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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
閑章1 王女リカルティール

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【閑章3話】私の知らない予定


王立学院の公開演習は、普段の授業よりも少し面倒だった。


魔法を使うこと自体は同じだし、課題が特別難しくなるわけでもない。けれど、いつもなら教師と生徒しかいない実技場に、王宮の役人や貴族、軍の関係者までやってくる。演習が始まる前には来賓への挨拶があり、終わったあとにも挨拶がある。しかも、そのどちらも魔法の授業よりずっと退屈だった。


つまり、魔法を使っている時間より、その前後の方が長い。


「殿下、本日の演習では、どうか課題の内容をよくご確認ください」


「分かってる」


「以前のように、説明が終わる前に術式を発動なさらないようお願いいたします」


「今日はちゃんと聞くよ」


「本当でございますね?」


「そんなに信用ない?」


教師は答えなかった。


その沈黙は少し失礼だと思う。もっとも、以前に何度か似たようなことをやっているので、強く抗議できないのが悔しいところだった。


私は実技場の中央に立ち、指定された位置を確認した。前方には模擬弾を発射する装置が三基、左右に間隔を空けて並んでいる。装置の周囲には安全確保のための魔法陣が設置され、観覧席との間には厚い防護壁も用意されていた。


本日の課題は複合防御術式だった。


土属性で規定の厚さの防御壁を形成し、風属性の魔法を併用して、複数方向から飛来する模擬弾を防ぐ。壁の大きさと厚さには制限があり、模擬弾をすべて受け止めればよいというものではない。


先日の授業で、土壁を何度も作り直したことを思い出した。


あのときは、指定より少し厚くなるだけでやり直しだった。自分の魔力量なら多少厚くても問題ないと思ったのに、教師は一歩も譲らなかった。正直なところ面倒だったけれど、今回はその訓練が役に立ちそうだった。


「準備はよろしいですか」


「うん」


「それでは、始めてください」


私は足元の地面へ魔力を流した。


指定された位置の土が持ち上がり、横長の壁を形作っていく。高さと厚さを意識しながら魔力を絞り、表面を整えたところで流れを安定させた。以前なら必要以上に厚くしてしまったところだけれど、今日はほぼ指定通りに収まっている。


続いて風属性の術式を展開した。


壁の前面に沿って風を流し、正面から飛んでくるものは受け止め、斜めから来るものは軌道を変える。すべてを壁で受け止めるより、その方が少ない魔力で対処できるし、壁にかかる負担も小さくなる。


「第一射、開始!」


装置から模擬弾が放たれた。


最初の一発は壁の正面へ向かってきたので、そのまま受け止める。続いて左右から飛んできた二発には風を当て、壁の手前で軌道を逸らした。模擬弾は勢いを失い、実技場の地面へ転がっていく。


第二射では三基がほぼ同時に発射した。


私は正面の一発だけを壁で受け、残りを風で逸らした。最後の一発は予想より低い位置へ飛んできたけれど、風の向きを調整して地面へ落とす。ほんの少し魔力を余分に使ってしまったものの、結果には問題ないはずだった。


「終了!」


教師の声が響いた。


私は術式を解除し、持ち上げた土を元の位置へ戻した。実技場には模擬弾がいくつか転がっていたけれど、防御壁の向こう側へ抜けたものは一つもない。


「どう?」


「……成功でございます」


「よかった」


「規定の魔力量も、ほぼ上限内に収まっております」


「ほぼ?」


「最後の風属性の制御に、少々余裕を持たせすぎております」


「でも全部防いだよ」


「それはそうなのですが」


教師が何か言いかけたところで、観覧席から拍手が起こった。


私はそちらへ向き直り、教えられた通りに一礼した。観覧席には満足そうに頷く貴族たちの姿があり、軍服を着た人たちも何やら話し合っている。


演習そのものは、これで終わりだった。


あとは挨拶を済ませれば、今日の予定は終了する。そう思っていたのだけれど、どうやら来賓の方々は、私が予想していた以上に演習を気に入ってくださったらしい。


◇


「見事なものでしたな、リカルティール殿下」


「ありがとうございます」


「土属性と風属性を同時に扱いながら、あれほど正確に防御を行われるとは。王立学院の教育水準の高さにも、改めて感服いたしました」


「先生方のご指導のおかげです」


「ご謙遜を。あの技術が実戦で用いられれば、王国軍にとって大きな力となりましょう」


演習後の挨拶では、そんなことを何度も言われた。


軍服を着た人もいたし、普段は王宮の会食で見かける貴族もいた。皆、私の魔法を褒めてくれるのだけれど、話を聞いているうちに、教師たちとは褒めるところが少し違うことに気づいた。


