったから」


「ははは。おかげさまで、住まいは無事に完成いたしました」


まったく悪びれない笑顔だった。


私はため息をついたけれど、これ以上文句を言う気にもなれなかった。昨日の騒ぎはともかく、ボーマンが近くに住むこと自体は嫌ではない。むしろ、昔からよく知っている人がそばにいるというのは、少し安心する。


「さて、タクマ殿」


ボーマンがタクマに向き直った。


「本日から、約束どおりご指導させていただきます。まずは現在の実力を確認いたしますので、無理に良いところを見せようとなさらず、普段どおりに動いてください」


「はい! よろしくお願いします!」


タクマは勢いよく頭を下げると、早速、用意していた木剣を手に取ろうとした。


けれど、ボーマンは穏やかに手を上げ、それを制した。


「剣は、まだ結構です」


「……え?」


「まずは、あちらまで歩いていただけますかな」


ボーマンが指したのは、庭先から少し離れた木の辺りだった。


タクマは不思議そうに首を傾げる。


「歩くんですか?」


「ええ。普段どおりに」


「……分かりました」


タクマは言われたとおりに歩き始めた。


ボーマンはその後ろ姿を、じっと観察している。足の運び、腕の振り方、身体の傾き。私には何の変哲もない歩き方に見えるけれど、ボーマンは時折小さく頷きながら、何かを確かめているようだった。


「では、戻ってきてください」


タクマが戻ってくると、今度は走るように指示された。


「そこで止まってください」


「はいっ!」


急に声をかけられたタクマは、慌てて足を止めた。少し前のめりになったものの、転ぶことなく踏みとどまる。


「ふむ。では、今度は反対方向へ」


「えっ、あ、はい!」


タクマは身体をひねり、反対方向へ走り出した。


ボーマンはそれを何度か繰り返させた。歩く、走る、止まる、向きを変える。ただそれだけのことを、場所や速度を変えながら確認していく。


最初は不思議そうにしていたタクマも、次第に真剣な表情になっていった。単に走らされているのではなく、何かを確かめられているのだと気づいたのだろう。


「では、タクマ殿。今度はこちらへ向かって歩いてきてください」


「はい」


タクマが歩き出す。


ボーマンはすれ違う瞬間、タクマの肩へ軽く手を添えた。


「うわっ!?」


それだけで、タクマの身体が大きく傾いた。


慌てて足を踏み出し、何とか転倒を免れる。


「……え?」


タクマは驚いた顔でボーマンを見た。


私も、思わず目を瞬かせる。


ボーマンはほとんど力を入れていなかった。ただ、タクマの肩に触れただけに見えたのだ。


「ふむ。やはり、少々重心が前に寄っておりますな」


「……重心、ですか?」


「ええ。今、どちらの足に体重が乗っていたか、お分かりになりますかな?」


「えっと……右足、ですかね?」


「そのとおりです。ですが、次に左足を出そうとなさっていた。その瞬間に、少しだけ力を加えさせていただきました」


ボーマンは自分の足元を示しながら、ゆっくりと説明した。


「人は歩く時、必ずどこかで身体を支えております。走る時も、剣を振る時も同じです。どれほど速く動けたとしても、身体を支える場所を失えば、簡単に体勢を崩してしまいます」


「なるほど……」


「タクマ殿は、足の動き自体は悪くございません。ですが、身体が少々遅れておりますな。足を先に出そうとするあまり、上半身の動きが追いついていないようです」


タクマは自分の足元を見下ろした。


ボーマンは続ける。


「速く動くことと、自在に動くことは違います。進むだけでなく、止まること、戻ること、向きを変えること。そのすべてを、思いどおりにできるようになる必要がございます」


私は、その説明を聞きながら、幼い頃のことを思い出していた。


そういえば、私も似たようなことをやらされた覚えがある。何度も歩かされ、走らされ、突然止まれと言われた。魔法を使わせてもらえると思っていたのに、ひたすら庭を行ったり来たりさせられて、随分と不満だったものだ。


