第19話 恋人という約束
冒険者ギルドの空気が、いつもと違っていた。
朝の依頼掲示板には普段どおり人だかりができていたけれど、今日は依頼書を選ぶ者よりも、互いに顔を寄せ合って話し込んでいる者の方が目立っている。受付の奥では職員たちが慌ただしく書類を運び、普段はあまり見かけない軍服姿の男まで出入りしていた。
数日前、北東の迷宮で通常より強力な魔獣が確認されたという話を聞いたばかりだった。あれから新しい情報が入ったのだろうか。周囲の会話に耳を傾けてみると、どうやら事態は私が思っていた以上に深刻らしい。
「リカ、ちょっといいか」
受付へ向かおうとしたところで、フリーダに呼び止められた。彼女の隣にはクルシュがいて、二人とも普段より真剣な表情をしている。
「どうしたの?」
「迷宮の件だ。どうやら、思ってたより面倒なことになってるらしい」
フリーダは顎でギルドの奥を示した。
「ギルド長が高ランクの連中を集めてる。お前も呼ばれると思うぜ」
「……何か新しく分かったの?」
「詳しいことはこれからだ。ただ、軍まで動くって話が出てる」
「軍が?」
私は思わず聞き返した。
冒険者ギルドと大公国軍が協力すること自体は、そこまで珍しい話ではない。街道の安全確保や大規模な魔獣討伐では、互いに役割を分担することもある。けれど、迷宮内部の問題に軍が関わるとなれば、単なる強力な魔獣の発見だけでは済まないのかもしれない。
タクマも気になったらしく、私の隣でギルドの奥を見つめていた。
「結構、大きな話になってるんだな」
「うん。何があったんだろう……」
そう話していると、奥の扉が開いた。
「リカ、フリーダ、クルシュ。入ってくれ」
姿を現したのはバルザックだった。
いつもなら多少の冗談を交えて話すこともあるギルド長だけれど、今日はその表情にも余裕がない。私たちを呼ぶと、すぐに部屋へ引き返そうとした。
「タクマ、ちょっと話を聞いてくるね」
「うん。俺はここで待ってるよ」
タクマは笑って答えた。
「せっかくだから、エリナさんに依頼の相談でもしてみる」
「そっか。じゃあ、終わったら声をかけるね」
以前なら、彼を一人でギルドに残すことに不安を覚えたかもしれない。けれど今のタクマは、簡単な依頼書なら自分で確認できるし、受付の人たちとも普通に話せる。分からないことがあれば誰かに尋ねることもできるから、私がつきっきりで面倒を見る必要はなくなっていた。
それは喜ばしい変化のはずなのに、少しだけ寂しく感じてしまう。
そんな自分に苦笑しながら、私はフリーダたちと会議室へ向かった。
*
会議室には、すでに十数人の冒険者が集まっていた。
見覚えのある顔も多い。普段から難度の高い依頼を受けている者や、迷宮の探索を専門としている者たちだ。壁際には武装した軍人も数人立っていて、机の上には北東の迷宮とその周辺を描いた地図が広げられている。
その中に、アルブレヒトの姿もあった。
彼は私に気づくと、いつもの整った笑みを浮かべて会釈した。私は軽く頭を下げるだけに留め、少し離れた席へ向かった。
「リカ」
部屋の隅から声がした。
振り返ると、シエラが小さく手を上げている。
「シエラも来てたんだね」
「うん。迷宮の地形を知ってるから、話を聞いておこうと思って」
「そっか。今回も一緒に仕事ができるかもしれないね」
「そうだね。よろしく」
シエラは穏やかに笑った。
彼女は森や山での活動に慣れているだけでなく、地形を覚えるのも得意だ。今回のように、複雑な迷宮の中で複数の部隊が行動する作戦なら、その能力は大いに役立つだろう。
やがて全員が揃うと、バルザックが部屋の前に立った。
「集まってもらったのは、北東の迷宮についてだ。すでに耳にしている者も多いと思うが、数日前、通常より強力な魔獣が確認された」
彼は地図の一部を指した。
「当初は深部から迷い出た個体だと考えていた。だが、その後の調査で、さらに厄介な問題が見つかった」
バルザックは一度言葉を切り、全員を見回した。
