第22話 違う世界で生きてきた二人
「人を殺したこと、ある?」
タクマの問いかけに、私はすぐには答えられなかった。
聞かれたことが理解できなかったわけではない。むしろ、その質問が何を意味するのかは、痛いほどよく分かっていた。冒険者として七年間も生きていれば、魔獣だけを相手にしていられるわけではない。街道には盗賊が出るし、依頼によっては人間同士の争いに巻き込まれることもある。相手の命を奪わずに済んだこともあれば、そうできなかったこともあった。
ただ、それをタクマから尋ねられる日が来るとは思っていなかった。
彼は食卓越しに私の手を握ったまま、返事を待っている。責めるような目ではなかった。答えを知ることが怖いのに、それでも聞かずにはいられなかったような、そんな表情をしていた。
「……あるよ」
私は正直に答えた。
タクマは驚かなかった。どこかで予想していた答えだったのだろう。小さくうなずくと、私の手を握ったまま、しばらく食卓の上へ視線を落としていた。
「……そっか」
「うん」
「……初めてのとき、どうだった?」
その質問を聞いた瞬間、私は胸の奥が小さく沈むのを感じた。
今回の護衛の仕事で、何かがあったのだ。
帰ってきてからのタクマの様子を思い返す。抱きしめれば抱きしめ返してくれたし、私の話にも笑って答えてくれた。それでも、時折見せる遠い目や、何かを言いかけて飲み込むような仕草が気になっていた。
疲れているだけではない。そう感じていた理由が、ようやく分かった気がした。
「……タクマ」
「うん」
「護衛の仕事で、何かあったんだね?」
彼は少しだけ目を伏せた。否定しなかったことが、何よりの答えだった。
私は握っていた手に、ほんの少しだけ力を込める。
「……話してくれる?」
タクマはしばらく黙っていた。
無理に聞き出したいわけではなかった。けれど、彼が一人で抱えているものがあるのなら、できれば私にも分けてほしかった。何ができるかは分からないけれど、少なくとも、話を聞くことくらいはできるはずだから。
やがて、タクマが小さく息を吐いた。
「……盗賊が出たんだ」
*
商隊が襲われたのは、ノヴァグラードから二日ほど離れた街道だったらしい。
林に挟まれた道を荷馬車が進んでいたところへ、突然、武装した男たちが飛び出してきた。護衛の冒険者たちはすぐに応戦したものの、馬が暴れ、御者たちが混乱したことで、隊列はあっという間に乱れてしまったという。
「最初は、何が起きてるのかよく分からなかったんだ。怒鳴り声がして、馬が暴れて、誰かが剣を振り回してて……気づいたら、俺も剣を抜いてた」
タクマは、思い出したことを一つずつ確かめるように話し始めた。
「でも、実際に人と戦うつもりなんてなかった。護衛の人たちが何とかしてくれると思ってたし、俺にできるのは、指示された場所で馬車を守ることくらいだと思ってた」
私は黙って聞いていた。
タクマはハーケンに剣術を教わり、魔獣との戦闘も経験している。けれど、人間を相手にした実戦は初めてだったはずだ。剣を向けてくる相手が、自分と同じように言葉を話し、考え、恐怖を感じる人間であるという事実は、戦い慣れていない者にとって大きな負担になる。
それに、タクマはもともと戦うために生きてきた人ではない。こちらへ来るまで剣を握った経験はあっても、それを人の命を奪うために使うことなど、考えたこともなかっただろう。
「それで、護衛の一人が倒されて、盗賊が馬車の方に来たんだ。御者のおじさんが逃げようとして転んでさ。その人に向かって、盗賊が剣を振り上げた」
私の手を握る指に、わずかに力がこもった。
「……気づいたら、走ってた」
「うん」
「止めなきゃって思ったんだ。あのおじさんが殺されるって、それしか考えてなかった」
タクマはそこで言葉を切った。
私は続きを促さなかった。彼の口から語られるのを待ちながら、握った手を離さないようにしていた。
「……剣が、入ったんだ」
しばらくして、タクマは静かに言った。
「俺、あんなに簡単に刺さると思ってなかった。稽古で木の人形を相手にしてるときとは全然違って……でも、思ってたより抵抗がなくて」
彼は自分の右手を見つめていた。
