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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
閑章1 王女リカルティール

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【閑章4話】王女の選択

あまりにも脱走王女の脱走が衝動的過ぎており、最新話との整合性が取れなくなったので大幅追記でして書き直しています。

この話と閑章五話まで続きます。


 私の机には、いつの間にか二冊の手帳が並ぶようになっていた。


 一冊は、王女としての予定を記録するためのものだ。王立学院の授業、公務、王宮での会食、貴族との面会。侍女から渡される予定表の内容を、自分でも確認できるように書き写している。もっとも、私が手帳に記入する頃には大抵の予定が決まっているので、自分の予定を立てるというより、決められた予定を忘れないためのものだった。


 もう一冊には、誰にも頼まれていないことを書いていた。


 王都から各地へ延びる街道の距離、宿屋の料金、冒険者ギルドの仕組み、依頼の報酬。それから、王国外の都市について調べたことも記している。最初は図書室で読んだ本の内容を忘れないようにするためだったのに、調べれば調べるほど知らないことが見つかり、気づけば手帳の半分近くが埋まってしまった。


「……こっちの方が、よっぽど予定表らしいよね」


 私は二冊を見比べ、小さく笑った。


 王女としての手帳には、来月までの予定が隙間なく書き込まれている。一方、もう一冊には、行ってみたい街や調べてみたいことが、思いついた順番で並んでいた。どちらも私の手帳なのに、一方には自分の意思がほとんど入り込む余地がなく、もう一方には自分の興味しか書かれていない。


 ただ、後者に書かれた予定には、一つだけ大きな問題があった。


 どれも、実際に行くと決まったわけではないのだ。


 私は少し苦笑し、私的な手帳を引き出しへしまった。今日は午後から学院の授業があり、その前に王宮での勉強を終わらせなければならない。考えたいことはいくらでもあったけれど、今は目の前の予定をこなす方が先だった。


◇


 冒険者について調べ始めてから、数か月が経っていた。


 あの日、王都の通りで見かけた三人組の冒険者たちが、次に向かう街を自分たちで決めていたことは、今でもよく覚えている。


 彼らにとっては、きっと何でもない会話だったのだろう。仕事が多い街へ行くか、近くの街で依頼を探すか。相談して、意見をまとめて、歩き出す。誰かに許可を求める様子もなければ、決定を報告する相手がいるようにも見えなかった。


 でも、私にはそれがとても新鮮だった。


 私がどこかへ出かけるときには、まず予定を組まなければならない。護衛の人数や移動手段を決め、訪問先との調整を済ませ、必要なら父上や王宮の担当者から許可をもらう。王都の店へ少し立ち寄るだけでも、警備上の問題がないか確認する必要があるし、当日の思いつきで行き先を変えることは難しい。


 もちろん、それは王女を守るための仕組みだ。私一人が危険な目に遭うだけで済むとは限らないし、護衛の人たちに責任があることも理解している。だから、何もかも無駄だとは思っていなかった。


 ただ、自分で行き先を決めるという、ごく当たり前に思えることが、私にとってはそれほど簡単ではなかった。


 だからこそ、冒険者という仕事が気になった。


 最初に調べたのは、冒険者ギルドの制度だった。


 冒険者は依頼を受け、仕事を達成することで報酬を得る。魔物の討伐や商隊の護衛だけでなく、薬草の採集や荷物の運搬、街道の調査など、仕事の種類は思っていたよりずっと多かった。危険な魔物と戦うことだけが冒険者の仕事ではなく、街の人々の生活を支える役割も担っているらしい。


 階級制度もあり、登録したばかりの冒険者は原則として最も低い階級から始める。実績を積めば上位の依頼を受けられるようになるけれど、能力が高いからといって、最初から何でも任せてもらえるわけではない。依頼には失敗した場合の責任もあり、報酬が支払われないだけでなく、契約内容によっては違約金が発生することもあるという。


 私は、その仕組みを少し面白いと思った。


 王宮では、私が何かをするとき、まず王女であることが前提になる。相手は私の名前を知っているし、私の父が誰なのかも知っている。魔法を褒めてもらえるのは嬉しいけれど、その評価に王女という立場がどれほど影響しているのか、私には分からないことがあった。


 けれど、冒険者ギルドでは、引き受けた仕事を達成できるかどうかが大切になる。


 もちろん、身分や人脈がまったく役に立たないわけではないだろう。それでも、依頼を受けた以上は、自分の力で結果を出さなければならない。王女だからという理由だけで、討伐した魔物の数が増えたり、護衛した商隊が安全に目的地へ到着したことになったりはしないはずだ。


 私は魔法が得意だった。


 それが冒険者としてどれほど役に立つのか、一度試してみたい気持ちはあった。学院で学んできた魔法を、決められた課題とは違う場所で使うことにも興味がある。教師から出された問題ではなく、自分で引き受けた仕事のために術式を考えるのは、きっと面白いだろう。


 ただし、魔法が使えるからといって、すぐに冒険者として暮らしていけるとは限らない。


 依頼を探し、条件を確認し、報酬を受け取り、必要なものを自分で揃える。怪我をしたときには治療費も必要だし、仕事が見つからなければ収入もない。危険な依頼を避ければ生活が苦しくなるかもしれないし、反対に報酬だけを見て無理な依頼を受ければ、命を落とす可能性だってある。


 王宮では、考えなくてもよかったことばかりだった。


「……生活するって、結構大変なんだ」


 資料を読みながら、私は何度もそう思った。


 それでも、調べることをやめようとは思わなかった。むしろ、知らないことが見つかるたびに、もっと詳しく知りたくなった。


 冒険者が自由に見えるのは、誰からも命令されないからではない。仕事を選ぶ代わりに、その結果を自分で引き受けているからなのだろう。


 そう考えると、私が憧れているものの正体も、少しずつ分かってきた気がした。


◇


 私が特に興味を持ったのは、王国外の都市だった。


 マリアベル王国の中にも、行ってみたい場所はいくつもある。南部の農業都市や、西方の鉱山地帯、交易で栄える街。地理の授業で習っただけの場所を、実際に歩いてみたいと思うこともあった。


 ただ、王国内では、私が王女であることを知らない人を探す方が難しいかもしれない。


 王都から離れた場所なら、顔を知らない人もいるだろう。けれど、王家の名前はどこでも知られているし、身元が分かれば、きっと王宮へ連絡が届く。王女が護衛も連れずに一人で旅をしていると知れば、親切な人ほど放っておかないはずだった。


