【閑章1話】王女リカルティール
十五歳の頃の私は、王女だった。
正確に言えば、魔法王国マリアベル国王グスタフ・フォン・マリアベルの娘、リカルティール・マリアベル。
王位継承順位は第三位だった。
第一位が兄のヴィルヘルム。第二位がもう一人の兄、ハインリヒ。そして、その次が私だった。
だから私は、ただ国王の娘というだけではない。二人の兄に何かあれば、王位を継ぐ可能性のある人間でもあった。
もっとも、十五歳の私にとって、その順位にはほとんど実感がなかった。兄は二人とも元気だったし、私が王になることなどまずないと思っていた。そもそも、なりたいと考えたことすらない。
当時の私が気にしていたのは、もっと目の前のことだった。
「殿下、起床のお時間でございます」
「起きてる」
「先ほども同じお返事をいただきました」
「じゃあ起きてるでしょ」
「寝台から出られるまでが起床でございます」
毎朝、だいたいこんなところから一日が始まる。
王女というものは、朝起きる時間から自分では決められない。
もちろん、王女だから特別に意地悪をされていたわけではない。王宮に住む王族には予定があり、それに合わせて一日を動かす必要があった。
朝食がある。
授業がある。
面会がある。
昼食のあとにも授業があり、日によっては儀式や会食、貴族との茶会が入る。夕食も、家族だけの日もあれば客人を交える日もあった。
毎日すべて同じというわけではないけれど、朝起きてから夜まで、だいたい何かしらの予定が入っていた。
私には専属の侍女がいて、着替えまで手伝ってくれた。服はどれも高価なものだったし、食事だって王都の普通の家では毎日食べられないようなものが並んでいたと思う。
部屋も広かった。
寝室だけでも、今私がノヴァグラードの森で暮らしている家の居間より広かった気がする。
だから、別に不幸だったわけではない。
寒い思いをしたこともなければ、空腹で眠ったこともない。誰かに殴られたこともないし、父も母も私を大切にしていた。二人の兄とも、少なくとも当時は普通の兄妹だった。
今振り返っても、王宮での生活そのものが酷かったとは思わない。
ただし、それと暮らしやすかったかどうかは別の話だった。
「今日は青でございます」
「昨日も青だった」
「昨日は薄青でございました」
「同じじゃない?」
「違います」
「赤がいい」
「本日は午後に北方伯のご夫妻とお会いになりますので、青の方がよろしいかと」
「何で?」
「北方伯家の紋章色と相性がよろしいのでございます」
「私の服なのに?」
「殿下のお召し物でございます」
「じゃあ赤でいいでしょ」
「青になさいます」
こういうことが、毎日のようにあった。
服くらい自分で選ばせてほしい。
当時は本気でそう思っていた。
今なら、侍女の言っていたことも分かる。王女の服装は、単なる本人の好みでは済まない。
誰と会うのか。何の行事なのか。相手の家格はどうか。季節はどうか。王家の一員として、周囲からどう見えるのか。
そういうものを全部考えたうえで選ばれる。
着るのは私なのに、私の好みだけでは決められない。
王族というのは、そういうものだった。
◇
朝食のあとは、魔法の授業だった。
これは嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
魔法は、王宮生活の中では珍しく、自分で考える余地があるものだったからだ。
もちろん授業なので課題はある。
火を一定の大きさで維持する。
水球を指定された形に保つ。
風の刃を決められた位置へ飛ばす。
土壁を指定された厚さで作る。
そういう基礎から始まり、年齢とともに複雑な術式へ進んでいく。
ただ、求められた結果が同じでも、そこへ至るまでの魔力の流し方や制御まで一つに決められているわけではない。
私は、それが好きだった。
「では殿下、本日は複合術式の基礎を」
「これ?」
「はい。まず火属性の術式を安定させたあと、その外周へ風属性の流れを」
「こう?」
「……殿下」
「何?」
「もう一度、最初から説明させていただいても?」
「間違えた?」
「いえ」
教師が困った顔をする。
「成功しております」
「じゃあいいじゃん」
「まだ説明の途中でございます」
「できたなら次でいいでしょ」
「本来は、一つずつ順序を確認しながら」
「でもできたよ」
「できてしまいましたので困っております」
魔法の授業では、こういうことがよくあった。
私は、魔法に関してはかなり優秀だった。