「相手が俺を見たんだよ。すごく驚いた顔で。何か言おうとしてたけど、声にならなくて……そのまま倒れた」
私は思わず、彼の手を握り直した。
タクマは私の手を一度だけ見て、それから話を続けた。
「しばらく動けなかった。でも、御者のおじさんが俺の名前を呼んで、それで我に返ったんだ」
彼は小さく笑った。
「……助かったって思った」
「……うん」
「御者のおじさんが助かって、俺も無事で。よかった、間に合ったって。それが最初に思ったことだったんだ」
私は何も言わず、彼の話を聞いていた。
「その後も普通に動けた。怪我した人を運んで、荷物を片付けて、護衛の人たちと一緒に周りを確認して……夜になったら飯も食った」
タクマは少しだけ肩をすくめた。
「食欲がなくなるとか、吐くとか、そういうのもなかった。疲れてたから、普通に眠れたし」
「……そうだったんだ」
「うん。俺さ、もっとひどいことになると思ってたんだよ」
「ひどいこと?」
「人を殺したら、もっと何かが変わると思ってた。怖くて動けなくなるとか、後悔して眠れなくなるとか……そういうものだと思ってたんだ」
彼は私を見た。
「でも、普通だった」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、戸惑いだけがあった。
「……普通に生きてるんだよ、俺」
タクマは視線を落とした。
「それが、何か怖くてさ」
私は彼の言葉を、すぐには理解できなかった。
人を殺してしまったことが怖いのなら分かる。相手の顔を思い出して眠れなくなることも、剣を握るのが嫌になることも、珍しい話ではない。
けれど、タクマは普通に生活できている自分を怖がっている。
それが私には、少し不思議だった。
*
「……でも、タクマが助けなかったら、その人は殺されてたんでしょ?」
私は少し考えてから、そう尋ねた。
「……うん」
「だったら、仕方なかったと思うよ」
それは、私の正直な気持ちだった。
相手が人間だからといって、目の前で誰かが殺されるのを黙って見ているわけにはいかない。命を奪わずに止められるなら、それが一番いい。けれど、実際の戦闘では、そんな余裕がないことも多い。相手の剣が振り下ろされようとしているときに、どうすれば傷つけずに済むかなどと考えていたら、助けられる命まで失ってしまうかもしれない。
タクマは御者を守ろうとした。その結果、盗賊が死んだ。
私は、その選択を責めるつもりはなかった。
「……そうだよな」
タクマは小さくうなずいた。
けれど、その表情は晴れなかった。
「……違った?」
私が尋ねると、彼は首を振った。
「いや。リカの言うとおりだと思う。俺も、あのとき助けに行ったことは後悔してないし、もう一回同じことが起きても、たぶん同じようにすると思う」
「……うん」
「でもさ、それと人を殺したことって、別なんだよな」
私は黙って彼を見つめた。
「助けられてよかった。でも、人を殺してしまった。どっちも本当で……何ていうか、うまく整理できないんだ」
タクマは困ったように笑った。
「俺、変なこと言ってる?」
「……ううん」
私は首を振った。
変だとは思わなかった。ただ、私が考えていたこととは少し違っていた。
私にとって、命を奪うことは、時として生き残るために必要な選択だった。もちろん、何も感じないわけではない。けれど、戦わなければ自分や仲間が死ぬ状況で、敵を倒したことをいつまでも悔やみ続けるわけにはいかない。
それが、私の知っている世界だった。
でも、タクマは違う。
彼は人を殺すことが当たり前ではない世界から来た。剣を持って戦う必要もなく、街道で盗賊に襲われる心配もなく、少なくとも彼が暮らしていた場所では、明日も今日と同じように生活できることが当たり前だった世界。
だからこそ、彼はこんなにも戸惑っているのだろう。
私は握っている手を見つめた。
この手は、私の知らない世界で二十五年間を過ごしてきた手なのだ。
剣を握ることも、魔法を使うことも、命を奪うことも必要としなかった日々が、彼にはあった。その時間の中で育まれた考え方を、私はまだ十分に知らない。
