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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
閑章1 王女リカルティール

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【閑章5話】脱走王女


 手帳の『出発日』という項目に日付を書き込むまで、私は三週間以上かかった。


 王宮から出ると決めたのは、王国軍の記念式典が終わった夜だった。あのときは、もう自分の将来を誰かに決めてもらいたくないという気持ちでいっぱいだったけれど、実際に何をすればよいのかを考え始めると、問題が次々に見つかった。


 旅費や冒険者ギルドの制度については、以前から調べていた。行き先も、フロンティア大公国のノヴァグラードに決めている。


 けれど、その前に解決しなければならないことがあった。


 そもそも、どうやって王宮から出るのか。


 王女である私が、護衛も連れずに正門から出ていこうとすれば、間違いなく止められる。夜間ならなおさらだ。たとえ外へ出られたとしても、誰かに姿を見られれば、すぐに王宮へ報告されてしまうだろう。


 私は机に地図を広げ、手帳に問題点を書き出した。


 王宮からの脱出。


 王都からの移動。


 国境の通過。


 そして、国外での生活。


 こうして並べてみると、まるで学院で出される魔法の課題のようだった。大きな問題をいくつかに分け、それぞれの条件を確認し、解決方法を考える。私が得意としている作業だ。


 ただし、学院の課題とは決定的に違うことがある。


 失敗しても、先生が助けてくれるわけではない。


 それに、今回の計画では、私が何かを間違えることで、ほかの人に迷惑がかかる可能性もあった。


 王宮の警備を担当する近衛兵団は、私たち王族を守るために働いている。ユリアナだって、私の護衛として任務を果たしているだけだ。


 その人たちを傷つけたり、無理やり眠らせたりするような方法は、最初から考えなかった。


 私が望んでいるのは、誰かと戦うことではない。


 ただ、王宮の外へ出たいだけなのだから。


◇


 王宮の警備は、私が思っていた以上に複雑だった。


 幼い頃から暮らしている場所なので、建物の構造や主要な通路についてはよく知っている。庭園へ続く回廊や、使用人たちが行き来する通路も、ある程度は覚えていた。


 けれど、どこに何人の近衛兵が配置されているのか、すべてを知っているわけではない。


 警備の交代時間も、担当する場所によって異なるらしい。


 私は普段の移動中、目に入った範囲で兵士たちの動きを観察するようになった。授業へ向かうとき、庭園を散歩するとき、図書室から自室へ戻るとき。特別なことはせず、いつも通りに過ごしながら、気づいたことだけを覚えておく。


 そして夜、自室へ戻ってから手帳に書き込んだ。


 もちろん、毎日同じように警備されているとは限らない。重要な来客があれば配置が変わるし、王族の予定によって巡回の経路が変わることもある。


 だから、一度見たことをそのまま信用するわけにはいかなかった。


「……これ、思ったより難しいな」


 私は手帳を見つめ、ため息をついた。


 警備の人たちが優秀であることは、王女としてはありがたい。けれど、今の私にとっては、少々困った問題でもあった。


 特に厄介なのが、ユリアナだった。


 彼女は私の護衛として、王宮内での移動にも付き添うことが多い。訓練や公務の予定を把握しているし、私の行動の癖もよく知っている。


 もし脱走を疑われたら、真っ先に気づくのはユリアナかもしれない。


 私はそのことを考え、少し胸が痛くなった。


 ユリアナは私を守ろうとしてくれている。


 なのに、私は彼女に気づかれずに逃げる方法を考えている。


 それは、決して気持ちのよいことではなかった。


 それでも、彼女に相談することはできない。相談すれば、きっと止められるだろうし、止めなければ彼女が護衛としての責任を問われることになる。


 私は、ユリアナを困らせたくなかった。


 だからこそ、何も言えなかった。


◇


 脱出に使う魔法は、身体強化と隠蔽を中心にすることにした。


 身体強化は、短い距離を素早く移動するために使う。高い場所へ登るときにも役立つけれど、強化したからといって無理な動きをしてよいわけではない。


 隠蔽魔法は、周囲の人々から認識されにくくするためのものだ。


 ただし、姿が完全に消えるわけではないし、こちらを探している相手には効果が薄くなる。魔力の流れを感知できる魔導士が近くにいれば、不自然な術式を使っていることに気づかれる可能性もある。


