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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
異世界人の修行編

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第31話 一歩の距離


タクマの様子が、少しおかしい。


ボーマンの修行が始まって三日目の朝。朝食の支度を終えた私は、食卓についているタクマを眺めながら、そんなことを考えていた。


別に、具合が悪そうなわけではない。食欲もあるし、昨夜だってよく眠れたようだ。いつものように私の作った朝食を美味しそうに食べているし、話しかければ普通に返事もする。


ただ、先ほどから妙に足元を気にしている。


椅子に座ったまま足の位置を変えたり、片方の踵を少し浮かせたり、何やら考え込んでは首を傾げているのだ。食事をしているというより、食卓の下で何かの実験をしているように見える。


「……タクマ、何してるの?」


「ん? ああ、ちょっとね」


タクマは足元を見たまま答えた。


「椅子から立ち上がる時って、どこに体重が乗ってるのかなと思って」


「……はい?」


「いや、昨日ボーマンさんに、普段から自分の身体の動きを意識するように言われたんだよ。それで、立ち上がる時はどうなんだろうって」


そう言うと、タクマは椅子からゆっくりと腰を浮かせた。


少し前かがみになり、足の裏に体重を移しながら立ち上がる。途中で何か気になったらしく、もう一度椅子に座り直した。


「……今のは、ちょっと前に寄りすぎたかな」


「……タクマ」


「ん?」


「ご飯くらい、普通に食べなさいよ」


タクマは私の顔を見ると、少し恥ずかしそうに笑った。


「いや、ごめん。なんか気になっちゃって」


「気になるのは分かるけど、食事中までやらなくてもいいでしょ」


「そうなんだけどさ。昨日、歩いてる時に何度も注意されたから、普段の動きから直した方がいいのかなって」


私は小さくため息をついた。


気持ちは分からなくもない。ボーマンの修行を受け始めた頃の私も、似たようなことをしていた覚えがある。何をするにも身体の動きが気になって、廊下を歩くだけでも足の運びを意識していた。


もっとも、意識したからといって、すぐに上手くなるわけではない。むしろ、普段なら何も考えずにできていたことが、妙にぎこちなくなるのだ。


「まあ、気持ちは分かるけどね。でも、あんまり考えすぎると、かえって変な動きになるわよ」


「……そうかな?」


「そうよ。私も昔、同じことやったもの」


「へえ。リカも?」


「ええ。歩き方を意識しすぎて、階段で転びそうになったこともあるわ」


タクマは少し驚いた後、楽しそうに笑った。


「それ、ちょっと見てみたかったな」


「……何よ、それ」


「いや、今のリカからは想像できないからさ」


私は少しだけ頬を膨らませた。


確かに、今ではそんな失敗はしない。けれど、最初から何でもできたわけではないのだ。私だって、子供の頃は何度も転んだし、ボーマンに叱られたこともある。


そんなことを考えていると、タクマが再び椅子から立ち上がろうとした。


「……あ」


今度は足を引く位置が悪かったらしく、椅子の脚に踵を引っかけそうになった。慌てて体勢を立て直したタクマを見て、私は思わず吹き出してしまう。


「ほら、言ったじゃない!」


「……うん。考えすぎかもしれない」


「かもしれないじゃなくて、完全に考えすぎよ」


タクマは苦笑しながら、ようやく普通に椅子へ座り直した。


私はその様子を眺めながら、少しだけ嬉しくなっていた。


修行が始まってから、タクマは本当に熱心だ。疲れて帰ってきても、ボーマンに教わったことを思い出しては、何度も身体を動かしている。今朝のように、少し考えすぎてしまうこともあるけれど、それだけ真剣に取り組んでいるということなのだろう。


もちろん、無理をしてほしくはない。


けれど、何かを覚えようとしている時のタクマは、いつも楽しそうだった。


昨日、家を建てていた時もそうだったけれど、この人は自分の知らないことを知るのが好きなのだろう。分からなかったことが少しずつ分かるようになり、できなかったことができるようになる。その過程そのものを、楽しんでいるように見える。


