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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
脱走王女は異世界人を拾う

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第2話 知らない世界の歩き方


 森で拾った男を自宅へ連れ帰り、その男に世界の仕組みを説明することになる。


 朝、家を出たときには、まさかそんな一日になるとは思ってもいなかった。


 居間のテーブルを挟んで向かいに座るタクマ・イザワは、私が用意した紙と筆記具を前に、ひどく真剣な顔をしていた。森で魔物に追いかけられていたときに比べれば随分と落ち着いているものの、時折、窓の外へ視線を向けている。


 無理もない。彼の話が本当なら、仕事帰りに突然見知らぬ森へ放り出され、わけの分からない獣に襲われた挙げ句、魔法を使う女に助けられたことになる。しかも、その女の家へ泊まることまで決まってしまった。


 自分で連れてきておいて何だけれど、私だったらもう少し取り乱しているかもしれない。


「それじゃ、まず何から話そうか」


「そうだな。できれば、この辺りの地理から教えてもらえると助かる」


「地理?」


「ああ。今いる場所がどこなのか分からないと、何を考えるにしても始まらないだろ」


「なるほどね。じゃあ、ちょっと待ってて」


 私は棚から地図を取り出し、テーブルの上に広げた。


 冒険者にとって地図は大切な道具だ。依頼を受ける際には目的地までの道を確認するし、魔物の生息域や危険な地形を把握するためにも使う。ただし、地図に書かれていることがすべて正しいとは限らない。山道が崩れたり、川の流れが変わったりすることもあるし、そもそも人がほとんど足を踏み入れない地域については、古い情報しか残っていないことも珍しくなかった。


 私が広げた地図にも、あちこちに自分で書き込んだ印がある。森の中で水を補給できる場所、雨宿りに使える洞穴、季節によって魔物が増える地域。仕事のたびに少しずつ書き足してきたもので、買ったときより随分と賑やかな地図になっていた。


「ここがノヴァグラード。私たちがいるのは、この北側の森の中だよ」


「なるほど……。街までは結構距離があるんだな」


「歩けばそれなりにかかるよ。街道まで出れば楽なんだけど、森の中は歩きにくいからね」


 タクマはうなずきながら、街道や河川の位置を確かめていた。最初は自分の居場所を知りたいだけなのかと思ったが、どうやら地図そのものにも興味があるらしい。


「この辺りが全部フロンティア大公国なのか?」


「そう。大公が治めている国だよ。ノヴァグラードはその中でも大きな街のひとつかな」


「大公ってことは、王様とは違うんだよな?」


「呼び方も立場も少し違うけど、国を治める人って意味では似てるかな。周りには王国もあるし、国によって仕組みは違うけどね」


「なるほど。じゃあ、法律とか税金もあるわけだ」


「もちろん。ないと思った?」


「いや、魔法がある世界だから、政治とか社会の仕組みも全然違うのかと思って」


 私は思わず笑った。


「魔法があっても、人が暮らしてることには変わりないからね。お金は必要だし、税金も払わなきゃいけないし、悪いことをしたら捕まるよ」


「そりゃそうか」


「むしろ魔法があるからこそ、決まりが必要なことも多いかな。街中で大きな攻撃魔法を使ったら危ないし、他人の家に勝手に転移するなんてことも許されないから」


「……確かに、それは困るな」


 タクマは真面目にうなずいた。


 説明を聞く姿勢が妙にしっかりしている。分からないことがあれば途中で質問するし、話を聞いたあとには、自分の理解が正しいかどうか確かめる。何かの仕事でそういう習慣がついているのかもしれない。