そして、彼もまた、私の生きてきた時間を知らないのだ。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「私が初めて人を殺したときの話、聞く?」
彼は少し驚いたように顔を上げた。
「……いいの?」
「うん。あんまり楽しい話じゃないけどね」
私は少しだけ笑った。
そして、七年前のことを思い出した。
*
初めて人を殺したのは、冒険者になって間もない頃だった。
私はまだ十五歳で、王宮を出てからそれほど時間が経っていなかった。魔法には自信があったし、魔獣との戦闘にも困っていなかったけれど、旅の経験はほとんどなかった。街道を一人で歩くことにも、野宿をすることにも、まだ慣れていなかった頃の話だ。
今思えば、ずいぶん無防備だったと思う。
街道を歩いていると、三人組の男に声をかけられた。最初は道を尋ねられただけだと思ったけれど、すぐに様子がおかしいことに気づいた。男たちは私を囲むように立ち、金を出せと言い始めたのだ。
私は断った。
すると、一人が剣を抜いた。
今なら、もう少しうまく対処できたと思う。相手の動きを封じることもできただろうし、逃げるだけなら難しくなかったかもしれない。けれど、当時の私は突然剣を向けられたことに驚いていた。学院で学んだ魔法戦闘と、街道で見知らぬ男に囲まれることは、まるで違う出来事だった。
男が近づいてきた。
私は反射的に魔法を使った。
炎が男の体を包み、彼はその場に倒れた。残りの二人は悲鳴を上げて逃げていったけれど、私は追いかけることもできず、ただ倒れた男を見つめていた。
魔法は、いつもと同じように発動した。
魔力を集め、術式を構築し、炎を生み出す。学院で何度も繰り返した動作だったし、魔獣を倒すときにも使っていた。難しいことは何もなかったし、失敗したわけでもなかった。
けれど、そのとき倒れたのは人間だった。
私と同じように言葉を話し、考え、笑ったり怒ったりする人間。
その男は、もう動かなかった。
「……私ね、最初は何が起きたのか分からなかったんだ」
私はタクマに話した。
「魔法を使ったら、相手が倒れた。それだけのことなのに、何だか現実じゃないみたいで」
タクマは黙って聞いていた。
「でも、しばらくして気づいたの。私、人を殺したんだって」
「……怖かった?」
「うん。怖かったよ」
私はうなずいた。
「でもね、人を殺したことだけじゃなくて、自分が思ってたより簡単に殺せたことが怖かった」
あのとき、私は炎の魔法を使うことに迷わなかった。
相手が剣を抜いたから、私は魔法で対抗した。それは私にとって、ごく自然な反応だった。学院で教わったとおり、危険な相手を素早く無力化しようとしただけだった。
けれど、その結果として人が死んだ。
自分が使い慣れた魔法で、人間が死んでしまった。
その事実が、当時の私には恐ろしかった。
「……それから、どうしたの?」
タクマが尋ねた。
「近くの街まで行って、衛兵に事情を話したよ。調べてもらって、正当防衛だって認められた」
「……そっか」
「うん。でも、しばらくは思い出したよ。あの人が倒れたときのこと」
私は少しだけ視線を落とした。
あの頃は、夜になると何度も同じ場面を思い出した。自分が魔法を使わなければ、あの男は死ななかったのではないか。もっと弱い魔法を使えばよかったのではないか。逃げることはできなかったのか。
考えれば考えるほど、別の選択肢はいくつも浮かんできた。
けれど、どれも後から考えたことだった。
実際に剣を向けられたあの瞬間、私にはそんな余裕などなかった。
「……今でも覚えてる。でも、ずっと同じ気持ちでいるわけじゃないかな」
タクマは私を見つめた。
「……どうして?」
私は少し考えた。
どうしてだろう。
時間が経ったから、と言えば簡単かもしれない。けれど、それだけではない気がした。
「……たぶん、生きていかなきゃいけなかったから、かな」
私は答えた。
「私、冒険者になったばかりだったし、まだ何も知らなかった。毎日いろんなことが起きて、失敗もいっぱいして……立ち止まってばかりいられなかったんだと思う」
タクマは黙って聞いていた。