 つまり、魔法を使えば簡単に逃げられるというわけではなかった。


 私は術式を見直し、必要な場面だけ短時間で発動できるように調整した。


 長く維持するよりも、必要な瞬間だけ使った方が魔力の消費を抑えられる。周囲に人がいなければ、そもそも隠蔽魔法を使う必要はない。


 実技場では、普段の訓練に加えて、身体強化の制御も確認した。もちろん、脱走のためだとは誰にも言わない。


 学院でも扱う一般的な術式なので、不自然な練習ではなかった。


 それでも、私は一度だけ失敗した。


 身体強化を使って素早く方向を変えようとしたとき、足が思った以上に前へ出てしまい、危うく転びそうになったのだ。


「……危なかった」


 誰も見ていないところだったので、私は一人で苦笑した。


 魔法で筋力を高めても、体の動かし方まで勝手に上手くなるわけではない。速度を上げれば、それに合わせて判断も早くしなければならない。


 私は手帳に、無理に速度を上げないことと書き加えた。


 こういう失敗を、王宮の中で済ませておけてよかったと思う。


◇


 旅費は、以前から少しずつ確保していた。


 王女として自由に使えるお金の中から、当面の宿泊費や食費に必要な分を取り分けておいたのだ。もちろん、王宮の金庫から持ち出したり、誰かに無理な頼み事をしたりはしていない。