「迷宮内の複数の区域で、魔獣の数が異常に増えている」
室内がざわついた。
「一種類だけじゃないのか?」
前列に座っていた冒険者が尋ねる。
「ああ。確認されただけでも四種類だ。普段なら深部にいるはずの魔獣が浅い区域まで出てきているうえ、同じ種類の個体が異常な密度で集まっている場所もある。調査隊の報告を総合すると、迷宮全体で魔獣の分布が変わり始めている可能性が高い」
私は地図へ視線を落とした。
迷宮では、もともと多くの魔獣が生息している。外の森や草原とは環境が異なり、魔力の濃い場所には特定の魔獣が集中することも珍しくない。それでも、通常はそれぞれの生息域があり、魔獣同士の縄張り争いや捕食関係によって、ある程度の均衡が保たれている。
ところが、複数の種類が同時に増え、しかも本来の生息域を離れて移動しているとなれば、話は変わってくる。
「原因は分かっているのですか?」
クルシュが尋ねた。
「いや、まだだ。迷宮の奥で何かが起きている可能性もあるが、今のところ確証はない。強力な個体の出現が原因なのか、異常増殖と同じ原因による結果なのか、それすら判断できていない」
バルザックは地図の外縁部を指した。
「問題は、このまま魔獣が増え続けた場合だ。迷宮内で餌や縄張りが不足すれば、押し出された個体が外へ出てくる可能性がある」
その言葉を聞いて、私は地図の周辺へ目を向けた。
迷宮からそう遠くない場所には、交易路が通っている。その先には小さな開拓集落が点在し、農地や牧草地も広がっていた。魔獣が一匹、二匹現れる程度なら、巡回する冒険者や現地の警備兵で対処できるだろう。
けれど、まとまった数が押し寄せた場合は別だ。
街道が使えなくなれば物資の輸送が滞り、開拓集落が襲われれば住民の避難も必要になる。まして迷宮から出てきた魔獣が周辺の森へ散ってしまえば、討伐には相当な時間と人手がかかるはずだ。
「……スタンピードの前触れってことか?」
フリーダが低い声で尋ねた。
「そこまでは断定できん。だが、その可能性を考慮しなければならない状況だ」
バルザックは真剣な表情で答えた。
「大公国軍とも協議した結果、被害が出る前に手を打つことになった。迷宮内の魔獣を大規模に間引き、数を減らす」
今度は、先ほどより大きなどよめきが起きた。
迷宮の魔獣を討伐する依頼は珍しくない。けれど、今回は特定の魔獣を倒すのではなく、迷宮内の個体数そのものを減らそうとしている。それだけでも相当な規模になるだろうし、何より原因が分からないまま作戦を進めなければならない。
「軍は迷宮周辺の警戒と補給拠点の設営、それから退路の確保を担当する。内部の討伐は、迷宮での戦闘経験がある冒険者を中心に行う予定だ」
バルザックは地図にいくつかの印をつけた。
「複数の隊を編成し、浅い区域から順に魔獣を減らしていく。ただし、今回の目的はあくまで個体数の抑制と、外部への流出を防ぐことだ。原因の調査も並行して行うが、無理に深部へ進むつもりはない」
私はその説明に納得した。
原因が分からないまま迷宮の奥へ突っ込むのは危険だ。たとえ高ランク冒険者を集めても、地形や敵の数によっては思わぬ損害を受ける。今回のような大規模作戦では、一人の強さよりも、部隊全体の連携や補給の方が重要になる場面も多いだろう。
「リカには主力の一隊に加わってもらいたい。フリーダ、クルシュも同じ隊だ。シエラには斥候を頼む」
「分かった」
「任せとけ」
「承知しました」
私たちはそれぞれ答えた。
シエラも小さくうなずく。
その後、作戦の日程や集合場所、必要な装備について説明が続いた。出発は数日後。迷宮内での活動は少なくとも数日間を見込んでいて、状況によってはさらに延びる可能性もあるらしい。
私は話を聞きながら、タクマのことを考えていた。
当然ながら、今回の作戦にE級の彼は参加できない。
それは仕方のないことだし、むしろ参加させるべきではない。今回のような作戦では、敵の強さだけでなく、長時間の戦闘や集団行動に耐えられる経験も必要になる。今のタクマには、まだ難しい仕事だ。
