第31話 一歩の距離
タクマの様子が、少しおかしい。
ボーマンの修行が始まって三日目の朝。朝食の支度を終えた私は、食卓についているタクマを眺めながら、そんなことを考えていた。
別に、具合が悪そうなわけではない。食欲もあるし、昨夜だってよく眠れたようだ。いつものように私の作った朝食を美味しそうに食べているし、話しかければ普通に返事もする。
ただ、先ほどから妙に足元を気にしている。
椅子に座ったまま足の位置を変えたり、片方の踵を少し浮かせたり、何やら考え込んでは首を傾げているのだ。食事をしているというより、食卓の下で何かの実験をしているように見える。
「……タクマ、何してるの?」
「ん? ああ、ちょっとね」
タクマは足元を見たまま答えた。
「椅子から立ち上がる時って、どこに体重が乗ってるのかなと思って」
「……はい?」
「いや、昨日ボーマンさんに、普段から自分の身体の動きを意識するように言われたんだよ。それで、立ち上がる時はどうなんだろうって」
そう言うと、タクマは椅子からゆっくりと腰を浮かせた。
少し前かがみになり、足の裏に体重を移しながら立ち上がる。途中で何か気になったらしく、もう一度椅子に座り直した。
「……今のは、ちょっと前に寄りすぎたかな」
「……タクマ」
「ん?」
「ご飯くらい、普通に食べなさいよ」
タクマは私の顔を見ると、少し恥ずかしそうに笑った。
「いや、ごめん。なんか気になっちゃって」
「気になるのは分かるけど、食事中までやらなくてもいいでしょ」
「そうなんだけどさ。昨日、歩いてる時に何度も注意されたから、普段の動きから直した方がいいのかなって」
私は小さくため息をついた。
気持ちは分からなくもない。ボーマンの修行を受け始めた頃の私も、似たようなことをしていた覚えがある。何をするにも身体の動きが気になって、廊下を歩くだけでも足の運びを意識していた。
もっとも、意識したからといって、すぐに上手くなるわけではない。むしろ、普段なら何も考えずにできていたことが、妙にぎこちなくなるのだ。
「まあ、気持ちは分かるけどね。でも、あんまり考えすぎると、かえって変な動きになるわよ」
「……そうかな?」
「そうよ。私も昔、同じことやったもの」
「へえ。リカも?」
「ええ。歩き方を意識しすぎて、階段で転びそうになったこともあるわ」
タクマは少し驚いた後、楽しそうに笑った。
「それ、ちょっと見てみたかったな」
「……何よ、それ」
「いや、今のリカからは想像できないからさ」
私は少しだけ頬を膨らませた。
確かに、今ではそんな失敗はしない。けれど、最初から何でもできたわけではないのだ。私だって、子供の頃は何度も転んだし、ボーマンに叱られたこともある。
そんなことを考えていると、タクマが再び椅子から立ち上がろうとした。
「……あ」
今度は足を引く位置が悪かったらしく、椅子の脚に踵を引っかけそうになった。慌てて体勢を立て直したタクマを見て、私は思わず吹き出してしまう。
「ほら、言ったじゃない!」
「……うん。考えすぎかもしれない」
「かもしれないじゃなくて、完全に考えすぎよ」
タクマは苦笑しながら、ようやく普通に椅子へ座り直した。
私はその様子を眺めながら、少しだけ嬉しくなっていた。
修行が始まってから、タクマは本当に熱心だ。疲れて帰ってきても、ボーマンに教わったことを思い出しては、何度も身体を動かしている。今朝のように、少し考えすぎてしまうこともあるけれど、それだけ真剣に取り組んでいるということなのだろう。
もちろん、無理をしてほしくはない。
けれど、何かを覚えようとしている時のタクマは、いつも楽しそうだった。
昨日、家を建てていた時もそうだったけれど、この人は自分の知らないことを知るのが好きなのだろう。分からなかったことが少しずつ分かるようになり、できなかったことができるようになる。その過程そのものを、楽しんでいるように見える。
……まあ。
そのせいで、ご飯を食べることまで忘れられては困るのだけれど。
◇