 ただ、次に地図へ視線を落としたとき、彼の表情が変わった。


「……ん?」


「どうしたの?」


「いや、ちょっと待ってくれ。この地図、もう少しよく見てもいいか?」


「いいよ」


 タクマは地図を自分の方へ引き寄せ、大陸の輪郭を指でなぞった。何かを探しているようだったが、しばらくすると首をかしげ、今度は地図全体を眺め始めた。


「……似てるな」


「何が?」


「俺の知ってる地図に。この辺りの大陸の形が、なんとなく似てるんだ」


「ニホンの近く?」


「いや、日本じゃなくて、ヨーロッパっていう地域なんだけど……」


「ヨーロッパ?」


「いくつもの国が集まってる地域だよ。大陸の西側に突き出したような形になっててさ」


 タクマは地図の西側を指で示した。


「ほら、この辺りの海岸線とか、半島の形とか。細かいところは違うけど、なんとなく見覚えがある」


「へえ。それなら、タクマの国もどこかにあるんじゃない?」


「最初はそう思ったんだけど……」


 彼は少し困った顔をした。


「山の位置が違うんだよな。俺の知ってる地図だと、ここはこんな山岳地帯じゃない。それに、海岸線もよく見れば違うし、国の名前なんかひとつも分からない」


「じゃあ、似てるだけじゃない?」


「……そうかもしれない」


 タクマは地図から顔を上げ、考え込んだ。


 私には、彼が何をそんなに気にしているのか、まだよく分からなかった。大陸の輪郭が似ているというだけなら、偶然ということもあるだろう。そもそも、地図というものは描く人間によって多少形が変わる。私の持っている地図だって、すべての海岸線や山脈を正確に描いているわけではない。


 けれど、タクマにとっては重要なことらしい。


「もしかして、帰る場所が見つかると思った?」


「少しな。でも、やっぱり違うみたいだ」


「そうなんだ」


「ああ。ヨーロッパには行ったこともあるし、地図も何度も見てる。似てるのは確かだけど、同じ場所だとは思えない」


 彼はそう言って、もう一度地図を見つめた。


「……リカ。ここより東って、どうなってるんだ?」


 指が止まったのは、大陸の東へ続く辺りだった。そこから先は地図の描写も大まかになり、山脈や河川の位置も、私が普段使う地域ほど詳しくは書かれていない。


「ああ、そこから先は魔族の領域だから……。正直、よく分かんないんだよね」


「魔族?」


「うん。人間とは違う種族の人たち。魔力が強い者も多いって聞くけど、私は詳しくないかな」


「敵なのか?」


「一概には言えないよ。人間と争うこともあるけど、魔族ってひとまとめにしても、いろんな人たちがいるらしいから。ただ、国同士の行き来は難しいし、あっちの地理については正確な情報が少ないんだ」


 私がそう答えると、タクマは地図の東端をしばらく見つめていた。


「多分、もし俺の国があるとしたら、ここよりもっともっと東だ」


「そんなに遠いの?」


「ああ。ヨーロッパに似た場所がここなら、日本はずっと東の方になる。少なくとも、地球ではそうだった」


「チキュウ?」


「俺たちが住んでた世界の名前……というか、星の名前かな」


「星?」


「うん。これも説明が難しいんだけど……」


 タクマは苦笑した。


 私としては、世界と星がどう関係するのか気になるところだったが、今は彼の話を最後まで聞くことにした。


「仮にこの地図の向こうに日本があるとしても、行けば何とかなるって距離じゃないだろうな」


「そうだと思う。魔族の領域を越えるだけでも大変だろうし、その先に何があるのかも分からないから」


「だよな……。そもそも、同じ世界かどうかも分からないわけだし」


 タクマはそう言って、地図から手を離した。


 少し残念そうではあったが、無理に東へ行こうとは言い出さなかった。私が知らないというだけで、何か別の道があるのかもしれない。それでも、今ある情報だけで旅に出るのは無謀だと、彼自身も理解しているようだった。