 では、国の外ならどうだろう。


 そんな疑問から、私は周辺諸国の資料を読むようになった。


 中でも興味を引かれたのが、東方に位置するフロンティア大公国だった。


 大公国は複数の交易路が交わる地域にあり、商人や旅人、冒険者の往来が盛んだという。王国とは異なる制度や習慣もあるけれど、主要都市には冒険者ギルドの支部が置かれ、外国から来た冒険者も活動しているらしい。


 その中に、ノヴァグラードという都市があった。


 大公国の主要な冒険者都市の一つで、周辺には魔物の生息する森林や古い街道が広がっている。討伐や護衛の依頼が多く、さまざまな国から冒険者が集まっていると書かれていた。王国の貴族名鑑にはほとんど登場しない街なのに、冒険者向けの資料では何度も名前を見かける。その違いも、私には面白かった。


「……ここなら、魔法の仕事もあるのかな」


 地図に描かれた街の名前を見ながら、私は考えた。


 王宮で魔法を使えば、それは王女の才能として評価される。学院で優秀な成績を収めれば、王家の教育水準が高いと褒められることもある。


 けれど、冒険者として魔法を使うなら、誰かを守ったり、危険な魔物を倒したりした結果で評価されるのだろう。


 同じ魔法なのに、使う場所によって意味が変わる。


 そのことが、少し不思議だった。


 もちろん、外国へ行けばすべてが解決するわけではない。言葉や貨幣、法律、治安についても調べなければならないし、知らない土地で暮らすことには危険もある。大公国が外国人を受け入れているからといって、身元の分からない少女を無条件に信用してくれるとは限らなかった。


 私は手帳に、調べる必要のある項目を書き加えた。


 外国人の冒険者登録、宿泊費、王国通貨との交換、国境の通行手続き。それから、旅に必要な装備と、街道ごとの治安についても調べる必要がある。


 書き終わって眺めてみると、思っていた以上に項目が多かった。


「……冒険者になる前に、勉強することが山ほどあるじゃない」


 思わず笑ってしまった。


 学院の授業だけでも十分忙しいのに、私は自分から勉強を増やしている。しかも、調べたところで実際に役立てる機会があるとは限らない。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 授業の課題には提出期限があり、公務には決められた日程がある。どちらも大切なことだけれど、何をいつまでに学ぶのかは、ほとんど他の人が決めている。


 それに対して、この手帳に書き込むことには期限がなかった。何を調べるかも、どこまで調べるかも、自分で決められる。


 たったそれだけの違いなのに、私は図書室へ向かう時間を楽しみにするようになっていた。


◇


 旅の費用を計算してみたときには、少し困ったことになった。


 最初は、宿代と食費、それに移動費を足せばよいと思っていた。王都から目的地までの日数を見積もり、一日あたりの宿泊費と食費を掛け合わせれば、必要な金額は大体分かるはずだと考えたのだ。


 ところが、資料を読み進めるうちに、ほかにも必要なものがいくつも見つかった。


 衣類の修繕、洗濯、靴の買い替え、薬、旅先で使う日用品。武器を持つなら手入れも必要だし、荷物を運ぶための鞄だって用意しなければならない。雨が続けば予定より長く宿に泊まることになるし、道中で怪我をすれば治療費もかかる。


「……靴って、そんなに傷むの?」


 私は自分の足元を見た。


 王宮では、靴が傷めば新しいものを用意してもらえる。そもそも長い距離を歩くことが少ないので、靴底がすり減るということを、あまり意識したことがなかった。学院へ向かうときも馬車を使うし、王宮内で歩く距離など、旅人が一日に進む距離と比べれば大したことはない。


 食費についても同じだった。


 王宮の食事は、毎日決まった時間に用意される。献立を考えるのは料理長の仕事だし、材料を仕入れるのも私ではない。食べたいものを伝えれば用意してもらえることもあるけれど、その料理にどれほどのお金がかかっているのか、私はほとんど知らなかった。


 私は何冊かの資料を比べ、一般の旅人が利用する宿屋や食堂の料金を調べ直した。安い宿には相部屋しかないこともあれば、食事が宿泊料金に含まれていないこともある。馬車を利用すれば移動は楽になるけれど、その分だけ費用が増える。


 さらに、冒険者の収入について調べると、依頼の報酬がそのまま手元に残るわけではないことも分かった。装備の維持費や必要な道具を差し引けば、思っていたほど余裕のある生活にはならないらしい。


 その結果、最初に考えていた費用では、予定していた日数よりずっと早くお金がなくなることが分かった。


「危なかった……」


 誰に聞かせるでもなく呟き、私は計算をやり直した。


 魔法の術式なら、複雑な構造でも組み立てられる。必要な魔力量を計算し、複数の属性を組み合わせ、発動条件を調整することだってできる。


 でも、生活費の計算は、知らない項目が一つあるだけで簡単に間違える。


 私はそのことを、少し恥ずかしく思った。


 同時に、知らないことを知るのは楽しかった。間違えたなら調べ直せばいいし、分からないことがあれば、分かるまで調べればいい。最初から完璧な答えを出せなくても、少しずつ正しいものに近づけていけばいいのだ。


 少なくとも、今の私には、そのための時間と資料がある。


 王宮で受けてきた教育が、初めて自分のために役立っているような気がした。


◇


 魔法についても、以前とは少し違うことを考えるようになっていた。


 学院では、魔法を正確に発動し、決められた条件の中で制御することが求められる。私はそういう課題が得意だったし、新しい術式を考えることも好きだった。


 けれど、もし一人で旅をするなら、必要になる魔法は少し違うはずだった。


 長い距離を歩くための身体強化。悪天候から身を守るための防御。夜間に明かりを使わず周囲を確認する方法。それから、人目を避けるための認識阻害や隠蔽の術式。


 私は学院の図書室で、そうした魔法について調べた。


 隠蔽魔法は、姿を完全に消してしまうような便利なものではない。相手の認識を妨げ、注意を向けにくくすることで、見つかる可能性を下げる術式だった。相手が最初からこちらを探していたり、魔力の流れを調べたりすれば、効果は薄くなる。


 しかも、術式の効果を強くするほど魔力の消費が増え、維持することも難しくなる。周囲の環境によっては、かえって不自然な魔力の流れが生じることもあるらしい。


 身体強化にも限界があった。


 魔法で筋力や瞬発力を高められても、体への負担がなくなるわけではない。長時間使い続ければ疲労が蓄積するし、術式を維持するための魔力も必要になる。無理に速度を上げれば、足場の悪い場所で転倒する危険もある。


