第16話 三日会わざれば
久しぶりに四人で依頼へ出かけることになった朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には薄い朝霧が漂い、森の木々はまだ静まり返っている。差し込む光は柔らかく、部屋の中には夜の涼しさが少しだけ残っていた。隣の部屋から物音が聞こえてきたので、タクマはもう起きているのだろう。
ここ一週間、私は魔法の研究に夢中になっていた。
タクマから教わった燃焼の仕組みを手がかりに、火魔法と風魔法の術式を組み直し、何度も実験を繰り返した。その結果、従来とは異なる仕組みの爆発魔法まで完成させてしまったのだから、研究としては大成功だったと思う。
もっとも、出来上がった魔法の威力が予想以上だったせいで、フリーダたちから散々怒られてしまったけれど。
そんな私とは対照的に、タクマは冒険者として忙しい毎日を過ごしていた。ハーケンのところで剣を習い、フリーダたちと依頼へ出かけ、帰宅してからは剣の手入れや魔法の練習をする。私が術式の計算に頭を悩ませている間にも、彼は自分なりに経験を積んでいたらしい。
そして今日は、久しぶりに一緒に冒険へ出かける。
そう考えると、何だか少し楽しみだった。
「おはよう、リカ」
居間へ入ると、タクマが振り返った。
「おはよう。早いね」
「今日は依頼だからな。荷物の確認をしてたんだ」
食卓の横には、いつもの背負い袋が置かれていた。中身はすでに整理されているらしく、タクマは最後に水筒を入れ、留め具を確かめている。
「手伝おうか?」
「大丈夫。もう終わるよ」
「そっか」
私は何となく、その手元を眺めた。
以前なら、出発前には私が持ち物を確認していた。冒険者として必要な道具を説明し、荷物の重さを調整し、忘れ物がないか確かめる。それが当たり前だったのに、今ではタクマが自分で準備を済ませている。
もちろん、荷物の扱いについては最初から器用だった。けれど、最近は何を持っていくべきかという判断まで、ずいぶん早くなった気がする。袋の口を開けたまま必要なものを探すこともなく、道具を取り出す順番まで考えて収めているのが分かった。
「……何?」
私が見つめていたことに気づいたのか、タクマが首を傾げた。
「ううん。準備、慣れたんだなって」
「まあ、毎日やってればね。それにフリーダさん、必要になったら遠慮なく追加で持たせてくるから」
「ふふっ。想像できる」
「あの人、荷物が増えると嬉しそうなんだよな……」
タクマは苦笑した。
私はその顔を見ながら、今日の冒険がますます楽しみになった。
*
ギルドへ到着すると、フリーダとクルシュはすでに待っていた。
「おう、研究者様のお出ましか!」
私の姿を見つけるなり、フリーダが大きく手を振った。
「もう、フリーダまで!」
「山を吹っ飛ばしたって噂になってるぞ。ギルドじゃ新しい魔獣が出たんじゃねえかって大騒ぎだったんだからな」
「吹っ飛ばしたのは岩だけだもん」
「岩ならいいって問題じゃねえだろ!」
フリーダが呆れたように笑い、隣のクルシュも肩を揺らしている。
「実際、どのくらいの威力だったんですか?」
クルシュに尋ねられ、私は少し考えた。
「うーん。かなり大きな岩塊を一度で砕けるくらいかな。普通の爆発魔法よりもずっと効率はいいんだけど、制御が難しくて……」
「おいおい、また始まったぞ」
「まだ何も説明してないじゃない!」
「いや、お前の顔がもう説明する気満々なんだよ」
タクマが隣で笑っていた。
「帰ってからにしよう、リカ。今日は依頼だろ?」
「……はーい」
私は少し不満だったけれど、確かにその通りだった。
今日の依頼は、森の奥にある薬草群生地の調査と、周辺で採取できる魔獣素材の回収だった。依頼そのものは難しくないものの、目的地まで少し距離があり、採取する素材の量によっては荷物が増える可能性もある。