当時は意味が分からなかったけれど、今なら分かる。


魔法で身体を強化した時ほど、自分の動きを正確に制御できなければ危険なのだ。速く動けるからといって、必ずしも上手に動けるわけではない。むしろ、速度が上がれば上がるほど、わずかな姿勢の乱れが大きな失敗につながる。


「では、もう一度お願いいたします」


「はい!」


タクマは再び歩き始めた。


今度は足元を意識しているらしく、先ほどより少し慎重な動きになっている。


ボーマンはそれを見て、満足そうに頷いた。


「よろしい。ですが、考えすぎてもいけません。最初は意識していただいて結構ですが、いずれは自然にできるようになっていただきます」


……うん。


始まったわね。


私は、懐かしいような、少し気の毒なような気持ちで二人を眺めていた。


◇


しばらく身体の動きを確認した後、ようやく木剣を使うことになった。


タクマは待ってましたとばかりに木剣を手に取り、ボーマンの前へ進み出る。


「では、普段どおりに構えてください」


「はい!」


タクマはハーケンから教わった構えを取った。


足を開き、重心を落とし、木剣を正面に構える。以前に比べれば、随分と様になっている。最初の頃は剣を持つだけでもぎこちなかったのに、今では構えに迷いがない。


ボーマンはその姿を眺め、静かに頷いた。


「なるほど。よい構えですな」


「ありがとうございます!」


「ハーケン殿は、丁寧に教えてくださっているようです。余計な癖も少なく、基本がよく身についております」


タクマは嬉しそうに笑った。


私も、少し安心する。


ハーケンは、タクマが冒険者になってからずっと剣を教えてくれている。ボーマンほどの実力者に、その指導を評価してもらえるのは、きっとタクマにとっても嬉しいことだろう。


それに、ボーマンは相手の立場や経験だけで判断するような人ではない。実際にタクマの構えを見て、ハーケンが積み重ねてきた指導を認めているのだ。


「では、私に一本入れてみてください」


「……え?」


「遠慮は無用でございます。普段の稽古と同じように、打ち込んでいただければ結構です」


ボーマンは木剣を手にした。


けれど、その構えは驚くほど自然だった。肩に力が入っている様子もなく、どこか隙だらけに見える。


タクマは少し戸惑ったように私を見た。


「……リカ、本当にいいのかな?」


「いいんじゃない? ボーマンがそう言ってるんだから」


「でも、結構な年齢だし……」


私は思わず笑ってしまった。


確かに、見た目だけなら心配になるのも分かる。白髪の老人に向かって、若い男が木剣を振り下ろすのだから。


けれど、その心配は必要ない。


「タクマ。遠慮しない方がいいわよ」


「……そう?」


「ええ。たぶん、遠慮してる余裕なんてないから」


タクマは不思議そうな顔をしたけれど、やがて頷いた。


「分かった。じゃあ、いきます!」


タクマが踏み込んだ。


木剣が振り下ろされる。


その瞬間、ボーマンの身体がわずかに動いた。


大きく避けたわけではない。ただ、半歩ほど位置を変えただけだった。


タクマの木剣が空を切る。


そして、次の瞬間には、ボーマンの木剣の先端がタクマの胸元に触れていた。


「……一本、でございますな」


「……え?」


タクマは固まった。


何が起きたのか、理解できていないらしい。


「もう一度、お願いいたします」


「……はい!」


タクマは構え直し、今度は横から木剣を振った。


けれど、結果は同じだった。


ボーマンはほんの少し身体を動かしただけで攻撃をかわし、タクマの肩へ木剣を添えた。


「一本」


「……っ!」


タクマは悔しそうに唇を噛んだ。


その後も何度か挑戦したけれど、結果は変わらなかった。


ボーマンは決して速く動いているわけではない。むしろ、私から見ても、その動きはゆっくりに感じられる。タクマが剣を振り始めてから慌てて避けるのではなく、最初からそこに攻撃が来ると知っていたかのように、必要な場所へ身体を移しているのだ。