 私は手帳に、それぞれの長所と問題点を書き出した。


 そして、ふと考えた。


 もし王都から遠く離れた街へ行くとしたら、どれくらいの時間が必要なのだろう。


 街道を歩けば何日もかかる距離でも、身体強化を使えば短縮できるかもしれない。ただし、途中で休息を取らなければならないし、道を間違えれば余計な時間がかかる。人目につく場所で魔法を使えば、不審に思われる可能性もあるだろう。


 国境を越える場合には、正規の検問で身分を確認されることもある。


 王女である私が、何の説明もなく外国へ向かおうとすれば、きっと大騒ぎになるはずだった。


「……まあ、普通はそうなるよね」


 私は地図を眺めながら苦笑した。


 まだ本当に旅へ出ると決めたわけではない。それでも、もし自分一人でどこかへ行くなら、という仮定で考えてみると、今まで気づかなかった問題がいくつも見つかった。


 それを一つずつ解いていくのは、難しい魔法の課題に取り組むのと少し似ていた。


 ただし、学院の課題なら、失敗しても教師に注意されるだけで済む。


 旅の途中で同じように失敗したら、誰かが助けてくれるとは限らない。


 私はその違いも、手帳の余白に書き加えた。


◇


「殿下、以前よりずいぶん上達されましたね」


 ユリアナがそう言ったのは、王宮の実技場で防御魔法の訓練を終えたときだった。


 私は、土属性で作った防御壁の一部分だけを補強し、そこへ風属性の術式を重ねていた。以前の公開演習でユリアナに指摘された方法だ。


「どう?」


「見事でございます。必要な部分だけを補強することで、魔力の消費を抑えられております」


「でしょ?」


「ただし、補強する位置を判断するまでに、少々時間がかかっておりました」


「そこはまだ練習中」


「十分な進歩だと思いますよ」


 ユリアナは微笑んだ。


 私は嬉しくなって、もう一度術式を確認した。魔力の流れを少し変えれば、補強する位置を判断するまでの時間を短縮できるかもしれない。次は模擬攻撃の方向を変えて試してみようと考えていると、ユリアナが小さく笑った。


「殿下、今日はもう十分に訓練されました。続きは次の機会になさいませ」


「ええ、もう少しだけ」


「その『もう少し』が長いのでございます」


「……そんなことないと思うけど」


「以前も同じことを仰って、日が暮れるまで実技場におられました」


 言われてみれば、そんなこともあった気がする。私は反論するのを諦め、術式を解除した。


 ユリアナは、私が王女だからという理由で何でも褒めたりはしない。改善すべきところがあれば、きちんと指摘してくれるし、訓練を続けるべきではないと判断すれば、こうして止めてくれる。


 その代わり、上達したところは素直に認めてくれる。


 私は彼女のそういうところが好きだった。


「ねえ、ユリアナ」


「はい」


「騎士になったこと、後悔したことある?」


 突然の質問に、ユリアナは少し驚いたようだった。


「後悔、でございますか?」


「うん。大変な仕事でしょ?」


「そうですね。危険な任務もございますし、思うようにいかないことも少なくありません」


「じゃあ、辞めたいと思ったことは?」


 ユリアナはすぐには答えず、少し考えるように視線を落とした。


「苦しいと思ったことはございます。自分の判断が正しかったのか、悩んだこともありますし、もっと別の方法があったのではないかと考えることもあります」


「……うん」


「ですが、騎士になると決めたこと自体を後悔したことはございません」


「どうして?」


「私が、自分で選んだ道だからでしょうね」


 ユリアナは穏やかに答えた。


「もちろん、選んだからといって、すべてが思い通りになるわけではございません。むしろ、自分で選んだ以上は、その結果にも責任を持たなければなりませんから」


 私は少し考えた。


 自分で選んだ道。


 その言葉は、以前にもユリアナから聞いたことがあった。


「もし、騎士じゃない仕事を選んでいたら?」


「それは分かりませんね」


「冒険者とか」


「私が、でございますか?」


「うん」


 ユリアナは少し笑った。


「向いていないかもしれません」


「どうして?」


「誰かに仕えることを、私は嫌いではありませんので」


「……そっか」


「ですが、冒険者には冒険者の誇りがあるのでしょう。自分の力で仕事を選び、その結果を引き受ける。それも立派な生き方だと思います」


 私は頷いた。


 ユリアナは、自分の選んだ道を誇りに思っている。だからこそ、ほかの道を選んだ人のことも、きちんと認められるのだろう。


 私は彼女を少し羨ましく思った。


 同時に、もし自分が王宮を出ようとしたら、ユリアナはどうするのだろうとも考えた。


 きっと止めるだろう。


 それは、彼女が私のことを嫌っているからではない。私を守ることが、彼女の仕事だからだ。私が危険な場所へ向かおうとすれば、どれほど本人が望んでいたとしても、止めようとするはずだった。