頭ではそう分かっているのに、何日も離れることになると思うと、やっぱり寂しかった。
*
会議が終わって受付へ戻ると、タクマはエリナと何やら話をしていた。
机の上には数枚の依頼書が並んでいて、彼はそのうちの一枚を指さしながら説明を聞いている。エリナが何かを伝えるたびに、タクマは手元の紙へ短い言葉を書き込んでいた。
「何してるの?」
私が声をかけると、タクマが振り返った。
「あ、リカ。ちょうどよかった」
「何か依頼を探してたの?」
「うん。リカが迷宮に行くなら、俺もその間に仕事をしようと思って」
タクマは依頼書を持ち上げた。
「これ、商隊の護衛補助なんだけど」
「……護衛?」
私は思わず聞き返した。
エリナが説明を引き継いだ。
「近郊の交易路を往復する商隊よ。護衛にはC級とD級の冒険者がつくから、タクマは荷物の管理や見張りが中心になるわ。E級でも受けられる補助枠なの」
「でも、護衛ってことは、魔獣が出る可能性もあるんだよね?」
「もちろんゼロじゃないわ。ただ、今回の道は比較的安全な街道だし、経験のある護衛が同行するから、危険度は高くないと判断されてる」
私は依頼書を覗き込んだ。
目的地はノヴァグラードから数日ほど離れた交易町で、往復の日程も書かれている。タクマは簡単な地名や日数を読み取れているようだったけれど、細かな条件についてはエリナに確認していたらしい。
文字を学び始めた頃の彼は、短い単語を読むだけでも苦労していた。それが今では、自分で依頼書を選び、分からない部分を確認しながら仕事を探している。まだ複雑な文章を読むのは難しいけれど、冒険者として必要なことを少しずつ身につけているのだ。
「俺、こういう仕事なら役に立てると思うんだ」
タクマが言った。
「荷物の管理とか、商人とのやり取りとか。剣だけで護衛するわけじゃないだろ?」
「……うん」
確かに、そのとおりだった。
タクマは以前、故郷で商売に関わる仕事をしていたと話していた。人と話すのも上手だし、荷物の整理や予定の確認も得意だ。冒険者としての戦闘経験はまだ少ないけれど、それ以外の部分で役に立てることは多いだろう。
それに、護衛の仕事では、魔獣と戦うことだけが重要なわけではない。荷物を安全に運び、予定どおり目的地へ到着することが本来の目的なのだから、戦闘を避けるための判断や、商人たちとの連携も必要になる。
「それに、リカが帰ってくるまで何もしないで待ってるのも、何だか違う気がしてさ」
彼は少し照れくさそうに笑った。
私はその顔を見て、先日の帰り道で交わした会話を思い出した。
いつかは、私と釣り合う男になりたい。
タクマはそう言っていた。
あれは、その場の勢いで口にした言葉ではなかったのだろう。彼は本当に、自分にできることを探し、少しずつ前へ進もうとしている。
「……分かった」
私はうなずいた。
「でも、絶対に無理しないでね」
「うん。約束する」
「危険だと思ったら、すぐに下がること。勝てそうだからって、一人で戦おうとしないで」
「分かってるよ」
「それから、夜の見張りも無理して引き受けすぎないこと。疲れてると判断が鈍るんだから」
「……リカ」
「なに?」
「まだ依頼を受ける前なんだけど」
タクマが苦笑した。
私は少し恥ずかしくなった。
「だ、だって心配なんだもん!」
エリナが笑いをこらえながら、依頼書をタクマへ差し出した。
「まあ、心配してくれる人がいるのはいいことよ。タクマ、正式に受けるなら、出発前に護衛隊の責任者と顔合わせをしてね」
「はい。お願いします」
タクマは依頼書を受け取った。
私はその横顔を見つめながら、少し複雑な気持ちになっていた。
彼が自分の意思で仕事を選ぶことは嬉しいし、冒険者として成長していく姿を見るのも楽しい。けれど、その仕事が私の目の届かない場所へ彼を連れていくのだと思うと、どうしても心配になってしまう。
私は彼を守りたい。
