第23話 なんでもない一日
目を覚ますと、隣でタクマが眠っていた。
いつもなら窓から差し込む朝日や鳥の声で目が覚めるのだけれど、今日は少し寝坊したらしい。窓の外はすっかり明るくなっていて、庭の方から小鳥の鳴き声が聞こえていた。
タクマは私の方を向いて眠っている。寝癖のついた髪が額にかかっていて、普段より少し幼く見えた。
昨夜のことを思い出して、私は思わず顔を伏せた。
……そうだった。
昨日は、タクマと一緒に寝たんだった。
自分から誘ったのだから、今さら恥ずかしがるのも変な話だと思う。それでも、こうして朝になって隣に彼がいると、どうしても意識してしまう。
少しだけ顔を上げ、もう一度寝顔を眺めてみた。
昨夜はあんなに難しい顔をしていたのに、今はずいぶん穏やかに眠っている。商隊護衛から帰ってきて、ようやく安心できたのだろうか。
私はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「……ん」
タクマが小さく声を漏らしたので、慌てて手を引っ込める。
けれど、もう遅かったらしい。彼はゆっくりと目を開け、しばらくぼんやりと私を見つめていた。
「……リカ?」
「おはよう」
「……おはよう」
タクマは眠そうに答えたあと、周囲を見回した。そして、何かを思い出したように私へ視線を戻す。
「……ああ、そっか」
「……うん」
何となく目を合わせづらくなって、私は布団を少し引き上げた。
タクマも同じなのか、照れくさそうに笑っている。
「よく眠れた?」
「うん。タクマは?」
「俺も。久しぶりにぐっすり眠れた気がする」
「そっか。よかった」
私は少し安心した。
昨日の話で、彼が抱えているものが全部なくなったとは思わない。それでも、こうして普通に眠れたのなら、少なくとも昨夜は休めたのだろう。
「じゃあ、もう少し寝ててもいいよ?」
「いや、起きるよ。もう結構明るいし」
「そう?」
「リカはまだ寝たいの?」
「……少しだけ」
タクマが笑った。
「じゃあ、もう少し寝る?」
「うん」
私は彼の方へ体を寄せた。
タクマが少し驚いたようにしたけれど、すぐに腕を回してくれる。
「……何だか、今日は甘えん坊だな」
「昨日もそうだったと思うけど」
「……それもそうか」
タクマが苦笑した。
結局、私たちが寝台から起き出したのは、それからしばらく経ってからだった。
*
朝食を食べながら、今日の予定を相談した。
昨日、どこかへ出かけようという話になっていたけれど、具体的な行き先は決めていなかった。
「今日はどうする?」
タクマがパンをちぎりながら尋ねる。
「そうだね。街でも歩こうか。タクマ、まだ行ったことのない場所も多いでしょ?」
「そうだな。ギルドと市場と、あとは何軒か店を知ってるくらいだし」
「じゃあ、今日は私が案内するよ」
「頼もしいな」
「任せて」
私は笑った。
ノヴァグラードなら、知らない場所の方が少ない。美味しい食べ物を売っている店も、景色のいい場所も、面白いものが並ぶ市場も知っている。
どこへ連れていこうか考えていると、ふと思い出した。
「あ、でもその前にギルドへ寄らなきゃ」
「依頼?」
「ううん。今日は休むって伝えておこうと思って」
タクマが少し不思議そうな顔をした。
「わざわざ?」
「今回の迷宮の件もあるし、何かあったら呼ばれるかもしれないからね。急ぎの用事がなければ、今日は休ませてもらおうかなって」
「なるほどな」
「タクマは護衛の報告、もう終わってるんでしょ?」
「うん。昨日済ませたよ」
「じゃあ、今日は二人とも休みだね」
私はパンを口に運びながら、今日の予定を考え始めた。
市場を見て回るのもいいし、少し郊外まで足を延ばしてもいい。せっかく天気もよさそうなのだから、外でゆっくり過ごすのも悪くないだろう。
*
ノヴァグラードの冒険者ギルドは、朝から賑わっていた。
依頼掲示板の前には冒険者たちが集まり、受付では報酬の支払いや依頼の確認が行われている。食堂の方からは焼いた肉の匂いが漂い、奥の卓では朝から酒を飲んでいる冒険者たちが大声で笑っていた。
私たちが受付へ向かうと、エリナがこちらに気づいた。