 そして、それはきっと正しいことなのだろう。


 私は、そのことを理解していた。


◇


「殿下、最近は王国外の地理にもお詳しくなられましたな」


 ボーマンにそう言われたのは、ある日の授業が終わったあとだった。


「そう?」


「はい。先日の地理の試問では、交易路について教師も感心しておりました」


「ちゃんと勉強してるからね」


「結構なことでございます」


 ボーマンはいつも通り、穏やかな顔をしていた。


 私は机の上に置かれた本を閉じた。今日の授業は王国の歴史についてだったけれど、最近は地理や政治について学ぶときにも、以前とは少し違うことを考えるようになっていた。


 かつては、王族として知っておくべきことを覚えるのが目的だった。今は、その知識が自分の生活にどう関わるのかを考えることが増えている。


「ねえ、ボーマン」


「何でございましょう」


「王族って、自分で将来を決められないの?」


 ボーマンは、すぐには答えなかった。


「まったく決められないということではございません」


「じゃあ、決められることもある?」


「もちろんでございます。ただし、王族には王族として果たすべき責任がございますので、すべてを自由に選べるわけではございません」


「……うん」


 私は、その答えを予想していた。


 父上も母上も、兄たちも、似たようなことを言う。


 王族には責任がある。それは分かっているし、王家の一員として何もしなくていいとは思っていない。


 ただ、その責任がどこまで続くのか、私にはよく分からなかった。


「でも、その責任って、自分で選んだわけじゃないよね」


 ボーマンは私を見た。


「左様でございますな」


「それでも、果たさなきゃいけないの?」


「王族として生まれた以上、避けられない責任もございます」


「……そっか」


 私は少し残念に思った。


 けれど、ボーマンはそこで話を終えなかった。


「ただし、殿下」


「何?」


「王宮の外へ出れば、責任から自由になれるというものでもございません」


 私は顔を上げた。


「外でも?」


「もちろんでございます。商人には商人の、職人には職人の、冒険者には冒険者の責任がございます。自ら選んだ仕事であれば、その結果を他人に委ねることはできません」


「……うん」


「王族として与えられる責任と、自ら選んだ道に伴う責任。その重みは、必ずしも同じではないのでしょうな」


 私は、しばらく考えた。


 王宮の外へ出れば、何でも自由になるわけではない。それは冒険者について調べるうちに、よく分かってきた。


 お金がなければ食事もできないし、仕事に失敗すれば報酬ももらえない。怪我をしても、必ず誰かが助けてくれるとは限らない。


 それでも、自分で選んだ結果なら、納得できるのだろうか。


「ボーマンは、自分の仕事を選んだの?」


「はい。もっとも、若い頃にはさまざまな事情もございましたが」


「後悔してない?」


「後悔がまったくない人生など、そうそうございますまい」


 ボーマンは少し笑った。


「ですが、選んだ道を歩いてきたことについては、私なりに誇りを持っております」


「……そっか」


 私は頷いた。


 ボーマンもユリアナも、自分の選んだ道を歩いている。二人とも責任の重い仕事をしているし、自由気ままに暮らしているわけではない。


 それでも、私には少し羨ましかった。


 私は王女として生まれたことを恥ずかしいと思っていないし、王家の一員であることを誇りにも思っている。けれど、これから先もずっと王女として生きることを、自分で選んだ覚えはなかった。


「殿下」


「何?」


「もし、何かお悩みのことがございましたら、どうか一人で抱え込まれませんように」


 私は少し驚いた。


 ボーマンは、私の考えていることに気づいているのだろうか。


 昔から、あの人は私が何かを隠しているときほど、無理に聞き出そうとはしなかった。子供の頃、授業をさぼって庭園へ遊びに行ったときも、戻ってきた私をすぐに叱るのではなく、まず何をしていたのかを尋ねてくれた。


 もちろん、授業をさぼったことについては、あとできちんと叱られた。


 でも、庭園で見つけた珍しい花の話には、最後まで付き合ってくれた。


 ボーマンは、私が何をしたのかだけでなく、どうしてそうしたのかを知ろうとしてくれる。


 だから、少しだけ怖かった。


 もし、今の私が何を考えているのかを聞かれたら、ちゃんと答えられるのだろうか。


「……ありがとう」


「もったいないお言葉でございます」


 私は笑った。


 けれど、胸の奥にある気持ちを、うまく言葉にすることはできなかった。


◇


 王国軍の記念式典について知らされたのは、それからしばらくしてのことだった。


「……魔法演習?」


 私は予定表を見て、思わず聞き返した。


「はい。来月初めに開催される王国軍の記念式典において、殿下にも演習へご参加いただくことになりました」


「私が?」


「左様でございます」


「……誰が決めたの?」


 侍女は少し困った顔をした。


「王宮と軍務省との間で調整されたと伺っております」


 私は予定表を見直した。


 王国軍の記念式典は、毎年開催される大きな行事だった。国王や王族だけでなく、諸侯や有力貴族、外国の使節も招かれる。私も以前に何度か観覧したことがあり、整然と並ぶ兵士たちの姿や、魔法を使った大規模な演習を見て感心したこともあった。


 けれど、今回は観覧ではなかった。


 魔導士団との合同演習に参加し、王国軍の兵士たちと協力して防御魔法を披露することになっている。しかも、式典のあとには軍関係者との懇談会まで予定されていた。


「私、そんなことするって言ったっけ?」


「申し訳ございません。詳しい経緯までは……」


「あ、ううん。あなたが悪いわけじゃないよ」


 私は慌てて首を振った。


 侍女は決まった予定を伝えに来ただけだ。それなのに、私はつい責めるような言い方をしてしまった。


「分かった。あとで確認するね」


「かしこまりました」


 侍女が部屋を出たあと、私は予定表を机に置いた。


 公開演習が終わってから、軍関係者との面会は増えていた。私の魔法が高く評価されていることも知っているし、王国軍が魔法技術に関心を持つこと自体は不思議ではない。


 でも、いつの間にか、軍の公式行事に参加することまで決まっていた。


 私はまだ、軍に入りたいとも、将来軍務に就きたいとも言っていない。


 それなのに、周囲の人たちは、私が軍の仕事をすることを少しずつ当然のように考え始めている気がした。


 予定表に書かれた式典の日付を見つめながら、私は何となく落ち着かない気持ちになった。


◇


「今回の式典は、王国にとって重要な行事なのだ」


 ヴィルヘルム兄上は、私の質問にそう答えた。


 兄上の執務室には書類が山積みになっていた。最近は父上の政務を手伝うことが増え、以前より忙しそうにしている。私が訪ねたときも、机の上には王国各地から届いた報告書が広げられていた。