「まあ、今すぐ答えが出る話でもないよね」


「そうだな。まずは、ここがどういう場所なのか知る方が先か」


「うん。それなら、いくらでも説明してあげる」


 私は地図を指しながら、周辺の国々や街道について話を続けた。


 ノヴァグラおードから南へ向かえば交易の盛んな街があり、西には古くから人が住む地域が広がっている。山を越える道もあるが、冬場は雪で閉ざされることが多い。国境を越える商人たちは季節によって経路を変えるし、護衛を雇うことも珍しくない。


 タクマはそのたびに質問を挟んだ。


 どんなものが交易されているのか。国境を越えるには許可が必要なのか。街道の整備は誰がしているのか。質問の内容が妙に具体的で、私は少し面白くなった。


「タクマって、そういうことが気になるんだ?」


「仕事柄かな。人や物がどう動いてるのか分からないと、街の仕組みも想像しにくくてさ」


「ふうん。じゃあ、ニホンではどうなの?」


 そう尋ねると、今度はタクマが説明する番になった。


 彼の国には、馬よりずっと速く走る乗り物があり、空を飛んで遠くの国へ行く乗り物まであるという。遠く離れた人間とも簡単に話せて、夜でも街は明るく、食べ物を冷たく保存する道具も珍しくないらしい。


 どれも信じがたい話だった。


「空を飛ぶ乗り物って、飛行魔法を使うの?」


「いや、魔法じゃない。機械だよ」


「機械だけで飛べるの?」


「ああ。大勢の人間を乗せて、海を越えたりもする」


「……すごいね」


「こっちの魔法も相当すごいと思うけどな」


 タクマはポケットから、あの黒い板を取り出した。


「例えば、これも機械のひとつだよ。スマートフォンっていうんだ」


「さっき見せてくれたやつだね」


「ああ。遠くの人と話したり、文字を送ったり、地図を見たりできる」


「地図まで?」


「うん。今は通信できないから、ほとんど使えないけど」


 彼が表面を指で触ると、見慣れない文字や絵が浮かび上がった。


 私は思わず身を乗り出した。


「これ、魔力を使ってないの?」


「電気で動いてる」


「でんき?」


「そう。ええと……電気っていうのは、いろんな機械を動かすためのエネルギーで……」


 そこでタクマは言葉に詰まった。


「……すまん。普段使ってるものなのに、ちゃんと説明しようとすると難しいな」


「いいよ。私だって魔法の仕組みを全部説明できるわけじゃないし」


 そう答えると、彼は少し安心したように笑った。


 どうやら、私たちはお互いに説明しなければならないことが山ほどあるらしい。


 それからしばらく、私たちはそれぞれの世界について話した。


 私は魔法や魔道具について説明し、タクマは機械や電気について話してくれた。私が魔力を使って火を起こせると説明すれば、彼は日本では道具を使って火を起こすのだという。水を汲むにも、部屋を明るくするにも、食べ物を冷やすにも、彼の世界では魔法を使わずに済むらしい。


 もちろん、こちらでも魔道具を利用すれば似たようなことはできる。ただし、誰もが自由に魔法を使えるわけではないし、魔道具だって安いものばかりではない。


「つまり、魔法が使える人と使えない人がいるってことか」


「そういうこと。魔力の量や適性には個人差があるし、訓練しないと使えない魔法も多いよ」


「リカは、かなり得意な方なんだろ?」


「まあね」


「森で見た限り、かなりどころじゃない気がするけどな……」


 タクマは苦笑した。


 私は少し得意な気分になったが、あまり調子に乗るのもよくない。魔法が得意だからといって、何でもできるわけではないのだから。


「そういえば、リカは冒険者なんだよな」


「うん」


「具体的には、どういう仕事をするんだ?」


「いろいろだよ。魔物の討伐、商人の護衛、薬草や鉱石の採集、行方不明者の捜索なんかもあるかな」


「仕事の種類は結構多いんだな」


「そうだね。ギルドっていう組織が依頼を仲介してくれるから、冒険者は自分に合った仕事を選ぶの」


「なるほど。個人事業主みたいなものか」


「こじんじぎょうぬし?」


「会社に雇われるんじゃなくて、自分で仕事を受ける人のこと」


「ああ、それなら近いね」


 私はうなずいた。


 タクマは、私の説明を聞くたびに、自分の知っている仕組みへ置き換えて考えているらしい。それがいつも正しいとは限らないけれど、少なくとも理解しようとしていることは伝わってくる。