「あ、リカ。お帰り!」
「ただいま、エリナ」
「迷宮の件、聞いたよ。大変だったんでしょ?」
「うん。でも、みんな無事だったし、何とかなったよ」
「それならよかった。報告書を読んでるだけで疲れちゃった」
エリナは大げさにため息をついた。
それから、私の隣にいるタクマへ視線を移す。
「タクマもお帰り。護衛の仕事はどうだった?」
「ああ、まあ……いろいろあったけど、無事に終わったよ」
「そっか。お疲れ様」
エリナは笑った。
「で、今日は二人とも依頼を探しに来たの?」
「ううん。今日は休もうと思って」
「へえ。リカが自分から休むなんて珍しいね」
「そうかな?」
「そうだよ。いつもなら何か面白い依頼ない? って聞いてくるじゃない」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。私は休みの日でもギルドに顔を出すことが多いし、面白そうな依頼があれば、つい受けてしまうこともある。
「今日はタクマと街を歩こうと思って」
そう言って彼の腕に軽く触れると、エリナはすぐに察したようだった。
「ああ、なるほどね」
彼女はにやりと笑った。
「じゃあ、今日は邪魔しない方がいいか」
「そういうこと」
「はいはい。分かったよ。せっかくだから楽しんできな」
「ありがとう」
私は笑って答えた。
すると、そのときだった。
「おい、タクマ!」
背後から、よく通る男の声が聞こえた。
タクマが振り返る。
「あれ? ロイドさん?」
そこには、見覚えのある男が立っていた。
日に焼けた顔に無精ひげを生やし、腰には使い込まれた片手剣を下げている。革鎧には細かな傷がいくつもあり、長く冒険者を続けてきたことがうかがえた。
「あれ、ロイドじゃない」
私は思わず声をかけた。
ロイドもこちらに気づき、少し驚いたような顔をした。
「おお、リカか。久しぶりだな」
「元気だった?」
「見てのとおりだ。相変わらず街道を行ったり来たりしてるよ」
ロイド・ハーウェル。
商隊護衛を得意とするC級冒険者で、以前から何度か顔を合わせたことがある。腕も悪くないけれど、それ以上に面倒見がよく、護衛隊のまとめ役として信頼されている男だった。
私はタクマとロイドを交互に見た。
「もしかして、今回の護衛ってロイドがリーダーだったの?」
「おう。そうだぞ」
「そうだったんだ。タクマの面倒、ちゃんと見てくれてありがとう」
「はっはっは。何だよ、こいつの保護者かお前は」
「違うよ。恋人」
私はさらりと答えた。
ロイドは一瞬目を丸くしたあと、豪快に笑った。
「はっはっは! そうかそうか! こいつも隅に置けねえな!」
「……二人とも、勘弁してくれ」
タクマが困ったような顔をする。
私は思わず笑ってしまった。
「で、ロイド。どうしたの?」
「ああ、そうだった」
ロイドはタクマへ向き直った。
「お前、報奨金も受け取らずに帰っちまっただろ」
「……報奨金?」
タクマが首をかしげる。
ロイドは懐から小さな革袋を取り出し、彼の手へ押しつけた。
「ほれ。お前の取り分だ」
「……え?」
「賞金首だったんだよ、あいつ」
私は思わず、ロイドの顔を見た。
「賞金首?」
「ああ。街道荒らしの常習犯でな。何度も商隊を襲ってた連中の一人だったらしい。討伐が確認されて、賞金が出たんだ」
ロイドはそう説明してから、タクマの肩を軽く叩いた。
「お前、報告だけ済ませてさっさと帰っちまったからな。ギルドから金を預かって、探してたんだよ」
タクマは革袋を見つめていた。
「……でも、俺……」
「何だ?」
「……人を殺して、お金をもらうっていうのは……」
その言葉を聞いて、私は昨夜の話を思い出した。
ロイドも、彼の表情を見て何かを察したらしい。
少しだけ声を落とした。
「……勘違いすんなよ、タクマ」
タクマが顔を上げる。
「殺したから褒美が出るんじゃねえ。街道の危険を一つ減らしたから出るんだ」
「……」
「そいつが生きてりゃ、また誰かが襲われたかもしれねえ。お前が止めたことで、助かった奴がいる。それに対して出た金だ」
ロイドはタクマの肩を軽く叩いた。