教師は魔力の制御や術式の組み合わせについて話す。今回なら、壁の厚さを正確に調整できたことや、風魔法を必要な場所にだけ作用させたことが評価の対象になる。


でも、貴族たちが話題にするのは、王国軍や国防、王家の将来についてだった。


「殿下のご才能は、より多くの方に知っていただくべきでしょう」


「いずれは王国の重要な役目を担われるのでしょうな」


「これほどの力を持つ王族がおられるとは、実に心強い」


私は、そのたびに笑顔で礼を言った。


相手が何を期待しているのか分からなくても、失礼のないように応対することはできる。幼い頃から、そういう教育を受けてきたからだ。


ただ、少し不思議だった。


私は魔法の課題をこなしただけだ。軍に入ると言ったこともないし、王国の重要な役目が何なのかも知らない。それなのに、周囲の人たちは、私が将来何かをすることを当然のように話していた。


以前から、魔法が得意だと褒められることは多かった。


でも最近は、褒められたあとに、必ずと言っていいほど将来の話がついてくる。


私が何をしたいのかについては、誰も聞かなかった。


「殿下」


声をかけられて振り向くと、見覚えのある女性が立っていた。


背が高く、姿勢がいい。濃紺の騎士服には王国の紋章が縫い込まれ、腰には剣を下げている。肩まで伸びた髪は邪魔にならないよう後ろでまとめられ、その立ち姿には騎士らしい凛々しさがあった。


「ユリアナ!」


「お久しぶりでございます」


ユリアナ・シュタイナー。


魔法騎士団の副団長で、王家の護衛任務にも携わっている女性だった。


年齢は三十歳。私より十五歳も年上だけれど、子供の頃から顔を合わせる機会があったので、私にとってはあまり遠い存在ではなかった。王宮で会えば挨拶をしてくれるし、時間があるときには魔法や剣術の話も聞かせてくれる。


「今日来てたんだ」


「警備を担当しておりましたので」


「演習、見てた?」


「もちろんです。お見事でした」


「ありがとう」


「ただし、最後の防御壁は少々薄かったように思います」


「えっ」


私は思わず聞き返した。


「ちゃんと全部防いだよ?」


「本日の模擬弾なら、ですね」


「それじゃ駄目なの?」


「課題としては十分です。ただ、実戦では相手が同じ威力の攻撃をしてくれるとは限りません」


「でも、壁を厚くすると規定から外れるよ」


「その通りです。ですから、今回の課題としては正解です」


「じゃあ何で言ったの?」


「実戦では、課題の条件が正しいとは限らないからです」


私は少し考えた。


なるほど。


教師は課題に合格するための方法を教えてくれる。もちろん、それは大切なことだし、魔力の制御を覚えるには必要な訓練なのだろう。


でもユリアナは、課題の外にあることを考えている。


「じゃあ、ユリアナならどうする?」


「私でしたら、最後の模擬弾を受ける前に壁の下部だけ補強いたします」


「途中で厚くするの?」


「はい。全体を厚くする必要はございませんので」


「あ、それなら魔力もあまり使わないね」


「その通りです。ただし、複数の術式を維持しながら壁の一部だけを補強するのは、決して簡単ではありません」


「でも、できると思う」


「殿下なら、そうでしょうね」


ユリアナは微笑んだ。


私はもう一度、実技場の方を見た。課題には合格したけれど、確かに別のやり方もあった。次の授業で試してみたら、教師は何と言うだろう。


「今度やってみる」


「ぜひ。もっとも、課題の条件を無視してよいという意味ではございませんよ」


「分かってるって」


そう答えると、ユリアナは少しだけ笑った。


私は彼女のこういうところが好きだった。


私が王女だからといって、何でも褒めるわけではない。必要だと思えば、きちんと指摘してくれるし、その指摘にはちゃんと理由がある。王宮には私を褒めてくれる人が大勢いるけれど、私がどうすればもっと上達できるのかを考えてくれる人は、それほど多くなかった。


