第17話 冒険者と貴族
冒険者ギルドには、いくつもの依頼掲示板がある。
討伐、採取、護衛、運搬。依頼の内容はさまざまで、難易度や必要な資格によって掲示される場所も分かれている。冒険者たちは自分の実力や経験を考えながら仕事を選び、必要に応じて仲間を集める。それが、この街では毎朝繰り返されている光景だった。
そして今日、タクマは初めてE級の依頼掲示板の前に立っていた。
「……結構、種類が増えるんだな」
彼は掲示された依頼書を眺めながら、感心したように呟いた。
「そうだね。F級の頃より少し遠くまで行く依頼も増えるし、魔獣が出る可能性のある場所での仕事も受けられるようになるよ」
「なるほどなあ」
タクマはうなずき、依頼書を一枚ずつ眺めていた。
この世界へ来たばかりの頃、彼は文字をほとんど読むことができなかった。けれど、最近は簡単な単語や、日常的によく使われる表記なら分かるようになってきている。ギルドへ通ううちに依頼の種類や報酬の単位も覚えたらしく、掲示板の前で立ち尽くすようなことはなくなった。
もちろん、細かな条件や注意事項まで一人で読み取れるわけではない。それでも、少し前まで何も分からなかった文字から、今では自分の仕事を探そうとしているのだから、大した進歩だと思う。
「これ、街道の調査って書いてあるよね?」
タクマが一枚の依頼書を指さした。
「うん。街道沿いの魔獣被害調査だね。最近、荷馬車が襲われることが増えてるみたい」
「調査ってことは、討伐が目的じゃないんだ?」
「そうだよ。足跡や被害の状況を確認して、ギルドに報告する仕事。危険な魔獣が見つかったら、無理に戦わずに戻ってくることになってる」
「なるほど。それなら、俺にもできることがありそうだな」
タクマは興味深そうに依頼書を見つめた。
昨日、E級へ昇格したばかりだというのに、彼はもう次の仕事を考えているらしい。とはいえ、いきなり難しい討伐依頼を受けようとしているわけではない。自分に何ができるかを考えながら仕事を選ぼうとする姿勢は、私としても安心できるところだった。
そんなことを考えていると、背後から聞き慣れた声がした。
「よう、新米E級!」
振り返ると、フリーダが腕を組んで立っていた。
「おはよう、フリーダ!」
「おはようございます」
「おう。早速E級の依頼を物色してんのか?」
「はい。どんな仕事があるのかなと思って」
タクマが答えると、フリーダは掲示板へ目を向けた。
「ふうん。まあ、いい心がけだな」
そう言ってから、彼女はタクマの肩を軽く叩いた。
「でもな、昇格したからって調子に乗るなよ?」
「……いきなりですね」
タクマが苦笑する。
私も笑いかけたけれど、フリーダの表情が思いのほか真剣だったので、口を閉じた。
「冗談じゃねえぞ。E級になったばかりの奴には、毎回言ってるんだ」
フリーダは掲示板を見上げた。
「F級はな、自分が何も知らねえってことすら分からずに死ぬ奴がいる。魔獣を甘く見たり、危険な場所へ平気で踏み込んだりしてな」
「……はい」
「でも、E級はもっと厄介なんだよ」
彼女はタクマへ視線を戻した。
「少し仕事ができるようになって、何度か魔獣を倒して、自分なら何とかなるって思い始める。そういう奴が、ある日いきなり帰ってこなくなるんだ」
タクマの表情が引き締まった。
フリーダは普段、細かいことを気にしないように見える。けれど、冒険者としての経験は豊富だし、危険に対する判断も慎重だ。彼女がこういう話をするときは、必ず何か理由がある。
「……そうなんですね」
「あたしが昔組んでた奴にもいたよ。腕は悪くなかったし、頭も回る奴だった。けど、ちょっと難しい依頼を続けて成功させたら、急に自信をつけちまってな」
フリーダは少しだけ目を細めた。
「次の依頼で、引き返すべきところを進んじまった。仲間が止めたのに、自分なら大丈夫だって。結局、そいつだけ帰ってこなかったよ」