「別に、喜べとは言わねえよ。ただ、受け取るもんは受け取っとけ。護衛の仕事ってのは、そういうもんだ」
タクマはしばらく革袋を見つめていた。
それから、小さくうなずいた。
「……分かりました。ありがとうございます」
「おう」
ロイドは満足そうに笑った。
けれど、どうやら話はそれだけではなかったらしい。
「それと、もう一人、お前に会いたがってる奴がいるんだよ」
「……え?」
ロイドが背後へ振り返った。
「おーい、マルセル! いたぞ!」
*
呼ばれて現れたのは、四十代後半くらいの男だった。
少し日に焼けた顔に、目尻の深い皺。丈夫そうな上着を着ているけれど、冒険者のように武装しているわけではない。どこにでもいそうな、ごく普通の働き盛りの男に見えた。
その男はタクマの姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「ああ、タクマさん!」
「……マルセルさん?」
タクマが驚いたように声を上げる。
男は足早に近づいてくると、タクマの前で立ち止まった。
そして、深々と頭を下げた。
「タクマさん。本当に、ありがとうございました」
その声は、少し震えていた。
タクマは慌てて両手を振る。
「い、いや! そんな、頭を上げてください!」
「いいえ。どうしても、お礼を言いたかったんです」
男は顔を上げた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「私はマルセル・ベルンと申します。今回の商隊で御者をしておりました」
「あ、リカです。タクマの恋人です」
私は挨拶した。
マルセルは私にも丁寧に頭を下げた。
「これはこれは。タクマさんには、本当にお世話になりました」
それから、もう一度タクマへ向き直った。
「……昨日、娘の誕生日だったんです」
「……え?」
タクマが小さく声を漏らした。
マルセルは少し照れくさそうに笑った。
「十二歳になりましてね。毎年、誕生日には必ず家に帰ると約束しているんです。今回も、何とか間に合うように仕事を終わらせまして」
彼はそこで、一度言葉を切った。
「でも、あのときは……本当に、もう駄目だと思いました」
マルセルの表情が変わった。
ほんの一瞬だったけれど、あの日の恐怖を思い出したのだろう。
「馬が暴れて、私は御者台から落ちてしまったんです。立ち上がろうとしたら、目の前に剣を持った男がいて……逃げようにも、足が動かなくて」
私は黙って聞いていた。
「剣を振り上げられたとき、もう終わりだと思いました。ああ、これで家には帰れないんだなって」
マルセルは小さく息を吐いた。
「妻と娘の顔が浮かびましてね。娘に、今年は帰れないって謝ることもできないんだなって……そんなことを考えたのを覚えています」
タクマは何も言わなかった。
ただ、じっとマルセルを見つめていた。
「でも、あなたが助けてくれた」
マルセルはタクマの手を取った。
「おかげで、私は家に帰れました」
その声が、少し震えた。
「昨日、家に帰ったら、娘が飛びついてきましてね。お父さん、お帰りなさいって。誕生日のご馳走を一緒に食べて、妻にも無事に帰ってきたことを喜んでもらえて……」
彼は照れくさそうに笑った。
「娘が言うんですよ。お父さん、今年もちゃんと帰ってきてくれたねって」
マルセルはタクマの手を、ぎゅっと握った。
「……あなたのおかげです」
タクマは、何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかったらしい。
口を開いたまま、しばらくマルセルを見つめていた。
「本当に、ありがとうございました」
マルセルがもう一度頭を下げた。
そのときだった。
タクマの目から、涙がこぼれた。
「……え?」
私は思わず声を漏らした。
タクマ自身も驚いたようだった。慌てて目元を拭うけれど、涙は止まらなかった。
「……あれ?」
彼は困ったように笑った。
「……何だ、これ……」
マルセルが慌てる。
「た、タクマさん!? どうなさいました!?」
「いや……すみません。何か……」
タクマは何度も目元を拭った。