「じゃあ、タクマはどんな仕事をしてたの?」


「住宅の営業だよ。家を建てたい人に説明したり、契約したり、工事の段取りを調整したりする仕事」


「家を売るって言ってたね」


「ああ。土地のことを調べたり、予算の相談を受けたり、職人さんとの打ち合わせをしたり。家が完成するまで、結構いろんなことをやるんだ」


「へえ。商人と職人の間に入る仕事なんだ」


「そういう部分もあるな。お客さんの希望を聞いて、それを形にするために、いろんな人と調整する感じかな」


「大変そう」


「まあ、楽な仕事ではないな」


 タクマは少し疲れた顔で笑った。


「特に最近は忙しくてさ。帰るのが遅くなることも多かったし、休みの日も仕事のことを考えてたりして」


「そんなに?」


「ああ。別に仕事が嫌いだったわけじゃないんだけどな。お客さんに喜んでもらえると嬉しいし、家が完成したときは達成感もある。ただ、何でもかんでも抱え込むようになると、さすがに疲れる」


 私はその話を聞きながら、少し考えた。


 冒険者にも似たような人間はいる。腕が立つからといって何でも引き受けてしまい、最後には身体を壊したり、仲間との関係を悪くしたりする者だ。


 私自身も、昔は頼まれた仕事を断るのが苦手だった。今では嫌な依頼は断るし、無理だと思ったら素直にそう伝えるようにしている。できることと、引き受けるべきことは別だと、何度も失敗して覚えたからだ。


「じゃあ、少し休めてよかった……とは言えないか」


「はは。さすがに、こんな休暇は望んでなかったな」


 タクマは笑ったが、その表情には少し寂しさが混じっていた。


「……親には連絡しないとな」


「ご両親?」


「ああ。別に毎日連絡する仲じゃないけど、突然いなくなったら心配するだろ」


「そうだね」


「会社にも連絡しないと。無断欠勤になってるだろうし」


「……こんな状況でも仕事の心配するんだ」


「いや、そりゃするよ。急にいなくなったら、他の人に迷惑かかるだろ」


 タクマは当然のことのように言った。


 私は少し感心した。自分がどうなるかも分からない状況で、残してきた人たちのことを考えられるのは、悪いことではないと思う。


 もっとも、仕事のことまで心配しているのは、少し真面目すぎる気もするけれど。


「リカの家族は?」


 不意に尋ねられて、私は少しだけ言葉に詰まった。


「いるよ。まあ、いろいろあってね」


「そっか。悪い、変なこと聞いた」


「別にいいよ。そんな深刻な話でもないし」


 私は笑って答えた。


 嘘はついていない。ただ、全部を話すつもりもなかった。


 タクマはそれ以上聞いてこなかった。何か察したのか、それとも単に興味がなかったのかは分からない。ただ、無理に聞き出そうとしないところは、ありがたかった。


 そうして話しているうちに、窓の外が少しずつ暗くなってきた。


「……そろそろ夕食にしようか」


「あ、もうそんな時間か」


「話してたら、あっという間だったね」


「ほんとだな。ずいぶん長いこと話してた気がする」


「私、説明し始めると長いんだよね」


「いや、分かりやすかったよ。助かった」


 そう言われると、少し嬉しい。


 私は地図を片付け、台所へ向かった。


 今日の夕食は、買い置きしてある肉と野菜を使った煮込み料理にするつもりだった。普段なら一人分だけ作ればいいが、今日は二人分必要になる。食材の量を考えながら棚を開けていると、タクマが後ろから声をかけてきた。