朝食を終えると、タクマはいつものようにボーマンのログハウスへ向かった。
私も少し遅れて外へ出ると、すでに二人は庭先で向かい合っていた。
「おはようございます、殿下」
「おはよう、ボーマン」
「本日も、少々お騒がせいたします」
「いいわよ。昨日よりは静かなんでしょ?」
「ははは。さて、どうでしょうな」
……何よ、その返事。
少し嫌な予感がしたけれど、私は口には出さなかった。
ボーマンはタクマに木剣を渡し、自分も一本手に取った。
「では、タクマ殿。昨日までにお伝えしたことを、少し確認いたしましょう」
「はい!」
「私に一本入れてください」
タクマは頷き、木剣を構えた。
最初の頃に比べれば、構えそのものは随分と安定している。ハーケンから教わった基本も、きちんと身についているようだ。足の位置も、剣の構え方も、以前ほど迷いがない。
けれど、今日は少し様子が違った。
タクマはすぐには踏み込まず、ボーマンの動きをじっと見つめている。肩の位置、足の運び、視線。昨日教わったことを、今度は自分でも試そうとしているのだろう。
しかし、いつまで経っても動かない。
ボーマンは静かに立ったまま、タクマが動き出すのを待っている。
やがて、タクマが意を決したように踏み込んだ。
木剣が振られる。
けれど、ボーマンはわずかに身体をずらし、その攻撃をかわした。
次の瞬間、タクマの胸元に木剣の先端が触れる。
「一本、でございますな」
「……はい」
タクマは悔しそうに構えを解いた。
ボーマンは木剣を下ろし、穏やかに尋ねる。
「タクマ殿。今、何を考えておられましたかな?」
「えっと……ボーマンさんが、どっちに動くか見ようと思ってました」
「なるほど。では、その間、何をなさっていました?」
「……え?」
「剣を振ることを、忘れておられましたな」
タクマは言葉に詰まった。
ボーマンは続ける。
「相手の動きを見ることは大切です。ですが、見てから考え、考えてから動こうとすれば、その分だけ遅れてしまいます。相手も、こちらが考え終わるまで待ってはくれませんからな」
「……確かに」
「考えることと、動くことを、別々にしてはいけません。動きながら考え、考えながら動く。その両方が必要でございます」
タクマは自分の木剣を見下ろした。
私はその様子を眺めながら、ボーマンの言葉を頭の中で繰り返していた。
確かに、戦いの最中に一つ一つの動作を考えていては間に合わない。相手の動きを見て、次に何をするかを判断しながら、自分も動き続けなければならない。
けれど、それを最初からできる人間は少ない。
タクマはまだ、考えることと身体を動かすことを、別々に行っているのだろう。相手を観察しようとすれば、自分の動きが止まってしまう。逆に、剣を振ることへ意識を向ければ、相手を見る余裕がなくなる。
どちらも必要だと頭では分かっていても、同時に行うのは難しいのだ。
「では、もう一度お願いいたします」
「はい!」
タクマは再び構えた。
今度は先ほどより早く踏み込んだものの、やはりボーマンには届かなかった。
何度か繰り返すうちに、タクマの表情が少しずつ険しくなっていく。それでも、ボーマンは急かさなかった。ただ一度ごとに動きを確認し、必要なことだけを伝えている。
私はその様子を眺めながら、昔の自分を思い出していた。
……うん。
この人の授業って、本当に変わらないわね。
◇
何度目かの挑戦が終わったところで、ボーマンは木剣を置いた。
「では、少し方法を変えてみましょう」
「方法、ですか?」
「ええ。今度は剣を使いません」
ボーマンはタクマの前に立ち、片方の肩を軽く叩いた。
「私の肩に触れてください。それだけで結構です」
「……肩に?」
「はい。剣を振る必要も、強く踏み込む必要もございません。手が届けば、それでよろしい」
タクマは少し戸惑った様子だったけれど、やがて頷いた。
「分かりました」
タクマが一歩踏み込む。
手を伸ばす。
けれど、ボーマンは半歩下がっただけで、その手をかわした。