当時の私は、自分がどのくらい優秀なのか正確には分かっていなかったけれど、少なくとも教師が用意した課題を予定より早く終えることは多かった。
属性との相性も良かった。
火、水、風、土。
どれも使えた。
複数の属性を組み合わせる術式にも、それほど苦労しなかった。魔力そのものの量も多く、普通なら何度か休憩を挟むような訓練を続けても、私はまだ余裕が残っていた。
王宮の魔法教師たちは、それをとても喜んだ。
最初の頃は、私も褒められるのが嬉しかった。
難しいことができれば褒められる。もっと難しいことを覚えれば、また褒められる。だから、私なりに頑張った。
その結果、授業がどんどん難しくなった。
「本日の予定はこれで終わり?」
「本来であれば、あと二刻ほどを予定しておりました」
「じゃあ終わり?」
「いいえ」
「何で?」
「次回予定していた内容へ進みます」
「終わったのに?」
「殿下が早く終わらせられましたので」
納得できなかった。
私は、早く終わらせれば自由時間になると思っていた。
実際には、早く終わらせると次の課題が出てきた。
それでも魔法そのものは好きだったので、文句を言いながら結局やる。すると当然、さらに上達する。
今思えば、あの頃からすでに一つの循環ができていた。
できるから、期待される。
期待されるから、さらに教えられる。
教えられれば、できることが増える。
すると、周囲の期待もさらに大きくなる。
私はただ魔法が好きだっただけだった。
新しい術式を覚えるのが面白かったし、昨日までできなかったことができるようになるのも嬉しかった。
けれど周囲から見れば、それは単なる少女の得意分野ではない。
王位継承順位第三位の王女が、非常に大きな魔力と幅広い属性適性を持っている。
それは、王家にとって価値のある才能だった。
◇
魔法の授業を終えたところで、私は廊下の窓から外を見た。
王宮の正面には大きな庭園があり、その向こうには王都マリアベルクの街並みが広がっている。
「外、行きたい」
「本日の外出予定はございません」
後ろから声がした。
「まだ何も言ってない」
「お顔に書いてございました」
振り返ると、そこにいたのはボーマンだった。
国王である父に長く仕える側近の一人で、王宮の内政や父の仕事を補佐する一方、私の教育にも深く関わっていた人物だ。
年齢は父よりずっと上で、いつも身なりをきっちり整え、滅多なことでは表情を変えない。私専属の教師でも侍従でもないのに、なぜか授業の進み具合から翌日の予定まで把握している。
私にとっては、王宮の偉い人というより、幼い頃から何かと口を出してくる教育係のような存在だった。
「魔法の授業、早く終わった」
「存じております」
「じゃあ時間空いた」
「次のご予定まで一刻ほどございます」
「街行っていい?」
「いけません」
「何で?」
「一刻では戻れません」
「転移魔法使えばいいじゃん」
「王女殿下が何の前触れもなく王都へ転移されるおつもりですか」
「駄目?」
「駄目です」
「じゃあ馬車」
「準備だけで時間がなくなります」
「歩く」
「なおさら間に合いません」
全部駄目だった。
「じゃあ何するの」
「ご休憩を」
「部屋で?」
「はい」
「それ、外行くよりつまらない」
「休憩とはそういうものでございます」
「絶対違うと思う」
ボーマンは、私がどれだけ文句を言ってもほとんど表情を変えなかった。
でも、私が本気で嫌がっているのか、ただ退屈して文句を言っているだけなのか、その区別はついていたと思う。
「殿下」
「何?」
「本日は夕刻まで予定がございます」
「知ってる」
「明後日には王立学院の講義もございます」
「知ってる」
「明日は午後に二刻ほど空きがございます」
「外行っていい?」
「そのためには護衛の手配が必要です」
「じゃあして」
「既にしております」
私は振り返った。
「行っていいの?」
「市場をご覧になりたいと、先日仰っておられましたので」
「言った」
「ですので、そのように」
「ボーマン好き」
「光栄でございます」
こういうところがあった。
厳しい。
だいたい最初は駄目と言う。
でも、本当に何もかも禁止する人ではなかった。
王女として必要な条件を整えれば、できる範囲で予定を動かしてくれる。私が興味を持ったものも意外なほど覚えていて、忘れた頃に予定へ入っていることもあった。
だから私は、王宮にいる大人の中ではボーマンをかなり信用していた。
私が王女であることを一度も忘れない人だったけれど、それと同時に、リカルティールという十五歳の少女が何を嫌がって、何を面白がるのかも知っている人だった。