「重要なのは分かるよ。でも、どうして私が演習に参加するの?」


「お前の魔法が高く評価されているからだ。王家の一員として、その才能を示すことには意味がある」


「意味って?」


「王国の魔法技術が優れていることを、国内外に示せる」


「それなら、魔導士団の人たちがやればいいんじゃない?」


「もちろん彼らも参加する。だが、お前は王族として参加するんだ」


 私は少し考えた。


 魔法の技術を披露するだけなら、経験豊富な魔導士は大勢いる。ユリアナだって、実戦で魔法を使った経験は私よりずっと多い。


 それなのに、私が参加することには別の意味があるらしい。


「……断れないの?」


 兄上は顔を上げた。


「何か不安でもあるのか?」


「そういうわけじゃないけど」


「なら、何を気にしている?」


「私には何も聞かずに決まったから」


 兄上は、しばらく私を見ていた。


「リカ。すべての公務について、お前の希望を確認するわけにはいかない」


「それは分かってるよ」


「今回の式典も、王家としてすでに参加を伝えている。今から変更すれば、関係者に迷惑がかかる」


「……うん」


「ただし、式典に参加することと、将来軍務に就くことは別の話だ」


 私は顔を上げた。


「じゃあ、軍に入らなくてもいいの?」


「そう決まったわけではないと言っている。お前の将来については、まだ時間をかけて考えればいい」


「本当に?」


「もちろんだ」


 兄上は穏やかに答えた。


 私は少し安心した。


 ヴィルヘルム兄上は、私を無理やり軍に入れようとしているわけではない。ただ、王族として必要なことをしてほしいと思っているだけなのだろう。


 それは分かる。


 兄上自身も、王位を継ぐ立場として多くの責任を背負っている。自分の好きなことだけをして暮らしているわけではないし、私よりずっと多くの公務をこなしている。


 だから、兄上が王族の責任を大切に考えることは、私にも理解できた。


 でも、式典への参加が決まったときも、私は何も聞かれていなかった。


 将来のことはまだ決まっていないと言われても、その言葉をどこまで信じてよいのか分からなかった。


 もし、次も同じように予定が決まったら。


 その次も、また決まったら。


 いつまでなら、自分の希望を伝えることができるのだろう。


 私はその疑問を口にできないまま、兄上の執務室をあとにした。


◇


「……お前、本当にその式典に出るのか?」


 ハインリヒ兄上は、予定表を見て眉をひそめた。


「もう決まってるんだって」


「誰が決めた?」


「王宮と軍務省」


「ふうん」


 兄上は予定表を眺め、そこに書かれている名前をいくつか確認した。普段なら面倒そうに眺めるだけなのに、その日は何度か同じところへ目を戻していた。


「……また面倒なことになりそうだな」


「またそれ?」


「何が?」


「兄上、最近ずっと面倒だって言ってる」


「実際、面倒なんだから仕方ないだろ」


 私はため息をついた。


「じゃあ、何が面倒なのか教えてよ」


 ハインリヒ兄上は少し笑った。


「お前の魔法を、自分たちの組織に取り込みたい連中がいるんだよ」


「取り込む?」


「魔導士団にとって、お前の才能が魅力的なのは事実だ。だが、お前を支援する立場になれば、そいつらの発言力も増す」


「私の魔法と、その人たちの偉さって関係あるの?」


「直接はない。だが、お前が将来どこかの役職に就くとして、その後ろ盾になった貴族がいたらどうなる?」


「その人のおかげで役職に就いたってことになる?」


「そういう見方をする連中もいる」


 私は予定表を見た。


 式典には、私の知らない貴族の名前がいくつも並んでいる。以前の会食で顔を合わせたことのある人もいるけれど、何を考えているのかまでは分からない。


 その人たちが、私の魔法を使って何かをしようとしている。


 そう考えると、急に予定表の文字が嫌なものに見えてきた。


「じゃあ、出ない方がいいんじゃない?」


「もう決まってるんだろ?」


「兄上から父上に言ってくれない?」


「理由もなく取り消せる話じゃない。それに、俺が口を出せば、別の意味を持たせる連中もいる」


「……何それ」


「そういうものなんだ」


 兄上は予定表を返した。


「とにかく、当日は余計な約束をするな。将来の話をされても、まだ勉強中だから分からないって答えとけ」


「それでいいの?」


「いい。お前は十五歳なんだから、それくらいで十分だ」


 私は頷いた。


 ハインリヒ兄上は、きっと私を守ろうとしてくれている。政治のことに詳しい兄上なら、私には分からない危険も見えているのだろう。


 でも、兄上が何を心配しているのか、全部は教えてもらえない。


 ヴィルヘルム兄上は、王族の責任だと言った。


 ハインリヒ兄上は、面倒なことになると言った。


 二人とも、私のことを考えてくれているのだと思う。それなのに、結局は式典に出なくていいとは言ってくれなかった。


 私は、自分が十五歳だからこそ守られているのだと思った。


 そして同時に、十五歳だからという理由で、自分の将来について十分に考える必要がないと思われているようにも感じた。


◇


 式典の準備が始まると、私は何度も軍関係者との打ち合わせに呼ばれた。


 今回の演習では、魔導士団と野戦軍が協力し、敵の攻撃を防ぎながら陣形を整える場面を再現するらしい。


 王国の軍事組織は、大きく四つの系統に分かれている。王家の直接指揮下にあり、王宮の警備や王族の護衛を担う近衛兵団。魔法による遠距離攻撃や広域支援を担当する魔導士団。魔法と武技を組み合わせ、機動戦や近接戦闘を得意とする魔導騎士団。そして、戦時に各地の領主や貴族の軍勢を集めて編成する野戦軍だ。


 それぞれ役割も指揮系統も異なるけれど、実際の戦場では協力しなければならない。魔導士団が防御魔法を展開している間に野戦軍が陣形を整えたり、魔導騎士団が敵の側面へ回り込んだりすることもあるという。


 今回、私は魔導士団の兵士たちと協力して防御魔法を展開することになった。


 演習の内容自体は、興味深かった。


 敵の攻撃を防ぐだけなら、強固な防御壁を作ればいい。けれど、味方の兵士たちが移動する場合には、壁の位置や形を変えなければならない。攻撃を防ぎながら味方の進路を確保するには、複数の術式を同時に制御する必要がある。


 私はユリアナと相談し、必要な場所だけを補強できる防御術式を組み立てた。彼女は実戦での経験をもとに助言してくれたし、私も学院で学んだ理論を使って改良を重ねた。


 防御壁を一度に大きく展開するより、兵士の動きに合わせて形を変えた方が魔力の消費を抑えられる。ただし、その分だけ周囲の状況を正確に把握しなければならないので、指揮官との連携が重要になる。


 私はその仕組みを考えるのが楽しかった。


 魔法をただ強くするのではなく、どう使えばより多くの人を守れるのかを考える。学院の課題とは違う難しさがあり、ユリアナと意見を交わすたびに、新しい発見があった。


 問題は、演習の準備とは別に行われる打ち合わせだった。


「殿下には、演習終了後の懇談会にもご出席いただきます」


「はい」


「その席では、今後の王国軍における魔法戦力の強化についても話題になる予定でございます」


「……そうなんですか」


「殿下のような優れた魔法使いを中心として、魔法教育や研究体制を充実させていくことは、王国にとって大きな意義がございます」


 私は首を傾げた。


「中心って、私がですか?」


「将来的な構想の一つでございます」


「でも、私、まだ学院の生徒ですよ?」


「もちろん承知しております。すぐに何かをお願いするという話ではございません」


 担当者は笑顔で説明した。


「ただ、今回の式典を通じて、王家が魔法戦力の充実を重視していることを広く示すことができればと考えております」


 私は少し考えた。


 決まっていない。


 その言葉は、最近何度も聞いていた。


 軍に入ることも、将来の役職も、何も決まっていない。けれど、私が式典に出ることは決まっているし、軍の人たちと懇談することも決まっている。そして、その場で私の魔法を王国軍のために使う話がされることも、もう決まっている。