……まあ。


そのせいで、ご飯を食べることまで忘れられては困るのだけれど。


◇


朝食を終えると、タクマはいつものようにボーマンのログハウスへ向かった。


私も少し遅れて外へ出ると、すでに二人は庭先で向かい合っていた。


「おはようございます、殿下」


「おはよう、ボーマン」


「本日も、少々お騒がせいたします」


「いいわよ。昨日よりは静かなんでしょ?」


「ははは。さて、どうでしょうな」


……何よ、その返事。


少し嫌な予感がしたけれど、私は口には出さなかった。


ボーマンはタクマに木剣を渡し、自分も一本手に取った。


「では、タクマ殿。昨日までにお伝えしたことを、少し確認いたしましょう」


「はい!」


「私に一本入れてください」


タクマは頷き、木剣を構えた。


最初の頃に比べれば、構えそのものは随分と安定している。ハーケンから教わった基本も、きちんと身についているようだ。足の位置も、剣の構え方も、以前ほど迷いがない。


けれど、今日は少し様子が違った。


タクマはすぐには踏み込まず、ボーマンの動きをじっと見つめている。肩の位置、足の運び、視線。昨日教わったことを、今度は自分でも試そうとしているのだろう。


しかし、いつまで経っても動かない。


ボーマンは静かに立ったまま、タクマが動き出すのを待っている。


やがて、タクマが意を決したように踏み込んだ。


木剣が振られる。


けれど、ボーマンはわずかに身体をずらし、その攻撃をかわした。


次の瞬間、タクマの胸元に木剣の先端が触れる。


「一本、でございますな」


「……はい」


タクマは悔しそうに構えを解いた。


ボーマンは木剣を下ろし、穏やかに尋ねる。


「タクマ殿。今、何を考えておられましたかな?」


「えっと……ボーマンさんが、どっちに動くか見ようと思ってました」


「なるほど。では、その間、何をなさっていました?」


「……え?」


「剣を振ることを、忘れておられましたな」


タクマは言葉に詰まった。


ボーマンは続ける。


「相手の動きを見ることは大切です。ですが、見てから考え、考えてから動こうとすれば、その分だけ遅れてしまいます。相手も、こちらが考え終わるまで待ってはくれませんからな」


「……確かに」


「考えることと、動くことを、別々にしてはいけません。動きながら考え、考えながら動く。その両方が必要でございます」


タクマは自分の木剣を見下ろした。


私はその様子を眺めながら、ボーマンの言葉を頭の中で繰り返していた。


確かに、戦いの最中に一つ一つの動作を考えていては間に合わない。相手の動きを見て、次に何をするかを判断しながら、自分も動き続けなければならない。


けれど、それを最初からできる人間は少ない。


タクマはまだ、考えることと身体を動かすことを、別々に行っているのだろう。相手を観察しようとすれば、自分の動きが止まってしまう。逆に、剣を振ることへ意識を向ければ、相手を見る余裕がなくなる。