私たちは受付へ向かい、依頼の内容を確認した。
「おはよう、エリナ!」
「あ、リカ! おはよう。今日は久しぶりに四人で依頼なのね」
「うん。研究も一区切りついたしね」
「そうなんだ。じゃあ、しばらくは平和そうね」
「……どういう意味?」
「そのままの意味よ」
エリナは涼しい顔で答えた。
彼女とは長い付き合いだ。仕事中はきちんと受付嬢として振る舞っているけれど、私に対しては昔から遠慮がない。何しろ、一緒にお酒を飲めば、私の恥ずかしい話まで平気で持ち出してくる相手なのだから。
エリナは依頼書に目を落とし、必要な説明を始めた。
「群生地の近くで、小型の魔獣が増えているって報告があるの。数はそれほど多くないみたいだけど、採取中は気をつけてね」
「分かった。ありがとう」
「それと、リカ」
「何?」
「今日は山を爆発させないでね?」
「エリナまで!?」
背後からフリーダの笑い声が聞こえた。
エリナも楽しそうに笑っている。
「だって、昨日はその話で大騒ぎだったんだから。受付にも問い合わせが来たのよ?」
「……ごめんなさい」
「ちゃんと反省してるならいいけど。次に何か試すときは、せめて事前に相談してちょうだい」
「はーい……」
私は素直にうなずいた。
どうやら、しばらくはこの話でからかわれることになりそうだった。
*
森へ入ってからしばらくすると、私はタクマの様子が以前と少し違うことに気づいた。
歩き方が変わったというより、周囲への注意の向け方が変わったのだ。
以前の彼は、私たちの後ろについて歩きながら、足場や荷物の状態を確かめることが多かった。もちろん、それはポーターとして大切な仕事だし、今でもその点は変わっていない。ただ、今日は時折、進行方向だけでなく左右の茂みにも目を向けている。地面の状態を確かめながら、周囲の音にも耳を澄ませているようだった。
それでいて、必要以上に緊張している様子はない。危険を探して落ち着きを失うのではなく、歩きながら自然に周囲の様子を確かめている。
「……タクマ、何か気になる?」
私が尋ねると、彼は少し首を傾げた。
「いや、特には。ただ、ハーケンさんに、森の中では足元ばかり見てるなって言われたから」
「ハーケンが?」
「うん。足元を見すぎると、相手が出てきたときに反応が遅れるって。逆に周りばっかり見てると、今度は足を取られるから、視線を動かす癖をつけろって言われた」
「なるほどね」
私は感心した。
ハーケンは剣の扱いだけでなく、実戦での立ち回りも教えているらしい。冒険者として長く生き残ってきた彼にとって、剣を振るう技術と同じくらい、戦いが始まる前の準備も重要なのだろう。
「あと、フリーダさんからも色々言われてるよ」
「例えば?」
「俺はまだ前衛じゃないんだから、何か出てきたらまず自分がどこにいるべきか考えろって。戦うことより、邪魔にならないことが大事だってさ」
「……ああ、フリーダらしいね」
私は笑った。
彼女は口調こそ荒っぽいけれど、冒険者としての判断は堅実だ。敵を倒すことよりも、仲間全員が無事に帰ることを優先する。その考え方は、タクマのように経験の浅い冒険者にこそ必要なものだった。
そんな会話をしていると、前を歩いていたフリーダが振り返った。
「おーい、二人とも! いちゃつくのは帰ってからにしろよ!」
「いちゃついてない!」
「そうかあ?」
フリーダは楽しそうに笑い、再び歩き始めた。
私は少し頬が熱くなるのを感じながら、タクマの方を見た。彼は苦笑していたけれど、特に否定する様子もなかった。
……もう、何なのよ。
*
最初の魔獣が現れたのは、群生地まであと少しというところだった。
茂みの向こうから低い唸り声が聞こえ、先頭を歩いていたフリーダが足を止めた。私もすぐに周囲の気配を探ると、前方に複数の魔獣がいることが分かった。
「三匹だな」
フリーダが槍を構えた。