私は黙って話を聞いていた。
フリーダが長く冒険者を続けてきたことは知っているけれど、その間にどれだけの仲間を失ってきたのか、詳しく聞いたことはなかった。普段は明るく振る舞っている彼女にも、きっと忘れられない経験がいくつもあるのだろう。
「タクマ、お前は筋がいいと思う。剣の腕も伸びてるし、仕事も丁寧だ。だからこそ言ってんだ」
フリーダは少し身を屈め、タクマの目を見た。
「できることが増えたのと、何でもできるようになったのは違うぞ」
タクマはしばらく黙っていた。
そして、真剣な表情でうなずいた。
「……はい。覚えておきます」
「おう。それでいい」
フリーダはようやく笑った。
「ま、今のお前なら大丈夫だと思うけどな。分かんなきゃ聞くし、無理そうなら引く。それができる奴は、案外しぶといもんだ」
「褒められてるんですよね?」
「もちろんだ!」
フリーダが豪快に笑った。
そのとき、受付の方からエリナが声をかけてきた。
「フリーダ、今の話、聞こえてたわよ」
「おう、エリナ」
エリナは書類を抱えたまま、私たちのところへ歩いてきた。
「タクマ、フリーダの言うことはちゃんと聞いておいてね。受付にいると、昇格したばかりの人が少し無理をするのを何度も見るから」
「うん」
「昨日まで普通に話していた人が、次の日には帰ってこないこともあるの。特にE級になったばかりの人は、今まで受けられなかった依頼を選びたくなるみたい」
エリナは少し寂しそうに笑った。
「私たち受付は、依頼を紹介するのが仕事だけど……できれば、みんな無事に帰ってきてほしいのよ」
その言葉には、普段の明るい彼女とは違う重みがあった。
エリナは、帰ってこなかった冒険者の名前を何度も名簿から消してきたはずだ。冒険者にとっては一度きりの失敗でも、受付にいる彼女たちは、同じような悲劇を何度も見送らなければならない。
「E級になったことは本当に嬉しい。でも、次の昇格を急がなくていいからね」
エリナはタクマへ微笑んだ。
「うん。ありがとう、エリナ」
タクマが答える。
私はその横顔を見ながら、少しだけ考え込んでいた。
私にとって、E級の依頼はほとんど危険を感じない仕事ばかりだ。多少強い魔獣が出てきても、魔法で対処できる。だから、タクマがどんな危険に直面するのか、つい自分の感覚で考えてしまうことがある。
けれど、彼は私ではない。
彼には彼の実力があり、彼にとっての危険がある。私が一緒にいるときは守ってあげられるけれど、いつも隣にいられるとは限らない。
だからこそ、自分で危険を見極め、必要なら引き返せるようになることが大切なのだろう。
フリーダとエリナの忠告は、タクマだけでなく、私に向けられたものでもあるように感じられた。
*
私たちが今日の依頼を相談していると、ギルドの入口付近が少し騒がしくなった。
何事かと思って振り返ると、数人の冒険者がこちらへ歩いてくるところだった。
先頭に立っているのは、金色の髪を綺麗に整えた若い男だった。年齢はタクマと同じくらいだろうか。背は高く、整った顔立ちをしている。身につけている装備は上等なもので、濃紺の外套には細かな刺繍が施されていた。腰の剣も、実用性だけでなく装飾にまで気を配られている。
冒険者というより、どこかの貴族の子弟のようだった。
……まあ、実際にそうなのだろうけれど。
彼は周囲を見回し、私の姿を見つけると、すぐにこちらへ歩いてきた。
「失礼。あなたが、噂に名高いリカ殿でしょうか」
「……そうだけど?」
私が答えると、彼は優雅に一礼した。
「お会いできて光栄です。私はアルブレヒト・フォン・ヴァルデック。ザクセンブルグ王国より参りました」
ザクセンブルグ。
その国名を聞いて、私は少しだけ眉を動かした。
旧神聖ゲルマニア帝国を構成していた有力国家の一つだ。王国としての歴史も長く、今でも周辺諸国に強い影響力を持っている。
「……そう。遠いところから来たんだね」