「何か手伝おうか?」


「いいの?」


「ああ。世話になってるし、料理くらいなら少しはできる」


「じゃあ、野菜を切ってもらおうかな」


 私は包丁とまな板を渡した。


 タクマは野菜を手に取り、少し不思議そうな顔をした。


「……これ、何?」


「根菜。煮込むと甘くなるよ」


「へえ。見た目は大根に似てるな」


「だいこん?」


「日本にある野菜。まあ、似たようなものかな」


 タクマは慎重に包丁を入れた。


 手つきは悪くない。料理が得意というほどではなさそうだが、普段から自炊している人間の動きだった。初めて見る食材だからか、切り方を何度か確認してくるところも、妙に几帳面だ。


「そういえば、この肉は何の肉?」


「牙獣」


「……さっき倒してたやつ?」


「違うよ。昨日買ったやつ」


「いや、そういう問題じゃなくて」


 タクマは困ったように笑った。


「魔物って食べられるんだな」


「種類によるよ。美味しいものもあれば、食べられないものもあるし、毒を持ってるものもいる」


「なるほど。じゃあ、食べられるかどうかはちゃんと調べないといけないわけか」


「そういうこと。だから、知らない魔物を勝手に食べたりしちゃ駄目だよ」


「分かった。気をつける」


 私は鍋に肉を入れ、火の魔法で加熱した。


 タクマはそれを見て、また感心したような声を上げた。


「便利だな、魔法って」


「慣れると普通だけどね」


「いや、火を起こすのに道具がいらないって、結構すごいことだと思うぞ」


「そうかな」


「少なくとも、日本じゃできない」


 私は少し得意な気分になった。


 普段は当たり前に使っている魔法を、こんなふうに驚かれるのも悪くない。


 夕食ができあがる頃には、台所にいい匂いが広がっていた。


 タクマは使った包丁やまな板を洗い、私が料理を盛り付けている間にテーブルを片付けてくれた。頼んだわけでもないのに、自然にそういうことをする。


 私は少し感心した。


 冒険者の中には、料理はできても片付けはまるでしない人間がいる。以前、一緒に仕事をした男など、食べ終わった皿をそのままにして寝てしまい、翌朝になって仲間に怒られていた。


 それに比べれば、タクマは随分と行儀がいい。


「じゃあ、食べようか」


「いただきます」


「……いただきます?」


「ああ、日本じゃ食べる前にそう言うんだ」


「へえ。どういう意味なの?」


「食べ物とか、作ってくれた人への感謝……かな。普段はそこまで意識してないけど」


「なるほどね」


 私はタクマの真似をして、同じ言葉を口にした。


「いただきます」


 食事は思った以上に賑やかだった。


 タクマは料理を美味しいと言ってくれたし、食材や調理方法についても興味深そうに質問してきた。私も日本の料理について聞いてみたが、知らない食べ物の名前が次々に出てきて、途中から覚えるのを諦めた。