どちらも必要だと頭では分かっていても、同時に行うのは難しいのだ。


「では、もう一度お願いいたします」


「はい!」


タクマは再び構えた。


今度は先ほどより早く踏み込んだものの、やはりボーマンには届かなかった。


何度か繰り返すうちに、タクマの表情が少しずつ険しくなっていく。それでも、ボーマンは急かさなかった。ただ一度ごとに動きを確認し、必要なことだけを伝えている。


私はその様子を眺めながら、昔の自分を思い出していた。


……うん。


この人の授業って、本当に変わらないわね。


◇


何度目かの挑戦が終わったところで、ボーマンは木剣を置いた。


「では、少し方法を変えてみましょう」


「方法、ですか?」


「ええ。今度は剣を使いません」


ボーマンはタクマの前に立ち、片方の肩を軽く叩いた。


「私の肩に触れてください。それだけで結構です」


「……肩に?」


「はい。剣を振る必要も、強く踏み込む必要もございません。手が届けば、それでよろしい」


タクマは少し戸惑った様子だったけれど、やがて頷いた。


「分かりました」


タクマが一歩踏み込む。


手を伸ばす。


けれど、ボーマンは半歩下がっただけで、その手をかわした。


「……あれ?」


「もう一度」


タクマは再び踏み込んだ。


今度は少し大きく足を出し、腕を伸ばす。


しかし、ボーマンは身体を横へずらし、簡単にかわしてしまった。


「……っ!」


タクマは慌てて向きを変えようとしたが、大きく踏み込んだ足が邪魔になり、身体がすぐには動かなかった。


ボーマンはその様子を見て、小さく頷いた。


「ふむ。今の動き、どう感じられましたかな?」


「……ちょっと、動きにくかったです」


「なぜでしょう?」


タクマは自分の足元を見下ろした。


「……踏み込みすぎた、からですか?」


「そのとおりです」


ボーマンは静かに頷いた。


「タクマ殿は、相手へ近づこうとする時、必要以上に大きく踏み込んでおられます。もちろん、距離を詰めること自体は悪くございません。ですが、一度の動きで大きく進みすぎると、その後の動作が難しくなります」