けれど、涙は次々とこぼれてくる。
私はそっと、彼の背中へ手を添えた。
「……タクマ」
彼は私を見た。
涙で濡れた顔のまま、少し困ったように笑った。
「……ごめん。何か、分かんないんだけど……」
「……うん」
私は小さくうなずいた。
タクマが何を感じているのか、私には全部は分からない。けれど、今は無理に聞かなくてもいいと思った。
しばらくして、タクマはようやく口を開いた。
「……帰れて、よかったです」
マルセルが顔を上げる。
「……ええ」
タクマは涙を拭いながら、もう一度言った。
「……本当に、帰れてよかった……」
マルセルは何度もうなずいた。
「ええ。本当に……ありがとうございました」
私は二人のそばに立ったまま、しばらくそのやり取りを見守っていた。
*
しばらくして、タクマは顔を洗いに行った。
マルセルも、何度も頭を下げてから帰っていった。娘への土産を買って帰るのだと、嬉しそうに話していた。
私は受付の近くで待っていた。
すると、ロイドが隣へやってきた。
「……リカ、ちょっといいか」
「うん?」
ロイドは腕を組み、少しだけ声を落とした。
「あいつ、初めてだったんだろ。人を斬ったの」
私はうなずいた。
「……うん」
「だろうな」
ロイドは小さく息を吐いた。
「あの後も仕事はちゃんとやってたんだよ。怪我人の手当ても手伝ったし、周りの警戒もしてた。指示すりゃ動くし、文句も言わねえ」
彼は少し苦笑した。
「でも、妙に静かだったからな。何か考えてるんだろうとは思ってた」
私は黙って聞いていた。
「初めて人を斬った後ってのは、人によって違う。泣く奴もいりゃ、笑う奴もいる。何ともない顔して、何日も経ってから参る奴もいる」
ロイドは私を見た。
「……しっかりフォローしてやれよ」
「うん。分かってる」
私はうなずいた。
ロイドは少し笑った。
「ま、あいつは大丈夫だろうけどな」
「……そう思う?」
「ああ」
彼は迷いなく答えた。
「人のために、あんなふうに飛び出せる奴はそうそういねえよ。怖くなかったわけじゃねえだろうに、考えるより先に体が動いたんだからな」
私はその言葉を聞いて、少し嬉しくなった。
「……ありがとう、ロイド」
「何だよ。礼を言われるようなことはしてねえぞ」
「タクマと一緒に仕事をしてくれて、ありがとう」
私は笑った。
ロイドは一瞬きょとんとしたあと、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……お前も、いい女だな」
「え?」
「いや、何でもねえ」
彼は笑いながら手を振った。
「じゃあな。あいつによろしく言っといてくれ」
「うん。またね」
私は笑って見送った。
*
ギルドを出る頃には、太陽がすっかり高く昇っていた。
タクマは顔を洗ってきたおかげで、もう泣いてはいなかったけれど、少しだけ目元が赤かった。
「……ごめん。変なところ見せた」
彼が照れくさそうに笑う。
「別に変じゃないよ」
「……そう?」
「うん。私、タクマが泣くところ初めて見たかも」
「……できれば忘れてほしいんだけど」
「それは無理かな」
「おい」
タクマが困ったような顔をする。
私は笑いながら、彼の手を取った。
「さ、行こうか」
「……おう」
タクマも少し笑った。
しばらく歩いたところで、私はふと思い出したように口を開いた。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「冒険者の仕事ってね、普通のお客さん相手の商売とは、ちょっと違うんだよ」
タクマが私を見た。
「……どういうこと?」
「もちろん、お金をもらって依頼を受けるんだから、お仕事なのは同じなんだけどね。でも、それ以上に信用が大事なの」
「……信用?」
「うん。例えば、今回の護衛だってそう。依頼を出した商人が、本当に信用できる人かどうかなんて、最初から分かるわけじゃないでしょ?」
タクマは少し考えた。
「……まあ、そうだな」
「御者だって、盗賊とグルかもしれないんだよ」
彼は驚いたように目を見開いた。
「……えっ?」