「……あれ?」
「もう一度」
タクマは再び踏み込んだ。
今度は少し大きく足を出し、腕を伸ばす。
しかし、ボーマンは身体を横へずらし、簡単にかわしてしまった。
「……っ!」
タクマは慌てて向きを変えようとしたが、大きく踏み込んだ足が邪魔になり、身体がすぐには動かなかった。
ボーマンはその様子を見て、小さく頷いた。
「ふむ。今の動き、どう感じられましたかな?」
「……ちょっと、動きにくかったです」
「なぜでしょう?」
タクマは自分の足元を見下ろした。
「……踏み込みすぎた、からですか?」
「そのとおりです」
ボーマンは静かに頷いた。
「タクマ殿は、相手へ近づこうとする時、必要以上に大きく踏み込んでおられます。もちろん、距離を詰めること自体は悪くございません。ですが、一度の動きで大きく進みすぎると、その後の動作が難しくなります」
「……なるほど」
「相手に届く距離まで進めばよいのです。それ以上に動く必要はございません」
タクマはしばらく考え込んだ後、もう一度ボーマンの前に立った。
今度は、先ほどより小さく足を踏み出す。
手を伸ばした。
もちろん、ボーマンにはかわされる。
けれど、今度は違った。
タクマは大きく体勢を崩すことなく、そのまま次の一歩を踏み出したのだ。
「……あれ?」
自分でも意外だったらしく、タクマは足元を見下ろした。
ボーマンが微笑む。
「お気づきになりましたかな?」
「……今の、動きやすかったです」
「ええ。必要な距離だけ動かれたからです」
タクマはもう一度、同じ動きを試した。
小さく踏み込む。
手を伸ばす。
かわされる。
けれど、すぐに次の動きへ移れる。
先ほどまでのように、身体が大きく流れてしまうことがない。
「……なるほど」
タクマは小さく呟いた。
「俺、今まで一回で何とかしようとしてたのか……」
ボーマンは満足そうに頷いた。
「一度の動きで、すべてを決めようとなさらないことです。次の動きにつながる場所に、身体を置いておく。それだけでも、随分と違ってまいります」
私は、そのやり取りを興味深く眺めていた。
確かに、タクマの動きは少し変わった。
速くなったわけではない。むしろ、一歩の距離は短くなっている。
けれど、その分だけ次の動作へ移りやすくなっていた。
大きく踏み込んで攻撃を外せば、次の動作に移るまで時間がかかる。相手に隙を見せることにもなるだろう。しかし、必要な距離だけ動けば、その後の選択肢が残る。
攻撃を続けることも、距離を取ることもできる。
たった一歩の違いで、できることが変わってくるのだ。
もちろん、実際の戦闘では相手も動くし、剣の間合いも考えなければならない。今のタクマが覚えたことだけで、すぐに強くなれるわけではないだろう。
それでも、自分の身体を思いどおりに動かすための、大切な一歩には違いなかった。
「では、もう少し続けてみましょう」
「はい!」
タクマは再びボーマンへ向き直った。
その表情には、先ほどまでの戸惑いとは違うものが浮かんでいた。
何かを掴みかけている時の、あの楽しそうな顔だ。
◇
しばらくして、タクマがこちらへ振り返った。
「リカ!」
「何?」
「リカも、戦う時ってこういうこと考えてるの?」
私は少し考えた。
「……今は、いちいち考えてないわね」
「じゃあ、どうやって動いてるんだ?」
「身体が覚えてるのよ。最初は私だって、いろいろ考えながら動いてたけどね」
タクマは感心したように頷いた。
「そっか……。やっぱり、練習するしかないんだな」
「そういうことね」
私は軽く肩をすくめた。
すると、ボーマンがこちらへ向き直った。
「殿下。少々、お手本をお願いできますかな」
「……私が?」
「ええ。タクマ殿にも、実際にご覧いただいた方が分かりやすいかと」
私は少し迷った。
別に、身体を動かすことが嫌なわけではない。けれど、ボーマンと向かい合うとなると、何となく昔の授業を思い出してしまう。
あの頃は、何度挑戦しても簡単にかわされて、随分と悔しい思いをしたものだ。