少なくとも、ユリアナは私の魔法を見て、すぐに王国軍の将来について話し始めたりはしなかった。


◇


公開演習から数日後、私の予定表に見慣れない名前が増え始めた。


「……軍務卿?」


「はい。来週、殿下との面会を希望されております」


「私と?」


「左様でございます」


「何で?」


予定表を持ってきた侍女は、少し困った顔をした。


「詳しいことは、ボーマン様からご説明があるかと」


私は改めて予定表に目を通した。


軍務卿の名前のほかにも、貴族の名前がいくつか並んでいる。以前から茶会や会食はあったけれど、今回は少し違った。これまで私が直接会うことの少なかった軍関係者や、王国の重要な役職に就いている人たちが含まれていた。


もちろん、王女である以上、そういう人たちと会うこと自体は不思議ではない。


ただ、公開演習が終わってから急に増えたというのが、どうにも気になった。


私は予定表を持ったまま、ボーマンのところへ向かった。


「ボーマン」


「いかがなさいましたか、殿下」


「私、軍に入るの?」


ボーマンは、私の持っている予定表を見た。


「そのようなことは決まっておりません」


「じゃあ何で軍の人と会うの?」


「先日の公開演習が、大変高く評価されたためでございます」


「評価されたのは分かるけど」


「殿下のお力について、直接お話を伺いたいと考える方々がおられるのです」


「聞いてどうするの?」


「それは、今後のことでございます」


私は予定表へ目を落とした。


「私が何をするか、もう考えてる人がいるってこと?」


「殿下の将来については、以前からさまざまな意見がございます」


「私には誰も聞かないのに?」


ボーマンは、すぐには答えなかった。


彼は昔から、私が質問するときには、なるべく正確に答えようとしてくれる人だった。知らないことは知らないと言うし、答えられないことがあれば、そう説明する。


だからこそ、今の沈黙が少し気になった。


「まだ何かが決定されたわけではございません」


「……うん」


「ですが、王族の将来に関わることは、殿下お一人のお考えだけで決められるものではございません」


「知ってる」


父にも母にも、同じようなことを言われていた。


私が王族として生まれたことも、魔法の才能を持っていることも、自分で選んだわけではない。それでも、王国に対して責任があるのだということは、何度も教えられてきた。


だから、言い返すつもりはなかった。


「分かった。ちゃんと出るよ」


「ありがとうございます」


「その代わり、終わったら少し休ませてね」


「もちろんでございます」


私は予定表を返し、部屋を出た。


ボーマンはいつも通りだったし、私に嘘をついたとも思わない。ただ、聞きたかったことには、結局答えてもらえなかった。


以前は、予定を勝手に決められることが嫌だった。


今は、その予定が何のために組まれているのかさえ、よく分からなくなっていた。


◇


その日の午後、もう一つ知らせがあった。


「しばらくの間、殿下の護衛を担当いたします」


そう言って私の前に立ったのは、ユリアナだった。


「本当?」


「はい。公務の際には、私が同行することになりました」


「やった!」


思わず声が大きくなった。


ユリアナが少しだけ笑う。


「そんなにお喜びいただけるとは思いませんでした」


「だってユリアナと話せるでしょ」


「私は護衛でございますが」


「護衛しながら話せばいいじゃん」


「職務に支障のない範囲であれば」


「じゃあ大丈夫だね」


「……殿下」


ユリアナは小さくため息をついたけれど、嫌そうではなかった。


私は素直に嬉しかった。


最近は軍関係者との面会も増えていたし、知らない人と話す機会も多かった。ユリアナがそばにいてくれるなら、それだけで少し気が楽になる。


しかも、彼女は魔法について詳しい。公務の合間に、先日の演習で話した防御壁の改良について相談することもできるかもしれない。


「ところで、何でユリアナが護衛になったの?」


「今後、殿下が公務で外出される機会が増えるため、警護体制を見直すことになったそうです」


「今までも護衛はいたよ?」


「もちろんです。ただ、軍関係者との面会や公式行事が増えますので、私が担当する方が都合がよいと判断されたのでしょう」