それなのに、タクマの剣は一度も届かなかった。


「……どうしてですか?」


とうとうタクマが尋ねた。


「ボーマンさん、そんなに速く動いてないですよね?」


「ええ。必要以上に速く動く理由はございませんからな」


「でも、全然当たらない……」


ボーマンは穏やかに微笑んだ。


「タクマ殿は、剣を振る前に教えてくださるのです」


「……何をですか?」


「どこを斬ろうとしているのか、でございます」


タクマは目を瞬かせた。


ボーマンは自分の肩へ手を置き、ゆっくりと動かしてみせる。


「剣を振ろうとすれば、肩が動きます。踏み込もうとすれば、足に力が入る。視線や呼吸にも、次の動きが現れるものでございます」


「……それを見てるんですか?」


「ええ。もちろん、すべてを目で追っているわけではございません。相手の構えや、それまでの動きから、次に何をするかを考えております」


タクマは自分の木剣を見下ろした。


「じゃあ、俺が振る前から、どこに来るか分かってるってことですか?」


「ある程度は、でございますな。ただし、予想が外れることもございます。その時に備えて、常に動ける姿勢を保つことも大切です」


ボーマンは軽く頷いた。


「速さは大切です。ですが、どれほど速い攻撃でも、相手が先に動いていれば届かぬことがございます。逆に、相手の動きを読めれば、必要以上に速く動くこともありません」


私は、その説明に納得していた。


ボーマンの強さは、単純な身体能力だけではない。相手の動きを見極め、必要な場所へ、必要なだけ身体を動かす。無駄がないからこそ、あれほど自然に攻撃をかわすことができるのだ。