そんな私の気持ちなど知らず、タクマは期待に満ちた目でこちらを見ている。
「リカ、見せてくれる?」
「……しょうがないわね」
私はため息をつきながら、二人の方へ歩いていった。
「ただし、魔法はなしよ」
「もちろんでございます」
ボーマンは穏やかに頷いた。
私は彼の正面に立ち、軽く身体をほぐした。
剣は持たない。
先ほどタクマがやっていたように、相手の肩へ触れるだけの訓練だ。
「では、参ります」
ボーマンが静かに告げた。
私は小さく頷き、間合いを測る。
目の前の老人は、相変わらず自然な姿勢で立っていた。力んでいる様子もなく、どこからでも動けそうな構えだ。
私は一歩踏み込んだ。
右手を伸ばす。
ボーマンはわずかに身体を引き、その手をかわした。
けれど、私はそこで止まらない。
踏み込んだ足を軸に身体を移し、続けて左手を伸ばす。
ボーマンは今度、横へ動いた。
私はその動きに合わせて足を運び、間合いを保つ。
互いに大きく動いているわけではない。
けれど、相手の動きを見ながら、次の位置を選び続ける。
ボーマンが一歩下がれば、私は必要なだけ前へ出る。逆に、こちらの動きを読まれたと感じれば、無理に追わず、別の位置へ身体を移す。
何度かそんなやり取りを繰り返した後、私はわずかに身体を沈めた。
ボーマンの視線が、ほんの少し下がる。
その瞬間、私は反対側から手を伸ばした。
指先が、ボーマンの肩に触れる。
「……はい、私の勝ち」
私は笑った。
ボーマンは一歩下がり、満足そうに頷いた。
「お見事でございます、殿下」
「……ふふん」
少し得意になってしまった。
もっとも、ボーマンが本気だったとは思っていない。あくまでもタクマに見せるための訓練だし、相手は私よりずっと年上だ。
それでも、昔は何度挑戦しても届かなかった肩に、今ではこうして触れられる。
そのことが、少し嬉しかった。
「……すごい」
タクマが呟いた。
「二人とも、ほとんど走ってないのに……」
「そうね。大きく動けばいいってものじゃないのよ」
「でも、全然隙がなかった。俺だったら、途中で絶対に体勢崩してると思う」
私は少し笑った。
「それは練習次第よ。私だって、最初からできたわけじゃないもの」
「……リカって、剣を持ってなくても強いんだな」
「当たり前でしょ。誰に習ったと思ってるのよ」
そう言ってボーマンを見ると、彼は嬉しそうに目を細めていた。
「殿下も、随分とご立派になられましたな」
「……何よ、急に」
「いえ。昔のことを、少々思い出しまして」
その言葉に、私は少しだけ頬が熱くなった。
ボーマンにそう言われると、どうにも落ち着かない。
幼い頃から私を見てきた人だからこそ、今の自分を認めてもらえることが、何だか特別に感じられるのだ。
「……もう。タクマの修行なんだから、私の話はいいでしょ」
「ははは。これは失礼いたしました」
ボーマンは穏やかに笑い、再びタクマへ向き直った。
「いかがでしたかな、タクマ殿」
「はい。何となくですけど、分かった気がします」
「それは何よりです。ただし、見て理解することと、自分でできることは別でございます。焦らず、少しずつ身につけてまいりましょう」
「はい!」
タクマは元気よく返事をした。
私はその様子を眺めながら、少しだけ安心していた。
どうやら、今日の修行も順調らしい。
◇
午後になると、ボーマンは訓練を少し早めに切り上げた。
ログハウスの内装を整えたいらしく、今日は家具を作るための材料を準備するという。
「タクマ殿も、今日はここまでにいたしましょう。午前中から随分と身体を動かされましたからな」
「はい。ありがとうございました!」
「明日も引き続き、今日の動きを確認してまいります。それまで、しっかりと身体を休めてください」
「分かりました!」
タクマは丁寧に頭を下げた。
ボーマンは満足そうに頷くと、ログハウスの方へ戻っていった。
私はタクマと一緒に家へ戻り、少し休むことにした。
けれど、しばらくしてから窓の外を見ると、庭先に見覚えのある姿があった。