でも、彼が自分の力で歩こうとしているのなら、その気持ちも大切にしてあげたい。
その二つを両立させることが、今の私には思っていた以上に難しかった。
*
数日後の作戦に向けて、ギルドはますます慌ただしくなっていった。
参加する冒険者たちは装備の確認や物資の調達を進め、軍との連絡役が何度もギルドを出入りしている。普段は依頼の受付で賑わう建物が、今では大きな作戦の準備拠点になっているようだった。
私も必要な魔石や薬品を確認し、フリーダたちと集合場所や行動予定を相談した。今回は数日間の活動になるため、食料や寝具の準備も必要になる。軍が補給拠点を設営してくれるとはいえ、迷宮内部では自分たちの装備が頼りだ。
その途中で、アルブレヒトに声をかけられた。
「リカ殿」
振り返ると、彼はいつものように整った笑みを浮かべていた。
「今回の作戦では、同じ隊になる可能性もあるようですね」
「そうなの?」
「ええ。まだ正式な配置は決まっていませんが、私は前衛として参加する予定ですので」
「そっか。よろしくね」
私は当たり障りのない返事をした。
アルブレヒトは少し嬉しそうに微笑んだ。
「ところで、作戦前に一度、お食事でもいかがでしょうか。先日はゆっくりお話しする機会もありませんでしたし」
私は内心でため息をついた。
また、その話だ。
「ごめんね。前にも言ったけど、そういうつもりはないんだ」
「もちろん、すぐにお返事をいただこうとは思っておりません。ただ、互いを知る機会くらいはあってもよいのでは?」
「……ううん。遠慮しておく」
私はできるだけはっきりと答えた。
けれど、アルブレヒトは簡単には引き下がらなかった。
「リカ殿。私はあなたの実力を高く評価しております。先日の討伐でも、その素晴らしさを改めて感じました。だからこそ、冒険者としてだけでなく、一人の女性としても、あなたのことをもっと知りたいのです」
悪意があるわけではないのだろう。
少なくとも、彼自身は真剣なのかもしれない。先日の討伐では、優れた剣術を持つ冒険者であることも分かったし、戦闘中は仲間の意見を聞くこともできていた。
だからといって、私が彼の誘いを受けなければならない理由にはならない。
相手の実力を認めることと、個人的に親しくなりたいと思うことは別の話だ。まして、何度も断っているのに同じ誘いを繰り返されると、どうしても困ってしまう。
「……あのね、アルブレヒト」
もう一度、はっきり断ろうとしたところで、横から声がした。
「リカ」
シエラだった。
「そろそろ打ち合わせの時間だよ」
「……あ、うん!」
私は思わず彼女を見た。
確かに、この後には作戦についての打ち合わせが予定されている。けれど、まだ少し時間があったはずだ。
シエラは何でもない顔で続けた。
「先に行って、資料を確認しておこう」
「うん。そうする」
私はアルブレヒトへ向き直った。
「ごめんね。仕事があるから」
「……そうですか。では、またの機会に」
彼は残念そうに答えた。
私たちはその場を離れた。
廊下へ出ると、シエラが小さく息を吐いた。
「……大変だね」
「ほんとにね」
私は苦笑した。
「助かったよ、シエラ」
「別に。ちょうど通りかかっただけ」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。
「でも、嫌なら、もっとはっきり断ってもいいと思う」
「……断ってるつもりなんだけどなあ」
「うん。見てた」
シエラは短く答えた。
その声はいつもと変わらなかったけれど、私は何となく、彼女が少しだけ真剣な顔をしているように感じた。
「リカがどうしたいかが、一番大事だと思うよ」
「……うん。ありがとう」
私が答えると、シエラは穏やかに微笑んだ。
その後は何事もなかったように作戦の話を始めたので、私もそれ以上は気にしなかった。
ただ、彼女の言葉は、しばらく私の心に残っていた。
私がどうしたいか。
そんなこと、本当はもう決まっているのに。
*