「ええ。こちらで冒険者として修行を積んでおります。現在はC級ですが、いずれはさらに上を目指すつもりです」
彼は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「それにしても、噂以上にお美しい。若くしてA級冒険者にまで上り詰めた優秀な魔法使いだと伺っていましたが、これほどの方とは」
「……ありがとう」
私は少し困った。
褒められること自体は嫌いではない。けれど、初対面の相手からここまで大げさに持ち上げられると、どう反応していいか分からなくなる。
アルブレヒトはそんな私の様子を気にすることなく、話を続けた。
「実は、以前から一度お会いしたいと思っていたのです。もしよろしければ、今宵、食事をご一緒していただけませんか?」
「え?」
「もちろん、私がご招待いたします。この街でも評判のよい店を手配しましょう」
私は少し考えてから、首を振った。
「ごめんなさい。今日は予定があるから」
「そうですか。では、明日は?」
「……明日も、ちょっと」
「明後日ならいかがでしょう?」
私は思わず彼の顔を見た。
……えっと。
これは、どう断ればいいんだろう。
「その、しばらく忙しいから……」
「でしたら、都合のよい日をお知らせいただければ結構です。私はいつでも予定を調整できますので」
アルブレヒトはにこやかに言った。
どうやら、私が遠回しに断っていることに気づいていないらしい。いや、気づいていないというより、断られること自体を想定していないのかもしれない。
「……あのね」
私がもう一度断ろうとすると、横からフリーダが口を挟んだ。
「おいおい、嫌がってるだろ。そこら辺にしとけよ」
アルブレヒトは初めて、フリーダへ視線を向けた。
「……失礼ですが、あなたは?」
「フリーダ。こいつの仲間だよ」
「そうですか。しかし、私はリカ殿とお話ししているのですが」
「だから、そのリカが困ってるって言ってんだよ」
フリーダは腕を組んだ。
アルブレヒトの眉がわずかに動いた。
けれど、すぐに笑顔を取り戻す。
「これは失礼。しかし、私はただ、彼女と親しくなりたいだけなのですが」
「親しくなりたいなら、まず相手の話を聞くことだな」
フリーダがあっさりと言った。
私は少しだけ笑いそうになった。彼女らしい、実に分かりやすい言い方だった。
けれど、アルブレヒトは面白くなさそうだった。
「……なるほど。ずいぶん率直な方ですね」
「よく言われるよ」
フリーダは平然と答えた。
そのとき、アルブレヒトの視線が私の隣にいるタクマへ向いた。
「ところで、そちらの方は?」
「タクマです」
タクマが軽く頭を下げた。
「冒険者ですか?」
「はい。昨日、E級になりました」
「……E級」
アルブレヒトはわずかに眉を上げた。
そして、私とタクマを交互に見た。
「なるほど。では、リカ殿の従者のようなものですか?」
私は思わず口を開きかけた。
けれど、その前にタクマが答えた。
「いいえ。仲間です」
「……仲間?」
「はい。俺はまだ弱いですけど、リカと一緒に冒険しています」
タクマは穏やかな口調だった。
けれど、その言葉には迷いがなかった。
アルブレヒトは少し不思議そうに首を傾げた。
「A級の彼女とE級のあなたが、ですか。ずいぶん珍しい組み合わせですね」
「そうですね。俺もそう思います」
タクマはあっさりと認めた。
その反応が予想外だったのか、アルブレヒトは少しだけ言葉に詰まった。
「ですが、冒険者としての実力には大きな差があるでしょう?」
「ありますね。正直、今の俺じゃリカの足元にも及びません」
タクマは苦笑した。
「だから、できることをやってます。荷物を持ったり、準備をしたり。最近は少しだけ戦えるようにもなりましたけど」
「……それで、彼女の仲間を名乗ると?」
アルブレヒトの声に、わずかな棘が混じった。
私は少し不快になった。