タクマだ。
一人で立ち、ゆっくりと足を動かしている。
大きく踏み込まず、短い距離だけ前へ進む。そこで一度止まり、今度は後ろへ戻る。そして、足の位置を確かめながら、もう一度同じ動きを繰り返していた。
どうやら、午前中に教わったことを復習しているらしい。
私はしばらく、その様子を眺めていた。
タクマは何度も同じ動きを繰り返している。時折足元を見下ろし、首を傾げては、また最初からやり直していた。
動き自体はまだぎこちない。少し大きく踏み込みすぎたり、戻る時に身体が傾いたりすることもある。それでも、失敗するたびに何が悪かったのかを考え、少しずつ動きを変えようとしている。
……まったく。
ボーマンに休むよう言われたばかりなのに。
私は小さくため息をつき、外へ出ることにした。
「タクマ」
「あ、リカ」
「……何してるの?」
「ちょっと、さっきの復習」
「見れば分かるわよ」
私は腕を組んだ。
「少し休んだら?」
「うん。あとちょっとだけ」
タクマはそう言うと、再び足を動かし始めた。
私はしばらく黙って見ていたけれど、やがて口を開いた。
「……タクマ」
「ん?」
「さっきから、ずっとそれ言ってるわよ」
「……そうだっけ?」
「そうよ。もう何回も『あとちょっと』って言ってる」
タクマは少し困ったように笑った。
「いや、なんか、もう少しで分かりそうな気がしてさ」
「それは分かるけど、無理して明日動けなくなったら意味ないでしょ?」
「……うん」
「ボーマンだって、ちゃんと休むように言ってたじゃない」
タクマは足を止め、少し考え込んだ。
そして、ふと何かを思い出したように笑った。
「……でもさ、リカ」
「何?」
「それ、リカもよく言ってるよね」
「……え?」
「魔法の研究してる時。俺が『そろそろ休んだら?』って言うと、いつも『あとちょっとだけ』って」
私は思わず口を閉じた。
……あ。
確かに。
魔法の研究に没頭している時、私はよく同じことを言っている。
新しい術式の組み方を考えている時や、魔法陣の構造を調べている時など、もう少しで何かが分かりそうになると、つい時間を忘れてしまうのだ。
タクマが声をかけてくれても、あと少しだけ、もう少しだけと答えて、結局かなりの時間が経ってしまうこともある。
そういえば、以前も夕食の準備を手伝うつもりだったのに、気づけばタクマが全部終わらせていたことがあった。
「……それは」
「それは?」
タクマが楽しそうに笑っている。
私は少しだけ視線を逸らした。
「……研究は、途中で止めると分からなくなることがあるのよ」
「俺も、今の動きが分からなくなりそうなんだけど」
「……それとこれとは別でしょ」
「そうかな?」
タクマは笑った。
私は何か言い返そうとしたけれど、上手い言葉が見つからなかった。
だって、言っていることはほとんど同じなのだ。
あと少しで分かりそう。
もう一回だけ試したい。
今やめたら、せっかく掴みかけた感覚を忘れてしまいそう。
それは、私が魔法の研究をしている時に、いつも考えていることだった。
私はタクマを見た。
タクマも、私を見ている。
しばらく見つめ合った後、どちらからともなく笑い出してしまった。
「……ふふっ。何よ、もう」
「いや、リカも同じなんだなって思って」
「そうね。まさか、こんなところまで似てるとは思わなかったわ」
「俺も」
タクマは笑いながら、ようやく身体の力を抜いた。
私はその隣へ歩み寄り、彼の腕を軽く叩いた。
「でも、今日はもう終わりよ」
「……はい」
「私も、今度から気をつけるから」
「本当?」
「……できるだけ」
「そこは言い切らないんだ」
「タクマだって、さっきまで全然やめなかったじゃない」
また二人で笑った。
何だか、おかしな話だった。
私は魔法の研究に夢中になり、タクマは身体の動きを覚えることに夢中になっている。やっていることは全然違うのに、夢中になると周りが見えなくなるところは、驚くほど似ていた。