「……なるほど」


「相手に届く距離まで進めばよいのです。それ以上に動く必要はございません」


タクマはしばらく考え込んだ後、もう一度ボーマンの前に立った。


今度は、先ほどより小さく足を踏み出す。


手を伸ばした。


もちろん、ボーマンにはかわされる。


けれど、今度は違った。


タクマは大きく体勢を崩すことなく、そのまま次の一歩を踏み出したのだ。


「……あれ?」


自分でも意外だったらしく、タクマは足元を見下ろした。


ボーマンが微笑む。


「お気づきになりましたかな?」


「……今の、動きやすかったです」


「ええ。必要な距離だけ動かれたからです」


タクマはもう一度、同じ動きを試した。


小さく踏み込む。


手を伸ばす。


かわされる。


けれど、すぐに次の動きへ移れる。


先ほどまでのように、身体が大きく流れてしまうことがない。


「……なるほど」


タクマは小さく呟いた。


「俺、今まで一回で何とかしようとしてたのか……」


ボーマンは満足そうに頷いた。


「一度の動きで、すべてを決めようとなさらないことです。次の動きにつながる場所に、身体を置いておく。それだけでも、随分と違ってまいります」


私は、そのやり取りを興味深く眺めていた。


確かに、タクマの動きは少し変わった。


速くなったわけではない。むしろ、一歩の距離は短くなっている。


けれど、その分だけ次の動作へ移りやすくなっていた。


大きく踏み込んで攻撃を外せば、次の動作に移るまで時間がかかる。相手に隙を見せることにもなるだろう。しかし、必要な距離だけ動けば、その後の選択肢が残る。


攻撃を続けることも、距離を取ることもできる。


たった一歩の違いで、できることが変わってくるのだ。


もちろん、実際の戦闘では相手も動くし、剣の間合いも考えなければならない。今のタクマが覚えたことだけで、すぐに強くなれるわけではないだろう。


それでも、自分の身体を思いどおりに動かすための、大切な一歩には違いなかった。


「では、もう少し続けてみましょう」


「はい!」


タクマは再びボーマンへ向き直った。


その表情には、先ほどまでの戸惑いとは違うものが浮かんでいた。


何かを掴みかけている時の、あの楽しそうな顔だ。


◇


しばらくして、タクマがこちらへ振り返った。


「リカ!」


「何?」


「リカも、戦う時ってこういうこと考えてるの?」


私は少し考えた。


「……今は、いちいち考えてないわね」


「じゃあ、どうやって動いてるんだ?」


「身体が覚えてるのよ。最初は私だって、いろいろ考えながら動いてたけどね」


タクマは感心したように頷いた。


「そっか……。やっぱり、練習するしかないんだな」


「そういうことね」


私は軽く肩をすくめた。


すると、ボーマンがこちらへ向き直った。


「殿下。少々、お手本をお願いできますかな」


「……私が?」


「ええ。タクマ殿にも、実際にご覧いただいた方が分かりやすいかと」


私は少し迷った。


別に、身体を動かすことが嫌なわけではない。けれど、ボーマンと向かい合うとなると、何となく昔の授業を思い出してしまう。


あの頃は、何度挑戦しても簡単にかわされて、随分と悔しい思いをしたものだ。


そんな私の気持ちなど知らず、タクマは期待に満ちた目でこちらを見ている。


「リカ、見せてくれる?」


「……しょうがないわね」


私はため息をつきながら、二人の方へ歩いていった。


「ただし、魔法はなしよ」


「もちろんでございます」


ボーマンは穏やかに頷いた。


私は彼の正面に立ち、軽く身体をほぐした。


剣は持たない。


先ほどタクマがやっていたように、相手の肩へ触れるだけの訓練だ。


「では、参ります」


ボーマンが静かに告げた。


私は小さく頷き、間合いを測る。


目の前の老人は、相変わらず自然な姿勢で立っていた。力んでいる様子もなく、どこからでも動けそうな構えだ。


私は一歩踏み込んだ。


右手を伸ばす。


ボーマンはわずかに身体を引き、その手をかわした。


けれど、私はそこで止まらない。


踏み込んだ足を軸に身体を移し、続けて左手を伸ばす。


ボーマンは今度、横へ動いた。


私はその動きに合わせて足を運び、間合いを保つ。


互いに大きく動いているわけではない。


けれど、相手の動きを見ながら、次の位置を選び続ける。


ボーマンが一歩下がれば、私は必要なだけ前へ出る。逆に、こちらの動きを読まれたと感じれば、無理に追わず、別の位置へ身体を移す。


何度かそんなやり取りを繰り返した後、私はわずかに身体を沈めた。


ボーマンの視線が、ほんの少し下がる。


その瞬間、私は反対側から手を伸ばした。


指先が、ボーマンの肩に触れる。


「……はい、私の勝ち」


私は笑った。


ボーマンは一歩下がり、満足そうに頷いた。


「お見事でございます、殿下」


「……ふふん」


少し得意になってしまった。


もっとも、ボーマンが本気だったとは思っていない。あくまでもタクマに見せるための訓練だし、相手は私よりずっと年上だ。


それでも、昔は何度挑戦しても届かなかった肩に、今ではこうして触れられる。


そのことが、少し嬉しかった。


「……すごい」


タクマが呟いた。


「二人とも、ほとんど走ってないのに……」


「そうね。大きく動けばいいってものじゃないのよ」


「でも、全然隙がなかった。俺だったら、途中で絶対に体勢崩してると思う」


私は少し笑った。


「それは練習次第よ。私だって、最初からできたわけじゃないもの」


「……リカって、剣を持ってなくても強いんだな」


「当たり前でしょ。誰に習ったと思ってるのよ」


そう言ってボーマンを見ると、彼は嬉しそうに目を細めていた。