けれど、タクマは相変わらず落ち着いていた。
「はい。仲間って、強さが同じじゃないとなれないものじゃないでしょう?」
「……何ですって?」
「もちろん、実力が足りないのは自覚してます。でも、リカは俺を仲間として扱ってくれてますし、俺もそう思ってます」
タクマはそこで一度言葉を切った。
そして、少しだけ表情を改めた。
「それと、さっきの話なんですけど」
「……何でしょう?」
「リカが断ってるなら、それで終わりだと思います」
アルブレヒトの表情が固まった。
タクマは続けた。
「公爵家の方でも、俺みたいなE級でも、そこは同じでしょう。相手が嫌がってるなら、無理に誘うのは違うと思います」
私は思わずタクマを見た。
彼は決して怒っていなかった。相手を馬鹿にしているわけでも、挑発しているわけでもない。ただ、自分が当たり前だと思っていることを、普通に伝えているだけだった。
けれど、アルブレヒトにとっては違ったらしい。
「……なるほど」
彼はゆっくりとうなずいた。
「興味深い考え方ですね」
その笑顔は、先ほどまでのものより少しだけ冷たかった。
「しかし、私にも私の考えがあります。あなたに指図される筋合いはありません」
「指図したつもりはないんですけど……」
タクマは少し困ったように言った。
私は一歩前に出た。
「アルブレヒトさん」
「……はい?」
「誘ってくれたのは嬉しいけど、私は食事に行くつもりはないの。だから、もう誘わないでくれる?」
できるだけ穏やかに、けれど曖昧にならないように伝えた。
アルブレヒトは一瞬だけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました。ご不快な思いをさせてしまったようですね」
「うん。分かってくれたなら、それでいいよ」
彼は何か言いかけたけれど、結局そのまま口を閉じた。
「本日は突然の申し出、失礼いたしました」
そう言って優雅に一礼すると、取り巻きらしい冒険者たちを連れて立ち去っていった。
その際、一度だけタクマへ視線を向けた。
ほんの一瞬だったけれど、私はその目つきが少し気になった。
*
「……面倒くせえ奴だったな」
アルブレヒトの姿が見えなくなると、フリーダが大きく息を吐いた。
「本当にね……」
私もため息をついた。
貴族の子弟が冒険者になること自体は、決して珍しいことではない。特に旧帝国の有力諸侯の間では、若い頃に冒険者として修行を積むことが、一種の箔付けになっている。
危険な魔獣と戦い、辺境を旅し、実績を積んで故郷へ帰る。それ自体は悪いことではないし、実際に優秀な冒険者になる貴族もいる。
けれど、中には自分の身分をそのまま冒険者の世界へ持ち込もうとする者もいるのだ。
「……俺、余計なこと言いましたかね?」
タクマが少し申し訳なさそうに尋ねた。
フリーダは首を振った。
「いや。間違ったことは言ってねえよ」
「そうですか」
「ただな、正しいことを言えば全部丸く収まるわけでもねえってことさ」
彼女は少し真面目な顔になった。
「ああいう手合いは、冒険者になったからって家の名前を捨てるわけじゃねえ。本人が大したことなくても、後ろにいる家が面倒な場合もある」
「……なるほど」
「まあ、今すぐ何かしてくるとは思わねえけど、顔と名前くらいは覚えとけ」
「はい」
タクマはうなずいた。
私は二人の会話を聞きながら、少しだけ複雑な気持ちになっていた。
アルブレヒトは、ザクセンブルグ王国の公爵家の三男だと言っていた。確かに、それなりの家柄なのだろう。
けれど、私にとっては、その程度の身分を持ち出されても困るだけだった。
……まあ、そんなことを言える立場じゃないんだけど。
「リカ、大丈夫?」
タクマが尋ねた。
「うん。ありがとう、タクマ」
「いや、別に大したことはしてないよ」
「でも、嬉しかった」
私が笑うと、タクマは少し照れくさそうに視線を逸らした。
フリーダがにやにやしている。