 問題は、お金よりも荷物だった。


 最初に必要だと思ったものを並べてみると、思っていた以上の量になってしまった。


 着替え、雨具、薬、地図、食料、水筒。それから、旅先で使う日用品。


 鞄に詰めて持ち上げてみると、予想よりずっと重かった。


「……これ、全部持って歩くの?」


 自分で用意した荷物なのに、思わず文句を言ってしまった。


 身体強化を使えば運べるだろう。けれど、旅の間ずっと魔法を使うわけにはいかないし、疲れているときにも同じように持ち歩かなければならない。


 私は荷物を広げ直し、必要なものと、あれば便利なものを分けることにした。


 着替えは最低限にする。


 重い本は持っていかない。


 地図も必要な範囲のものだけにする。


 王宮で暮らしていると、必要なものは大抵誰かが用意してくれる。だから、何を持っていくかを自分で決めるだけでも、思っていた以上に考えることが多かった。


 何度か詰め直した末、ようやく自分で無理なく持てる重さに収まった。


 私は鞄を背負い、部屋の中を少し歩いてみた。


 これなら大丈夫そうだ。


 もっとも、王宮の床を歩くのと、何日も街道を歩くのでは、きっと話が違うのだろうけれど。


◇


「殿下、少々お疲れではございませんか?」


 ユリアナにそう尋ねられたのは、脱走の準備がほとんど整った頃だった。


 その日も、私たちは実技場で防御魔法の訓練をしていた。


「そう見える?」


「最近は学院の授業に加えて、ご自身でも研究を進めておられるようですので」


「魔法の勉強は楽しいからね」


「それは存じております。ですが、休息も大切でございますよ」


 私は笑った。


 ユリアナは、いつも私の体調を気にかけてくれる。


 訓練の内容だけでなく、疲れていないか、無理をしていないか、食事をきちんと取っているか。私が何かに夢中になると周囲のことを忘れてしまうのを、よく知っているのだ。


「ねえ、ユリアナ」


「はい」


「私って、そんなに魔法が好きなのかな」


 ユリアナは少し驚いたように目を瞬かせた。


「ご自覚がなかったのでございますか?」


「いや、好きなのは分かってるけど」


「殿下ほど楽しそうに術式を組み立てる方を、私はあまり存じません」


「……そんなに?」


「はい。難しい課題を与えられたときほど、嬉しそうになさいますから」


 私は少し恥ずかしくなった。


 確かに、思い当たるところはある。


 複雑な術式を考えるのは楽しいし、思い通りに発動できたときは嬉しい。失敗しても、原因が分かれば次に試したいことが増える。


「そのお気持ちは、どうか大切になさってください」


 ユリアナは穏やかに言った。


 私は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し苦しくなった。


 王宮を出れば、もう彼女とこうして訓練することはできない。


 魔法について相談することも、失敗を指摘してもらうことも、しばらくはできなくなるだろう。


 それでも、魔法を好きでいることはできる。


 自分で選んだ場所で、自分のために魔法を使うこともできるはずだった。


「……ありがとう、ユリアナ」


「どういたしまして、殿下」


 ユリアナはいつも通りに微笑んだ。


 私は、それ以上何も言わなかった。


 今ここで別れの挨拶をすれば、きっと不審に思われる。


 それに、彼女に嘘をつきたくなかった。


 だから、普段通りに訓練を終え、普段通りに部屋へ戻った。


 その何でもない時間が、いつもより少しだけ大切に思えた。


◇


「殿下、近頃はずいぶん落ち着かれましたな」