「それにね、あのとき魔法を使わなかったら、私は死んでたかもしれない。だから、後悔してるかって聞かれたら、してないよ」
私は彼の目を見た。
「でも、忘れたわけじゃない」
タクマはゆっくりとうなずいた。
*
しばらくの間、私たちは黙っていた。
食卓の上には、冷めかけた煮込み料理が残っている。窓の外では夜の森が静まり返り、時折、風が木々を揺らす音が聞こえていた。
タクマは私の話を考えているようだった。
私は、彼が何か言うまで待つことにした。
やがて、彼が小さく口を開いた。
「……リカはさ」
「うん?」
「人を殺すの、嫌じゃない?」
私は少し驚いた。
けれど、すぐに答えた。
「……嫌だよ」
タクマが顔を上げる。
「できれば、誰も殺したくない。戦わずに済むなら、その方がいいと思ってる」
「……そっか」
「でも、そうできないこともあるから」
私は静かに続けた。
「この世界ではね、タクマ。人の命って、案外簡単になくなっちゃうんだよ」
それは、私が七年間で何度も見てきた現実だった。
魔獣に襲われて命を落とす人がいる。盗賊に襲われて帰ってこない商人がいる。病気や怪我で亡くなる人もいるし、戦争が始まれば、昨日まで普通に暮らしていた人たちが突然いなくなることもある。
王宮にいた頃は、そんなことを深く考えたことがなかった。
もちろん、歴史や政治の授業では戦争について学んだし、国を治める者として人の命を守ることの大切さも教えられた。けれど、知識として知っていることと、実際に目の前で誰かが死ぬことは違う。
冒険者になってから、私はそれを何度も思い知らされた。
昨日まで一緒に酒を飲んでいた冒険者が、翌日には帰ってこないこともある。家族のために働いていた商人が、街道で命を落とすこともある。そんな知らせを聞くたびに悲しくなるし、できることなら誰にも死んでほしくないと思う。
けれど、私たちは生きていかなければならない。
悲しんでいる間にも朝は来るし、お腹は空く。依頼を受けなければ生活できない人もいれば、守るべき家族が待っている人もいる。
だからこそ、みんな今日という日を大切にしているのだと思う。
「……だからね、私は、今日を大事にしたいんだ」
私は言った。
「明日も絶対に生きてるなんて、誰にも分からないでしょ?」
タクマは黙ってうなずいた。
「だったら、今日楽しかったことは、今日楽しかったって思いたい。美味しいものを食べたら美味しいって言いたいし、会いたい人がいたら会いに行きたい」
私は少し照れくさくなって、笑った。
「……タクマにも、会いたかったし」
彼は驚いたように私を見た。
それから、少しだけ笑った。
「……俺も、会いたかったよ」
「うん」
私は嬉しくなった。
けれど、タクマはまだ何か考えているようだった。
しばらくして、彼が呟いた。
「……俺、ずっと逆に考えてたのかもしれないな」
「逆?」
「うん」
タクマは少し考えてから、言葉を続けた。
「俺がいた世界ってさ、少なくとも俺が暮らしてた場所では、明日も普通に生きてることが当たり前だったんだよ」
私はうなずいた。
タクマの故郷については、これまでも何度か話を聞いていた。大きな街があって、遠くまで移動できる乗り物があって、病気や怪我を治す技術も発達している。もちろん、危険がまったくないわけではないらしいけれど、少なくとも日常生活で命の危険を感じることはほとんどなかったという。
「だから、やりたいことがあっても、いつかやればいいって思ってた。会いたい人がいても、また今度でいいって」
彼は苦笑した。
「でも、この世界に来て、リカと出会って……そういうの、ちょっと変わったんだよな」
「……そうなの?」
「うん」
タクマは私を見た。
「リカってさ、やりたいと思ったこと、すぐやるだろ?」
「……そうかな?」
「そうだよ。行きたいところがあったら行くし、食べたいものがあったら食べるし、会いたい人がいたら会いに行く」
私は少し考えた。
確かに、そうかもしれない。
王宮にいた頃は、やりたいことがあっても自由にできなかった。だからこそ、今は自分の気持ちを大切にしたいと思っている。
「……それって、変?」
「いや」
タクマは首を振った。