その夜、私たちは少し遅めの夕食を取っていた。
食卓には、タクマが作ってくれた煮込み料理が並んでいる。最近の彼は料理の腕もずいぶん上達していて、私が帰りの遅い日には、先に夕食を準備してくれることも増えた。
「……おいしい」
「よかった。今日は少し味付けを変えてみたんだ」
タクマは嬉しそうに笑った。
私はもう一口食べながら、彼の顔を見つめた。
こうして二人で食卓を囲む時間が、いつの間にか当たり前になっていた。
少し前まで、この家で誰かと暮らすことになるなんて考えもしなかった。まして、その相手を好きになって、キスまでしてしまうなんて。
思い出すと、今でも少し恥ずかしい。
けれど、あの日から私たちの関係は、何となく曖昧なままだった。
お互いの気持ちは、たぶん分かっている。
タクマは私と釣り合う男になりたいと言ってくれたし、私も今の彼が好きだと伝えた。それなのに、私たちはまだ、はっきりと恋人になろうと話したことがない。
別に、今の関係が嫌なわけではなかった。
一緒に暮らして、食事をして、時には手をつないで歩く。それだけでも十分幸せだったし、急いで何かを変える必要はないと思っていた。
でも、今日のアルブレヒトとのやり取りを思い出すと、少し考えてしまう。
私はもう、他の誰かと親しくなりたいとは思っていない。
そのことを、もっとはっきり伝えてもいいのではないだろうか。
私はスプーンを置いた。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「ちょっと、相談があるんだけど」
タクマも手を止めた。
「どうした?」
「その……」
私は言葉を探した。
いざ口にしようとすると、急に恥ずかしくなってくる。
別に、今さら気持ちを隠す必要なんてないはずだ。あの日、私からキスをしたのだから、タクマだって私の気持ちは分かっているだろう。
それでも、はっきりと言葉にするのは、どうしてこんなに難しいのだろう。
「……もう、対外的には付き合ってるってことで、いいかな?」
タクマが目を瞬かせた。
「……対外的には?」
「う、うん」
「それって、どういう意味?」
私は急に恥ずかしくなった。
「だって、ほら。今回みたいなこともあるし……。誰かに誘われるたびに、いちいち説明するのも面倒でしょ?」
「うん」
「だから、その……。タクマと付き合ってるって言えたら、いいなって」
言い終わってから、私は自分でも少し情けなくなった。
どうしてこんな回りくどい言い方をしているのだろう。
本当は、もっと簡単なことなのに。
タクマはしばらく考えていた。
その沈黙が、妙に長く感じられる。
「……リカ」
「な、なに?」
「リカは、それでいいの?」
「……うん」
「俺でいいの?」
私は思わず顔を上げた。
タクマは真面目な表情で私を見ていた。
その目を見た瞬間、胸の奥にあった迷いが、すっと消えた気がした。
この人は、きっと私の言葉を待ってくれているのだ。
私がどうしたいのか。
それを、ちゃんと聞こうとしてくれている。
「……タクマがいいの」
私ははっきりと答えた。
「他の誰かじゃなくて、タクマがいい」
タクマは少し驚いたように私を見つめた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そっか。じゃあ、俺もそれがいい」
「……ほんと?」
「うん。俺だって、リカと付き合いたいと思ってたから」
私はほっと息を吐いた。
けれど、その直後、タクマが少し首を傾げた。
「でもさ、リカ」
「なに?」
「対外的に、だけ?」
「……え?」
「いや、さっきそう言ったから。外では恋人ってことにして、家では今までどおりって意味なのかなって」
私は一瞬、言葉を失った。
そして、自分が何を言ってしまったのか理解した。
「ち、違う!」
思わず大きな声が出た。
「そういう意味じゃなくて! ちゃんと、その……!」
タクマは少し笑っている。
……もしかして、分かっていて聞いている?