もちろん、それを実際にやるのは簡単ではない。


相手の動きを読み違えれば、そのまま攻撃を受けることになる。何度も戦いを経験し、身体に覚え込ませてきたからこそ、ボーマンはあれほど落ち着いていられるのだろう。


「では、もう一度やってみましょう」


「はい!」


タクマは再び構えた。


今度は、すぐには踏み込まない。


ボーマンの様子をじっと見ながら、少しずつ間合いを測っている。先ほどの説明を、自分なりに試そうとしているのだろう。


その姿を見て、私は小さく笑った。


なるほど。今度は、相手の動きを考え始めたのね。


もっとも、次の瞬間には、タクマの木剣があっさりと弾かれ、本人も地面に尻もちをつくことになった。


「……痛っ!」


「ふむ。考えることは大切ですが、考えすぎると身体が止まってしまいますな」


「……はい」


ボーマンは穏やかに笑っている。


私は、思わず昔の自分を思い出した。


……本当に、変わらないわね。この人。


◇


剣術の確認が終わる頃には、タクマの額に汗が浮かんでいた。


まだ午前中だというのに、随分と疲れた様子だ。何度も攻撃をかわされ、体勢を崩され、そのたびに立ち上がっていたのだから無理もない。


ボーマンは木剣を置き、今度は魔法の確認に移ることにした。


「では、タクマ殿。現在使える魔法を、いくつか見せていただけますかな」


「はい!」


タクマは少し息を整え、手を前へ向けた。


まずは、火の魔法。


小さな炎が手のひらの上に現れる。


続いて、水の魔法。


空中に水の塊を作り、それをゆっくりと動かしてみせた。


どちらも、今では随分と安定している。


最初の頃は、ほんのわずかな魔力を扱うだけでも苦労していた。それが今では、こうして複数の魔法を続けて使えるようになっているのだから、大したものだと思う。


ボーマンは一つ一つの魔法を、真剣な表情で観察していた。


「ふむ……」


小さく頷きながら、何かを考えている。


「タクマ殿。もう一度、先ほどの火の魔法をお願いできますかな」


「はい」


タクマは再び炎を作った。


ボーマンはその様子を見つめ、しばらく黙っていた。


「なるほど。術式の発動自体は安定しておりますな」


「ありがとうございます」


「ただ、魔法の規模はまだ小さいようです。これは、意図的に抑えておられるのでしょうか?」


「いえ。今の俺だと、これくらいが精いっぱいです」


「ふむ……」


ボーマンは静かに頷いた。


「殿下。タクマ殿が初めて魔法を使われた頃は、どのようなご様子でしたかな?」


「最初は、ほとんど魔力を出せなかったわ。魔法そのものは覚えられたんだけど、出力が全然足りなくて……」


「なるほど」


「でも、練習を続けているうちに、少しずつ使えるようになってきたの。今では、簡単な魔法なら問題なく使えるわよ」


ボーマンは少し考え込んだ。


「つまり、術式の習得そのものには大きな問題がなく、魔法の出力が徐々に向上しているということですな」


「そうね。少なくとも、私が見てきた限りではそうよ」


「興味深いお話です」


私は首を傾げた。


「何か気になるの?」


「いえ。魔法の成長には個人差がございますからな。ただ、術式を扱う技術と、実際に引き出せる魔力の量は、必ずしも同じように成長するものではございません」


ボーマンはタクマへ視線を向けた。


「タクマ殿の場合は、まず魔法を安定して発動させることができている。今後は、その状態を維持したまま、どこまで出力を高められるかを確かめていくのがよろしいでしょう」


「なるほど……」


「ただし、無理に魔力を引き出そうとしてはいけません。現在の限界を知ることも、立派な修行でございます」


タクマは真剣な表情で頷いた。


私は、少しだけ安心する。


ボーマンは、今のタクマに何か特別な問題があると言っているわけではない。あくまでも、現在の実力を確認し、今後の指導方針を考えているのだ。


タクマはこの世界の人間ではない。


だからこそ、魔法についても分からないことが多い。私自身、彼の魔核がどのような性質を持っているのか、完全に理解しているわけではなかった。


けれど、少なくとも今は、確実に成長している。


それなら、焦る必要はないのだろう。


「タクマ殿。魔法も剣も、少しずつ積み重ねていくことが大切でございます。今は、できることを確実に増やしてまいりましょう」


「はい!」


タクマは元気よく返事をした。


私はそんな二人を眺めながら、改めて思う。


やっぱり、ボーマンは教えるのが上手い。


相手の状態を見極め、できていることはきちんと認める。そのうえで、何が足りないのかを説明し、次に何をすればいいのかを示してくれる。


ただ厳しいだけではないのだ。


もっとも、その指導が実際にどれほど大変なのかは、私もよく知っているけれど。


私は少し笑ってから、昼食の準備をするために家へ戻ることにした。


◇


昼食を終えると、ボーマンは午後も修行を続けると言い出した。


もっとも、今度は木剣を振るのではなく、午前中に確認した身体の動きを繰り返すらしい。


「まずは、歩くことから始めましょう」


「……また歩くんですか?」


「ええ。今度は、足の運びを意識しながら。午前中にお伝えしたことを、一つずつ確かめてまいりましょう」


タクマは少し苦笑したけれど、素直に頷いた。


私は二人の様子を眺めながら、これからのことを考えていた。


ボーマンの修行が始まった以上、タクマはしばらく冒険者の依頼に出られない日が増えるだろう。もちろん、ずっと修行ばかりするわけではないと思うけれど、今までと同じように毎日ギルドへ通うのは難しくなるかもしれない。