◇
休憩のあとは歴史。
その次は外交儀礼。
そして昼食。
午後は、北方伯夫妻との茶会だった。
朝に青い服を着せられた理由になった人たちだ。
「まあ、リカルティール殿下。ますますお美しくなられて」
「ありがとうございます」
「王立学院でも大変優秀でいらっしゃるとか」
「はい」
「特に魔法は、すでに宮廷魔法士にも劣らないと伺っております」
少し言い過ぎだと思った。
でも、こういう場で「そんなことないです」と答えるのは謙虚ではなく、相手の言葉を否定することになるらしい。
「ありがたく存じます」
教えられた通りに答える。
北方伯が満足そうに笑った。
「さすがは陛下の姫君ですな。第一王子殿下、第二王子殿下、そして第三位にリカルティール殿下。マリアベル王家は安泰です」
その言葉は、何度も聞いたことがあった。
第一王位継承者、ヴィルヘルム。
第二王位継承者、ハインリヒ。
第三王位継承者、リカルティール。
王宮では珍しい話ではない。
ただ、その日は北方伯がさらに続けた。
「これほどの魔法の才をお持ちならば、将来は王国の大きな支えとなられましょう」
私は笑った。
そうするように教えられていたからだ。
「ありがとうございます」
本当は、その言葉の意味をよく分かっていなかった。
王国の支え。
それが具体的に何を意味するのか。
魔法が強ければ、将来は魔法を使う仕事をするのだろうとは思っていた。王宮魔法士になるのか、軍に関わるのか、その程度の想像はしていた。
でも、誰がそれを決めるのかまでは考えていなかった。
たぶん、どこかでは自分で決めるものだと思っていた。
◇
茶会が終わると、母の部屋へ呼ばれた。
「疲れたでしょう」
母、エリザベートはそう言って、お茶を用意させた。
「ちょっと」
「北方伯はお話が長いから」
「母上も思う?」
「これは内緒ですよ」
母は笑った。
母と二人で話す時間は、王宮の中でも少し気が楽だった。
母は王妃だけれど、私に対してまで常に王妃らしく振る舞う人ではなかった。王女として間違っていることは注意されたけれど、それ以外のことまで何でも正そうとはしない。
「今日は魔法の授業もあったのでしょう?」
「うん」
「どうでした?」
「また早く終わった」
「あら」
「でも次の授業やらされた」
母が笑う。
「それは先生も大変ね」
「私が大変なんだけど」
「そうね」
母は否定しなかった。
そういうところが好きだった。
「ねえ、母上」
「何です?」
「私、魔法が強いと何になるの?」
「何になる?」
「さっき北方伯が、王国の支えになるって」
母は少し考えた。
「リカルティールが何になりたいかによります」
「私が決めていいの?」
その問いに、母はほんの少しだけ黙った。
今なら分かる。
たぶん、母は答えに困ったのだ。
「もちろん、あなたの希望は大切です」
「希望は?」
「ええ」
私はそこに引っかかった。
「希望は大切ってことは、希望通りにならないこともある?」
母は少し困った顔をした。
「王族には、立場があります」
「うん」
「国に対して果たさなければならない役目もあります」
「兄上たちみたいに?」
「そうですね」
「私も?」
「あなたも王族ですから」
それは知っていた。
知っていたけれど、改めて言われると少し違って聞こえた。
「でも、兄上が二人いるよ」
「ええ」
「私は三番目でしょ?」
「そうです」
「じゃあ別に、私が何かしなくてもいいんじゃない?」
母はすぐには答えなかった。
「そう単純ではないのです」
「何で?」
「リカルティールは、とても優秀だから」
私は黙った。
褒められた。
本来なら喜ぶところだった。
それまで何度も言われて、何度も嬉しいと思ってきた言葉でもある。
でも、そのとき初めて、優秀であることが自分の選択肢を増やすとは限らないのかもしれないと思った。
むしろ優秀だから任されることが増える。
優秀だから期待される。
それが王女である私にとって何を意味するのか、まだ十五歳の私はきちんと理解していなかった。
ただ、その日の「優秀だから」は、あまり嬉しくなかった。
◇
夕方、父にも会った。
父、グスタフ・フォン・マリアベルは、私にとっては父親だけれど、当然ながら国王でもある。
私が子供の頃から、ずっと忙しい人だった。
朝から夜まで誰かと会い、書類を読み、決裁し、報告を聞く。軍人と話す日もあれば、外国の使者と長く話す日もある。