「殿下も、随分とご立派になられましたな」


「……何よ、急に」


「いえ。昔のことを、少々思い出しまして」


その言葉に、私は少しだけ頬が熱くなった。


ボーマンにそう言われると、どうにも落ち着かない。


幼い頃から私を見てきた人だからこそ、今の自分を認めてもらえることが、何だか特別に感じられるのだ。


「……もう。タクマの修行なんだから、私の話はいいでしょ」


「ははは。これは失礼いたしました」


ボーマンは穏やかに笑い、再びタクマへ向き直った。


「いかがでしたかな、タクマ殿」


「はい。何となくですけど、分かった気がします」


「それは何よりです。ただし、見て理解することと、自分でできることは別でございます。焦らず、少しずつ身につけてまいりましょう」


「はい!」


タクマは元気よく返事をした。


私はその様子を眺めながら、少しだけ安心していた。


どうやら、今日の修行も順調らしい。


◇


午後になると、ボーマンは訓練を少し早めに切り上げた。


ログハウスの内装を整えたいらしく、今日は家具を作るための材料を準備するという。


「タクマ殿も、今日はここまでにいたしましょう。午前中から随分と身体を動かされましたからな」


「はい。ありがとうございました!」


「明日も引き続き、今日の動きを確認してまいります。それまで、しっかりと身体を休めてください」


「分かりました!」


タクマは丁寧に頭を下げた。


ボーマンは満足そうに頷くと、ログハウスの方へ戻っていった。


私はタクマと一緒に家へ戻り、少し休むことにした。


けれど、しばらくしてから窓の外を見ると、庭先に見覚えのある姿があった。


タクマだ。


一人で立ち、ゆっくりと足を動かしている。


大きく踏み込まず、短い距離だけ前へ進む。そこで一度止まり、今度は後ろへ戻る。そして、足の位置を確かめながら、もう一度同じ動きを繰り返していた。


どうやら、午前中に教わったことを復習しているらしい。


私はしばらく、その様子を眺めていた。


タクマは何度も同じ動きを繰り返している。時折足元を見下ろし、首を傾げては、また最初からやり直していた。


動き自体はまだぎこちない。少し大きく踏み込みすぎたり、戻る時に身体が傾いたりすることもある。それでも、失敗するたびに何が悪かったのかを考え、少しずつ動きを変えようとしている。


……まったく。


ボーマンに休むよう言われたばかりなのに。


私は小さくため息をつき、外へ出ることにした。


「タクマ」


「あ、リカ」


「……何してるの?」


「ちょっと、さっきの復習」


「見れば分かるわよ」


私は腕を組んだ。


「少し休んだら?」


「うん。あとちょっとだけ」


タクマはそう言うと、再び足を動かし始めた。


私はしばらく黙って見ていたけれど、やがて口を開いた。


「……タクマ」


「ん?」


「さっきから、ずっとそれ言ってるわよ」


「……そうだっけ?」


「そうよ。もう何回も『あとちょっと』って言ってる」


タクマは少し困ったように笑った。


「いや、なんか、もう少しで分かりそうな気がしてさ」


「それは分かるけど、無理して明日動けなくなったら意味ないでしょ?」


「……うん」


「ボーマンだって、ちゃんと休むように言ってたじゃない」


タクマは足を止め、少し考え込んだ。


そして、ふと何かを思い出したように笑った。


「……でもさ、リカ」


「何?」


「それ、リカもよく言ってるよね」


「……え?」


「魔法の研究してる時。俺が『そろそろ休んだら?』って言うと、いつも『あとちょっとだけ』って」


私は思わず口を閉じた。


……あ。


確かに。


魔法の研究に没頭している時、私はよく同じことを言っている。


新しい術式の組み方を考えている時や、魔法陣の構造を調べている時など、もう少しで何かが分かりそうになると、つい時間を忘れてしまうのだ。


タクマが声をかけてくれても、あと少しだけ、もう少しだけと答えて、結局かなりの時間が経ってしまうこともある。


そういえば、以前も夕食の準備を手伝うつもりだったのに、気づけばタクマが全部終わらせていたことがあった。


「……それは」


「それは?」


タクマが楽しそうに笑っている。


私は少しだけ視線を逸らした。


「……研究は、途中で止めると分からなくなることがあるのよ」


「俺も、今の動きが分からなくなりそうなんだけど」


「……それとこれとは別でしょ」


「そうかな?」


タクマは笑った。


私は何か言い返そうとしたけれど、上手い言葉が見つからなかった。


だって、言っていることはほとんど同じなのだ。


あと少しで分かりそう。


もう一回だけ試したい。


今やめたら、せっかく掴みかけた感覚を忘れてしまいそう。


それは、私が魔法の研究をしている時に、いつも考えていることだった。


私はタクマを見た。


タクマも、私を見ている。


しばらく見つめ合った後、どちらからともなく笑い出してしまった。


「……ふふっ。何よ、もう」


「いや、リカも同じなんだなって思って」


「そうね。まさか、こんなところまで似てるとは思わなかったわ」


「俺も」


タクマは笑いながら、ようやく身体の力を抜いた。


私はその隣へ歩み寄り、彼の腕を軽く叩いた。


「でも、今日はもう終わりよ」


「……はい」


「私も、今度から気をつけるから」


「本当?」


「……できるだけ」


「そこは言い切らないんだ」


「タクマだって、さっきまで全然やめなかったじゃない」


また二人で笑った。


何だか、おかしな話だった。


私は魔法の研究に夢中になり、タクマは身体の動きを覚えることに夢中になっている。やっていることは全然違うのに、夢中になると周りが見えなくなるところは、驚くほど似ていた。


