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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第2章】脱走王女は恋をする

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第25話 帰る場所


タクマのD級昇格の審査が始まってから、一週間ほどが経った。


その間も、私たちの生活は特に変わらなかった。朝になればギルドへ顔を出し、手頃な依頼があれば引き受ける。依頼がなければ、タクマはハーケンのところへ剣の稽古に行き、私は魔法の練習をしたり、家の用事を片づけたりしていた。


タクマは審査の結果が気になっているようだったけれど、自分からその話を持ち出すことはほとんどなかった。ただ、ギルドへ行くたびに受付の方をちらちら見ているので、気になっていることは丸分かりだった。


今日もそうだった。


依頼掲示板の前に立ちながら、タクマは何度目か分からない視線を受付へ向けている。私も隣で依頼書を眺めていたけれど、さっきから彼の目線が気になって、内容があまり頭に入ってこない。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「そんなに気になるなら、エリナに聞いてみれば?」


「……何が?」


「昇格の結果」


タクマは一瞬黙った。それから、少し困ったように笑う。


「……そんなに分かりやすい?」


「うん。すごく」


「……まいったな」


彼は頭をかいた。


「いや、催促するのも悪いかなって思ってさ。審査って時間がかかるんだろ?」


「まあね。でも、聞くくらいなら別にいいと思うよ」


「……もう少し待つよ」


そう言いながら、また受付を見る。


私は思わず笑ってしまった。


こういうところは、ちょっと可愛いと思う。本人に言えば、きっと嫌がるだろうけれど。


そんなことを考えていると、ちょうど受付にいたエリナがこちらに気づいた。


「あ、リカ。タクマもちょっと来て」


エリナは手元の書類を一枚取り出し、私たちを手招きした。


「ちょうどよかった。二人に話があったんだ」


「……何かあった?」


タクマが尋ねる。


エリナは少しだけ笑った。


「例の昇格審査、結果が出たよ」


タクマの表情が変わった。


「……本当?」


「うん。ギルド長の承認も下りたし、手続きは全部終わってる」


エリナは書類をこちらへ向けた。


「タクマ・イザワ。これまでの依頼実績と、商隊護衛での働き、それから先日の灰牙狼討伐での評価を踏まえて、D級への昇格が認められました」


少しだけ改まった口調で告げたあと、エリナはにっこり笑った。


「おめでとう、タクマ。今日からD級冒険者だよ」


タクマは、しばらく何も言わなかった。


それから、ゆっくりと息を吐く。


「……そっか」


彼は少し照れくさそうに笑った。


「……よかった」


「やったね、タクマ!」


私は思わず彼の腕を取った。


「うん。ありがとう、リカ」


タクマは笑って、私の方を見る。


その顔を見ていると、私まで嬉しくなってくる。


最初にギルドへ連れてきた頃は、この世界の文字も冒険者の仕組みも分からず、何をするにも私に尋ねていたタクマ。それでも、最初から頼りない人だったわけではない。剣を握れば基本的な動きはできたし、体力もあった。人と話すのも上手で、初対面の相手とも自然に会話を始められる。私が知らない考え方を持っていて、驚かされることだって何度もあった。


ただ、それまで身につけてきたものを、この世界でどう活かせばいいのか分からなかったのだと思う。剣術も魔法も、冒険者の仕事も、覚えなければならないことは山ほどあった。そんな中で、タクマは自分にできることを探しながら、少しずつ経験を積んできた。