それなら、フリーダやクルシュにも説明しておいた方がいい。


それに、ハーケンにも話を通しておく必要がある。


ボーマンはハーケンの指導を評価していたし、これからも剣の稽古を続けることになるだろう。勝手に別の人の修行を始めて、何も伝えないというのは失礼だ。


「ねえ、タクマ」


「ん?」


「私、ちょっとギルドに行ってくるわ」


「ギルド?」


「ええ。フリーダたちに、しばらく修行があるって伝えておこうと思って」


「ああ、そうだな。俺も一緒に行った方がいいかな?」


「今日はいいわよ。ボーマンとの修行を続けてて。私から事情を説明しておくから」


タクマは少し考えた後、頷いた。


「分かった。じゃあ、よろしく頼むよ」


「ええ」


私はボーマンへ視線を向けた。


「ボーマン。タクマをよろしくね」


「もちろんでございます、殿下。こちらはお任せください」


穏やかな笑顔だった。


私は、その笑顔を見て少しだけ不安になる。


昔から、この人はこういう顔をしている時ほど容赦がない。


「……あんまり無理させないでよ?」


「ご心配には及びません。タクマ殿の状態を見ながら、適切に進めてまいります」


「……そう」


まあ、それなら大丈夫だろう。


ボーマンは厳しいけれど、無茶をさせる人ではない。相手の限界を見極めることについては、私も信頼している。


ただし、その限界ぎりぎりまで頑張らせることはあるけれど。


「じゃあ、行ってくるわね」


「うん。気をつけて!」


タクマが笑顔で手を振った。


私はそれに応え、森の中を歩き始めた。


背後から、ボーマンの声が聞こえてくる。


「では、タクマ殿。今度は少々、速度を上げてみましょうか」


「はい!」


「よろしい。では、あちらの木まで走っていただき、そのままこちらへ戻ってきてください」


「分かりました!」


元気な返事が聞こえた。


私は振り返らずに歩き続けた。


……頑張ってね、タクマ。


心の中で、そっと応援しておいた。


◇


午後の冒険者ギルドは、朝ほど混雑していなかった。


依頼を受ける冒険者たちの多くは、すでに街の外へ出ている時間だ。受付の前にも人は少なく、掲示板を眺めている冒険者が何人かいる程度だった。


私はいつものように受付へ向かう。


「あっ、リカ!」


私に気づいたエリナが、明るい声を上げた。


「今日は遅いわね。フリーダさんとクルシュさん、もう依頼に出ちゃったわよ?」


「そうなの? ちょうど二人に用事があったんだけど」


「何かあったの?」


「ええ。ちょっと、伝えておきたいことがあって」


エリナは首を傾げた。


私は、どう説明したものかと少し考える。


ボーマンが私の昔からの知り合いであることは、別に隠す必要はない。けれど、マリアベル王国の元近衛兵団団長であり、王宮の執事長まで務めていた人物だと知られれば、話がややこしくなる。