 ボーマンがそう言ったのは、王宮での授業が終わったあとだった。


「そう?」


「はい。以前は授業が終わると、すぐに庭園へ駆け出しておられましたが」


「もう十五歳だよ。少しは大人になったんじゃない?」


「ほほほ。それは何よりでございます」


 ボーマンは楽しそうに笑った。


 私は机の上の本を閉じ、授業で使った道具を片づけた。


 最近の私は、確かに以前より落ち着いているのかもしれない。


 ただ、それは大人になったからというより、考えることが増えたからだった。


 王宮を出たあとの生活。


 旅の途中で起こるかもしれない問題。


 それから、王宮を離れることで悲しませる人たちのこと。


 どれも簡単に答えが出ることではなかった。


「殿下」


「何?」


「以前にも申し上げましたが、何かお悩みのことがございましたら、どうか一人で抱え込まれませんように」


 私は、少しだけ手を止めた。


「……うん」


「私でお役に立てることであれば、いつでもお申し付けください」


「ありがとう、ボーマン」


 ボーマンは穏やかに頷いた。


 そして、少し間を置いてから続けた。


「どのような道をお選びになるにせよ、ご自身のお体だけは大切になさいませ」


 私は思わず顔を上げた。


 ボーマンは、いつもと変わらない表情をしていた。


 もしかして、何かに気づいているのだろうか。


 でも、彼はそれ以上何も言わなかった。


 私も、何も聞けなかった。


 ただ、その言葉だけは、いつまでも心に残った。


◇


 出発の日を決めたのは、それから数日後だった。


 王宮の予定表を確認し、警備の状況や自分の公務を考え合わせた結果、大きな行事のない、ごく普通の日を選んだ。


 特別な行事があれば、王宮には普段より多くの人が出入りする。警備の配置も変わるし、誰がどこにいるのか予測しにくくなる。


 それよりも、いつも通りの日の方が、計画を立てやすかった。


 もちろん、予定通りにいくとは限らない。


 だから、もし警備の状況が大きく変わっていたら、その日は中止することにした。


 無理に進んで見つかれば、次の機会はないかもしれない。


 私は手帳を開き、『出発日』の空欄に日付を書き込んだ。


 その文字を見た瞬間、胸が少し高鳴った。


 ついに決めてしまった。


 これまでは、いつか王宮を出るという目標だった。


 けれど、日付を書き込んだことで、それは具体的な予定になった。


 私はしばらく手帳を見つめ、それから静かに閉じた。


◇


 出発当日も、王宮での生活はいつも通りだった。


 朝は決まった時間に起き、侍女に手伝ってもらって身支度を整える。学院では授業を受け、午後には王宮へ戻って勉強をした。


 何か特別なことが起こるわけではない。


 廊下では近衛兵たちが警備に立ち、侍女たちは忙しそうに行き来している。窓の外には、いつもと同じ庭園が広がっていた。


 私は、できるだけ普段通りに過ごした。


 けれど、何でもない光景が、いつもより鮮明に見える気がした。


 庭園の花。


 廊下に差し込む午後の日差し。


 すれ違う使用人たちの挨拶。


 今夜、私はここを出ていく。


 そう思うと、これまで当たり前だったものが、急に大切に感じられた。


 夕食の席では、父上と母上、それから兄たちと顔を合わせた。


 父上は最近の学院での勉強について尋ね、母上は私が少し疲れているように見えると心配してくれた。


「大丈夫です、母上。少し勉強に夢中になっていただけです」


「それならよいのですが。無理をしてはいけませんよ」


「はい」