「おーおー。朝っぱらから見せつけてくれるねえ」
「もう! フリーダ!」
私は思わず抗議した。
彼女は楽しそうに笑っていた。
*
結局、私たちは予定していた街道沿いの魔獣被害調査を受けることにした。
目的地はノヴァグラードから半日ほど歩いた場所にある、小さな開拓集落の近くだった。最近、街道を通る荷馬車が何度か魔獣に襲われ、積荷が荒らされる被害が出ているらしい。ただし、目撃情報は曖昧で、どんな魔獣が現れているのかは分かっていない。
依頼の目的は、被害の状況を確認し、魔獣の種類や行動範囲を調べることだった。
私たちは集落の代表者から話を聞き、被害のあった場所へ向かった。
「この辺りだそうです」
クルシュが地面を指さした。
街道の脇には、壊れた木柵が残っていた。太い木材が途中から折れ、周囲には荷車の車輪が通った跡と、何かを引きずったような痕跡がある。
フリーダがしゃがみ込み、折れた木材を確かめた。
「……結構な力だな」
「うん。小型の魔獣じゃなさそう」
私も近づき、傷の状態を確認した。
木材には鋭い爪のような跡が残っていた。折れ方を見る限り、単にぶつかっただけではなく、何度か強い力が加わったようだった。
「タクマ、どう思う?」
私が尋ねると、彼は少し考えた。
「……足跡、探してみてもいい?」
「うん。気をつけてね」
タクマはうなずき、周囲の地面を確かめ始めた。
しばらくすると、彼は街道の脇に残った大きな足跡を見つけた。
「これかな」
私は近づいた。
確かに、獣のものらしい足跡が残っている。ただし、形が少し崩れていて、これだけでは種類を特定するのは難しかった。
「……奥にも続いてるみたいだな」
タクマは茂みの向こうを見た。
足跡は街道から森の中へ続いているようだった。
私は彼がどうするのか、少しだけ様子を見た。
すると、タクマは森へ踏み込むのではなく、フリーダへ声をかけた。
「フリーダさん、足跡が奥まで続いてるみたいです。追った方がいいですか?」
フリーダはすぐに首を振った。
「いや、やめとけ。今日の依頼は調査だ。巣でも見つけて刺激したら面倒だしな」
「分かりました」
タクマは素直に引き下がった。
私は少し安心した。
朝の忠告を、ちゃんと覚えているらしい。
彼は足跡の形を紙に描き、周囲の地形も簡単に記録した。最近はよく使う単語なら書けるようになってきたので、絵の横に短い言葉も添えている。ただし、まだ長い文章を書くのは難しいらしく、細かな特徴は絵で表現していた。
その後、私たちは周辺を調べ、魔獣が出入りしているらしい場所をいくつか確認した。
幸い、調査中に魔獣と遭遇することはなかった。
フリーダは少し物足りなさそうだったけれど、私はそれでよかったと思う。
危険な相手を見つけたからといって、必ず戦わなければならないわけではない。必要な情報を持ち帰り、次の対策につなげることも、冒険者の大切な仕事なのだから。
そして、タクマはそのことを、少しずつ理解し始めているようだった。
*
その日の夜、私たちは家で夕食を食べていた。
タクマが作ってくれた料理を前に、私は今日の出来事を思い返していた。E級になった彼への忠告、アルブレヒトという貴族の冒険者、そして街道沿いでの調査。どれも、普段の依頼とは少し違う意味で印象に残っていた。
「そういえばさ」
タクマが口を開いた。
「今日のあの人、ザクセンブルグ王国の公爵家って言ってたよね」
「うん」
「この国の貴族じゃないんだよな?」
「そうだよ。ザクセンブルグ王国は、昔の神聖ゲルマニア帝国を構成していた国の一つなの」
「神聖ゲルマニア帝国?」
タクマは首を傾げた。
「何だか、ずいぶん大きそうな名前だな」
「実際、大きかったんだよ。今のフロンティア大公国も、昔はその帝国の一部だったんだから」
「へえ……」
タクマは興味深そうに身を乗り出した。
「じゃあ、昔はこの辺り全部が一つの国だったってこと?」