「ふうん」


私は頷いた。


理由としては納得できる。


でも、よく考えてみれば、護衛が増えるということは、それだけ一人で行動しにくくなるということでもあった。


王宮の外へ出るときには必ず誰かがついてくるし、立ち寄る場所もあらかじめ決められている。以前からそうだったけれど、これからはさらに厳しくなるのかもしれない。


もっとも、そのときの私は、ユリアナと一緒にいられることの方が嬉しかった。


◇


「兄上」


「何だ」


ある日の夕方、私はヴィルヘルム兄上を見つけて声をかけた。


兄上は執務室から出てきたところで、腕には何枚かの書類を抱えていた。最近は以前より忙しそうで、学院の授業を見に来てくれることも少なくなっていた。


「ちょっと聞いていい?」


「構わんが、歩きながらでもいいか」


「うん」


私は兄上の隣を歩いた。


「私の魔法って、軍で使うことになるの?」


兄上がこちらを見た。


「誰かに何か言われたのか?」


「最近、軍の人と会うことが増えたから」


「なるほど」


「公開演習でも、王国軍の役に立つって言われた」


兄上は少し考えた。


「お前の魔法が、軍にとって価値のあるものなのは確かだ」


「うん」


「だが、今すぐ軍務に就くという話ではない」


「じゃあ、将来は?」


「それは分からん」


「兄上も?」


「俺もだ」


私は少し安心した。


兄上が知らないのなら、まだ具体的な話が進んでいるわけではないのかもしれない。少なくとも、私だけが何も知らされていないということではなさそうだった。


でも、兄上はそこで話を終えなかった。


「ただ、国が必要とするなら、王族として力を貸すことは考えなければならない」


「私も?」


「当然だ」


「でも、私がやりたくなかったら?」


兄上は足を緩めた。


「内容にもよるだろう」


「例えば?」


「王国が危機に陥ったとき、お前にしかできないことがあるかもしれない」


「それは分かるけど」


「なら、今から考えておくことは悪いことではない」


兄上の言っていることは正しかった。


国が危険なときに、自分だけ好きなことをしていていいとは思わない。魔法で誰かを助けられるなら、私だって助けたい。


ただ、それと軍で働くことは、同じなのだろうか。


「でも、ずっと軍で働くことになったら?」


「そう決まったわけではない」


「じゃあ、ならないかもしれない?」


「もちろんだ」


「……そっか」


私は頷いた。


兄上は私の頭に軽く手を置いた。


「心配するな。まだ先の話だ」


「うん」


そう答えたけれど、あまり安心できなかった。


兄上は嘘をついていないと思うし、私のことを心配してくれているのも分かる。でも、少し前に魔法の授業を見に来てくれたときとは、話し方が違っていた。


あのときの兄上は、私が手を抜くことを嫌がった。


今日は、私の魔法を王国のために使うことについて話していた。


どちらも兄上の本当の考えなのだろう。王位を継ぐ立場にある兄上なら、そう考えるのも当然なのかもしれない。


ただ、私にはその二つが、どうつながっているのか分からなかった。


◇


ハインリヒ兄上にも、似たようなことを聞かれた。


「リカ、来週は誰と会うんだ?」


「軍務卿と、あと何人か」


「何人かって誰だよ」


「名前覚えてない」


「予定表見せてみろ」


私は持っていた予定表を渡した。


ハインリヒ兄上は、そこに書かれた名前を順番に見ていった。普段なら面倒そうに眺めるだけなのに、その日は何度か同じところへ目を戻していた。


「……なるほどな」


「何が?」


「いや、別に」


「絶対何かあるでしょ」


「あるかもしれないな」


「何?」


「その場で余計な約束をするなよ」


「そんなことしないよ」


「お前、興味を持つとすぐ返事するだろ」


「……それはそうだけど」


「だから気をつけろ」


兄上は予定表を返してきた。


「何で?」


「面倒になるから」


「またそれ?」


「便利な言葉だろ」


「全然便利じゃない」


私は少しむっとした。


「兄上、最近そういうことばっかり言う」


「そうか?」


「そうだよ。気をつけろとか、目立つなとか、約束するなとか」


「大事なことだぞ」


「だったら理由も教えてよ」