私は父の仕事の半分も理解していなかったけれど、国王という仕事がものすごく忙しいことだけは知っていた。
「魔法の講義はどうだった」
「終わった」
「教師から聞いた。複合術式も問題なかったそうだな」
「うん」
「よく励んでいる」
父はそう言った。
父なりに褒めてくれている。
それは分かっていた。
「北方伯も感心していたぞ」
「話長かった」
「そういうことを本人の前で言うな」
「言ってない」
「ならよい」
父が少しだけ笑う。
怖い人ではなかった。
厳しい人ではあったし、王族として守らなければならないことについてはほとんど妥協しなかった。でも、私は父を嫌いではなかった。
「父上」
「何だ」
「私、将来何するの?」
父が書類から顔を上げた。
「急にどうした」
「今日いっぱい言われたから」
「何を」
「魔法が強いとか、王国の支えになるとか」
父は少し考えた。
「まだ決める時期ではない」
「私が決める?」
「お前の希望も聞く」
「希望も?」
母と同じだった。
「王族には責任がある」
「それも母上に聞いた」
「なら理解しているだろう」
「よく分かんない」
父は椅子にもたれた。
「ヴィルヘルムは第一王位継承者だ」
「うん」
「いずれ国を治める可能性が高い」
「うん」
「ハインリヒにも、それを支える責任がある」
「私も?」
「当然だ」
「何をするの?」
「それはこれから考える」
「私が?」
「国と、お前自身の両方にとって最も良い道をだ」
父の言っていることは、たぶん正しかった。
国王の子供として生まれた以上、何の責任も負わずに好きなことだけをして暮らすわけにはいかない。ヴィルヘルムもハインリヒもそうしているのだから、私だけ例外というわけにもいかない。
十五歳の私にも、そのくらいは分かっていた。
だから父へ言い返すことはしなかった。
ただ、少しだけ嫌だと思った。
なぜなら父は、「お前が決める」とは言わなかったからだ。
◇
その日の予定がすべて終わった頃には、外はもう暗くなっていた。
朝起きてから、ほとんど一人になっていない。
侍女がいた。
教師がいた。
ボーマンがいた。
北方伯夫妻と会った。
母と話した。
父とも話した。
王宮には常に誰かがいて、王女である私の周囲には、その中でも特に多くの人がいた。
自分の部屋へ戻って、ようやく一人になる。
窓を開けると、王都マリアベルクの灯りが見えた。
明後日には学院へ行く。
明日は、ボーマンが用意してくれた時間で市場を見ることができる。
楽しいこともある。
嫌なことばかりではない。
それでも、その日の私は机に置かれた予定表を見た。
明日の予定。
明後日の予定。
その次の日の予定。
すでに全部書かれている。
十五歳の私は、それを当たり前だと思っていた。
王女とはそういうものだと、小さい頃から教えられていたからだ。
食べるものがある。
住む場所がある。
最高の教育を受けられる。
欲しい本も、必要だと言えば大抵は用意してもらえる。
私は恵まれていた。
それは、自分でも分かっていた。
だからこそ、自分が窮屈だと感じること自体が贅沢なのだとも思っていた。
服を自分で選べないこと。
勝手に街へ行けないこと。
早く授業を終わらせても自由時間が増えないこと。
何日も先まで、自分が何をするのか先に決まっていること。
そして将来のことを聞いても、私一人では決められないと言われること。
どれも、食べるものがないことに比べれば大した問題ではない。
命が危険なわけでもない。
誰かが私を苦しめようとしているわけでもない。
全部、王女だから仕方がない。
そう思っていた。
私は王女リカルティール。
マリアベル王国の第三王位継承者。
国王の娘で、魔法の才能にも恵まれている。
当時の周囲の人たちにとって、それらはすべて私を説明するための大切な言葉だった。
十五歳の私も、それを疑ってはいなかった。
ただ、その頃から少しずつ分かり始めていたことがある。
できることが増えれば、自分で選べることも増える。
私はずっと、何となくそう思っていた。
けれど王女リカルティールの場合は、そうではなかった。
魔法が上手くなるほど、期待される役割が増えた。
優秀だと言われるほど、将来について周囲が考えることも増えた。
できることが増えるほど、その力を何に使うのかを自分だけで決めるのは難しくなっていった。
十五歳の私は、まだその先に何が待っているのかまでは知らなかった。
ただ、自分が優秀であることを褒められて、初めて少しだけ嬉しくないと思った。
たぶん、すべてはそこから始まっていた。