「クルシュ、右を頼む」
「分かりました」
「リカは後ろを見ててくれ。こっちはあたしらでやる」
「うん」
私はうなずき、いつでも魔法を使えるように意識を整えた。
茂みから現れたのは、灰色の毛皮を持つ小型の魔獣だった。犬に似た姿をしているけれど、口元から突き出た牙は鋭く、背中には硬い棘のような毛が生えている。体格はそれほど大きくないものの、素早く動き回るため、油断すると厄介な相手だ。
フリーダが一匹目の突進を槍で受け流し、すぐに反撃する。もう一匹はクルシュが伸ばした蔓に足を取られ、地面へ転がった。
残る一匹が、二人の脇を抜けてこちらへ向かってきた。
私は反射的に魔法を使おうとした。私が相手をするなら、足を止める程度の風魔法で十分だ。タクマに危険が及ぶ前に片づけられる。
けれど、その前に彼が動いた。
タクマは魔獣を見据えたまま、正面からわずかに位置をずらした。逃げるために大きく後退したのではない。相手の進路を外しながら、なおかつ剣の届く距離を保つための、小さな移動だった。
魔獣は牙を剥き、地面を蹴った。
その瞬間、タクマがさらに半歩、身体を開く。
飛びかかった魔獣の頭が、彼のいた場所を通り過ぎた。
私は思わず息を呑んだ。
タクマは相手が跳び上がる前から、その動きを読んでいたのだろう。魔獣が勢いをつけるために身を沈めたときには、もう自分の立ち位置を決めていたように見えた。
彼の右手がショートソードを抜く。
刃は大きく振り回されることなく、身体の回転に合わせて魔獣の側面へ走った。背中の棘を避け、毛皮の薄い脇腹を捉えた一撃に、魔獣が短い悲鳴を上げる。
ただし、その一撃だけで倒れたわけではない。
魔獣は地面へ着地すると、傷を負った勢いのまま身体を捻り、もう一度タクマへ向き直ろうとした。
以前の彼なら、ここで慌てて距離を取ったかもしれない。
けれど、タクマは相手の動きを見ていた。
後ろへ下がるのではなく、魔獣が向き直る方向とは反対側へ踏み込み、相手の頭がこちらを捉える前に間合いを詰める。剣を持つ腕だけでなく、足と腰が一緒に動いているのが分かった。
次の一撃が決まると、魔獣は地面へ倒れ、動かなくなった。
ほんの数秒の出来事だった。
タクマは倒れた魔獣へ不用意に近づかず、少し距離を取って様子を確かめた。それから周囲へ視線を走らせ、フリーダとクルシュの戦闘が終わっていることを確認して、ようやく剣を下ろした。
「……ふう」
彼は小さく息を吐いた。
私はその一連の動きを見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
以前、ゴブリンと戦ったときにも、タクマは驚くような足運びを見せたことがある。剣道という、彼の故郷に伝わる剣術で培った技術なのだと聞いた。
けれど、あのときはまだ、魔獣を相手にした実戦経験がほとんどなかった。相手の攻撃をかわすことはできても、その後どう動くべきか迷う場面があったし、仲間の助けがなければ危険だっただろう。
今のタクマには、その迷いが少なかった。
剣道で身につけた間合いの感覚や足運びに、ハーケンから教わった実戦での判断が加わっている。相手の動きを見て、攻撃を避け、反撃する。そして、倒したあとも油断せず周囲を確かめる。
それぞれの動作が、以前よりもずっと自然につながっていた。
「……大丈夫、リカ?」
タクマがこちらを振り返った。
「……え?」
「いや、何か驚いてるから」
私は慌てて首を振った。
「だ、大丈夫! それよりタクマ、今の……」
「ん?」
「……いつの間に、そんなに強くなったの?」
タクマは少し考え、それから笑った。
「まあ、毎日練習してたからね」
「それは知ってるけど……」
「男子、三日会わざれば刮目して見よ、ってね」
「……なにそれ?」
「俺の故郷の故事さ」
私は首を傾げた。
「どういう意味?」