ハインリヒ兄上は、しばらく私を見ていた。


いつものように冗談を言ってごまかすのかと思ったけれど、すぐには口を開かなかった。兄上がこんなふうに黙るのは珍しい。


「リカ」


「何?」


「お前は、今まで通りでいい」


「……何それ」


「変に気を回さなくていいってことだ」


「じゃあ、何で気をつけろって言うの?」


「気をつけるのと、気を回すのは違う」


「また違うって言った」


「違うものは違うんだよ」


兄上は笑った。


私も、つられて少し笑った。


でも、知りたかったことは結局分からなかった。


ヴィルヘルム兄上も、ハインリヒ兄上も、私を心配してくれている。それは分かるし、二人が急に冷たくなったわけでもない。


ただ、最近は二人とも、私に何かを教えようとするときほど、肝心なところを話してくれない気がした。


王宮には、私の知らないことがたくさんある。


それは昔から分かっていた。


でも以前は、分からないことがあれば兄たちに聞けばいいと思っていた。最近は、その兄たちに聞いても、分からないことが増えていた。


◇


冒険者を見かけたのは、それから数日後のことだった。


その日は王都での公務があり、ユリアナと護衛騎士たちが同行していた。


マリアベルクは、王国の北部に位置する港湾都市だった。北にはヴェルミニア海が広がり、港には王国各地や海の向こうから商船が集まってくる。港から運び込まれた荷物は市場へと流れ、そこから陸路で王国内の各都市へ運ばれていく。


王宮の窓からも港の一部は見えるけれど、実際に街へ出ると、その賑わいはずいぶん違って感じられた。


石畳の通りには荷馬車が行き交い、商人たちが大きな声で客を呼んでいる。港から吹いてくる風には潮の匂いが混じり、通りの向こうには荷物を運ぶ人たちの姿も見えた。


私はこういう場所が好きだった。


王宮では見かけないものがたくさんあるし、人々が何をして暮らしているのかも分かる。以前は外出するたびに、あの店に寄りたい、この商品を見たいとお願いして、護衛の人たちを困らせていたものだった。


もっとも、今日は公務の帰りだったので、寄り道はできない。


予定されていた訪問を終え、馬車へ戻る途中、通りの向こうから賑やかな声が聞こえてきた。


「だから南だって。あっちの街なら仕事が多いらしいぞ」


「でも遠いだろ。東の街の方が近いし、報酬も悪くない」


「東は魔物が増えてるって話じゃなかったか?」


「だから依頼が増えてるんだろ」


私は足を止めた。


声の主は、三人組の男女だった。


革鎧を着た男が二人と、弓を背負った女性が一人。服には泥がついていて、武器にも使い込まれた跡がある。王宮に出入りする騎士たちとは、ずいぶん違う格好だった。


「ユリアナ、あの人たちは?」


「冒険者でしょう」


「冒険者?」


「はい。依頼を受けて魔物の討伐や護衛などを行う者たちです」


「騎士とは違うの?」


「違いますね。騎士は国や主君に仕えますが、冒険者は基本的に個人で仕事を請け負います」


私は、もう一度三人組を見た。


彼らはまだ行き先について話していた。


「南は宿代が高いんだよ」


「じゃあ東にするか?」


「俺はそれでもいいぞ」


「なら決まりだな」


あっさり決まった。


さっきまで言い争っていたのに、三人は笑いながら歩き出した。どうやら、どちらの街へ行くかは、それほど大きな問題ではなかったらしい。


私には、それが少し不思議だった。


「……あの人たち、次にどこへ行くか自分で決めてるの?」


「そういう職業ですから」


「誰かに命令されないの?」


「依頼を受ければ、依頼主との約束は守らなければなりません。ただ、どの依頼を受けるかは本人たちが決めます」


「そうなんだ」


私は少し考えた。


「じゃあ、行きたい街があったら、そこへ行っていいの?」


「旅費や仕事の都合はあるでしょうが、基本的には」


「王都に住まなくてもいい?」


「はい」


「国の外にも?」


「もちろんです。ただし、国境を越えるには手続きが必要な場合もございます」


私は、遠ざかっていく三人の背中を見送った。


別に、特別立派な人たちには見えなかった。服は汚れていたし、持ち物も少なかった。王宮で見かける貴族のように高価な装飾品を身につけているわけでもないし、護衛を連れているわけでもない。