それぞれが好きなことに熱中し、時には相手に呆れられる。それでも、最後にはこうして笑い合えるのだから、きっと悪いことではないのだろう。
そう考えると、少し嬉しくなる。
タクマがこの世界へ来たばかりの頃は、私が何かを教えることの方が多かった。けれど、今では彼も、自分の興味を持ったことに夢中になっている。
その姿を見ていると、私まで楽しくなってくるのだ。
「じゃあ、戻りましょ」
「うん」
私はタクマの手を取った。
彼は少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑って握り返してくれた。
そのまま二人で、家へ戻ることにした。
◇
夕食の時間になっても、タクマは今日の修行のことを考えているようだった。
もっとも、今度は食事中に立ち上がったりはしない。私が朝のことを思い出して笑うと、タクマも少し恥ずかしそうに笑い返してきた。
「今日、ちょっと分かった気がするんだ」
食事をしながら、タクマが言った。
「何が?」
「身体の動かし方。今まで俺、もっと速く動けるようになりたいって思ってたんだよ」
「そうね」
「でも、今日ボーマンさんに教わって、少し考え方が変わった気がする」
タクマは箸を置き、自分の手を眺めた。
「速く動く前に、無駄に動かないことが大事なんだなって」
私は頷いた。
「そうね。必要以上に大きく動けば、その分だけ次の動作が遅れることもあるもの」
「うん。今日、ちょっとだけそれが分かった気がする」
タクマは嬉しそうに笑った。
けれど、すぐに苦笑する。
「まあ、分かっただけで、全然できないんだけどな」
「そんなものよ。分かったことと、できることは別だもの」
「……リカもそうだった?」
「もちろん」
私は少し笑った。
「私だって、最初から何でもできたわけじゃないわ。子供の頃なんて、ボーマンに何度も転ばされてたもの」
「……リカでも?」
「私を何だと思ってるのよ」
「いや、何でもできる人だと思ってたから」
タクマは真面目な顔でそう言った。
私は少しだけ頬が熱くなった。
「……そんなことないわよ」
「でも、リカって本当にすごいじゃないか。魔法も使えるし、剣も強いし、いろんなこと知ってるし」
「それは、今までずっと勉強してきたからよ」
私は少し考えながら続けた。
「魔法だって、最初から上手く使えたわけじゃないわ。術式を覚えても、思いどおりに動かせなかったことなんて何度もあるし、ボーマンに教わっていた頃は、できないことの方が多かったもの」
タクマは興味深そうに聞いている。
私は昔のことを思い出した。
幼い頃の私は、何でも早く覚えたかった。
魔法も、剣術も、勉強も。
できないことがあると悔しくて、何度も練習した。ボーマンに何度も同じことを指摘され、そのたびに腹を立てたこともある。
けれど、今になって思えば、あの時間があったからこそ、今の私があるのだろう。
「だから、焦らなくていいのよ。タクマだって、ちゃんと上達してるんだから」
「……そうかな」
「そうよ。最初の頃と比べたら、随分変わったわ」
私は笑った。
「剣だって、最初は構えるだけで精いっぱいだったじゃない。今はハーケンに教わった基本も身についてるし、ボーマンの話だってちゃんと理解できてる」
「……うん」
「それに、冒険者としても経験を積んでるでしょ。できることは、確実に増えてるわよ」
タクマは少し照れたように笑った。
「ありがとう、リカ」
「どういたしまして」
私は微笑んだ。
すると、タクマが少し考え込んだ後、口を開いた。
「……じゃあさ」
「何?」
「俺もいつか、リカみたいに動けるようになるかな」
私は少し驚いた。
タクマは真剣な表情だった。
きっと、今日の私とボーマンの動きを思い出しているのだろう。
私は少し考えてから、首を横に振った。
「……同じになる必要はないんじゃない?」
「え?」
「タクマには、タクマの動き方があると思うわ」
タクマは不思議そうに首を傾げた。
私は続ける。