何より、私との関係を詳しく聞かれたら困る。


エリナたちは、まだ私が王女だということを知らないのだから。


「実は、私の昔からの知り合いがノヴァグラードに来たの」


「へえ! リカの知り合い?」


「ええ。剣術にも魔法にも詳しい人で、しばらくタクマの修行を見てくれることになったのよ」


「タクマさんの先生ってこと?」


「そういうこと」


エリナは納得したように頷いた。


「なるほどねぇ。でも、タクマさんって、ハーケンさんにも教わってるわよね?」


「ええ。もちろん、そっちも続けるつもりよ。ただ、今回来た人は、剣だけじゃなくて身体の使い方や魔法もまとめて見てくれるの」


「へえ……。それはすごいわね」


エリナは少し感心した様子だった。


「じゃあ、これからしばらくは、タクマさんも忙しくなるのね」


「そうなの。だから、依頼に出られない日も増えると思うのよ」


「なるほどねぇ。分かった!」


エリナはにっこりと笑った。


「フリーダさんとクルシュさんには、私から説明しておくね」


「ありがとう。助かるわ」


「あ、一応ハーケンさんにも伝えとくね。タクマさん、今までずっと教わってたでしょ?」


「そうね。お願いできる?」


「もちろん!」


エリナは頷いた後、ふと思い出したように首を傾げた。


「でも、リカの昔からの知り合いってことは、結構すごい人なんじゃない?」


「……まあ、腕は確かよ」


「どれくらい?」


「どれくらいって……」


私は少し考えた。


ボーマンの実力を、どう説明すればいいのだろう。


少なくとも、そこらの冒険者では相手にならない。剣術も魔法も一流で、実戦経験も豊富。しかも、教えるのが上手い。


けれど、それをそのまま説明すれば、今度は何者なのかと聞かれるに決まっている。


「……かなり強いわよ」


「ふうん?」


「私も昔、いろいろ教わったことがあるの」


「えっ、リカも?」


エリナが目を丸くした。


「じゃあ、リカの先生だった人ってこと?」


「……まあ、そんなところね」


完全に間違っているわけではない。


実際、私は幼い頃からボーマンにいろいろと教わってきた。剣術も魔法も、礼儀作法も、勉強も。あの人が私の教育に深く関わっていたことは事実なのだから。


「へえ……。リカに教えてた人なんて、相当すごそう」


「ええ。ちょっと厳しいけどね」


「……タクマさん、大丈夫?」


エリナが心配そうな顔をした。


私は少し考える。


今朝のタクマは、何度もボーマンに転ばされていた。それでも、最後まで楽しそうに修行を続けていたし、午後も張り切っていた。


……大丈夫、よね?