それでも、あの三人は自分たちで行き先を決めていた。


誰かに許可を求める様子もなく、明日の予定を確認する人もいない。意見が分かれれば話し合い、納得したら決める。


それだけのことだった。


でも、私にはその光景が妙に印象に残った。


「ユリアナは、冒険者になろうと思ったことない?」


「ございませんね」


「どうして?」


「私は騎士になりたかったので」


「自分で決めたの?」


「はい」


私は少し驚いた。


「誰かに言われたんじゃなくて?」


「もちろん、家族から勧められたことはございました。ですが、最後に決めたのは私です」


「……そうなんだ」


ユリアナは私を見た。


「どうかなさいましたか?」


「ううん」


私は首を振った。


ユリアナが騎士であることは知っていたし、その仕事に誇りを持っていることも、普段の様子から分かっていた。


でも、騎士になることを自分で決めたのだとは、今まで考えたことがなかった。


「じゃあ、今の仕事が嫌になったら辞められる?」


ユリアナは少しだけ笑った。


「簡単ではございませんね」


「何で?」


「騎士にも責任があります。自分で選んだからといって、好きなときに放り出してよいわけではございません」


「そっか」


「それに、私は今の仕事を誇りに思っております」


ユリアナはそう言って、背筋を伸ばした。


その姿が、少し羨ましかった。


自分で選んだ仕事。


その仕事に誇りを持っている。


私は王女として生まれた。


それを恥ずかしいと思ったことはないし、王家の一員であることを誇りに思ってもいる。父や母のことも尊敬しているし、兄たちのように国のために働く人たちが立派だということも分かっている。


でも、王女になることを選んだわけではなかった。


ユリアナのように、自分で決めた道を歩いている人を見ると、何だか少し不思議な気持ちになった。


◇


その日の夜、私は王宮の図書室へ向かった。


冒険者について書かれた本を探すためだった。


最初は、どの棚にあるのか分からなかった。


歴史でもないし、魔法学でもない。職業についての資料をまとめた棚を探して、ようやく何冊か見つけた。


冒険者ギルドの仕組み、依頼の種類、報酬の決まり方、階級制度、危険な魔物の生息地域。思っていたより資料は多く、冒険者が王国の経済や街道の安全にも関わっていることが分かった。


私は机に本を広げ、順番に読んでいった。


冒険者というのは、想像していたより大変な仕事だった。


魔物を倒せば報酬がもらえるけれど、怪我をしても治療費が出るとは限らない。依頼に失敗すれば報酬を受け取れないこともあるし、場合によっては違約金を払わなければならない。


街から街へ移動するにもお金がかかる。宿代も、食事代も、自分で払わなければならないし、旅の途中で荷物を失えば、その損失も自分で負担することになる。


魔物に襲われて命を落とす人もいる。


それを読んで、少し怖くなった。


私は王宮で暮らしている。


食事は毎日用意されるし、怪我をすれば医師が来る。必要な本があれば、頼めば大抵は手に入るし、雨の日に外へ出る必要もない。


冒険者になれば、そういうものは全部自分でどうにかしなければならない。


そんな生活が楽しいとは、簡単には思えなかった。


それでも、気になることがあった。


冒険者は、依頼を選べる。


どの街で暮らすかも、基本的には自分で決められる。仕事を受けない日があってもいいし、十分なお金があれば、しばらく旅をして過ごすこともできる。


もちろん、仕事をしなければお金は減る。危険な依頼を避け続ければ、生活が苦しくなるかもしれない。


だから本当の意味で、何でも自由というわけではないのだろう。


でも、少なくとも、自分の予定を自分で考えることができる。


私は、そこが気になった。


翌日も図書室へ行った。


その次の日も、時間があれば足を運んだ。


冒険者について書かれた本を読み終えると、今度は王国外の地理や街道について調べ始めた。王都から南へ進めば、どんな街があるのか。東の国境までは何日かかるのか。海を渡る船は、どこの港へ向かうのか。