「私は魔法が得意だから、戦う時も魔法を中心に考えることが多いの。剣を使うこともあるけど、それだって魔法と組み合わせるためだったりするしね」
「うん」
「でも、タクマは違うでしょ? 剣も使うし、魔法も覚えてる。これから何が得意になるかなんて、まだ分からないじゃない」
タクマはしばらく黙っていた。
私は少し笑った。
「だから、無理に私と同じになろうとしなくていいのよ。タクマが一番動きやすい戦い方を見つければいいんじゃない?」
「……そっか」
タクマはゆっくりと頷いた。
「そうだよな。別に、リカと同じじゃなくてもいいんだよな」
「ええ」
「……じゃあ、俺は俺なりに頑張ってみるよ」
その言葉を聞いて、私は嬉しくなった。
タクマは、まだ自分の戦い方を見つけたわけではない。けれど、今日の修行を通じて、何かを考え始めたのだろう。
ただ強くなりたいという気持ちだけではなく、自分がどう戦いたいのか、どうすれば上手く動けるのか。
そんなことを、少しずつ考えるようになってきたのだ。
私はその成長を、隣で見守っていたいと思った。
◇
夜。
夕食を終え、片付けも済ませた私たちは、寝室へ向かっていた。
今日は朝から修行をしていたこともあり、タクマは少し眠そうだった。歩きながら小さく欠伸をしている。
「今日は早く寝ましょ」
「うん。さすがに疲れたな」
「でしょうね。明日も修行なんだから、ちゃんと休まないと」
「分かってるよ」
タクマは笑った。
そして、寝室の扉の前まで来たところで、ふと立ち止まった。
私は不思議に思って振り返る。
「……タクマ?」
「ん?」
タクマはその場で、ほんの一歩だけ横へ動いた。
そして、元の位置へ戻る。
もう一度、同じ動きを繰り返した。
私は思わず目を細めた。
「……またやってる」
「いや、ちょっとだけ」
「……タクマ」
「はい」
「もう寝なさい」
タクマは少し恥ずかしそうに笑った。
「……はい」
私は呆れながらも、つい笑ってしまった。
この人は、本当に分かりやすい。
何かに興味を持つと、すぐに夢中になってしまう。できないことがあれば、何度でも試したくなる。
それは、私が魔法の研究をしている時と、きっと同じなのだろう。
寝室へ入り、二人でベッドに横になる。
タクマはすぐに眠りそうだったけれど、私は少しだけ彼の顔を眺めていた。
この世界へ来たばかりの頃のタクマは、本当に何も知らなかった。
言葉も、魔法も、冒険者の仕事も。
私が教えなければ分からないことばかりで、何をするにも戸惑っていた。
けれど、今では違う。
ハーケンから剣を教わり、冒険者として経験を積み、ボーマンの修行も始まった。
自分で考え、悩み、少しずつできることを増やしている。
今日だって、ほんの小さな発見だった。
剣が突然強くなったわけでも、魔法の威力が増したわけでもない。
ただ、一歩の距離を少し変えただけ。
それでも、その小さな違いを見つけた時のタクマは、本当に嬉しそうだった。
私は、そんな彼の姿が好きだった。
「……リカ」
隣から、眠そうな声が聞こえた。
「何?」
「……今日も、ありがとう」
「……どういたしまして」
私は小さく笑った。
「明日も頑張ってね」
「……うん」
タクマは目を閉じた。
私は彼の手をそっと握り、同じように目を閉じる。
これから先、タクマがどれほど強くなるのかは分からない。けれど、きっと大丈夫だと思う。
この人は、できないことを諦めるより、できるようになるまで考えることを選ぶ人だから。
もっとも、そのせいで休むことを忘れてしまうのは、少し困るのだけれど。
……まあ、それはお互い様か。
私は小さく笑い、隣から聞こえてくる穏やかな寝息に耳を傾けた。
明日も、きっと新しいことを覚えるのだろう。そしてまた、何度も同じ動きを繰り返して、私に「あとちょっとだけ」と言うに違いない。
その時は、私も少しだけ付き合ってあげよう。
ただし、本当に少しだけ。
そう心の中で決めながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。