「本当にあるんだよ、そういうこと。荷物の中身を盗賊に教えたり、わざと襲いやすい道を通ったり、護衛が少ないときを狙って仲間を呼んだりね」
私は少し肩をすくめた。
「だから、依頼を受ける方だって、本当は気が抜けないの。相手を信用しなきゃ仕事にならないけど、何でも信じればいいってわけでもないから」
タクマは真剣な顔で聞いていた。
「……なるほどな」
「でもね、だからこそ、ちゃんと仕事をしてくれたときは、みんなすごく喜んでくれるんだよ」
私は笑った。
「今回みたいに、命を助けてもらったなら、なおさらね」
タクマはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……何か、久しぶりだな」
「何が?」
「仕事して、こんなふうに感謝されるの」
私は少し驚いた。
「タクマの世界では、感謝されないの?」
「いや、そんなことはないよ」
彼は苦笑した。
「もちろん、ありがとうって言ってくれる人もいた。でも、俺がやってた仕事って、ちゃんとやって当たり前だったんだよ」
タクマは少し遠くを見るような顔をした。
「約束したことを守って、問題なく仕事を終わらせて、何も起きなければそれで普通。むしろ、何かあったときの方が、お客さんと話す時間は長かったかもしれない」
私は黙って聞いていた。
「……そっか」
「うん。まあ、俺の仕事がそうだったってだけかもしれないけどな」
タクマは少し笑った。
「でも、今日みたいに、真正面からありがとうって言われると……何か、すごく嬉しいんだな」
私は彼の横顔を見つめた。
「……それが、仕事のやりがいってやつなのかな」
彼はぽつりと言った。
私は少し考えてから、うなずいた。
「うん。そうだと思うよ」
タクマは私を見た。
「リカも、そういうことある?」
「もちろん。依頼を達成して、お客さんに喜んでもらえたら嬉しいよ。難しい仕事ほど、終わったときは気持ちいいしね」
「……そっか」
「それに、信用してもらえるようになると、また仕事を頼んでもらえるんだよ。冒険者にとって、それってすごく大事なことなの」
私は少し得意げに続けた。
「だから、タクマも今回の仕事で、きっと信用してもらえたと思うよ」
タクマは少し照れくさそうに笑った。
「……そうだといいな」
「うん。きっとそうだよ」
私は彼の手を握った。
すると、タクマがふと呟いた。
「……どうしよう」
「ん?」
「日本に帰りたくなくなってきた……」
私は思わず足を止めた。
「……え?」
タクマも、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
少し驚いたような顔をして、それから困ったように笑った。
「……いや、何でもない」
「……タクマ」
「日本が嫌いになったわけじゃないんだ。家族もいるし、友達もいるし……帰りたいと思う気持ちがなくなったわけじゃない」
彼は少し考えてから、続けた。
「でも、こっちで暮らしてるうちに、何か……ここにも、自分の居場所ができてきた気がしてさ」
私は黙って彼を見つめた。
「仕事もあるし、知り合いも増えたし……それに」
タクマは私を見た。
少し照れくさそうに笑う。
「……リカもいるし」
私は思わず、彼の手を握り直した。
タクマには故郷がある。大切な家族や友人もいるし、いつか元の世界へ帰りたいと思うのは当然のことだろう。
それを分かっているつもりでも、こうして一緒に過ごしていると、つい忘れてしまいそうになる。
けれど、今の言葉を聞いて、少しだけ安心した。
彼にとって、この世界での生活も、少しずつ大切なものになっているらしい。
「……そっか」
私は笑った。
「……うん」
タクマも笑った。
私は彼の手を少しだけ強く握った。
「じゃあ、もっと好きになってもらわなきゃね」
「……え?」
「ノヴァグラードを」
私は笑った。
「今日はまだまだ案内するところがあるんだから」
タクマは一瞬きょとんとしたあと、笑い出した。
「……ははっ。そうだな」
「うん。行こう」
私は彼の手を引いて歩き出した。
*
まず向かったのは、街の中央市場だった。