 ヴィルヘルム兄上は、私が最近よく地理の本を読んでいることを知っていたらしい。


「リカ、随分と周辺諸国に詳しくなったそうだな」


「そうかな?」


「教師が感心していたぞ。交易路や都市の位置まで、よく覚えているそうじゃないか」


「面白いからね」


「その知識は、いずれ役に立つだろう」


 私は笑って頷いた。


 きっと、兄上が考えているのとは違う形で役に立つことになる。


 そう思ったけれど、もちろん口には出さなかった。


「そのうち、地理の教師にでもなるつもりか?」


 ハインリヒ兄上がからかうように言った。


「それも悪くないかもね」


「お前が教師になったら、生徒が大変そうだな」


「どうして?」


「授業より難しい問題を自分で作って、嬉しそうに解かせるだろうから」


「そんなことしないよ!」


 私が抗議すると、兄上は楽しそうに笑った。


 父上も母上も、そのやり取りを見て微笑んでいた。


 私は、その光景を忘れないようにしようと思った。


 父上の笑い方も、母上の優しい声も、兄たちの何でもないやり取りも。


 王宮を出たいと思っているのに、この場所を嫌いになることはできなかった。


 むしろ、出ていくと決めたからこそ、どれほど大切な場所だったのかを実感している。


 食事が終わり、私はいつも通りに挨拶をして席を立った。


 誰も、今夜私がいなくなるとは思っていない。


 そのことが、少しだけ苦しかった。


◇


 夜が更け、王宮が静かになった頃、私は自室で最後の確認をしていた。


 机の上には、旅装と鞄が置かれている。


 着替え、雨具、食料、水筒、薬、地図。それから、旅費として用意したお金。


 私は一つずつ確認し、鞄へ詰め直した。


 何度も練習した作業だったので、迷うことはなかった。


 最後に、二冊の手帳を取り出す。


 一冊は、王女としての予定が書かれたもの。


 もう一冊は、私が自分で調べ、自分で考えたことを書き込んだものだった。


 王女としての手帳には、明日以降の予定が記されている。


 私はそれを消さずに、机の上へ置いた。


 明日、私がいなくなったことに気づけば、王宮の人たちは大騒ぎになるだろう。予定されていた公務も、授業も、すべて変更しなければならなくなる。


 それを考えると、申し訳ない気持ちになった。


 でも、だからといって、何も言わずに予定通りの人生を歩くことは、もうできなかった。


 私はもう一冊の手帳を鞄へ入れた。


 そこには、王宮から王都を離れるまでの経路が記されている。第一の経路が使えなければ、別の経路へ変更する。どちらも難しければ、その日の脱走は中止する。


 無理はしない。


 焦らない。


 誰も傷つけない。


 私は自分に言い聞かせた。


 それから、旅装に着替えた。


 王女として着ていた衣装とは違う、飾り気のない服だった。髪も目立たないようにまとめ、鞄を背負う。


 鏡に映った自分は、少しだけ知らない少女のように見えた。


「……よし」


 私は小さく呟いた。


 そして、部屋の扉を開けた。


◇


 王宮の廊下は、昼間とは違う静けさに包まれていた。


 壁に取り付けられた灯りが、石造りの床を淡く照らしている。遠くから近衛兵の足音が聞こえることはあったけれど、昼間のように人が行き交うことはない。


 私は、事前に考えていた経路を進んだ。


 隠蔽魔法を発動する。


 周囲の認識を妨げ、注意を向けられにくくする術式だ。


 ただし、効果を過信するつもりはなかった。人の視線が向いていない瞬間を選び、できるだけ物陰を利用する。必要な場所だけ魔法を強め、誰もいない通路では魔力の消費を抑えた。