 決まっていないはずの将来について、周囲の人たちだけが少しずつ準備を進めている。


「……私が嫌だって言ったら、どうなるんですか?」


 担当者は、一瞬言葉を失った。


「殿下のご意向は、もちろん尊重されるものと存じます」


「じゃあ、断ってもいいんですか?」


「ただ、すでに各方面との調整が進んでおりますので、今から変更となりますと……」


「困るんですよね?」


 担当者は答えなかった。


 私は、それ以上何も聞かなかった。


 誰も、私に無理やり何かをさせようとしているわけではない。少なくとも、そういう言い方はしない。私の希望は尊重すると言ってくれるし、将来のことはまだ決まっていないとも言ってくれる。


 でも、その間にも話は進んでいく。


 私が何も言わなければ、皆はそれを承諾したと思う。そして、いざ嫌だと言えば、もう決まっているから困ると言われる。


 それなら、私はいつ自分の希望を言えばよかったのだろう。


 最初から、誰も聞いてくれなかったのに。


「……分かりました」


 私は笑顔を作った。


「予定通り参加します」


「ありがとうございます、殿下」


 担当者は安心したように頭を下げた。


 私は、その顔を見て、もう何も言う気になれなかった。


◇


 王国軍の記念式典は、予定通り開催された。


 会場には父上と母上、ヴィルヘルム兄上、ハインリヒ兄上の姿があり、王国各地から集まった諸侯や軍関係者、外国の使節たちも並んでいた。


 近衛兵団の騎士たちは整然と隊列を組み、式典の警備と儀仗を担当している。魔導士団の兵士たちも、普段の訓練とは違う緊張した表情で準備を進めていた。


 私は演習の開始を待ちながら、隣に立つユリアナへ声をかけた。


「ねえ、ユリアナ」


「はい、殿下」


「失敗したらどうなるかな」


「失敗なさるおつもりですか?」


「そういうわけじゃないけど」


「でしたら、普段通りにお力を発揮なさればよろしいかと」


「……簡単に言うね」


「殿下なら可能だと存じておりますので」


 ユリアナは穏やかに笑った。


 私は少し安心した。


 演習が始まると、私は予定された位置へ進み、魔導士団の兵士たちと術式を展開した。


 敵役の部隊から模擬攻撃が放たれる。


 私は土属性の防御壁を形成し、その前面へ風属性の術式を重ねた。正面からの攻撃は壁で受け止め、斜めから飛んでくるものは風で軌道を逸らす。


 その間に、味方の兵士たちが陣形を変える。


 私は兵士たちの動きを確認しながら、防御壁の一部を解除し、別の場所へ新たな壁を形成した。壁をただ大きくするのではなく、必要な場所に必要な強度を与える。ユリアナと練習してきた方法だった。


 防御線の内側では、野戦軍の兵士たちが指揮官の号令に合わせて移動している。私は彼らの進路を塞がないように術式を調整し、攻撃が集中する場所だけを補強した。


 最後の模擬攻撃では、予想よりも広い範囲に攻撃が集中した。


 私は瞬時に術式を組み替え、正面の壁を補強すると同時に、左右の風の流れを調整した。模擬弾が壁に衝突し、鈍い音が響く。衝撃で土壁の表面が削れたけれど、必要な部分へ魔力を流し込むことで、防御線を維持することができた。


 やがて、最後の模擬弾が地面へ落ちた。


「演習終了!」


 指揮官の声が響いた。


 私は術式を解除し、兵士たちとともに一礼した。


 観覧席から、大きな拍手が起こった。


 私は思わず笑顔になった。


 うまくできた。それも、自分一人の力ではなく、兵士たちと協力して成功させた演習だった。


 魔法の使い方としても、とても勉強になった。実際に兵士たちが動く中で術式を制御するのは、学院の実技場で模擬弾を防ぐのとは違う難しさがあったし、今回の経験をもとに改良できる部分も見つかった。


 私は素直に嬉しかった。


 このときまでは、今日の式典に参加してよかったと思っていた。


◇


 演習後の懇談会では、予想通り多くの人たちから声をかけられた。


「見事な演習でございました、殿下」


「ありがとうございます」


「これほど精密な防御術式を扱われるとは、王国の未来も安泰でございますな」


「まだ勉強中ですので」


 私は、教えられた通りに笑顔で応対した。


 褒められること自体は嬉しかった。実際、今回の演習は自分でもよくできたと思うし、兵士たちと協力して魔法を使う経験は貴重だった。


 ただ、会話が進むにつれて、少しずつ違和感を覚えるようになった。


「殿下が魔導士団の発展にお力添えくだされば、これほど心強いことはございません」


「王家のご威光のもと、魔法教育の充実が進むことでしょう」


「いずれは王国の魔法戦力を統括されるお立場として、ご活躍が期待されますな」


 私は、そのたびに同じような返事をした。


「まだ将来のことは決めておりませんので」


 すると、相手は笑顔で頷く。


「もちろん、将来のお話でございます」


 そう言って、別の人がさらに具体的な話を始める。


 魔法教育の充実、研究施設の整備、軍における新しい役職の設置。どれも王国にとって必要なことなのだろうし、実際に役立つ計画なのかもしれない。


 でも、その話の中心には、いつも私がいた。


 私が何をしたいのかについては、誰も聞かなかった。


 やがて、軍の高官の一人が、周囲の貴族たちに向かって話し始めた。


「本日の演習は、殿下が将来、王国の魔法戦力をお導きになるための、誠に意義深い第一歩となりました」


 周囲から賛同の声が上がった。


 私は、その言葉を聞いて、少し驚いた。


 第一歩。


 私は、そんなつもりで演習に参加したわけではない。


 ただ、頼まれた課題をこなしただけだった。魔導士団の兵士たちと協力し、より効率的な防御魔法を考えることが楽しかったから、できる限りのことをした。


 それが、いつの間にか将来の軍務へ向けた第一歩になっている。


「……あの」


 私は、できるだけ穏やかな声で言った。


「私、将来軍のお仕事をするかどうかは、まだ決めていないんです」


 高官は、少し驚いたようにこちらを見た。


 けれど、すぐに笑顔になった。


「もちろん、正式なご決定は今後のことでございます。ただ、殿下のお力を王国のためにお役立ていただくことは、誰もが望んでおります」


「……そうですか」


「殿下ほどのご才能をお持ちであれば、必ずや王国の大きな力となられるでしょう」


 私は、もう一度笑顔を作った。


 それ以上、何も言えなかった。


 誰も、私に軍へ入れと命令していない。誰も、将来の役職が決まったとは言っていない。それなのに、私が軍のために働くことは、すでに当然のように語られていた。


 今日の演習も、そのための第一歩だったことになっている。


 私が何も決めていないうちに、周囲の人たちは少しずつ話を進めている。しかも、その人たちの多くは、私に悪意を持っているわけではないのだろう。王国のためになると信じ、私の才能を高く評価し、期待してくれている。