今日の昇格は、そうして積み重ねてきた努力が認められたということなのだろう。


「それで、タクマ。少し説明しておくね」


エリナが書類を置いた。


「D級になると、受けられる依頼の幅が広がるよ。討伐や護衛の仕事も、今までより選択肢が増えると思う」


「……うん」


「ただし、危険度が上がる分、判断も慎重にね。無理だと思ったら依頼を断るのも冒険者の仕事だから」


「分かった。気をつけるよ」


タクマは真面目にうなずいた。


エリナは満足そうに笑うと、受付の奥から新しい冒険者証を取り出した。


「はい。これが新しい冒険者証」


タクマはそれを受け取った。彼の名前と、D級を示す刻印が入っている。


「……本当にD級なんだな」


「何言ってるの。さっきからそう言ってるでしょ」


「いや、何か実感がなくて」


「まあ、気持ちは分かるけどね」


エリナは笑った。


「これで、リカの荷物持ちって言われることも減るんじゃない?」


「……いや、荷物はこれからも持つけどな」


「そこは変わらないんだ?」


「買い物に行ったら、重い方を持つのは普通だろ」


私は思わず吹き出した。


「それは助かるなあ」


「だろ?」


タクマも笑う。


エリナは呆れたように肩をすくめた。


「はいはい。仲がよろしいことで」


*


昇格の手続きを終えて受付を離れると、ちょうどギルドの入口からフリーダとクルシュが入ってきた。


「お、リカ! タクマ!」


フリーダが大きく手を振る。その隣では、クルシュも笑っていた。


「おはようございます」


「おはよう。二人とも」


私が答えると、フリーダはタクマの手元にある冒険者証へ目を向けた。


「ん? それ、新しいやつか?」


「はい。さっき昇格が決まって」


「おおっ! D級か!」


フリーダは嬉しそうにタクマの肩を叩いた。


「やるじゃないか! 思ったより早かったな!」


「ありがとうございます」


「よし! 今日は飲むぞ!」


「……フリーダ」


クルシュがすかさず口を挟んだ。


「昨日も飲んでたでしょ」


「昨日は少しだけだ!」


「……その少しだけって、何杯?」


「…………」


フリーダは目を逸らした。


私は思わず笑ってしまった。


「この前、二日酔いで依頼に来られなかったばっかりじゃない」


「……あれはちょっと調子に乗っただけだ」


「ちょっと?」


「……少し、かな」


クルシュが深いため息をついた。


「フリーダ。エリナさんにも注意されたんだから、もう少し気をつけようよ」


「分かってるって!」


そう言いながら、フリーダはタクマの肩を抱いた。


「まあ、今日はめでたい日なんだし、細かいことはいいじゃないか!」


「……それ、毎回言ってない?」


クルシュの言葉に、フリーダは聞こえないふりをした。


タクマは苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。


私も嬉しかった。


最初の頃、タクマはギルドの中でほとんど知り合いがいなかった。私の後ろについて歩き、話しかけられても少し戸惑っていた。でも、今は違う。フリーダもクルシュも、彼を当たり前のように仲間として扱っている。ギルドの職員たちも顔を覚えているし、依頼で知り合った冒険者たちから声をかけられることも増えた。