 最初の回廊は、予定通りに通過できた。


 次の階段も問題なかった。


 けれど、庭園へ続く通路へ差しかかったところで、私は足を止めた。


 普段なら人のいない場所に、近衛兵が一人立っていたのだ。


「……」


 私は壁際の暗がりに身を寄せ、様子をうかがった。


 兵士は特に警戒している様子ではない。何かの理由で、一時的に配置されているのだろう。


 しばらく待ってみたけれど、動く気配はなかった。


 無理に通ることもできるかもしれない。


 隠蔽魔法を強めれば、気づかれずに済む可能性はある。


 でも、もし見つかれば、その場で終わりだ。


 私は一度、静かに息を吐いた。


 そして、予定していた第二の経路へ向かうことにした。


 少し遠回りになるけれど、急ぐ必要はない。


 時間は十分に確保してある。


 私は来た道を戻り、別の階段を使って庭園の反対側へ回った。


 そこからは、事前に確認していた通りに進むことができた。


 やがて、王宮の外壁が見えてきた。


 私は周囲に人がいないことを確認し、身体強化魔法を発動した。


 足元の感覚が変わり、体が軽くなる。


 壁際の構造を利用して足場を取り、短い距離を一気に登る。無理に跳び上がるのではなく、体を支えられる場所を選びながら移動した。


 最後に壁の上へ手をかけ、静かに体を引き上げる。


 向こう側には、夜の王都が広がっていた。


 私はしばらく、その景色を見つめた。


 王宮の外へ出る。


 何度も考えてきたことだった。


 でも、実際にその境界を越えようとすると、胸が少し苦しくなった。


 振り返れば、いつも暮らしていた王宮がある。


 父上も母上も、兄たちも、今はきっと眠っているのだろう。


 ユリアナも、ボーマンも、明日になればいつも通り私を訪ねてくるはずだった。


 私は、ここで戻ることもできる。


 部屋へ帰り、何事もなかったように朝を迎えることだって、まだ可能だった。


 そう考えた瞬間、少しだけ迷った。


 けれど、私はもう一度、夜の王都へ目を向けた。


 ここまで来るために、何週間も準備してきた。


 何度も考え、迷い、それでも自分で選んだ道だった。


 私は身体強化を調整し、壁の外側へ静かに降りた。


 そして、振り返らずに歩き始めた。


◇


 王宮の外へ出たからといって、すぐに安全になったわけではなかった。


 王都の夜道には人通りが少なかったけれど、警備兵の巡回は続いている。主要な通りや門の周辺には明かりがあり、旅装の少女が一人で歩いていれば、目立つ可能性もあった。


 私は人通りの少ない道を選び、必要な場所だけ隠蔽魔法を使った。


 王都の外へ出る経路についても、事前にいくつか考えていた。正規の門を通れば身分を確認される可能性があるため、できるだけ人目につかない場所を選ぶ。


 ただ、王宮と違って、王都のすべてを知っているわけではない。


 普段は馬車で通り過ぎるだけの道も多いし、夜になれば昼間とは雰囲気が変わる。


 私は地図と周囲の建物を見比べながら、慎重に進んだ。


 途中、予定していた道が工事で塞がれていることが分かり、別の道へ回ることになった。


 王宮で調べた地図には、そんなことは書かれていなかった。


「……やっぱり、実際に来てみないと分からないこともあるんだ」


 私は小さく呟いた。


 少し時間はかかったけれど、夜明け前には王都の外へ出ることができた。


 遠くに見える城壁を振り返り、私はようやく一息ついた。


 まだ国境までは遠い。


 でも、王宮だけでなく、王都からも出ることができた。


 私は鞄の肩紐を直し、街道へ向かって歩き出した。


◇


 一人旅は、想像していたよりも大変だった。


 身体強化を使えば、普通に歩くより速く進める。けれど、長い時間使い続けると、魔力が残っていても足が疲れてくる。


 最初のうちは、少しでも早く王都から離れようとして、予定より速い速度で歩いていた。


 ところが、昼頃には足が重くなり、肩にかけた鞄も妙に重く感じるようになった。


「……これは、ちょっと計算違いだったかな」


 私は街道から少し離れた場所で休憩し、水筒を取り出した。


 魔力の残量には余裕がある。


 けれど、体の疲れは別だった。


 身体強化は筋力を補助してくれるけれど、歩いた距離そのものがなくなるわけではない。普段は王宮や学院で過ごしている私にとって、長時間の徒歩移動は想像以上の負担だった。