「俺、そういうところが好きなんだと思う」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
タクマは少し照れくさそうに笑った。
「リカって、ちゃんと今を生きてる感じがするんだよ。俺、それがすごく眩しかった」
私は何も言えなくなった。
そんなふうに思われていたなんて、知らなかった。
私は自分が特別な生き方をしているとは思っていなかった。やりたいことをやって、好きなものを食べて、会いたい人に会いに行く。それは私にとって、ごく普通のことだった。
けれど、タクマには違って見えていたらしい。
私が彼の考え方を新鮮に感じるように、彼もまた、私の生き方に何かを感じていたのだ。
そう思うと、何だか不思議だった。
*
タクマはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
「……俺さ、やっぱり人を殺すのは嫌だよ」
「……うん」
「できれば、もう二度としたくない」
「うん」
「でも、あのとき御者のおじさんを助けたことは、後悔してない」
私は彼の目を見つめた。
「……うん」
「それで、俺が生きて帰ってきたことも、よかったって思ってる」
タクマは少し笑った。
「リカに会えて、嬉しかったし」
私は思わず微笑んだ。
「……私もだよ」
「うん」
彼は私の手を握り直した。
「だから、もう少し時間はかかると思うけど……俺、ちゃんと受け止めたい」
私はうなずいた。
タクマが人を殺したという事実は、消えるわけではない。彼が感じた恐怖も、戸惑いも、すぐになくなるものではないだろう。
でも、彼は自分なりに答えを見つけようとしている。
それが、何だか嬉しかった。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「私ね、タクマのそういうところ、好きだよ」
彼は少し驚いたように私を見た。
「……そういうところ?」
「うん。人を殺したことを、ちゃんと考えてるところ」
私は言った。
「この世界では、仕方ないって言って終わりにしちゃう人もいるから。でも、タクマはそうじゃないでしょ?」
「……まあ、そうかもしれないけど」
「私は、それが好き」
私は少し笑った。
「タクマはきっと、殺さなくていい人を、簡単に殺したりしないと思うから」
タクマは困ったように笑った。
「……そんな立派な人間じゃないよ、俺」
「そうかな?」
「そうだよ。怖かったし、必死だったし……あのときだって、何も考えてなかった」
「でも、御者の人を助けたんでしょ?」
「……うん」
「だったら、私はそれで十分だと思う」
私は彼の手を握った。
「それにね、タクマ。私たち、同じじゃなくてもいいと思うんだ」
「……同じじゃなくても?」
「うん」
私は少し考えてから、続けた。
「私が当たり前だと思ってることが、タクマには当たり前じゃない。タクマが大事にしてることが、私にはよく分からないこともある」
タクマは黙って聞いている。
「でも、それって悪いことじゃないと思うの。だって、タクマと話してると、私が知らなかった考え方をいっぱい知れるから」
私は笑った。
「……それが、楽しいんだよ」
タクマはしばらく私を見つめていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……俺も、そうだよ」
「うん」
「リカと一緒にいると、俺の知らなかったことばっかりでさ。大変なこともあるけど……でも、楽しい」
私は嬉しくなった。
何だか、胸の奥が温かくなる。
タクマは私の手を握ったまま、少し照れくさそうに言った。
「……ありがとう、リカ」
「どういたしまして」
私は笑って答えた。
*
食事を終えた後、私たちは一緒に食器を片付けた。
いつもと同じように、タクマが皿を洗い、私がそれを拭いて棚へ戻す。そんな何でもない作業をしているうちに、少しずつ普段の空気が戻ってきた。
タクマはまだ時々考え込むような顔をしていたけれど、さっきまでのように無理に笑おうとはしなくなっていた。
それが、私には嬉しかった。
彼が何を考えているのか、全部分かるわけではない。