それぞれが好きなことに熱中し、時には相手に呆れられる。それでも、最後にはこうして笑い合えるのだから、きっと悪いことではないのだろう。


そう考えると、少し嬉しくなる。


タクマがこの世界へ来たばかりの頃は、私が何かを教えることの方が多かった。けれど、今では彼も、自分の興味を持ったことに夢中になっている。


その姿を見ていると、私まで楽しくなってくるのだ。


「じゃあ、戻りましょ」


「うん」


私はタクマの手を取った。


彼は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑って握り返してくれた。


そのまま二人で、家へ戻ることにした。


◇


夕食の時間になっても、タクマは今日の修行のことを考えているようだった。


もっとも、今度は食事中に立ち上がったりはしない。私が朝のことを思い出して笑うと、タクマも少し恥ずかしそうに笑い返してきた。


「今日、ちょっと分かった気がするんだ」


食事をしながら、タクマが言った。


「何が?」


「身体の動かし方。今まで俺、もっと速く動けるようになりたいって思ってたんだよ」


「そうね」


「でも、今日ボーマンさんに教わって、少し考え方が変わった気がする」


タクマは箸を置き、自分の手を眺めた。


「速く動く前に、無駄に動かないことが大事なんだなって」


私は頷いた。


「そうね。必要以上に大きく動けば、その分だけ次の動作が遅れることもあるもの」


「うん。今日、ちょっとだけそれが分かった気がする」


タクマは嬉しそうに笑った。


けれど、すぐに苦笑する。


「まあ、分かっただけで、全然できないんだけどな」


「そんなものよ。分かったことと、できることは別だもの」


「……リカもそうだった?」


「もちろん」


私は少し笑った。


「私だって、最初から何でもできたわけじゃないわ。子供の頃なんて、ボーマンに何度も転ばされてたもの」


「……リカでも?」


「私を何だと思ってるのよ」


「いや、何でもできる人だと思ってたから」


タクマは真面目な顔でそう言った。


私は少しだけ頬が熱くなった。


「……そんなことないわよ」


「でも、リカって本当にすごいじゃないか。魔法も使えるし、剣も強いし、いろんなこと知ってるし」


「それは、今までずっと勉強してきたからよ」


私は少し考えながら続けた。


「魔法だって、最初から上手く使えたわけじゃないわ。術式を覚えても、思いどおりに動かせなかったことなんて何度もあるし、ボーマンに教わっていた頃は、できないことの方が多かったもの」