 私は手帳を開き、予定していた移動距離を見直した。


 このまま無理をすれば、明日以降の移動に支障が出るかもしれない。


 それなら、少し速度を落とした方がいい。


 私は計画を修正し、休憩の回数を増やすことにした。


 自分で立てた予定だからこそ、自分で変更する。


 そんな当たり前のことが、私には少し新鮮だった。


 王宮では、予定を変更するときには多くの人に相談する必要があった。けれど、今は誰かの許可を求める必要はない。


 その代わり、判断を間違えても、誰かが代わりに責任を取ってくれるわけではなかった。


 私は水筒の蓋を閉め、もう一度鞄を背負った。


 歩き始めると、足にはまだ疲れが残っていた。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


◇


 国境付近へ到着したのは、王都を出てから数日後のことだった。


 マリアベル王国とフロンティア大公国の間には、主要な街道に沿って検問所が設けられている。商人や旅人はそこで身分を確認され、必要な手続きを済ませてから国境を越えることになる。


 私は事前に調べていた通り、正規の検問所を通らない経路を選んだ。


 ただし、地図で見たときには簡単そうだった道も、実際に歩いてみるとずいぶん違っていた。


 緩やかな斜面だと思っていた場所には深い藪が広がり、地図に描かれていた小道も、長い間使われていないのか、ほとんど見分けがつかなくなっていた。


 私は周囲を観察しながら、慎重に進んだ。


 身体強化を使えば、多少の障害は越えられる。


 けれど、無理をして足を痛めれば、その後の旅に支障が出る。国境を越える前に動けなくなってしまっては、何の意味もない。


 私は少し遠回りになる道を選び、日が暮れるまでに休息を取れる場所を探した。


 そして、夜を待った。


 正規の検問所を通らずに国境を越える以上、見つかるわけにはいかない。


 私は地図を確認し、周囲の地形を頭に入れた。


 隠蔽魔法と身体強化魔法。


 何度も練習し、問題点を確認してきた術式だった。


 けれど、実際に使うとなると、やはり緊張する。


 私は一度、深く息を吸った。


「……大丈夫」


 誰に聞かせるでもなく呟き、私は夜の森へ踏み出した。


◇


 国境付近の森は、王宮の庭園とはまったく違っていた。


 足元には木の根が張り出し、ところどころに湿った土が広がっている。暗闇の中では地形を見誤りやすく、身体強化を使っていても、慎重に足を運ばなければならなかった。


 私は隠蔽魔法を維持しながら、できるだけ音を立てないように進んだ。


 遠くには、検問所の明かりが見える。


 あちらを通れば、もっと簡単に国境を越えられるのだろう。


 けれど、身分を確認されれば、王宮へ連絡が届く可能性がある。


 私は明かりから離れる方向へ進んだ。


 しばらくすると、前方に小さな灯りが見えた。


 巡回する兵士たちだった。


 私はすぐに足を止め、近くの木陰へ身を寄せた。


 兵士たちは二人組で、周囲を確認しながらゆっくり歩いている。


 私は隠蔽魔法の出力を調整し、魔力の流れが不自然にならないように気をつけた。


 ここで慌てて動けば、かえって目立ってしまう。


 兵士たちが近づいてくる。


 一人が、ふと足を止めた。


「……ん?」


 私は息を潜めた。


 見つかったのだろうか。


 兵士は周囲を見回し、しばらく耳を澄ませていた。


 私は動かなかった。


 やがて、もう一人の兵士が何かを言い、二人は再び歩き始めた。


 灯りが遠ざかっていく。


 私は、ようやく息を吐いた。


 心臓が、少し速く動いている。


 王宮で練習していたときには、こんなに緊張しなかった。


 もし見つかれば、ここまでの努力がすべて無駄になるかもしれない。王宮へ連れ戻されれば、もう二度と同じ方法では出られないだろう。


 私はそのことを考え、改めて慎重に進むことにした。


 やがて、地図に記されていた国境付近の地形へ到達した。


 私は周囲を確認し、身体強化を使って斜面を越えた。


 しばらく進むと、地形が少し変わった。


 地図と方角を確認する。


 間違いない。


 私は、マリアベル王国の国境を越えていた。


◇


 しばらく、その場に立ち尽くしていた。


 国境を越えたからといって、景色が急に変わるわけではない。森は相変わらず暗く、風が木々の葉を揺らしている。


 けれど、ここはもうマリアベル王国ではなかった。


 私は振り返った。


 暗闇の向こうに、王都の姿は見えない。


 父上も母上も、兄たちも、遠く離れた王宮にいる。


 ユリアナやボーマンも、今頃は私がいなくなったことに気づいているかもしれない。


 きっと、大騒ぎになっているだろう。


 私はそのことを考え、胸が苦しくなった。


 王宮を出ると決めたときから、分かっていたことだった。


 それでも、実際に国境を越えてしまうと、もう簡単には戻れないのだと実感した。


「……ごめんね」


 私は小さく呟いた。


 誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。


 父上かもしれない。


 母上かもしれない。


 兄たちや、ユリアナや、ボーマンかもしれない。


 私は、皆のことが大好きだった。


 だからこそ、何も告げずに出てきたことが申し訳なかった。


 でも、戻るつもりはなかった。


 私は、自分で選んだ道を歩くと決めたのだから。


 私はもう一度前を向き、森の中を歩き始めた。


◇


 フロンティア大公国側の街へ到着したのは、その翌日のことだった。


 街道沿いには商人の荷車が行き交い、旅人たちがそれぞれの目的地へ向かっている。王都ほど大きな街ではなかったけれど、宿屋や食堂、商店が並び、思っていた以上に賑やかだった。