 だからこそ、断ることが難しかった。


 もし私が将来、軍務に就くことを拒んだら、今日の演習を喜んでくれた人たちは、どう思うのだろう。王国のために役立つはずだった才能を、私が自分の都合で使わなかったと考える人もいるかもしれない。


 そして、きっと言われるのだろう。


 これほど多くの人が期待しているのに、と。


 私は、ようやく分かった気がした。


 何も選ばなければ、誰かが私の代わりに選んでしまう。


 その選択が積み重なれば、いつか自分で決められることは何も残らなくなるのかもしれない。


 私は懇談会の会場を見渡した。


 そこには、私の将来について熱心に話す人たちがいた。皆、王国のために働いている立派な人たちなのだろう。


 けれど、その人たちが思い描いている未来の中に、私自身の希望が入り込む余地は、どれほどあるのだろうか。


 私はその答えを見つけられないまま、次の来賓へ挨拶するために歩き出した。


◇


 その日の夕食は、久しぶりに家族全員がそろった。


 父上も母上も最近は公務で忙しかったし、兄たちもそれぞれ仕事や勉強がある。五人でゆっくり食事をする機会は、以前より少なくなっていた。


「リカ、今日の演習は見事だったぞ」


 父上が嬉しそうに言った。


「ありがとうございます、父上」


「魔導士団の指揮官も感心しておった。あれほど精密な術式を扱える者は、そうそうおらんそうだ」


「まだ改善できるところはありますけど」


「それでこそ我が娘だ」


 父上は満足そうに笑った。


 私はその顔を見て、少し嬉しくなった。


 父上は王として厳しい顔をすることもあるけれど、家族と一緒にいるときにはよく笑う。私が学院でよい成績を収めたときも、魔法の研究で新しい成果を出したときも、自分のことのように喜んでくれた。


 今日の演習についても、純粋に娘の成長を喜んでくれているのだと思う。


「無理はしていませんか?」


 母上が心配そうに尋ねる。


「大丈夫です、母上」


「最近は公務も増えているのでしょう。あまり根を詰めてはいけませんよ」


「はい」


「リカなら心配いらないでしょう」


 ヴィルヘルム兄上が言った。


「今日の演習も、魔法の技術だけでなく、兵士たちとの連携がよく考えられていた」


「ありがとうございます、兄上」


「ただ、周囲の期待が大きくなりすぎるのは考えものですけどね」


 ハインリヒ兄上が軽い調子で言った。


「ハインリヒ」


 ヴィルヘルム兄上が弟をたしなめる。


「分かってますよ。せっかくの食事ですから、難しい話はやめましょう」


 ハインリヒ兄上は笑い、別の話題を始めた。


 父上も母上も、それ以上は何も言わなかった。


 私も笑っていた。


 こうして家族と食事をする時間は好きだった。


 母上はいつも私たちを気にかけてくれるし、兄たちも、私のことを大切にしてくれている。ヴィルヘルム兄上は真面目だけれど、私が困っているときには必ず力になろうとしてくれるし、ハインリヒ兄上は口では面倒だと言いながら、私が知らないところでもいろいろ考えてくれているのだと思う。


 私は、家族のことが大好きだった。


 それは、今も変わらない。


 だからこそ、言えなかった。


 王国軍の仕事をしたくない。


 王女としての将来を、誰かに決めてほしくない。


 自分で生きる場所を選んでみたい。


 そんなことを言えば、きっと皆を困らせる。


 父上は王としての責任を説明するだろうし、母上は私の気持ちを聞こうとしてくれるだろう。兄たちも、それぞれの立場から助言してくれると思う。


 そして、皆が私のためを思って、何かよい方法を考えてくれるかもしれない。


 公務を減らすことも、軍関係者との面会を控えることも、場合によっては認めてもらえるだろう。


 でも、それでは私が本当に望んでいることとは違う。


 私は、王宮の中で自由な時間を増やしてほしいわけではなかった。誰かに許可された範囲で、好きなことをさせてほしいわけでもなかった。


 自分がどこで暮らし、何をして生きていくのか。


 そのことを、自分で決めてみたかった。


 家族に大切にされていることと、自分の人生を自分で選びたいことは、きっと両立するはずだった。


 けれど、今の私には、その二つを同時に叶える方法が思いつかなかった。


 私は目の前の料理を口に運びながら、父上たちの会話に耳を傾けた。ハインリヒ兄上が何か冗談を言い、ヴィルヘルム兄上が呆れた顔をする。母上が二人をたしなめると、父上が楽しそうに笑った。


 いつも通りの、温かな食卓だった。


 私はその時間が終わってほしくないと思った。


 同時に、このまま何も変わらずに過ごしていたら、自分の将来まで決まってしまうのではないかという不安も消えなかった。


 家族と楽しく食事をしているだけなのに、そんなことを考えてしまう自分が、少し嫌だった。


◇


 夜、自分の部屋へ戻った私は、机の引き出しを開けた。


 そこには、二冊の手帳があった。


 一冊は、王女としての予定を記録したもの。もう一冊は、誰にも頼まれていないことを書いたものだった。


 私は両方を机に並べた。


 王女としての予定表には、来月の公務や軍関係者との面会が、すでにいくつも書き込まれていた。今日の式典が終わったばかりなのに、次の予定が決まっている。おそらく、その次も決まるのだろう。


 それ自体は、今までと何も変わらない。


 王女として生まれた私は、幼い頃からそうやって暮らしてきた。授業の時間も、食事の時間も、外出する日も、誰かが予定を組んでくれる。私はその予定に従っていれば、必要な教育を受けられるし、危険な目に遭うこともほとんどない。