「うーん。一つの国って言っても、ちょっと違うかな」
私は少し考えた。
「神聖ゲルマニア帝国には皇帝がいたんだけど、皇帝が全部の土地を直接治めていたわけじゃないの。王国や公国、自由都市なんかが集まっていて、それぞれがかなり強い権限を持っていたんだよ」
「……なるほど。大きな国の中に、小さな国がいくつもあった感じ?」
「そうそう。そんな感じ」
私はうなずいた。
「もちろん、皇帝の権威は大きかったし、帝国としての法律や仕組みもあった。でも、各地の王や大公たちも、自分の領地では強い力を持っていたの」
「へえ。じゃあ、皇帝の命令でも断られることがあったんだ?」
「うん。特に有力な諸侯はね。皇帝も、何か大きなことを決めるときには、彼らの協力を得る必要があったんだよ」
タクマは少し考え込んだ。
「……それ、まとめるの大変そうだな」
「大変だったみたい」
私は笑った。
実際、帝国の歴史は複雑だった。
皇帝と諸侯の対立、宗教勢力との争い、各地の王家同士の婚姻や相続問題。戦争だけでなく、誰がどの土地を治める権利を持つのかという問題が、何世代にもわたって続いていた。
学院でも帝国史は必修科目だったけれど、正直なところ、覚えることが多すぎて苦労した記憶がある。
「それで、フロンティア大公国はどういう国だったの?」
タクマが尋ねた。
「元々は、帝国の東側にある辺境領だったんだよ。今よりずっと人が少なくて、魔獣も多かったから、あまり重要な土地だと思われていなかったみたい」
「……それが、今はこんな大きな国になってるんだ?」
「うん。歴代の大公が、開拓民や冒険者を積極的に受け入れたんだよ」
私は少し懐かしい気持ちになりながら、説明を続けた。
フロンティア大公国の歴史は、他の国とは少し違う。
古くから栄えた王国では、土地を治める貴族の家柄や、代々続く領地の権利が重要視されることが多い。
けれど、フロンティアでは事情が違った。
そもそも、人が住んでいない土地が広がっていたのだ。
森を切り開き、魔獣を追い払い、畑を作り、街道を整備する。そうして初めて、人が安心して暮らせる土地になる。
そのためには、貴族の血筋よりも、実際に働ける人間が必要だった。
「だから、この国では冒険者の地位が比較的高いんだよ」
「……なるほど」
「魔獣を倒す人がいなければ、開拓地は広がらないからね。昔は、優秀な冒険者に土地を与えて、開拓を任せることもあったみたい」
「へえ。冒険者が領主になることもあったんだ?」
「うん。もちろん、誰でもなれるわけじゃないけどね」
私は笑った。
「今でも、開拓地では実績を上げた人が重用されることが多いんだよ。商人でも職人でも冒険者でも、役に立つ人なら歓迎される。そういう気風が、この国には残ってるんだと思う」
タクマは感心したようにうなずいた。
「……それで、冒険者が多いんだな」
「そういうこと」
私は料理を一口食べた。
この国の成り立ちを考えると、ノヴァグラードに冒険者が多いことも不思議ではない。街の周囲にはまだ未開拓の土地が残っているし、魔獣の被害も少なくない。だからこそ、冒険者の仕事が途切れることはないのだ。
「でもさ」
タクマが再び口を開いた。
「そんなに強くなったなら、帝国の中でも結構な力を持ってたんじゃない?」
「うん。実際、そうだったみたい」
私はうなずいた。
「開拓が進むにつれて、人口も増えたし、経済力も大きくなった。魔獣と戦うための軍事力も強かったから、だんだん皇帝の命令に従わなくなっていったんだって」
「……なるほど」
「もちろん、帝国が崩れた理由は一つじゃないよ。他の国同士の争いもあったし、皇帝の権威が弱くなったことも大きかった。でも、フロンティアが強くなりすぎたことも、その一つだと言われているわ」
タクマは少し考えた。
「……大きくなりすぎた地方が、中央の言うことを聞かなくなったわけか」
「そういうことだね」