マリアベルクはヴェルミニア海に面した港湾都市だった。


北へ向かえば、やがて街道は港へと行き着く。そこから先には陸路ではなく海路が広がり、商船は沿岸の都市や海の向こうの国々へと向かっていく。


南へ延びる街道は王国内の主要都市を結び、東や西にも交易路が続いていた。


私は地図の上で、それらの道を何度も確かめた。


地理の授業では、交易路や国境の位置を覚えることが目的だった。どの都市がどんな産物を扱い、どの街道が軍事的に重要なのか。そういうことを知るのは、王族にとって必要な教養だと教えられていた。


でも、今は少し違う。


その街には実際に人が住んでいて、店があって、宿がある。


街道を進めば、そこへ行くことができる。


港で船に乗れば、海の向こうへだって行ける。


私は、そんな当たり前のことを、初めて自分のこととして考え始めていた。


◇


「殿下、今日は赤のお召し物でございます」


「うん」


「……よろしいのですか?」


「何が?」


「以前でしたら、青がよいと仰っていたかと」


「今日は赤なんでしょ?」


「はい」


「じゃあ赤でいいよ」


侍女は少し驚いていた。


でも、すぐに嬉しそうな顔になった。


「殿下も、ずいぶん大人になられましたね」


「そうかな」


「はい」


私は笑った。


別に、服の色がどうでもよくなったわけではない。


ただ、そこで文句を言っても、結局は決められた服を着ることになる。それなら、最初から文句を言わない方が早い。最近は、そう考えることが増えていた。


魔法の授業も同じだった。


課題を早く終わらせても、次の課題が出てくる。自由時間が欲しいと言えば、その時間に別の勉強を入れられることもある。


だったら、最初からそのつもりでいればいい。


公務も同じだ。


予定表に書かれているなら、出席する。誰と会うのか、何を話すのか。必要なことだけ覚えておけばいい。


私は以前より、王女らしく振る舞うようになった。


少なくとも、周囲の人たちにはそう見えたらしい。


「最近の殿下は、落ち着いていらっしゃいますね」


ある日、ユリアナにそう言われた。


「そう?」


「はい。以前でしたら、街へ出るたびに何か面白いものを見つけておられましたのに」


「今は予定があるから」


「それは以前も同じだったかと」


「……そうだっけ」


「はい」


ユリアナは少し不思議そうにしていた。


私は、何となく視線を逸らした。


確かに、以前の私は街へ出るたびに、あれを見たい、これを食べたいと騒いでいた。護衛の人たちを困らせることもあったし、ボーマンに叱られたこともある。


でも、最近はそういうことを言わなくなっていた。


街に興味がなくなったわけではない。


むしろ、以前よりずっと興味があった。


ただ、今の私は、決められた時間の中で少し寄り道することよりも、街そのものについて知りたいと思っていた。


そこにはどんな人が住んでいて、どんな仕事をしているのか。


王都を離れたら、どんな暮らしが待っているのか。


そういうことを考える方が、ずっと面白かった。


「殿下?」


「何でもない」


私は笑って答えた。


ユリアナはそれ以上聞いてこなかった。


別に、彼女に隠し事をしているつもりはなかった。


ただ、冒険者の本を読んでいることや、王国の地図を眺めていることを、わざわざ話す必要もないと思っていた。


それに、話したところで何と言えばいいのか分からなかった。


冒険者になりたい。


そう言うには、まだ自分でもよく分かっていない。


王宮から出たい。


それは、もっと言いにくかった。


私は王女だった。


家族に大切にされ、最高の教育を受け、何不自由なく暮らしている。少なくとも、周囲の人たちはそう思っているし、私自身も恵まれていることは理解していた。


そんな私が、外へ出たいと言えば、きっと理由を聞かれる。


何が不満なのか。


何が足りないのか。


もっと自由な時間が欲しいのなら、予定を調整しようと言われるかもしれない。


でも、そういうことではなかった。


私は、誰かに決めてもらった自由な時間が欲しいわけではない。


自分で何をするのかを決めてみたかった。


それをうまく説明できる自信がなかったし、説明したところで理解してもらえるとも思えなかった。


◇


「最近は、ずいぶんと熱心に地理を学んでおられるようですね」


ボーマンにそう言われたのは、図書室から戻る途中だった。