「……たぶん」


「そこは自信持って言ってあげなさいよ!」


エリナが呆れたように笑った。


私もつられて笑う。


「大丈夫よ。厳しいけど、ちゃんと相手を見て教えてくれる人だから」


「なら安心ね」


「ええ」


私は頷いた。


ボーマンの指導が厳しいことは、誰よりもよく知っている。けれど、あの人は決して無意味なことをさせない。どんな訓練にも理由があり、それをきちんと説明してくれる。


だからこそ、タクマにも安心して任せられるのだ。


「でも、フリーダさんたちも寂しがるかもね」


エリナが、少し残念そうに言った。


「最近は四人で依頼に出ることも多かったし、タクマさんが修行で忙しくなると、今までみたいには集まれなくなるでしょ?」


「そうね……」


私は少し考えた。


タクマがこの世界へ来てから、私たちの生活は随分と変わった。


最初は、何も知らない彼を助けるつもりだった。けれど、いつの間にか一緒に暮らすようになり、冒険者としても少しずつ成長してきた。


フリーダやクルシュとも仲良くなり、ハーケンから剣を教わり、ギルドの人たちにも顔を覚えてもらった。


今では、タクマがこの街で暮らしていることを、当たり前のように受け入れてくれる人がいる。


それが、何だか嬉しかった。


「でも、冒険者を辞めるわけじゃないから」


私はエリナに笑いかけた。


「修行が落ち着いたら、また一緒に依頼へ出るつもりよ」


「そうよね。じゃあ、フリーダさんたちにもそう伝えておくね」


「ありがとう。今度、私からも直接話すわ」


「うん!」


エリナは明るく頷いた。


私はもう一度礼を言い、ギルドを後にすることにした。


外へ出ると、午後の日差しが街並みを照らしていた。


いつもと変わらないノヴァグラードの風景。行き交う人々の声や、商人たちの呼び込みが聞こえてくる。


私はその中を歩きながら、少しだけ考えた。


ボーマンが来たことで、私たちの生活はまた少し変わるのだろう。


タクマはこれまで以上に修行へ時間を使うことになるし、私もそれを支えることになる。けれど、それは決して悪い変化ではない。


むしろ、タクマがもっと強くなるための、大切な時間になるはずだった。


……まあ。


本人がどれくらい大変な思いをするかは、別の話だけれど。


◇


夕方、森の家へ戻ってくると、庭先にタクマがいた。


正確には、地面に座り込んでいた。


木剣が傍らに置かれ、肩で大きく息をしている。服は汗で濡れ、髪も少し乱れていた。午前中はあれほど張り切っていたのに、今ではすっかり疲れ切った様子だ。


一方、その隣に立つボーマンは、まったく疲れた様子がない。


「お帰りなさいませ、殿下」


「……ただいま」


私はボーマンに返事をしてから、タクマを見た。


「……大丈夫?」


タクマはゆっくりと顔を上げた。


「……うん。生きてる」


「大げさね」


「いや、リカ……。ボーマンさん、すごいよ……」


タクマは力なく笑った。


私は少し心配になって、隣にしゃがみ込む。


「そんなに大変だったの?」


「うん……。歩いて、走って、止まって、また走って……。途中から、何をやってるのか分からなくなってきた」


「……そう」


「しかも、ちょっと動きが悪くなると、すぐ分かるんだよ。俺が気づく前に、ボーマンさんが教えてくれるんだ」


私は思わず笑ってしまった。


それは、よく分かる。


ボーマンは昔から、相手の動きを見るのが本当に上手かった。少しでも姿勢が崩れれば、すぐに指摘される。しかも、どうすれば直せるのかまで丁寧に説明してくれるので、言い訳のしようがないのだ。


ただ走るだけなら、そこまで難しいことではない。


けれど、正しい姿勢を保ち、身体の動きを意識しながら走り続けるとなると、話は別だ。普段なら気にも留めないような動作を、一つ一つ確認しながら繰り返さなければならない。


それが、思っている以上に疲れることを、私はよく知っていた。


「タクマ殿は、よく頑張られました」


ボーマンが満足そうに頷いた。


「初日としては、十分でございます。基本的な体力もございますし、何より、教えたことを素直に試そうとなさる。これは大きな長所ですな」


「……ありがとうございます」


タクマは何とか身体を起こし、頭を下げた。


私は少し安心する。


ボーマンがそう言うのなら、今日の修行は順調だったのだろう。


「では、明日からはもう少し本格的に進めましょう」


ボーマンが穏やかに告げた。


タクマの表情が固まる。


「……え?」


「本日は、現在の状態を確認させていただいただけでございます。明日からは、それを踏まえて訓練を組み立ててまいります」


「……今日って、本格的じゃなかったんですか?」


「ええ。まだ初日でございますからな」


ボーマンはにこやかに微笑んだ。


私は、思わず目を逸らした。


……うん。


知ってた。


昔の私も、同じことを言われた覚えがある。


最初の一日は、ただの確認。


本当に大変なのは、その次からなのだ。


「……リカ」


タクマが、ぽつりと呟いた。


「何?」


「昨日、家を建ててた時の方が楽しかった……」


「……でしょうね」


私は苦笑した。


タクマは大きくため息をつき、そのまま地面に仰向けになった。夕暮れの空を見上げながら、しばらく動こうとしない。


ボーマンはそんな彼を眺め、満足そうに頷いていた。


……まったく。


この人は、昔から本当に変わらない。


けれど、タクマにとっては、きっとよい先生になるだろう。


そう思いながら、私は地面に寝転がった彼の隣へ腰を下ろした。


「タクマ」


「……ん?」


「明日も頑張ってね」


「……うん」


少し疲れた声だったけれど、その返事には、まだ諦めていない響きがあった。


私は小さく笑って、彼の髪をそっと撫でた。


これから先、タクマがどれほど強くなるのかは分からない。


けれど、少なくとも今日、彼はまた一歩前へ進んだのだと思う。


昨日は、ボーマンに家の建て方を教えていた。今日は、ボーマンから身体の動かし方を教わっている。


得意なことも、知らないことも、お互いに教え合いながら、少しずつ前へ進んでいく。


そんな二人の姿を見ていると、何だか嬉しくなってくる。


もっとも、明日から始まる本格的な修行については、私も少し心配しているのだけれど。


……頑張ってね、タクマ。


今度こそ、心の底からそう思った。


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