もう、私が連れてきた見知らぬ人ではない。


タクマは、この街の冒険者になったのだ。


「……ところで、皆さん」


そんな私たちに、背後から声がかかった。


振り返ると、そこにはアルブレヒトが立っていた。


「おや、アルブレヒト」


「おはようございます、リカさん。本日もお美しい」


「……おはよう」


相変わらずの挨拶だった。


アルブレヒトはタクマへ視線を向ける。


「聞きましたよ。D級へ昇格されたそうですね」


「はい。おかげさまで」


「ふむ。まあ、まだまだ私の足元にも及びませんが、昇格は昇格です。おめでとうございます」


「ありがとうございます」


タクマは素直に頭を下げた。


アルブレヒトは少し拍子抜けしたような顔をしたけれど、すぐに胸を張った。


「ですが、これで満足しないことです。D級など、まだ冒険者としては入口に過ぎませんからね」


「はい。これからも頑張ります」


「……ふむ」


アルブレヒトは腕を組んだ。


私は思わず笑いそうになった。


この二人、相変わらず噛み合っているようで噛み合っていない。アルブレヒトはタクマに張り合ってほしいのだろうけれど、タクマにはそのつもりがないらしい。


ふと、私は気づいた。


「そういえば、今日は一人なの?」


いつもならアルブレヒトの後ろには、彼のパーティの仲間たちがいる。けれど、今日は誰もいなかった。


アルブレヒトは少しだけ表情を変えた。


「ええ。実は、しばらくノヴァグラードを離れることになりまして」


「……え?」


「ザクセンブルグ本国からお呼びが掛かってしまってね。私も公爵家の人間ですから、時には家の務めを果たさねばなりません」


彼は肩をすくめた。


「どうやら、急ぎの用件らしくて。詳しいことは戻ってから聞くことになりますが」


「そうなんだ……」


私は少し驚いた。


アルブレヒトが公爵家の人間であることは知っていたけれど、普段は冒険者として活動しているので、あまり意識したことがなかった。


貴族の家というのは、色々と面倒なことがあるものだ。


……まあ、私が言えたことじゃないけど。


「それで、いつ出発するの?」


「明日の朝には。仲間たちにも話は済ませてあります」


「そっか。急なんだね」


「ええ。ですが、これも家の務めですから」


アルブレヒトは少し残念そうに笑った。


それから、何かを思いついたように顔を上げる。


「……そうだ。どうです、リカさん。よろしければ、私とご一緒に」


「お断りします」


「……つれないですねえ」


アルブレヒトは苦笑した。


フリーダが横で吹き出す。


「相変わらずだな、お前!」


「……何がです?」


「いや、別に!」


フリーダは笑いをこらえていた。


アルブレヒトは少し不満そうだったけれど、すぐにタクマへ向き直った。


「タクマ君」


「はい?」


「私の留守中に、少しは腕を上げておくことです」


「……はい。次に会うときには、もう少しまともに戦えるようになっておきます」


「……期待していますよ」


アルブレヒトは一瞬だけ真面目な顔になった。


けれど、すぐに付け加える。


「もっとも、リカさんのことを諦めたわけではありませんがね!」


「……それは困りますね」


タクマが苦笑する。


私は呆れながらも、少しだけ笑ってしまった。


「まあ、気をつけて帰ってね」


「ありがとうございます、リカさん」


アルブレヒトは優雅に一礼した。


「それでは、またお会いしましょう」


そう言って、彼はギルドを出ていった。


私はその背中を見送った。


何だかんだで、少し寂しくなるかもしれない。


……少しだけだけど。


*


その後、私とタクマは依頼掲示板の前へ戻った。


せっかくD級になったのだから、次に受ける依頼を考えようということになったのだ。


タクマは掲示されている依頼書を一枚ずつ確認している。以前なら私が内容を読み上げていたけれど、今は自分で読めるようになっていた。文字を覚えるのには随分苦労していたから、こうして当たり前のように依頼書を読んでいる姿を見ると、少し不思議な気持ちになる。


「……これ、どうかな」


彼が指さしたのは、街道沿いの魔獣討伐と安全確認の依頼だった。


最近、ノヴァグラードの東側にある街道で小型の魔獣が目撃されているらしい。商人たちからの報告が増えているため、周辺の調査と必要に応じた討伐を行ってほしいという内容だった。


推奨等級はD級以上で、報酬も悪くない。移動距離もそれほど長くなく、二人で受けるにはちょうどよさそうだった。


「うん。いいと思うよ」


私はうなずいた。


「移動距離もそんなに長くないし、二人でも十分対応できそうだね」


「そうだよな。じゃあ、これにしようか」


タクマは依頼書を掲示板から外した。


私はその様子を見ながら、少し前のことを思い出していた。


最初にタクマをギルドへ連れてきた頃は、こちらの文字を覚え始めたばかりだったので、依頼書の内容は私が説明していた。けれど今では、自分で条件を確認し、危険度や報酬を比較しながら仕事を選んでいる。元々、そういう判断は得意な人だったのだろう。必要な知識が身についたことで、タクマらしさが冒険者の仕事にも表れるようになっていた。