「男は三日も会わなければ成長してるかもしれないから、ちゃんと目を開いて見ろってこと」
「……へえ」
私は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、私もちゃんと見ておかないとね」
「お手柔らかにお願いします」
タクマが少し得意げに笑った。
すると、フリーダが近づいてきた。
「おいおい、三日どころか一週間も一緒に仕事してなかったんだろ? そりゃ別人になっててもおかしくねえな!」
「いや、そこまで変わってませんよ!」
「そうかあ? 今の動きは悪くなかったぞ」
フリーダは笑いながら、タクマの肩を軽く叩いた。
「ただ、荷物を背負ったまま戦うのは危ねえな。次からは、状況を見て下ろせるなら下ろせ。動きが制限されるし、荷物の重さで踏み込みも変わる」
「はい。気をつけます」
「それと、二撃目を入れるとき、ちょっと前に出すぎだ。相手がもっと大きかったら、あの距離じゃ反撃を食らってたかもしれねえぞ」
「……確かに。思ったより近づいてました」
タクマは素直にうなずいた。
クルシュも近づいてきて、倒れた魔獣を確かめた。
「以前より、攻撃後の姿勢が安定していますね。次の動きに移るまでの時間も短くなっています」
「ありがとうございます」
「ただし、今回は相手が小型だったから対応できた部分もあります。大きな魔獣や、動きの違う相手には同じ方法が通用するとは限りません」
「はい」
タクマは真剣な表情で話を聞いていた。
私はその様子を見ながら、少し不思議な気持ちになっていた。
フリーダもクルシュも、彼の成長を当然のことのように受け止めている。もちろん褒めてはいるけれど、驚いているわけではない。
私だけが、こんなにも驚いているのだ。
この一週間、タクマは二人と一緒に仕事をしていた。だから、彼がどんな練習をして、どんなふうに動けるようになったのか、二人はすでに知っている。
私は知らなかった。
もちろん、彼が強くなったことは嬉しい。自分の力で魔獣を倒せるようになったのだから、冒険者としては大きな進歩だろう。
でも、ほんの少しだけ、置いていかれたような気がした。
そんな自分の気持ちが少しおかしくて、私は小さく笑った。
……本当に、勝手なんだから。
*
魔獣の素材を回収し、私たちは再び森の奥へ進んだ。
目的の群生地へ到着すると、クルシュが周囲の植物を確認し、採取できる薬草の種類を説明してくれた。
私は魔力の流れを探りながら、周辺に危険な魔獣がいないか確かめる。フリーダは少し離れた場所で警戒し、タクマは採取した薬草を種類ごとに分けて袋へ詰めていた。
「リカ、この葉っぱって、こっちの袋でいいんだっけ?」
タクマが尋ねた。
「うん。傷みやすいから、できるだけ押しつぶさないようにしてね」
「了解」
彼は手際よく袋の中身を整えた。
以前から荷物の整理は得意だったけれど、今では薬草の扱いにもずいぶん慣れている。葉の状態を確かめ、傷んでいるものを取り除き、種類ごとに分けている。柔らかい葉を下に敷いて潰してしまわないよう、袋の中に仕切りまで作っていた。
「……詳しくなったね」
「フリーダさんたちと何回か採取の依頼に行ったからね。あと、クルシュさんに色々教えてもらった」
「そうなんだ」
「リカも知ってると思うけど、同じ薬草でも採り方で品質が変わるんだって。茎を傷つけると駄目なやつとか、根っこを残さないと次に生えてこないやつとか」
私はうなずいた。
もちろん、知っている。
けれど、タクマがそんなことまで覚えていたのは少し意外だった。
「……タクマ、結構勉強してるんだね」
「まあ、文字が読めない分、教えてもらったことは覚えておかないとさ」
彼は何でもないことのように言った。
私は少しだけ胸が痛くなった。
タクマは、この世界の文字をまだ読むことができない。