「じゃあ、俺たち、本当に付き合うってことでいいんだよな?」
彼は優しく尋ねた。
私は顔が熱くなるのを感じながら、小さくうなずいた。
「……うん」
「そっか」
タクマは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、改めて。よろしく、リカ」
「……うん。こちらこそ」
私は照れくさくなって、思わず視線を落とした。
たったそれだけの会話だった。
けれど、不思議なことに、胸の奥がじんわりと温かくなっていた。
今までだって、一緒に暮らしていた。
手もつないだし、キスもした。
それなのに、恋人という言葉を交わしただけで、何かが変わったように感じられる。
私はもう、タクマのことを好きだと隠さなくていい。
誰かに尋ねられたら、堂々と恋人だと言っていいのだ。
そう思うと、何だか嬉しくて、少し笑ってしまった。
「……何笑ってるの?」
タクマが不思議そうに尋ねた。
「何でもない」
「そう?」
「うん。ただ、嬉しいだけ」
そう答えると、タクマも照れくさそうに笑った。
その顔を見て、私はますます嬉しくなってしまった。
*
夕食を片づけた後、私はタクマを家の外へ連れ出した。
「ちょっと、やっておきたいことがあるの」
「何?」
「転移魔法陣の設定を変えようと思って」
タクマは不思議そうな顔をした。
「設定?」
「うん。今までは、私が一緒じゃないと森の外からこの家へ戻ってこられなかったでしょ?」
「そうだね」
「でも、これからはタクマ一人でも出入りできるようにしたいの」
私たちの家は、森の奥にある。
周囲には認識を妨げる魔法が施されていて、普通の人間が偶然たどり着くことは難しい。さらに、街との行き来には転移魔法陣を使っているため、これまでは私が同行しなければ、タクマは自由に出入りできなかった。
最初は、それで問題なかった。
タクマがこの世界へ来たばかりの頃は、一人で街へ出ることさえ難しかったし、私も彼を放っておくつもりはなかった。けれど、冒険者として仕事を始めた今では、彼にも彼自身の予定がある。
私が先に帰る日もあれば、タクマが先に帰る日もあるだろう。今回のように、何日も別々の依頼を受けることだって、これからは増えていくかもしれない。
そのたびに、私がいなければ家へ戻れないというのは不便だった。
「……でも、いいの?」
タクマが尋ねた。
「何が?」
「この家、リカにとって大事な場所なんだろ? そんなに簡単に、俺が自由に出入りできるようにしても」
私は少し驚いた。
彼はそんなことを気にしていたのか。
確かに、この家は私にとって特別な場所だ。
王宮を飛び出してから、私は自分の居場所を探し続けてきた。誰にも命令されず、誰にも干渉されず、自分の意思で暮らせる場所。そんなものを手に入れるために、私は冒険者になり、少しずつ生活を整えてきた。
この家は、その象徴のようなものだった。
森の奥に隠れ、認識阻害の魔法で守り、必要なときだけ街へ出る。誰かに見つけられることも、勝手に踏み込まれることもない。私が望んでいた自由は、確かにここにあった。
だから、以前の私なら、他人に自由な出入りを許すなんて考えもしなかっただろう。
けれど、今は違う。
この家には、もう一人暮らしている。
私が帰ると、迎えてくれる人がいる。
そして、その人と一緒にいる時間が、今では何より大切になっていた。
「……いいよ」
私は笑った。
「タクマなら」
「……リカ」
「だって、もう私たち、恋人なんでしょ?」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
タクマも照れくさそうに笑った。
「……そうだな」
私は転移魔法陣へ手をかざした。
淡い光が浮かび上がり、足元に刻まれた術式がゆっくりと輝き始める。私は魔法陣に組み込まれた認証の条件を調整し、タクマの魔力の特徴を登録していった。
魔法陣は、登録された人物の魔力を識別して起動する仕組みになっている。複雑な術式ではあるけれど、一度登録してしまえば、本人が難しい操作をする必要はない。
ただし、タクマの魔力はまだ弱い。
彼は四つの属性に適性があるものの、魔法の出力は決して高くない。私は彼の微弱な魔力でも確実に認識できるよう、認証の条件を調整した。
もちろん、誰でも使えるようにしたわけではない。タクマの魔力だけを識別するように設定してあるので、他人が勝手に魔法陣を起動することはできない。
「……これでよし」
私は手を離した。
「タクマ、ちょっと試してみて」
「俺が?」
「うん。魔法陣の中央に立って、いつもみたいに意識を向けてみて」
タクマは少し緊張した様子で魔法陣へ立った。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
足元に淡い光が広がった。
「……おお」
タクマが驚いたように声を漏らした。
魔法陣は問題なく反応している。
「成功だね」
「すごいな。俺でも使えるんだ」
「使えるようにしたんだよ」
私は少し得意げに笑った。
その後、認識阻害の魔法についても調整し、タクマが森の中で迷わず家へたどり着けるようにした。転移先から家までは少し歩く必要があるけれど、彼ならもう道を覚えているだろう。