 ただ、話を聞いているだけでも面白かった。


 魔法のない世界で、人々がどんなものを食べ、どんな家に住み、どうやって暮らしているのか。タクマにとっては当たり前のことでも、私にとっては知らない話ばかりだった。


 食事を終えると、タクマは再び食器を片付けてくれた。


 私は温かいお茶を用意し、二人で居間へ戻った。


「そういえば、リカ」


「何?」


「俺が元の世界に帰る方法って、何か心当たりある?」


 私は少し考えた。


 転移魔法なら使える。遠く離れた場所へ移動する方法も知っているし、固定された魔法陣を利用すれば、かなりの距離を一度に移動することもできる。


 ただし、それはあくまで、この世界の中での話だ。


「……ごめん。分からない」


「そっか」


「転移魔法っていうのはあるんだけど、基本的には行き先が分かってないと使えないの。魔法陣を使う場合も、ちゃんと準備された場所じゃないと駄目だし」


「なるほど。知らない場所へ適当に飛ぶことはできないわけか」


「そういうこと。それに、タクマの言う異世界っていうのが本当にあるとして、そこへ行く方法は聞いたことがない」


 タクマはしばらく黙り込んだ。


 私は彼の表情を見ながら、少し申し訳ない気持ちになった。


 助けた以上、何か力になれればと思う。けれど、分からないものは分からない。適当なことを言って期待させるのも違うだろう。


「ごめんね。役に立てなくて」


「いや、謝ることじゃないだろ。むしろ、ここまで教えてもらって助かってる」


「そう?」


「ああ。何も分からないままだったら、どうしようもなかったからな」


 タクマは少し笑った。


「帰る方法は、これから探すしかないか」


「そうだね。ギルドで聞いてみるのもいいと思う。いろんな情報が集まる場所だし」


「ギルドか。明日、連れていってもらえる?」


「うん。そのつもりだったし」


「助かる。ありがとう」


 タクマは素直に礼を言った。


 私はお茶を飲みながら、彼の様子を眺めた。


 落ち込んでいないわけではないだろう。元の世界に家族も仕事も残してきたのだから、心配するのは当然だ。


 ただ、今すぐ解決できないことを延々と考えても仕方がないと、本人も分かっているらしい。


「ところで、もうひとつ聞いていいか?」


「何?」


「生活費のことなんだけど」


「生活費?」


「ああ。今日泊めてもらうのはありがたいんだけど、明日からどうするか考えないといけないだろ」


「まだ明日どうするかも決まってないのに?」


「だから先に考えときたいんだよ」


 私は少し呆れた。


 こんな状況でも、随分と現実的なことを考える男だ。


「今日くらいは気にしなくていいよ」


「いや、今日のことじゃなくてさ。帰る方法がすぐ見つかるとは限らないだろ? そうなったら、宿代も食費も必要になる」


「まあ、そうだね」


「こっちの金は持ってないし、仕事を探すしかないと思ってる」


「仕事かあ……」


 私は少し考えた。


 タクマの話を聞く限り、彼は商人に近い仕事をしていたらしい。人と話すことには慣れているし、計算もできるようだ。


 ただ、この世界の文字も通貨も知らない人間を、いきなり商人として雇ってくれるところがあるかどうかは分からない。


 それなら、冒険者ギルドで相談する方が早いかもしれない。


「明日、ギルドで聞いてみようか。冒険者の仕事なら、特別な技術がなくてもできるものはあるし」


「冒険者って、俺でもなれるのか?」


「なれるかどうかは分からないけど、登録自体はできると思う。ただ、危険な仕事も多いから、無理はしない方がいいよ」


「それは分かってる。さっきの魔物だけでも、十分身に染みた」


 タクマは苦笑した。


 確かに、あの様子では魔物と戦うのは難しいだろう。