だから、依頼書の内容も、薬草の名前も、道具の使い方も、誰かに教えてもらわなければならない。普通の冒険者なら依頼書を読んで確認できることでも、彼は誰かに尋ねたり、自分で見て覚えたりする必要がある。
それでも彼は、できないことを理由に立ち止まったりしない。
自分にできる方法を探して、少しずつ覚えていく。
以前、薬草採取の依頼で、文字の代わりに植物の絵を描いていたことを思い出した。あのときも彼は、自分が文字を読めないことを嘆くより先に、どうすれば間違えずに採取できるかを考えていた。
そういうところは、今も変わっていないらしい。
「……何?」
私が見つめていると、タクマが顔を上げた。
「ううん。頑張ってるなって思って」
「何だよ、急に」
「ふふっ。別にいいでしょ?」
私は笑いながら、次の薬草へ手を伸ばした。
*
採取を終えた頃、空模様が少し怪しくなってきた。
朝は晴れていたけれど、森の上にはいつの間にか薄い雲が広がっている。木々の間を抜ける風も少し冷たくなり、遠くで葉の擦れる音が大きくなっていた。
「雨が降るかもしれませんね」
クルシュが空を見上げた。
「そうだな。さっさと帰るか」
フリーダが言った。
タクマは背負い袋を下ろし、中から折りたたんだ布を取り出した。
「じゃあ、先に荷物を包んでおきます」
「お、準備いいな」
「昨日、天気が変わりやすいって聞いたんで。念のため持ってきました」
彼は採取した薬草の袋をまとめ、布で包み始めた。
布は水を通しにくい加工が施されたもので、冒険者が荷物を雨から守るときによく使うものだった。ただし、かさばるため、天気がよさそうな日には持ってこない者も多い。
タクマは袋の口を内側へ折り込み、雨水が入り込まないように包んでいく。さらに、重い素材が柔らかい薬草を押しつぶさないよう、背負い袋の中身まで調整していた。
「……それ、いつ準備したの?」
「昨日の夜。リカが術式を書いてる間に」
「……そっか」
私は少し笑った。
そういえば、昨日の夜も私は研究に夢中になっていた。
タクマが何をしていたのか、あまり覚えていない。私が机に向かっている間、彼は自分の剣を手入れしたり、翌日の準備をしたりしていたのだろう。
同じ家にいたのに、知らないことが増えている。
けれど、それは決して悪いことではないのだと思った。
「タクマさんがいると、依頼が予定通りに終わりますね」
クルシュが穏やかに言った。
「いや、そんな大したことじゃないですよ」
「いえ。こういう準備ができる人は、意外と少ないんです。冒険者はどうしても、戦闘の腕ばかり気にする人が多いですから」
「そうそう!」
フリーダが笑った。
「荷物持ちなんて誰でもできると思ってる奴もいるけど、実際はそうじゃねえんだよな。タクマがいると、あたしらも余計なことを考えなくて済む」
タクマは少し照れくさそうに笑った。
私はそんな三人を見ながら、嬉しくなった。
彼はもう、単に私についてきているだけの存在ではない。
フリーダたちにとっても、頼りになる仲間になっている。
しかも、それは剣で魔獣を倒せるようになったからだけではなかった。荷物を管理し、必要な道具を準備し、採取した素材を傷めずに持ち帰る。そうした地道な仕事を積み重ねることで、仲間から信頼されるようになっていたのだ。
私は彼の成長を、自分のことのように嬉しく感じていた。
*
ギルドへ戻ったのは、夕方近くになってからだった。
途中で少し雨に降られたものの、採取した薬草は無事だった。タクマが用意していた布のおかげで、濡れて傷んだ素材もほとんどない。
受付ではエリナが私たちを迎えてくれた。
「お帰り、みんな! 雨、大丈夫だった?」
「うん。少し降られたけど、問題なかったよ」
「よかった。今日は予定より少し遅かったから、心配してたの」
「採取が思ったより順調でさ。つい欲張っちまった」
フリーダが笑った。
エリナは呆れたように肩をすくめる。