タクマは興味深そうに聞いている。


私は昔のことを思い出した。


幼い頃の私は、何でも早く覚えたかった。


魔法も、剣術も、勉強も。


できないことがあると悔しくて、何度も練習した。ボーマンに何度も同じことを指摘され、そのたびに腹を立てたこともある。


けれど、今になって思えば、あの時間があったからこそ、今の私があるのだろう。


「だから、焦らなくていいのよ。タクマだって、ちゃんと上達してるんだから」


「……そうかな」


「そうよ。最初の頃と比べたら、随分変わったわ」


私は笑った。


「剣だって、最初は構えるだけで精いっぱいだったじゃない。今はハーケンに教わった基本も身についてるし、ボーマンの話だってちゃんと理解できてる」


「……うん」


「それに、冒険者としても経験を積んでるでしょ。できることは、確実に増えてるわよ」


タクマは少し照れたように笑った。


「ありがとう、リカ」


「どういたしまして」


私は微笑んだ。


すると、タクマが少し考え込んだ後、口を開いた。


「……じゃあさ」


「何?」


「俺もいつか、リカみたいに動けるようになるかな」


私は少し驚いた。


タクマは真剣な表情だった。


きっと、今日の私とボーマンの動きを思い出しているのだろう。


私は少し考えてから、首を横に振った。


「……同じになる必要はないんじゃない?」


「え?」


「タクマには、タクマの動き方があると思うわ」


タクマは不思議そうに首を傾げた。


私は続ける。


「私は魔法が得意だから、戦う時も魔法を中心に考えることが多いの。剣を使うこともあるけど、それだって魔法と組み合わせるためだったりするしね」


「うん」


「でも、タクマは違うでしょ? 剣も使うし、魔法も覚えてる。これから何が得意になるかなんて、まだ分からないじゃない」


タクマはしばらく黙っていた。


私は少し笑った。


「だから、無理に私と同じになろうとしなくていいのよ。タクマが一番動きやすい戦い方を見つければいいんじゃない?」


「……そっか」


タクマはゆっくりと頷いた。


「そうだよな。別に、リカと同じじゃなくてもいいんだよな」


「ええ」


「……じゃあ、俺は俺なりに頑張ってみるよ」


その言葉を聞いて、私は嬉しくなった。


タクマは、まだ自分の戦い方を見つけたわけではない。けれど、今日の修行を通じて、何かを考え始めたのだろう。


ただ強くなりたいという気持ちだけではなく、自分がどう戦いたいのか、どうすれば上手く動けるのか。


そんなことを、少しずつ考えるようになってきたのだ。


私はその成長を、隣で見守っていたいと思った。


◇


夜。


夕食を終え、片付けも済ませた私たちは、寝室へ向かっていた。


今日は朝から修行をしていたこともあり、タクマは少し眠そうだった。歩きながら小さく欠伸をしている。


「今日は早く寝ましょ」


「うん。さすがに疲れたな」


「でしょうね。明日も修行なんだから、ちゃんと休まないと」


「分かってるよ」


タクマは笑った。


そして、寝室の扉の前まで来たところで、ふと立ち止まった。


私は不思議に思って振り返る。


「……タクマ?」


「ん?」


タクマはその場で、ほんの一歩だけ横へ動いた。


そして、元の位置へ戻る。


もう一度、同じ動きを繰り返した。


私は思わず目を細めた。


「……またやってる」


「いや、ちょっとだけ」


「……タクマ」


「はい」


「もう寝なさい」


タクマは少し恥ずかしそうに笑った。


「……はい」


私は呆れながらも、つい笑ってしまった。


この人は、本当に分かりやすい。


何かに興味を持つと、すぐに夢中になってしまう。できないことがあれば、何度でも試したくなる。


それは、私が魔法の研究をしている時と、きっと同じなのだろう。


寝室へ入り、二人でベッドに横になる。


タクマはすぐに眠りそうだったけれど、私は少しだけ彼の顔を眺めていた。


この世界へ来たばかりの頃のタクマは、本当に何も知らなかった。


言葉も、魔法も、冒険者の仕事も。


私が教えなければ分からないことばかりで、何をするにも戸惑っていた。


けれど、今では違う。


ハーケンから剣を教わり、冒険者として経験を積み、ボーマンの修行も始まった。


自分で考え、悩み、少しずつできることを増やしている。


今日だって、ほんの小さな発見だった。


剣が突然強くなったわけでも、魔法の威力が増したわけでもない。


ただ、一歩の距離を少し変えただけ。


それでも、その小さな違いを見つけた時のタクマは、本当に嬉しそうだった。


私は、そんな彼の姿が好きだった。


「……リカ」


隣から、眠そうな声が聞こえた。


「何?」


「……今日も、ありがとう」


「……どういたしまして」


私は小さく笑った。


「明日も頑張ってね」


「……うん」


タクマは目を閉じた。


私は彼の手をそっと握り、同じように目を閉じる。


これから先、タクマがどれほど強くなるのかは分からない。けれど、きっと大丈夫だと思う。


この人は、できないことを諦めるより、できるようになるまで考えることを選ぶ人だから。


もっとも、そのせいで休むことを忘れてしまうのは、少し困るのだけれど。


……まあ、それはお互い様か。


私は小さく笑い、隣から聞こえてくる穏やかな寝息に耳を傾けた。


明日も、きっと新しいことを覚えるのだろう。そしてまた、何度も同じ動きを繰り返して、私に「あとちょっとだけ」と言うに違いない。


その時は、私も少しだけ付き合ってあげよう。


ただし、本当に少しだけ。


そう心の中で決めながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。


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