でも、分からないことがあっても、一緒にいられる。
それだけで、今は十分だと思えた。
片付けを終えると、私たちは居間の長椅子へ並んで座った。
タクマが少しだけ体を寄せてくる。
私はその肩へ頭を預けた。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「明日、何か予定ある?」
「……特にないかな」
「じゃあ、どこか行かない?」
タクマは少し考えた。
「……いいな、それ」
「でしょ?」
「うん。ちょっと、外を歩きたい」
私は笑った。
「じゃあ、決まり!」
何をするかは、まだ決めていない。
街へ行って買い物をしてもいいし、森の中を散歩してもいい。美味しいものを食べに行くのも楽しそうだ。
そんなことを考えていると、タクマが小さく笑った。
「……リカって、本当に楽しそうだな」
「だって、楽しいもん」
「そっか」
彼は私の頭を軽く撫でた。
私はその手の温かさを感じながら、目を閉じた。
しばらくの間、私たちは何も話さなかった。
窓の外では、夜の森が静かに広がっている。遠くから虫の声が聞こえ、時折、風が木々を揺らす音がした。
私はタクマの肩へ寄りかかったまま、ぼんやりと考えていた。
私たちは、違う世界で生きてきた。
生まれた場所も、育った環境も、当たり前だと思っていることも違う。
きっと、これからも分からないことはたくさんあるのだろう。
でも、それでいい。
全部同じである必要なんてない。
私はタクマの知らないことを知っているし、タクマは私の知らないことを知っている。
だからこそ、一緒にいると楽しいのだと思う。
「……タクマ」
「ん?」
「……好きだよ」
私は小さく言った。
タクマは少し驚いたようだったけれど、すぐに笑った。
「……俺も、好きだよ」
私は顔を上げた。
彼の目が、すぐ近くにあった。
何だか急に恥ずかしくなって、少しだけ視線を逸らす。
けれど、タクマは私の頬へそっと手を添えた。
「……リカ」
「……なに?」
「キスしてもいい?」
私は思わず笑ってしまった。
「……今さら聞くの?」
「いや、まあ……一応」
タクマも少し照れくさそうに笑った。
私は彼の首へ腕を回した。
「……いいよ」
そして、ゆっくりと唇を重ねた。
最初は短いキスだった。
けれど、離れようとしたとき、タクマがもう一度私を抱き寄せた。私は少し驚いたけれど、すぐに目を閉じて、彼の腕の中へ体を預けた。
さっきまで感じていた小さな距離が、少しずつ消えていくようだった。
私は彼の胸に手を置いた。
鼓動が、少し速い。
きっと、私も同じだと思う。
唇が離れると、タクマは少し困ったように笑った。
「……何か、今日は離したくないな」
私は胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
「……私も」
そう答えると、タクマはもう一度私を抱きしめてくれた。
私はその腕の中で、しばらくじっとしていた。
タクマの温かさが、嬉しかった。
生きて帰ってきてくれたことが、嬉しかった。
そして、今こうして一緒にいられることが、何より嬉しかった。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
私は少しだけ顔を上げた。
彼の目を見つめる。
「……今日は、一緒に寝ない?」
タクマは目を丸くした。
「……え?」
「……嫌?」
「いや、嫌じゃないけど……」
私は少し笑った。
「じゃあ、いいでしょ?」
タクマはしばらく私を見つめていた。
それから、照れくさそうに笑った。
「……うん」
私は彼の手を取った。
そして、立ち上がる。
「……行こ?」
タクマは私の手を握り返した。
「……うん」
私は彼を寝室へ連れていった。
扉を閉める前に、ふと振り返る。
タクマは少し緊張した顔をしていたけれど、私と目が合うと、優しく笑った。
私はその笑顔を見て、思わず笑い返した。
明日も、きっといろんなことがある。
楽しいことも、困ることも、時には悲しいことだってあるだろう。
それでも、今は。
今夜だけは、何も考えずに彼と一緒にいたかった。
私は扉を閉めた。