ノヴァグラードの市場は、いつ来ても賑やかだ。野菜や果物を売る店、肉や魚を並べた店、香辛料や布を扱う商人たちが、それぞれ声を張り上げて客を呼び込んでいる。
大公国の各地から集まった品物だけでなく、隣国から運ばれてきた珍しいものも多い。街道の要所にあるノヴァグラードは、冒険者だけでなく商人たちにとっても大切な街なのだ。
「へえ……こんなところもあったんだな」
タクマが感心したように周囲を見回している。
「どう? すごいでしょ?」
「うん。思ってたよりずっと大きいな」
「奥には布や雑貨のお店もあるし、食べ物の屋台もいっぱいあるよ」
私は市場の奥を指さした。
歩いていると、果物を売る店が目に入った。ちょうど旬の赤い果実が並んでいる。甘酸っぱくて美味しいので、私は見かけるとつい買ってしまう。
「あ、これ美味しいんだよ」
私はタクマの手を引いて店へ近づいた。
「お、リカちゃん。久しぶりだね!」
店主のおばさんが笑顔で声をかけてくる。
「こんにちは。これ、いくら?」
「一袋で五ディールだよ」
「ええ、高いよ」
「何言ってんだい。今朝入ったばかりの新鮮なやつだよ」
「でも、前は四ディールだったじゃない」
「そりゃ前の話だろう!」
私は笑いながら交渉を始めた。
しばらく話した末に、結局四ディールで一袋買うことになった。おばさんは呆れたように笑っていたけれど、最後には小さな果実を一つおまけしてくれた。
「はい、これ」
私は買った果実をタクマに渡した。
彼は何だか不思議そうな顔をしていた。
「……リカって、普通に値切るんだな」
「え? だって、高かったんだもん」
「いや、そうだけど……」
「タクマは値切らないの?」
「俺のいたところじゃ、普通は値切らないな」
私は思わず足を止めた。
「……え?」
「え?」
「値切らないの?」
「うん」
「何で?」
「何でって……値段が決まってるから?」
私は少し考えた。
「じゃあ、お店の人が高く売ってたらどうするの?」
「買わない」
「……それだけ?」
「それだけ」
私は思わず笑ってしまった。
「変なの」
「いや、こっちからすると、リカの方がすごいぞ」
「そう?」
「うん。店のおばさんと、あんなに楽しそうに値段交渉するんだもんな」
私は少し首をかしげた。
値段を交渉するのは、ごく普通のことだと思っていた。もちろん、値段が決まっている店もあるけれど、市場では店主とのやり取りも買い物の楽しみの一つだ。
でも、タクマの世界では違うらしい。
私は果実を一つ口に入れた。
甘酸っぱい味が広がる。
「……美味しい」
タクマも一つ食べて、笑った。
「うん。これは美味いな」
「でしょ?」
私は嬉しくなった。
*
市場を抜けたところで、焼き菓子を売る屋台を見つけた。
甘い香りに誘われて近づくと、丸い焼き菓子が鉄板の上に並んでいる。表面はこんがりと焼けていて、中には蜂蜜と砕いた木の実が入っているらしい。
「タクマ、これ食べよう」
「さっき果物食べたばっかりだろ」
「別腹」
「……便利な言葉だな、それ」
タクマが笑う。
私は二つ買って、一つを彼に渡した。
焼きたての菓子はまだ温かく、かじると中から蜂蜜の甘さが広がった。
「ん、美味しい」
「うん。これはいいな」
タクマも満足そうだった。
しばらく歩いていると、彼がふと思い出したように言った。
「そういえば、俺のいた世界には、こういう食べ物をいつでも買える店があったんだよ」
「いつでも?」
「うん。夜中でも開いてて、食べ物とか飲み物とか、いろんなものが売ってるんだ」
私は思わず目を丸くした。
「夜中に?」
「うん」
「お店の人、いつ寝るの?」
タクマは少し笑った。
「交代で働いてるんだよ」
「交代?」
「昼間に働く人もいれば、夜に働く人もいるってこと」
私は少し考えた。
「……大変だね」
「……確かにな」
タクマは何だか妙に納得したような顔をした。
「俺、あんまり考えたことなかったな」
「何が?」
「いや、便利だなって思って使ってたけど、そこで働いてる人たちのことは、あんまり考えてなかったなって」
私は少し首をかしげた。
「でも、夜中にお店が開いてたら、助かる人もいるんでしょ?」
「うん。もちろん」