「……リカ?」


タクマが不思議そうにこちらを見た。


「どうした?」


「ううん。何でもない」


私は笑った。


「ちょっと、成長したなあって思って」


「……何だよ、それ」


タクマは少し照れくさそうに笑った。


「まだまだだよ」


「うん。まだまだだね」


「……そこは否定してくれよ」


「だって、本当でしょ?」


私は笑った。


タクマも苦笑した。


私たちは翌日の依頼を予約し、ギルドを後にした。


*


その夜は、タクマのD級昇格を祝うことにした。


といっても、特別なことをするわけではない。いつもより少し豪華な夕食を作って、二人でゆっくり過ごすだけだ。


タクマが料理を担当し、私は食卓の準備をする。


最近は、こういう役割分担がすっかり定着していた。タクマは料理が得意だし、私も彼の作る食事が好きなので、特に不満はない。もちろん、私だって料理くらいできるけれど、彼の方が手際がいいのは認めざるを得なかった。


「リカ、皿取ってくれる?」


「はーい」


私は棚から皿を取り出し、テーブルへ並べた。


今日の夕食は、肉をたっぷり使った煮込み料理と、焼きたてのパン。それから、街で買ってきた少し高いチーズと果物もある。


タクマは料理を運びながら、満足そうにうなずいた。


「よし。こんなもんかな」


「おお、豪華!」


「昇格祝いだからな」


「自分で作ってるけどね」


「……まあ、そうなんだけど」


タクマは笑った。


私たちは席につき、食事を始めた。


いつもより少し高いお酒も開けたけれど、今日は二人とも飲みすぎないことにした。明日は依頼があるし、フリーダみたいになっては困る。


……本人が聞いたら怒るだろうけど。


「……それにしても」


タクマが料理を口に運びながら言った。


「まさか俺が冒険者になるとは思わなかったな」


「そうだねえ。最初は冒険者の仕事なんて、何も知らなかったもんね」


「そりゃそうだろ。俺の世界には魔獣なんかいなかったんだから」


「でも、剣は最初からそれなりに使えてたよね」


「まあ、剣道はやってたからな。ただ、こっちの剣術とは勝手が違ったけど」


「ハーケンにも、ずいぶんしごかれてたもんね」


「あの人、容赦ないからなあ……」


タクマは苦笑した。


「でも、最初にハーケンさんのところへ行ったとき、剣道をやっててよかったって思ったよ。まったく経験がなかったら、もっと大変だっただろうし」


「うん。それはそうだと思う」


私はうなずいた。


タクマは最初から、剣の構え方や間合いの取り方をある程度知っていた。もちろん、魔獣を相手にする戦い方は人間同士の剣術とは違うし、実戦では戸惑うことも多かったけれど、基礎がある分だけ上達も早かった。


それに、タクマの強みは剣だけではない。商隊護衛でも、商人たちとの会話や道中の気配りでずいぶん頼りにされていたらしい。私が教えた覚えのないことまで自然にできるのだから、元の世界での仕事も、きっと彼にとって大切な経験だったのだろう。


「……そういえばさ」


タクマが言った。


「俺、リカに会ってなかったら、どうなってたんだろうな」


「……どうだろうね」


私は少し考えた。


「別の誰かに助けてもらってたかもしれないし、どこかの街で働いてたかもしれないね」


「……そうだな」


タクマはうなずいた。


「でも、冒険者にはなってなかった気がする」


「そう?」


「うん。少なくとも、こんなに早くは無理だったと思う」


彼は少し笑った。


「だから、ありがとう。リカ」


私は一瞬、言葉に詰まった。


「……どういたしまして」


それから、少し照れくさくなって笑った。


「でも、頑張ったのはタクマだよ。私はちょっと手伝っただけ」


「ちょっと、ってレベルじゃないだろ」


「そうかな?」


「そうだよ」


タクマは笑った。


私もつられて笑う。


この世界に来てからのタクマは、覚えることばかりだった。ハーケンから剣術を習い、私から魔法を学び、ギルドでは依頼の受け方や冒険者としての決まりを覚えた。最初は私が教えることの方が多かったけれど、最近ではタクマから教わることもある。