「もう、フリーダったら。無理はしないでよ?」
「分かってるって!」
そんなやり取りをしながら、私たちは採取した素材を提出した。
エリナは素材の状態を確認し、種類と数量を記録していく。傷みの少ない薬草が多かったこともあり、査定はなかなかよさそうだった。
「それにしても、綺麗に持ち帰ったわね。雨が降ったって聞いたから、もう少し傷んでるかと思った」
「タクマが準備してくれてたんだよ」
私が言うと、エリナは彼を見た。
「そうなの?」
「はい。念のため、防水用の布を持っていってたので」
「へえ。さすがね」
エリナは感心したようにうなずいた。
すると、フリーダが横から口を挟んだ。
「それだけじゃねえぞ。今日も魔獣を一匹仕留めたんだからな!」
「えっ、本当?」
エリナが驚いた顔をした。
「はい。まあ、まだまだですけど」
タクマは少し照れくさそうに笑った。
「最近、頑張ってるものね。依頼の報告でも、タクマの名前をよく見かけるようになったし」
「ありがとうございます」
エリナは嬉しそうに微笑み、それから仕事の顔に戻って報告書の確認を続けた。
依頼の達成状況、採取した素材の数量、同行者からの報告。必要な項目を一つずつ確認し、報酬の計算を終える。
そして、最後の書類を閉じたところで、彼女はタクマへ顔を向けた。
「タクマさん、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「はい?」
「実は、ギルドからお伝えしたいことがあります」
さっきまでの気さくな口調とは違い、エリナは受付嬢として丁寧に言った。
タクマも少し姿勢を正す。
私も何の話だろうと思っていると、エリナは一枚の書類を取り出した。
「タクマさんの冒険者ランクについて、昇格審査が完了しました。これまでの依頼達成実績、同行した冒険者からの評価、魔獣討伐の実績などを総合的に確認した結果、ギルドとして昇格を認めることになりました」
「……昇格、ですか?」
「はい。F級からE級への昇格です」
タクマは目を丸くした。
「……俺が?」
「はい。おめでとうございます」
エリナは微笑んだ。
タクマはしばらく言葉を失っていた。
私は思わず笑顔になった。
「やったじゃない、タクマ!」
「……うん」
「おめでとう!」
「ありがとう、リカ」
フリーダが豪快に笑った。
「おお! やったじゃねえか!」
そして、タクマの背中を勢いよく叩いた。
「痛っ!」
「ははは! これでようやく一人前への第一歩だな!」
「まだE級ですけどね!」
「いいんだよ! 最初はみんなそこからだ!」
クルシュも穏やかに微笑んだ。
「おめでとうございます、タクマさん。これまでの努力が認められたんですね」
「ありがとうございます」
タクマは少し照れくさそうに頭を下げた。
エリナはそんな私たちの様子を微笑ましそうに見ていたけれど、やがて小さく咳払いをした。
「それでは、登録証をお預かりしますね」
「あ、はい」
タクマが登録証を差し出す。
エリナは更新の手続きを進めながら、昇格の理由について説明してくれた。
「タクマさんは、依頼の達成率が安定していますし、ポーターとしての評価も高いんです。同行した冒険者の方々から、準備や荷物の管理が丁寧だという報告も届いています」
「……そうなんですか」
「はい。最近は魔獣討伐の実績も加わりましたし、危険な状況での判断についても問題ないと評価されています」
タクマは少し驚いたように聞いていた。
エリナは続けた。
「もちろん、E級になったからといって、急に危険な依頼を受ける必要はありません。今まで通り、自分にできることを少しずつ増やしていってくださいね」
「はい。分かりました」
やがて、手続きが終わった。
エリナは新しい登録証を差し出した。
「こちらがE級の登録証です。今後は受けられる依頼の種類も少し増えますので、また説明しますね」