 私はまず、宿を探すことにした。


 旅費については事前に調べていたし、宿泊料金の目安も分かっている。


 けれど、実際に宿屋へ入るとなると、少し緊張した。


 王宮では、宿泊の手続きを自分でしたことなどない。


 私は建物の前で一度立ち止まり、それから扉を開けた。


「いらっしゃい。泊まりかい?」


 宿の主人らしい女性が声をかけてきた。


「はい。一晩、お願いします」


「一人?」


「はい」


「そうかい。部屋は空いてるよ」


 女性は料金を説明し、宿帳を取り出した。


「名前は?」


 私は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 王宮では、誰もが私の名前を知っていた。


 リカルティール王女殿下。


 そう呼ばれることが当たり前だった。


 でも、ここでは誰も私のことを知らない。


 目の前の女性は、ただ宿泊客の名前を確認しているだけだった。


「……リカです」


「リカね。はい、じゃあここに書いて」


 私は宿帳に名前を書いた。


 女性は特に気にした様子もなく、部屋の鍵を渡してくれた。


「食事は下の食堂で取れるよ。必要なら声をかけておくれ」


「ありがとうございます」


 私は鍵を受け取り、階段を上がった。


 部屋へ入って扉を閉めた瞬間、思わず笑ってしまった。


 名前を聞かれただけだった。


 それなのに、こんなに緊張するなんて。


 王宮では、私の名前を知らない人などほとんどいなかった。


 でも、ここでは違う。


 私は、ただの宿泊客だった。


 王女であることも、父上が国王であることも、誰も知らない。


 それが、何だか嬉しかった。


◇


 部屋は、王宮の自室とは比べものにならないほど簡素だった。


 寝台と小さな机、それから荷物を置くための棚があるだけ。窓からは街道が見え、下の階からは食堂の話し声が聞こえてくる。


 私は鞄を下ろし、寝台に腰を下ろした。


 途端に、全身の疲れが押し寄せてきた。


「……疲れた」


 思わず声が出た。


 王宮では、長い距離を歩くことなどほとんどなかった。魔法の訓練で体を動かすことはあっても、何日も続けて旅をするのとは違う。


 足は痛いし、肩も重い。


 それでも、私は少し笑っていた。


 ここまで、自分で来たのだ。


 誰かが用意した馬車に乗ったわけでも、護衛に案内してもらったわけでもない。


 道を調べ、荷物を用意し、歩く距離を考え、途中で予定を変更しながら、ようやくここまで来た。


 もちろん、まだ目的地へ到着したわけではない。


 ノヴァグラードまでは、もう少し旅を続けなければならない。


 それでも、私は初めて、自分の力で知らない街へ来たのだと思った。


 しばらく休んでから、私は食堂へ降りた。


 簡単な料理を注文し、料金を支払う。


 出されたのは、温かい煮込み料理とパンだった。


 王宮の料理ほど手の込んだものではなかったけれど、歩き疲れた体には十分おいしかった。


 私はゆっくり食べながら、周囲の人々の会話に耳を傾けた。


 商人らしい男たちが荷物の到着予定について話している。旅人たちは次に向かう街のことを相談し、食堂の主人は忙しそうに料理を運んでいた。


 誰も、私のことを気にしていない。


 誰も、私の将来について話していない。


 私は、ただの旅人としてそこに座っていた。


 そのことが、とても不思議だった。


 同時に、少し寂しくもあった。


 王宮では、食事の時間になれば誰かが声をかけてくれた。母上は体調を気にかけてくれたし、兄たちは何でもないことで私をからかった。


 ユリアナと魔法の話をすることも、ボーマンに相談することも、当分はできない。


 自分で選んだ道だと分かっていても、その寂しさが消えるわけではなかった。


 私はパンを小さくちぎり、煮込み料理に浸した。


 温かい食事を口に運びながら、王宮の食卓を思い出した。


 少しだけ、胸が苦しくなった。


 でも、後悔はしていなかった。


◇


 翌朝、私は宿の窓から外を眺めていた。


 街道には、すでに多くの人が行き交っている。


 荷車を押す商人。


 店を開く人々。


 出発の準備をする旅人たち。


 王宮とはまったく違う朝だった。


 ここでは、誰も私を王女として扱わない。


 誰も、私の予定を決めてくれない。


 その代わり、誰も私の生活を保証してくれない。


 宿代を払わなければ泊まれないし、食事を買わなければ空腹になる。仕事を見つけなければ、いつかお金もなくなるだろう。


 これから先、何が起こるのかは分からない。


 それでも、私は自分で決めた場所へ向かっている。


 私は鞄から手帳を取り出した。


 そこには、これまで調べてきたことが書かれている。


 冒険者ギルドの制度、旅の費用、街道の情報、魔法の運用方法。


 そして、次の目的地。


『ノヴァグラード』


 まだ遠い。


 冒険者として登録できるかどうかも、仕事が見つかるかどうかも、実際に行ってみなければ分からないことがある。


 でも、私はもう、王宮の図書室で地図を眺めているだけの少女ではなかった。


 王女として生まれたことは、私には選べなかった。


 けれど、これからどう生きるかは、自分で決めたい。


 その結果がどんなものであっても、誰かのせいにはしない。


 私は手帳を閉じ、鞄へしまった。


 宿の主人に礼を言い、料金を精算して外へ出る。


 朝の空気は少し冷たかったけれど、空はよく晴れていた。


 私は街道の先を見つめた。


 これから向かう街には、私のことを知っている人はいない。


 どんな仕事が待っているのかも、どんな人と出会うのかも分からない。


 でも、それでいい。


 私は、自分で選んだ道を歩いていく。


 リカルティール。


 マリアベル王国の第三王位継承者。


 それが、今までの私だった。


 そして、これからは。


 私は鞄の肩紐を直し、街道へ一歩踏み出した。


 ただのリカとして、生きていく。


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