「何だか、俺の故郷にも似たような歴史がありそうだな」
「へえ。そうなの?」
「うん。まあ、詳しく説明できるほど覚えてないけど」
タクマは苦笑した。
私は少し興味を引かれたけれど、今日は彼の故郷の話よりも、この世界の歴史の方が気になっているらしい。
「じゃあ、ザクセンブルグ王国も、その帝国から独立した国なんだ?」
「うん。元々は帝国の中でも有力な王国だったんだよ。今でも貴族の家柄を重んじる文化が強いみたい」
「……なるほど。だから、あの人も家柄を気にしてたのかな」
「そうかもしれないね」
私は少し考えた。
アルブレヒトの態度は、確かに貴族らしいものだった。
けれど、貴族だからといって、誰もがあんなふうに振る舞うわけではない。身分の高い人の中にも、礼儀正しく、相手の立場を尊重する人はたくさんいる。
むしろ、彼の問題は家柄そのものよりも、自分が断られることに慣れていないところにあるのだろう。
「そういえば、マリアベル王国もその帝国の一部だったの?」
タクマが何気なく尋ねた。
私は一瞬、手を止めた。
「……うん。そうだよ」
「へえ。じゃあ、ザクセンブルグとは昔から付き合いがあるんだな」
「そうね。仲が良かった時期もあれば、悪かった時期もあるけど」
「まあ、隣同士の国ってそんなもんか」
タクマは納得したようにうなずいた。
私は少しだけ安心した。
マリアベル王国。
その名前を聞くと、今でも胸の奥が少し落ち着かなくなる。
私が生まれ育った国。
そして、私が自分の意思で離れた国。
タクマはまだ、私がその国の王女だったことを知らない。いつか話さなければならないと思っているけれど、今はまだ、その時期ではない気がしていた。
*
夕食を終え、タクマが食器を片づけ始めた。
私は食卓に座ったまま、今日の出来事を思い返していた。
アルブレヒトは、自分が公爵家の三男であることを誇らしげに話していた。もちろん、立派な家柄なのだろう。けれど、私にとっては、それほど重要なことではなかった。
私が冒険者になったのは、家柄や身分に縛られず、自分の好きなように生きたかったからだ。
それなのに、冒険者の世界にまで貴族の肩書きを持ち込まれると、少しだけ昔のことを思い出してしまう。
「……変な話だよな」
タクマが食器を重ねながら言った。
「何が?」
「冒険者って、身分に関係なく実力で評価される世界なんだろ?」
「うん」
「それなのに、貴族の人が家柄を持ち出すんだなって」
私は少し考えてから答えた。
「冒険者になったからって、生まれ育った場所や、それまでの価値観が全部消えるわけじゃないもの」
「……まあ、そうか」
「それに、この国だって完全に身分の差がないわけじゃないよ。貴族もいるし、領主もいる。冒険者の実力が評価されやすいってだけで、何でも平等ってわけじゃないから」
「なるほどなあ」
タクマは納得したようにうなずいた。
そして、少し笑った。
「でも、俺はリカのこと、リカとして見てるからさ」
私は思わず顔を上げた。
「……なによ、それ」
「いや、別に。リカが何者でも、俺にとってはリカだってこと」
タクマは何でもないことのように言った。
私はしばらく、言葉を返せなかった。
彼は私が王女だったことを知らない。私がどんな家に生まれ、どんな立場にいて、何から逃げてきたのかも知らない。
それなのに、そんなことを簡単に言う。
「……そういうこと、簡単に言わないでよ」
私は小さく呟いた。
「え? 何か変なこと言った?」
「……別に」
私は視線を逸らした。
タクマは不思議そうに首を傾げていたけれど、それ以上は追及してこなかった。やがて、彼は食器を持って台所へ向かった。
私はその背中を見つめながら、少しだけ考えた。
もし、いつか私の本当の名前を知ったとしても。
そのときも、タクマは同じことを言ってくれるのだろうか。
私はまだ、その答えを知らない。
けれど、今は少しだけ、信じてみたいと思った。