 ただ、冒険者の仕事は戦うことだけではない。採集や運搬、簡単な調査など、危険の少ない依頼もある。本人に働く意思があるなら、何かしら道は見つかるかもしれない。


「まあ、明日になってから考えよう。今日はもう疲れたでしょ?」


「ああ。正直、かなり疲れた」


「じゃあ、部屋を案内するね」


 私は立ち上がり、タクマを二階へ連れていった。


 普段は使っていない部屋だが、簡単な寝具は置いてある。時々友人が泊まりに来ることもあるので、掃除もしていた。


「ここを使って。寝具はあるし、必要なものがあれば言ってね」


「ありがとう。助かる」


「お風呂は一階にあるよ。使い方はあとで説明するね」


「風呂まであるのか」


「もちろん。毎日入るよ」


「へえ……」


 タクマは少し驚いたようだった。


 日本ではどうなのかと聞いてみると、彼の国でも風呂に入る習慣があるらしい。ただ、湯を沸かす仕組みは魔法ではなく、機械を使うという。


 どうやら、似ているところもあれば、まったく違うところもあるようだ。


 私は部屋を出る前に、少しだけ立ち止まった。


「タクマ。あと、家のことで説明しておきたいことがあるんだけど」


「ん?」


「この家、外から見えないように結界を張ってるのは説明したよね」


「ああ。さっき家が突然現れたやつだろ」


「そう。あれは家を隠すだけじゃなくて、許可のない人が近づくのを防ぐためのものでもあるの」


「なるほど。防犯用ってことか」


「まあ、そうだね。だから、勝手に外へ出ないでほしいんだ」


「……外に出ると何かあるのか?」


「結界の外へ出ること自体はできるよ。ただ、タクマにはまだ出入りの許可を与えてないから、一人で戻ろうとしても家を見つけられないと思う」


 タクマは少し考え込んだ。


「……それ、結構重要な話じゃないか?」


「だから今説明してるんでしょ」


「いや、そうなんだけどさ」


 彼は苦笑した。


「知らずに散歩にでも出てたら、戻ってこられなくなるところだったな」


「そういうこと。森には魔物もいるし、外へ出たいときは声をかけてね」


「ああ。分かった」


「それと、家の中にも入らないでほしい場所があるから」


「どこ?」


「二階の奥の部屋と、地下の魔法陣があるところ。あと、私の寝室もね」


「そりゃ当然だろ」


 タクマは少し呆れたように言った。


「人の寝室に勝手に入ったりしないよ」


「それならよかった」


「むしろ、初対面の男を泊めて大丈夫なのか、こっちが心配になるくらいだ」


「その話、森でもしたよね」


「ああ。でも、やっぱりちょっと気になってさ」


 私は小さく笑った。


 確かに、彼の言うことももっともだ。知らない男を自宅へ連れ帰るなんて、普通なら慎重になるべきことだろう。


 ただ、私にもそれなりの考えはある。


「大丈夫。私、結構強いから」


「……それも森で聞いたな」


「何度聞いても同じ答えだよ」


 タクマは困ったように笑った。


 私はそのまま廊下へ出て、結界の設定を確認することにした。


 家の結界には、侵入者を防ぐための仕組みがいくつもある。外から家を見えなくするだけでなく、許可のない人間が近づこうとすると、自然に別の方向へ歩いてしまうようにしている。


 ただ、家の中へ招き入れた人間については、別の設定が必要だった。


 私は結界を管理する魔法陣へ魔力を流し、タクマが自由に立ち入れる範囲を限定した。居間や台所、客間などは問題ないが、私の寝室や重要な魔法陣には近づけないようにしておく。


 もちろん、彼を疑っているからというだけではない。


 初対面の人間を家に泊めるなら、これくらいの用心は当然だ。相手がどれほど感じのいい人でも、何が起きるか分からない。


 それに、タクマ自身も、知らない魔法陣をうっかり触ってしまう危険がある。魔法に詳しくない人間が、転移陣や結界の制御に関わる部分へ不用意に触れるのは、決して安全なことではなかった。