ただし、他の人間が勝手についてきても家へ入れないよう、認識阻害の条件は慎重に設定した。タクマ本人には効果が及ばず、同行者には従来どおり働くようにしてある。
「これで、タクマ一人でも家と街を行き来できるよ」
「……ありがとう」
タクマは真面目な顔で言った。
「大事にするよ」
私は少し笑った。
「家のこと?」
「それもだけど」
彼は私を見た。
「リカが信用してくれたこと」
その言葉に、私は胸の奥がくすぐったくなった。
「……もう」
私は照れ隠しに、彼の腕を軽く叩いた。
「そういうこと、さらっと言わないでよ」
タクマは笑った。
私はその顔を見つめながら、改めて思った。
この人になら、私の大切な場所を預けてもいい。
それは、魔法陣の設定を変えることよりも、ずっと大きな変化なのかもしれなかった。
*
その夜、私たちはそれぞれの荷物を準備していた。
私は迷宮で使う道具や薬品を確認し、タクマは商隊の護衛補助に必要なものを揃えている。彼は簡単な文字で書いた持ち物の一覧を見ながら、一つずつ荷物を確かめていた。
「水、食料、予備の服……。あとは薬か」
「回復薬は多めに持っていってね」
「うん。エリナさんにも言われた」
「それから、夜はちゃんと休むこと。見張りを頼まれても、無理して全部引き受けちゃ駄目だよ」
「分かってるって」
タクマは苦笑した。
「リカ、さっきから同じこと何回も言ってるよ」
「……だって、心配なんだもん」
私は小さく答えた。
タクマは少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
「……うん」
「それに、これでリカが先に帰ってきても、俺が先に帰ってきても、ちゃんと家に戻れるんだろ?」
「そうだね」
「じゃあ、帰ってきたら一緒に飯食おう」
彼は笑った。
「どっちが先に帰ってきても、待ってる方が何か作っておくってことで」
私はその言葉を聞いて、思わず微笑んだ。
以前の私なら、依頼から帰ってきても、誰もいない家へ一人で戻るだけだった。疲れていれば簡単な食事を済ませ、気が向けば街で誰かと飲んで帰る。それが当たり前だったし、特別寂しいとも思わなかった。
けれど、今は違う。
誰かが帰りを待ってくれている。
そして、私も誰かの帰りを待つことができる。
それが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかった。
「……うん。約束」
私はうなずいた。
タクマは少し照れくさそうに笑った。
私はその顔を見つめているうちに、何となく近づきたくなった。
「……タクマ」
「ん?」
「ちょっと、こっち向いて」
彼が振り返る。
私は少し背伸びをして、そっと唇を重ねた。
ほんの短いキスだった。
離れると、タクマは少し驚いた顔をしていた。
「……リカ?」
「……恋人なんだから、いいでしょ?」
私は恥ずかしくなって、視線を逸らした。
タクマはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく笑った。
「……うん。もちろん」
そして、今度は彼の方から私の手を取った。
その温かさが、何だか嬉しかった。
明日から、私たちは別々の道を歩く。
私は迷宮へ向かい、タクマは商隊の護衛として街を離れる。どちらの仕事にも危険はあるし、予定どおりに帰れるとは限らない。それでも、私たちはそれぞれの意思で仕事を選び、同じ場所へ帰ってくることを約束した。
タクマはもう、自分の足で歩き始めている。
彼がこの世界へ来たばかりの頃は、私が手を引かなければ何もできなかった。言葉は通じても、文字は読めず、魔法もほとんど使えない。冒険者としての経験もなく、何をするにも私の助けが必要だった。
けれど、今は違う。
彼は自分で仕事を探し、自分の判断で行動しようとしている。もちろん、まだ危なっかしいところもあるし、私が守らなければならない場面も多いだろう。それでも、彼は確かに成長している。
私はそのことを、心から嬉しく思っていた。
そして、私自身も変わったのだと思う。
自由になりたくて王宮を飛び出した私は、ずっと誰にも縛られずに生きることを望んでいた。誰かと一緒に暮らすことも、帰りを待つことも、以前なら面倒だと思っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
誰かと一緒にいることが、必ずしも自由を失うことではないのだと、ようやく分かり始めた。
森の奥の小さな家。
誰にも邪魔されず、自由に暮らすために作った、私だけの隠れ家。
いつの間にかそこは、私たち二人の家になっていた。
私はつないだ手を少しだけ強く握った。
タクマも、それに応えるように握り返してくれる。
明日からしばらく会えなくなるのは寂しいけれど、帰ってきたら、また一緒に食卓を囲めばいい。今日あったことを話して、互いの仕事の愚痴を言い合って、くだらないことで笑えばいい。
そんな当たり前の未来を思い浮かべながら、私は恋人になったばかりの彼と、もう少しだけ夜を過ごすことにした。