「じゃあ、便利なものなんだね」
「そうだな」
タクマは笑った。
「でも、リカに言われると、何か違うところが気になるな」
「そう?」
「うん」
タクマの世界の話は、いつ聞いても面白い。
遠く離れた場所へ短い時間で移動できる乗り物。夜でも昼のように明るい街。誰でも簡単に遠くの人と話せる道具。
魔法を使わずにそんなことができるなんて、最初は信じられなかった。
けれど、タクマはそれを当たり前のこととして話す。
私にとっては夢のような話でも、彼にとっては日常だったのだ。
*
昼食は、市場から少し離れた食堂で取ることにした。
私が昔から気に入っている店で、煮込み料理が美味しい。冒険者になったばかりの頃、依頼の報酬が入るたびに通っていた場所でもある。
「ここ、よく来てたんだよ」
「へえ。リカの行きつけか」
「うん。昔はお金があんまりなかったから、たまにしか来られなかったけどね」
「リカにも、そんな時期があったんだな」
「あるよ。私だって最初からA級だったわけじゃないんだから」
私は少しむくれた。
タクマは笑っている。
「いや、何か想像つかなくてさ」
「ひどいなあ」
「ごめんごめん」
私は頬を膨らませたけれど、すぐに笑ってしまった。
注文した煮込み料理が運ばれてくると、タクマは一口食べて目を丸くした。
「……美味いな、これ」
「でしょ?」
「うん。肉がすごく柔らかい」
「ここの煮込みはね、朝からずっと火にかけてるんだって」
私は得意げに説明した。
店主のおじさんが教えてくれた話によると、肉を柔らかくするために何種類かの香草を使い、弱火でじっくり煮込んでいるらしい。詳しい作り方は秘密だと言われたけれど、私はいつか自分でも作ってみたいと思っていた。
「リカって、料理も好きだよな」
「うん。食べるのも好き」
「それは知ってる」
「……もう」
タクマが笑う。
私は少しだけ睨んでから、煮込みを一口食べた。
やっぱり美味しい。
こんなふうに好きな人と一緒に食べると、いつもより美味しく感じるのだから不思議だった。
*
昼食を終えた私たちは、街の外へ向かうことにした。
ノヴァグラードの城門を抜けると、街道の両側には畑が広がっている。遠くには森が見え、その向こうには低い山々が連なっていた。
今日は天気がよく、風も穏やかだった。
畑では農夫たちが作業をしていて、道端には小さな花が咲いている。街の喧騒から離れると、鳥の声や風の音がよく聞こえるようになった。
「……気持ちいいな」
タクマが大きく息を吸った。
「でしょ?」
「うん。街の中も面白かったけど、こういうところもいいな」
私は笑った。
ノヴァグラードの郊外には、景色のいい場所がいくつもある。依頼の帰りに立ち寄ったり、気分転換に散歩したりすることもあった。
今日は、その中でも私のお気に入りの丘へ案内するつもりだった。
道を歩いていると、タクマがふと思い出したように言った。
「そういえば、リカ」
「ん?」
「最近、魔法が結構役に立ってるんだよ」
「そうなの?」
「うん。最初は火を出すだけでも大変だったけど、最近は少し慣れてきた」
私は少し嬉しくなった。
タクマは魔力の出力が小さい。だから、大きな魔法を使うことは難しいけれど、その代わりに小さな魔法を工夫して使っている。
「どんなふうに使ってるの?」
「例えば、野営のときに火を起こしたり、濡れた薪を乾かしたり。あと、暗いところで小さな明かりを作るのも便利だな」
「へえ。いいじゃない」
「うん。リカが教えてくれたおかげだよ」
タクマは笑った。
「最初は魔法なんて全然使えなかったのに、今じゃ結構助かってる」
「それはよかった」
私は素直に嬉しくなった。
魔法は、何も戦うためだけのものではない。生活を便利にしたり、仕事を楽にしたり、ちょっとした困りごとを解決したりするためにも使える。
タクマは魔力が少ないからこそ、そういう使い方をよく考えているのかもしれない。
「そういえば、リカの魔法もすごいよな」
「え?」
「この前の迷宮の話、聞いたけどさ。俺の小さい火の魔法を参考にしたって言ってたろ?」
「ああ、うん。あれね」
私は少し笑った。