 必要な制限をかけ終えると、私は自分の寝室へ戻った。


 窓の外はすっかり暗くなり、森の中から虫の声が聞こえてくる。


 私はベッドへ腰を下ろし、今日の出来事を振り返った。


 朝はいつもどおり依頼を受け、昼過ぎには魔物を倒し、帰り道で男を拾った。その男は、魔法も魔物も知らない国から来たと言い、見たこともない道具を持っていた。


 話の内容は、今でも半分くらいしか理解できていない。


 異世界というものが本当に存在するのかどうかも分からないし、タクマがどうやってここへ来たのかも分からない。


 ただ、彼が困っているのは確かだった。


 そして、話していて不快ではなかった。


 むしろ、普段なら一人で済ませる夕食が、今日は少し賑やかだった。


 タクマは人の話をよく聞くし、分からないことは素直に質問する。こちらが答えにくそうにしていると、それ以上踏み込んでこないところも悪くない。


 それに、食事の準備や片付けを自然に手伝ってくれた。


 もちろん、それだけで信用できると決めるつもりはない。


 人間というのは、最初の印象だけでは分からないものだ。七年間の冒険者生活で、それは嫌というほど学んできた。


 ただ、今のところは悪くない。


「……まあ、明日になれば分かるでしょ」


 私は小さくつぶやき、ベッドへ横になった。


 しばらくすると、廊下から小さな物音が聞こえてきた。


 タクマだろうか。


 私は耳を澄ませた。何かを引きずるような音ではない。扉が開き、少し歩いて、また閉まる音がした。


 おそらく、水でも飲みに行ったのだろう。


 私はそれ以上気にせず、目を閉じた。


 明日は街へ行くことになる。


 ギルドで事情を説明して、タクマがこれからどうするか相談する。私にできることは、そのくらいだ。


 それ以上のことは、本人が決めればいい。


 そう考えているうちに、いつの間にか眠っていた。


     *


 翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。


 窓の外からは鳥の声が聞こえ、森の木々の間に朝日が差し込んでいる。


 起き上がって顔を洗い、着替えを済ませると、階下から小さな物音が聞こえてきた。


 誰かが台所にいる。


 私は一瞬、身構えた。


 すぐに昨日の出来事を思い出したが、それでも念のため気配を確かめる。どうやらタクマらしい。


 階段を下りて居間へ向かうと、彼は台所で昨日使った食器を片付けていた。


「……何してるの?」


「あ、おはよう。昨日、世話になったからさ。せめてこれくらいはと思って」


「勝手に台所を使ったの?」


「あ、ごめん。まずかった?」


「別にいいけど。変なもの触ってない?」


「触ってない。多分」


「多分って何」


 タクマは困ったように笑った。


「いや、どれが普通の道具で、どれが魔道具なのか分からなくてさ」


「ああ、そういうことね」


 私は思わず笑った。


 確かに、魔法を知らない人間にとっては、台所の道具ひとつでも分からないことがあるのだろう。


「次からは聞いてね。危ないものもあるから」


「分かった。気をつける」


 タクマは素直にうなずいた。


 私は朝食の準備を始めた。


 パンを切り、昨日の煮込み料理を温め直す。タクマはその間、テーブルを拭き、食器を並べてくれた。


 昨日までは一人で済ませていた朝食を、今日は二人で用意している。


 少し変な感じだった。


「今日は、まず街へ行くんだよな?」


「うん。ギルドで相談してみよう」


「身分証とか、仕事のことも聞けるんだよな?」


「そうだね。全部すぐに解決するとは限らないけど、何かしら分かると思う」


「分かった。よろしく頼む」


 タクマは真面目な顔で頭を下げた。


 私はうなずき、朝食の皿をテーブルへ運んだ。


 まだ、この男のことはよく分からない。


 どこから来たのかも、どうやってここへ来たのかも、元の世界へ帰れるのかどうかも分からない。


 ただ、少なくとも今のところ、悪い人間ではなさそうだった。


 それに、話していて退屈しない。


 私は向かいの席に座ったタクマを見て、少し笑った。


「じゃあ、食べようか」


「ああ。いただきます」


「いただきます」


 昨日教わったばかりの言葉を口にすると、タクマは少し嬉しそうな顔をした。


 私はパンをちぎりながら、今日の予定を頭の中で整理した。


 まずは街へ行って、ギルドで事情を説明する。それから、タクマができそうな仕事を探してみる。必要なら、しばらくの間は私が面倒を見てもいい。


 もちろん、いつまでもというわけにはいかないだろう。


 ただ、今すぐ追い出す理由もなかった。


 何より、久しぶりに誰かと食べる朝食は、思っていたより悪くなかった。

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