特に、人との話し方は上手いと思う。相手の話をよく聞くし、意見が違ってもすぐには否定しない。必要なときには自分の考えもきちんと伝える。私だったら面倒になって魔法で何とかしてしまいそうな場面でも、タクマはまず話し合おうとするのだ。


そんな彼だからこそ、私も一緒にいて楽しいのだと思う。冒険者としての経験はまだ私の方がずっと多いけれど、だからといって、何でも私の方が優れているわけではない。


こんなふうに、何でもない話をしながら食事をする時間が好きだった。冒険者の仕事は楽しいけれど、危険もある。依頼によっては何日も家を空けることもあるし、帰ってきたときには疲れ果てていることもある。だからこそ、こうして家でゆっくり食事をする時間は大切だった。


食事を終えたあと、私たちは少しだけ外へ出ることにした。


*


夜の森は静かだった。


家の周りには木々が広がり、遠くにはノヴァグラードの街明かりが見える。昼間は鳥の声や風の音で賑やかな森も、夜になるとずいぶん落ち着いた雰囲気になる。


私たちは家の前に並んで立ち、しばらく夜風に当たっていた。


「……なあ、リカ」


タクマが口を開いた。


「ん?」


「色々あったけどさ」


彼は少し考えてから続けた。


「俺、この世界がもうだいぶ好きだ」


私はタクマを見た。


「……そうなの?」


「うん」


タクマは笑った。


「最初は、何が何でも日本に帰りたいと思ってたんだよ。家族もいるし、友達もいるし、仕事だってあったからな」


「……うん」


「今だって、戻れるならそりゃ戻りたいよ。家族には会いたいし、友達とも話したい」


タクマは少しだけ空を見上げた。


「でも、最初とはだいぶ違うんだよな」


「……どういうこと?」


「こっちにも、色々できたからさ」


彼は笑った。


「仕事もあるし、知り合いも増えたし、何よりリカがいる」


私は少しだけ胸が温かくなった。


「……うん」


「だから、もし帰れる方法が見つかったらさ」


タクマは私を見た。


「心配するなって家族に報告だけして、またこっちに帰ってくるよ」


「……え?」


私は思わず聞き返した。


「また、こっちに?」


「うん」


タクマは当たり前のようにうなずいた。


「だって、こっちにも帰る場所ができたからな」


私は何も言えなかった。


タクマは、そんな私を見て少し笑った。


「……何だよ。そんなに驚くことか?」


「……ううん」


私は首を振った。


「ただ、ちょっと……」


嬉しかった。


それだけなのに、うまく言葉にならなかった。


私は少し考えてから、ふと気になったことを尋ねた。


「……でも、親御さんに反対されるんじゃないの?」


「まあ、そうだろうな」


タクマは苦笑した。


「突然いなくなった息子が帰ってきたと思ったら、また異世界へ行くなんて言い出すんだから。普通は止めるよな」


「……うん」


「でも、そんときゃ……」


タクマは少し考えてから笑った。


「脱走してでも戻ってくるさ」


その言葉を聞いた瞬間、私は思わずタクマを見た。


脱走。


何だか、ずいぶん懐かしい言葉だった。


七年前の私は、まさにそれをやったのだから。


家族も、立場も、決められた将来も全部放り出して、王宮を飛び出した。あのときは、自分の人生を自分で決めたかった。ただそれだけだった。


そして今、タクマも似たようなことを言っている。


……私と一緒だ。


私は、少しだけ笑った。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「私もね、家出してきたんだ」


タクマが目を丸くした。


「……家出?」


「うん」


私はうなずいた。


「冒険者になりたくて、実家から逃げてきたの」


言ってしまった。


もちろん、全部を話したわけではない。自分が王女だったことも、王宮を抜け出したことも、まだ言っていない。でも、タクマに自分の過去を話すのは、これが初めてだった。


少しだけ緊張する。


タクマはしばらく考え込んでいた。


そして、意外なことを言った。


「……なんか、分かる気がする」