「ありがとうございます」
タクマは登録証を受け取った。
そして、そこに記された文字をじっと見つめた。
彼にはまだ、この世界の文字を読むことができない。
けれど、登録証の印と色が変わったことは分かるらしい。指先でその部分を確かめるように触れ、しばらく眺めていた。
「……そっか。E級か」
その声には、静かな喜びが滲んでいた。
エリナはそんな彼を見て、ふっと表情を緩めた。
「……さて。ここまでは受付嬢としてのお話」
「え?」
タクマが顔を上げる。
エリナは受付台から少し身を乗り出し、いつもの親しみやすい笑顔を見せた。
「ここからは友達として言わせて! おめでとう、タクマ!」
その声は、さっきまでの丁寧なものとは違っていた。
「初めて会った頃は、右も左も分からないって顔してたのにね。ちゃんと仕事を覚えて、仲間も増えて、こうして昇格までしたんだから。本当に頑張ったと思うよ!」
「……ありがとうございます、エリナさん」
「もう、今は仕事の話じゃないんだから、そんなにかしこまらなくていいの!」
エリナは笑った。
タクマもつられて笑う。
「……ありがとう、エリナ」
「うん!」
私はそのやり取りを見ながら、胸が温かくなるのを感じた。
タクマがこの世界へやってきたとき、彼のことを知っている人はほとんどいなかった。
けれど、今は違う。
彼の昇格を、自分のことのように喜んでくれる人がいる。
それが何より嬉しかった。
*
ギルドを出る頃には、雨はすっかり上がっていた。
濡れた石畳が夕日を反射し、街のあちこちに小さな光が揺れている。雨上がりの空気には土と草の匂いが混じり、通りを行き交う人々の足音がいつもより少しだけはっきり聞こえた。
タクマは隣を歩きながら、時々登録証を取り出して眺めていた。
「そんなに嬉しい?」
私が尋ねると、彼は少し照れくさそうに笑った。
「そりゃ嬉しいよ。少しは冒険者として認められたってことだろ?」
「うん。ちゃんと認められたんだよ」
「最初は、何をしたらいいかも分からなかったからなあ」
タクマは登録証をしまい、空を見上げた。
「文字も読めないし、魔法もほとんど使えないし。剣道の経験はあっても、魔獣と戦ったことなんてなかったしさ」
「……うん」
「でも、少しずつ仕事を覚えて、できることが増えてきた。まだまだだけど、前よりはこの世界で生きていける気がするよ」
私は彼の横顔を見た。
タクマがこの世界へ来たばかりの頃を思い出す。
何も知らない土地で、頼れる人もほとんどいなかった彼。そんな彼を家へ連れて帰り、冒険者ギルドへ登録させたのは私だった。
最初は、しばらく面倒を見てあげるつもりだった。
この世界に慣れるまで、困らないようにしてあげよう。仕事を見つけて、自分で生活できるようになれば、それでいい。
そう思っていたはずなのに、いつの間にか彼は私の生活の一部になっていた。
朝、一緒に食事をする。
夕方、ギルドへ迎えに行く。
帰り道に、その日の出来事を話す。
そんな何でもない時間が、今では当たり前になっている。
そして、この一週間で、私はもう一つ気づいたことがあった。
タクマがいない家は、思っていたより静かだった。
研究に夢中になっている間は気にならなくても、ふと顔を上げたとき、誰もいない食卓を見ると少し物足りなくなる。新しい術式が上手くいったときには、真っ先にタクマへ話したくなる。
以前なら、一人で喜んで、一人で次の実験を考えていたはずなのに。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「最近、研究ばっかりしてて、ごめんね」
タクマは少し驚いた顔をした。
「いや、別に謝ることじゃないだろ。リカが好きでやってることなんだし」
「うん。楽しかったんだけどね」
私は少し迷ってから、笑った。
「……ちょっと、寂しかったんだよ」