 それは、とても恵まれた生活なのだと思う。


 でも、今日の式典で、私は初めてはっきりと怖くなった。


 自分が何も言わなければ、周囲の人たちはそれを承諾したと思う。そして、いざ嫌だと言えば、もう決まっているから困ると言われる。


 そうして一つずつ予定が増えていけば、いつか私の将来も、誰かが決めた予定で埋まってしまうのかもしれない。


 私は、もう一冊の手帳を開いた。


 そこには、これまで調べてきたことが書かれていた。


 冒険者ギルドの制度、旅の費用、王国外の都市、魔法を使った移動方法。宿屋の料金について計算を間違えた跡もあれば、何度も調べ直して書き加えた項目もある。


 どれも、最初はただの興味だった。


 もし、自分が冒険者になったら。


 もし、一人で旅をするとしたら。


 そんな仮定で考えていただけだった。


 けれど、手帳を読み返してみると、私は思っていた以上に多くのことを調べていた。知らない土地で暮らすために必要なものも、王宮の外で生きることの難しさも、少しずつ分かってきている。


 もちろん、まだ分からないことはいくらでもある。資料を読んだだけでは理解できないこともあるだろうし、実際に旅へ出れば、想像もしなかった問題に出会うかもしれない。


 それでも、何も知らないまま憧れていた頃とは違う。


 私は、王宮の外で生きることを、以前よりずっと具体的に考えられるようになっていた。


 窓の外には、夜のマリアベルクが広がっている。


 遠くには港の明かりが見え、街道を行き交う馬車の灯りも小さく揺れていた。あの街には、私の知らない暮らしがいくつもある。朝になれば店を開く人がいて、仕事を探す人がいて、次の街へ向かう旅人もいるのだろう。


 その人たちは、明日の予定をすべて自分で決められるわけではない。


 仕事の都合もあれば、家族の事情もある。お金が足りなければ、行きたい場所へ行けないこともあるはずだ。


 でも、自分の人生をどう生きるのかについて、少なくとも私より多くの選択肢を持っている人たちがいる。


 私は、そのことが羨ましかった。


 王女として生まれたことを、後悔しているわけではない。


 父上と母上の娘であることも、ヴィルヘルム兄上とハインリヒ兄上の妹であることも、私にとって大切なことだった。王宮には、私を大切にしてくれる人がたくさんいる。ボーマンも、ユリアナも、侍女たちも、皆が私のことを気にかけてくれている。


 私は、その人たちを悲しませたくなかった。


 もし王宮を出ていけば、父上たちはきっと心配するだろう。母上は泣くかもしれないし、兄たちは怒るかもしれない。ユリアナやボーマンにも、迷惑をかけることになるかもしれなかった。


 それを考えると、胸が苦しくなった。


 私は、本当にそんなことをしていいのだろうか。


 自分の望みのために、大切な人たちを悲しませてもいいのだろうか。


 しばらく考えても、簡単な答えは出なかった。


 ただ、一つだけ分かっていることがあった。


 このまま王宮に残り、誰かが決めた将来を受け入れたとしても、私はきっと、いつか同じことを考える。


 あのとき、自分で選んでいたらどうなっていただろう。


 王宮の外へ出ていたら、どんな人生が待っていただろう。


 そう考えながら生きていくことになるのかもしれない。


 私は、それが怖かった。


 王宮の外へ出ることも怖い。知らない土地で暮らすことも、冒険者として仕事をすることも、きっと簡単ではない。


 でも、自分で選ぶことを諦めたまま大人になるのは、それ以上に怖かった。


 私は手帳のページをめくり、王国外の都市について書いたところで手を止めた。


 フロンティア大公国。


 ノヴァグラード。


 何度も資料で読んだ街の名前だった。


 そこには、私のことを知らない人たちがいる。私が王女であることを知らず、魔法が得意な一人の少女として接してくれる人たちがいるかもしれない。


 もちろん、うまくいく保証はない。


 冒険者として仕事が見つからないかもしれないし、旅の途中で危険な目に遭うこともあるだろう。王宮を出たことを後悔する日だって、あるかもしれない。


 それでも、私は行ってみたいと思った。


 誰かに決めてもらった予定ではなく、自分で選んだ場所へ。


 自分が何をしたいのかを、誰かに説明して許可をもらうのではなく、自分の意思で決められる場所へ。


 私は手帳の新しいページを開いた。


 そこに、まず一つの地名を書き込む。


『フロンティア大公国、ノヴァグラード』


 その下に、今まで書いたことのなかった項目を加えた。


『出発日』


 私は、しばらくその文字を見つめていた。


 日付は、まだ空白だった。


 王宮を出る方法も、国境を越える方法も、これからもっと詳しく考えなければならない。準備が足りないまま飛び出せば、すぐに連れ戻されるかもしれないし、無事に国外へ出られたとしても、その先の生活が成り立たなければ意味がない。


 私は、冒険者の資料を読んで知ったことを思い出した。


 自分で選んだ仕事には、自分で責任を持たなければならない。


 ボーマンも、ユリアナも、同じようなことを言っていた。


 今までの私は、その言葉を、冒険者や騎士の仕事についての話だと思っていた。


 けれど、きっと人生も同じなのだろう。


 自分で選んだ道を歩くなら、その先で起こることも、自分で引き受けなければならない。


 怖くないと言えば、嘘になる。


 家族に何も告げずに出ていくことが、どれほど身勝手なことなのかも分かっている。私がいなくなれば、多くの人が心配し、探し回ることになるだろう。


 それでも、もう単なる想像ではなかった。


 私は、いつかではなく、本当に行こうと思っている。


 王宮の外へ。


 自分の知らない街へ。


 そして、自分で選んだ人生へ。


 私は手帳を閉じ、机の上に置いた。


 明日も、王女としての予定がある。授業も、公務も、いつも通りにこなすつもりだった。今すぐ何かを変えるわけではないし、準備が整わないうちに飛び出すつもりもない。


 ただ、今までとは一つだけ違うことがあった。


 私はもう、自分の将来が誰かに決められるのを、ただ待っているつもりはなかった。


 机の上には、二冊の手帳が並んでいる。


 一冊には、明日からの予定が書かれていた。


 もう一冊には、まだ日付の入っていない予定があった。


 私はその空白を見つめ、静かに息を吐いた。


 いつになるかは、まだ分からない。


 けれど、その日だけは、誰にも決めてもらわない。


 私は、そう決めた。


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