「うん」


「王国外の地理にも、ご関心がおありとか」


「王女なら、他の国のことも知っておかなきゃいけないでしょ?」


「おっしゃる通りでございます」


「じゃあいいじゃん」


「もちろんでございます」


ボーマンは、いつも通りの顔をしていた。


でも、少しだけ気になった。


「何?」


「何がでございましょう」


「何か言いたそう」


「いえ。最近は予定についてのご不満も、あまり仰らなくなりましたので」


「私だって成長するよ」


「左様でございますか」


「そうだよ」


「それは結構なことでございます」


ボーマンは、そこで話を終えた。


私は少し拍子抜けした。


もっと何か聞かれると思ったのに、彼はそれ以上何も言わなかった。


ただ、別れ際に一つだけ言った。


「殿下」


「何?」


「何かお困りのことがございましたら、いつでもお申し付けください」


「……うん」


「私にできることであれば、力になりましょう」


「ありがとう」


私は笑った。


ボーマンも、ほんの少しだけ表情を緩めた。


それで話は終わった。


私はそのまま自分の部屋へ戻った。


ボーマンが何を考えていたのかは、分からない。


ただ、あの人は昔から、私が何かを隠しているときほど、無理に聞き出そうとはしなかった。


子供の頃、授業をさぼって庭園へ遊びに行ったときもそうだった。


ボーマンは、私がどこへ行っていたのかを最初から知っていたらしい。それなのに、戻ってきた私をすぐに叱るのではなく、まず何をしていたのかを聞いてきた。


私が正直に話すと、授業をさぼったことについてはきちんと叱られた。


でも、庭園で見つけた珍しい花の話には、最後まで付き合ってくれた。


あの人は、私が何をしたのかだけでなく、どうしてそうしたのかを知ろうとしてくれる。


だから、少しだけ怖かった。


もし、今の私が何を考えているのかを聞かれたら。


私は、ちゃんと答えられるのだろうか。


◇


その夜、私は机の上に王国の地図を広げた。


王都マリアベルク。


その北には、ヴェルミニア海が広がっている。


港から船に乗れば、沿岸の都市へ行けるし、さらに遠くの国へ向かうこともできる。海路は天候に左右されるし、航海には危険もあるけれど、港には毎日のように商船が出入りしていた。


南へ延びる街道は、王国内の主要都市を結んでいる。


東にも西にも道があり、その先には国境があった。


私は指で街道をなぞった。


ここを進めば、次の街へ行ける。


さらに進めば、別の街へ行ける。


国境を越えれば、マリアベル王国ではない場所へも行ける。


もちろん、簡単なことではない。


旅にはお金が必要だし、道中には危険もある。私は王宮の外で一人暮らしをしたこともないし、宿の取り方だって詳しくは知らなかった。


冒険者について調べるうちに、知らないことがいくつも見つかった。


食事をするにも、宿に泊まるにも、お金が必要になる。街から街へ移動するときには、道の安全や天候にも気を配らなければならない。


王宮では、そういうことを考える必要がなかった。


誰かが予定を組み、必要なものを用意してくれる。


私はその予定に従っていればよかった。


それは、とても恵まれた生活なのだと思う。


でも、もし自分で決められるのなら。


どの街へ行くのか。


何をして働くのか。


どこで暮らすのか。


そういうことを、一度くらい自分で考えてみたかった。


私は地図の上に置いた指を動かした。


南へ延びる街道をたどり、途中の街で止める。そこから東へ進めば、別の街へ行ける。さらに道をたどっていけば、王国の外へも出られる。


地理の授業では何度も見た道だった。


でも、今は少し違って見えた。


明日の予定表には、朝から授業があり、午後には貴族との面会が入っている。その次の日も、予定は埋まっていた。


私はそれをきちんと確認した。


遅刻するつもりはないし、授業をさぼるつもりもない。王女としてやらなければならないことは、今まで通りやるつもりだった。


ただ、その予定表の隣には、誰にも見せていない地図があった。


私はしばらく、地図の上に描かれた街道を眺めていた。


もし、次にどこへ行くのかを自分で決められるなら。


そんなことを考えたのは、たぶん、その夜が初めてだった。


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