「……え?」


私は思わず聞き返した。


「分かるの?」


「うん。リカってさ、最初からちょっといいところのお嬢さんだったように見えるんだよな」


「……そう?」


「うん。礼儀作法とか、食事のときの所作とか。たまに妙に育ちがよさそうなところがあるし」


私は内心でぎくりとした。


そんなところまで見られていたとは思わなかった。王宮を出てから七年も経つし、今ではすっかり冒険者としての生活に馴染んでいるつもりだったけれど、長年身についた習慣というのは、なかなか抜けないものらしい。


「……へえ。そうなんだ」


「でも、リカだしな」


「……え?」


タクマは笑った。


「冒険者になりたいって家を飛び出したって言われても、あんまり違和感ない」


「なにそれ!?」


私は思わず声を上げた。


「私、そんなに無鉄砲に見える!?」


「いや、だって実際に家出してるんだろ?」


「……それはそうだけど!」


タクマは声を上げて笑った。


私も、つられて笑ってしまう。


何だか、少しだけ気が楽になった。


タクマは、私が家出してきたことを聞いても、特に驚いた様子はなかった。むしろ、納得しているように見える。


……それはそれで、ちょっと複雑だけど。


「まあ、家族とは色々あったんだろうけどさ」


タクマが言った。


「話してくれてありがとう」


私は彼を見た。


「……うん」


少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。


本当は、もっと話さなければならないことがある。


自分がマリアベル王国の王女だったこと。七年前、家族の反対を押し切って王宮を飛び出したこと。そして、今もなお王家の人間であること。


でも、今はまだ言えなかった。


私は少しだけ迷ってから、タクマの手を取った。


「……ねえ、タクマ」


「ん?」


「……すごく嬉しい。ありがとう」


タクマは少し驚いたような顔をした。


「……何だよ、急に」


「いいの。嬉しかったんだから」


私は笑った。


タクマも笑って、私の手を握り返してくれた。


しばらく、二人で夜の森を眺めていた。


*


その夜。


タクマが眠ったあと、私はしばらく寝つけずにいた。


隣では、彼が静かな寝息を立てている。私は横になったまま、さっきの会話を思い返していた。


脱走してでも戻ってくる。


タクマは笑って言ったけれど、七年前の私も、似たようなことを考えていた。


あの頃の私は、王宮の外へ出ることばかり考えていた。


王女としての生活が嫌だったわけではない。家族のことも嫌いではなかったし、何不自由なく暮らしていた。それでも、決められた将来を歩むことに、どうしても納得できなかった。


魔法を学ぶのは楽しかった。知らないことを知るのも、新しい魔法を覚えるのも好きだった。


でも、王宮の中では、どれだけ勉強しても、その先にあるものは決まっていた。


王女としての務め。


国のための結婚。


そして、いつか誰かの妻になり、王家の一員として生きていく未来。


私は、それが嫌だった。


……いや、少し違う。


嫌だったというより、自分で選びたかったのだと思う。


私は隣で眠るタクマを見た。


彼は、私が王女だったことを知らない。いつかは話さなければならないと思っているのに、今日も結局、全部は話せなかった。


私はそっと手を伸ばし、タクマの髪を撫でた。


「……いつか、ちゃんと話すからね」


小さくつぶやく。


タクマは眠ったままだった。


私は少しだけ笑い、目を閉じた。


すると、ふと昔のことを思い出した。


王宮の長い廊下。大きな窓から見えるマリアベルクの街並み。毎日繰り返される勉強と、王女としての務め。そして、二人の兄たち。


あの頃の私は、王宮の外で暮らす自分なんて、まだ想像もできなかった。


ただ、いつかここを出ていきたいと、そればかり考えていた。


それが七年前。


私がまだ、リカルティール・マリアベルと呼ばれていた頃の話だ。


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