「タクマの魔法を見て、必要なところだけに力を集中させるって考え方を思いついたんだよ」
「……そんなことできるんだな」
「できるよ。ちょっと難しいけどね」
「……ちょっと?」
タクマが疑わしそうな顔をする。
私は思わず笑ってしまった。
「まあ、普通の魔法よりは難しいかな」
「だろうな」
タクマも笑った。
「でも、俺の魔法が役に立ったなら嬉しいよ」
「うん。ありがとう」
私は彼の手を取った。
「これからも、いろんなこと教えてね」
「……俺が?」
「そうだよ。タクマの世界の話、面白いもん」
タクマは少し考えた。
それから、笑った。
「……分かった。俺も、リカにいろいろ教えてもらうよ」
「うん」
私は笑ってうなずいた。
*
丘に着いた頃には、太陽が少し傾き始めていた。
ノヴァグラードの街並みが眼下に広がり、その向こうには森や街道が続いている。遠くの山々は薄い青色に霞み、空には白い雲がゆっくりと流れていた。
「……すごいな」
タクマが感心したように呟いた。
「でしょ?」
私は笑った。
「ここ、私のお気に入りなんだ」
「うん。いいところだな」
私たちは丘の上に腰を下ろした。
草の上は少し冷たかったけれど、日差しが温かく、風も心地よかった。
しばらくの間、二人で景色を眺めていた。
街道を行き交う荷馬車が、小さく見える。
商人たちが荷物を運び、旅人たちが街へ向かって歩いている。遠くから眺めていると、みんな小さな点のように見えるけれど、その一人一人に、それぞれの暮らしがあるのだ。
私はぼんやりとそんなことを考えていた。
すると、タクマが小さく口を開いた。
「……あの御者のおじさんさ」
「うん?」
「娘さんの誕生日に帰れたんだな」
私は彼を見た。
タクマは街道の方を眺めていた。
「うん」
「……よかったよな」
私はうなずいた。
「うん。よかったね」
タクマはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「俺さ、まだあのときのこと、思い出すと思う」
「うん」
「たぶん、忘れられないんだろうな」
私は黙って彼の話を聞いた。
「でも……今日、あの人に会えてよかった」
「うん」
「ちゃんと、帰ってきた人がいたんだって分かったから」
私は彼の手を握った。
「タクマも、帰ってきたよ」
彼は私を見た。
私は笑った。
「私のところに、ちゃんと帰ってきてくれた」
タクマは少し驚いたような顔をした。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そうだな」
「うん」
私は彼の肩へ頭を預けた。
風が草を揺らし、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
しばらくの間、私たちは何も話さなかった。
*
夕日が街を赤く染め始めた頃、タクマが小さく言った。
「……今日は楽しかったな」
私は顔を上げた。
「でしょ?」
「うん。特別なこと、何もしてないけど」
「それがいいんじゃない?」
私は笑った。
「こういう日が、私は好きだよ」
タクマも笑った。
「……俺も」
私はもう一度、彼の肩へ寄りかかった。
今日一日を思い返す。
朝、タクマの隣で目を覚ましたこと。ギルドでマルセルさんに会ったこと。市場で果物を買って、焼き菓子を食べて、くだらない話をしたこと。
そして、こうして二人で夕日を眺めていること。
どれも、特別なことではないのかもしれない。
けれど、私はこういう時間が好きだった。
明日になれば、また依頼を受けて、魔獣と戦って、時には怖い思いもするのだろう。それでも、休みの日にはこうして一緒に過ごせるのなら、悪くないと思う。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「また、こういう日を作ろうね」
タクマは私を見た。
それから、優しく笑った。
「……うん。そうしよう」
私は彼の手を握り直した。
そろそろ帰らないと、暗くなってしまう。
そう思いながらも、もう少しだけここにいたくて、私は彼の肩へ寄りかかったまま、夕日を眺めていた。