タクマが足を止めた。
「……リカが?」
「うん」
「研究に夢中だったのに?」
「それはそれ、これはこれ!」
私は少し頬を膨らませた。
「だって、今までは一緒に依頼へ行ってたでしょ? それなのに、最近はタクマがフリーダたちと出かけちゃうし、家に一人でいる時間が増えたんだもん」
「いや、研究したいって言ったの、リカだろ?」
「……そうだけど」
私は少しだけ視線を逸らした。
自分でも、勝手なことを言っていると思う。
タクマは私の研究を邪魔しないように、別のことをしていただけだ。しかも、その間に冒険者として経験を積み、今日の昇格につながった。
喜ぶべきことなのに、私はその一週間が少し寂しかったと感じている。
何だか、子供みたいだ。
けれど、タクマは笑わなかった。
「……そっか」
彼は少し考えてから、穏やかに言った。
「俺も、ちょっと寂しかったよ」
「……え?」
「まあ、リカが楽しそうだったから、邪魔したくなかったけどさ。帰ってきたらずっと術式の話してるし、たまには普通に話したいなって思ってた」
私は思わず彼を見た。
「……本当?」
「本当」
タクマは笑った。
「でも、毎日迎えに来てくれたのは嬉しかったよ」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私は少し考えてから、タクマの袖を引いた。
「……タクマ」
「ん?」
「ちょっと、こっち向いて」
彼が不思議そうに顔を向ける。
私は背伸びをして、彼の唇にそっと触れた。
ほんの一瞬。
触れたと思ったら、すぐに離れるくらいの、小さなキスだった。
タクマは目を丸くした。
「……え?」
私は自分でも驚くほど顔が熱くなっているのを感じた。
何をしているんだろう、私。
そう思ったけれど、不思議と後悔はなかった。
タクマが昇格したことが嬉しかった。
彼が私の知らないところで成長していたことが、少し寂しくもあった。
そして何より、こうしてまた一緒に歩いていることが、たまらなく嬉しかった。
そんな気持ちが一度に溢れて、考えるより先に身体が動いてしまったらしい。
「……E級昇格のお祝い」
私は小さく言った。
タクマはしばらく呆然としていたけれど、やがて照れくさそうに笑った。
「……そっか」
「……うん」
「じゃあ、次に昇格したときも期待していい?」
「……調子に乗らない!」
私は思わず彼の肩を軽く叩いた。
タクマが笑う。
私もつられて笑ってしまった。
夕暮れの街を、私たちは再び歩き始めた。
少し前まで、タクマは私が守ってあげなければならない人だった。
けれど、今は違う。
彼は自分の足で歩き、自分の剣で戦い、自分の力で冒険者としての居場所を作り始めている。
もちろん、まだ危なっかしいところはあるし、知らないことだってたくさんある。これからも私が教えられることはあるだろうし、困ったときには助けてあげたいと思う。
けれど、彼が私の知らないところで新しいことを覚え、できることを増やしていくのも、きっと悪くない。
次に一緒に冒険するとき、また驚かされるかもしれない。
そう考えると、少し楽しみだった。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「E級昇格、おめでとう」
「ありがとう、リカ」
「……これからも、一緒に冒険しようね」
タクマは少し笑った。
「もちろん。そのつもりだよ」
私はうなずいた。
彼の返事が、何だかとても嬉しかった。
雨上がりの街には、夕食の支度をする家々から温かな匂いが漂っていた。どこかの店先では焼きたてのパンが並べられ、通りの向こうからは仕事帰りの人々の賑やかな声が聞こえてくる。
私たちは並んで歩きながら、今夜は何を食べようかと相談した。
いつもと変わらない帰り道だった。
けれど、その日の私は、いつもより少しだけ彼の近くを歩いていた。




