第12話 酒と昔話
食堂の扉をくぐると、温かな空気と賑やかな話し声が一度に押し寄せてきた。
店内は仕事を終えた冒険者や職人たちで混み合っていた。あちこちの卓で酒杯が打ち鳴らされ、厨房からは肉を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。夕食には少し早い時間だったけれど、すでに顔を赤くして盛り上がっている客もちらほらいるようだった。
「おう、こっちだ!」
先に入っていたフリーダが、奥の卓から手を振った。
その向かいにはクルシュが座っている。彼は私たちに気づくと、穏やかに微笑んだ。
「お疲れさまです。席は取ってありますよ」
「ありがとう、クルシュ」
「すみません、お待たせしました」
タクマが頭を下げると、フリーダは豪快に笑った。
「いいってことよ! さあ座れ座れ。今日は新しい仲間ができた祝いだ!」
私たちは二人の向かいに腰を下ろした。
テーブルにはすでに酒の入った大きな陶器の瓶と、四人分の杯が用意されている。フリーダが自分の杯を満たそうとすると、クルシュがさりげなく手を伸ばした。
「フリーダ。まずは全員の分を注いでからにしましょう」
「分かってるって!」
「さっき、僕が止めなければ先に飲んでいたでしょう?」
「……細けえなあ」
フリーダは口を尖らせたけれど、素直に杯を置いた。
そのやり取りが何だかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「相変わらずだね、二人とも」
「何だよ、リカまで」
「だって、クルシュがいないとフリーダ、いつも飲みすぎるんだもん」
「そんなことねえよ!」
「この前も帰り道で、道端の樽に話しかけていましたよ」
「クルシュ! それは言わなくていいだろ!」
タクマが隣で吹き出した。
クルシュは何事もなかったように酒を注ぎ終えると、自分の杯を持ち上げた。
「では、改めまして。四人での活動を祝って」
「おう! 乾杯!」
「乾杯!」
四つの杯が軽く触れ合う。
冷たい酒を一口飲むと、喉の奥に心地よい刺激が広がった。昨日は魔獣の討伐、今日はタクマの武器選びと訓練。慌ただしい二日間だったけれど、こうして気の置けない仲間と食卓を囲むと、ようやく一息つけた気がする。
「しかし、リカが自分からパーティを組もうって言い出すとはなあ」
早速フリーダがそんなことを言い出した。
「そんなに珍しい?」
「珍しいに決まってるだろ。お前、昔から一人で何でもやっちまうからな」
「……別に、誰かと組むのが嫌だったわけじゃないよ」
「分かってるよ。ただ、わざわざ自分から誘うことが少なかっただろ?」
確かに、それは否定できなかった。
私は一人で受けられる依頼なら、基本的に一人で済ませてしまう。誰かと予定を合わせる必要もないし、報酬の分配を考える必要もない。何より、戦い方を他人に合わせなくて済む。
それが気楽だったのだ。
「でも、タクマと一緒に仕事するなら、やっぱり仲間がいた方がいいと思って」
「ほう?」
フリーダがにやりと笑った。
「タクマのためか?」
「それもあるけど、私だって二人と組めるなら嬉しいよ」
「……おっ」
「何?」
「いや、何でもねえ。随分素直になったなと思ってさ」
「もう。何なの、さっきから」
私が呆れると、クルシュが笑いながら料理の皿をこちらへ寄せてくれた。
「フリーダは嬉しいんですよ。リカさんから誘ってもらえたことが」
「おい、余計なこと言うな!」
「違うんですか?」
「……違わねえけどよ」
フリーダは少し照れくさそうに酒を飲んだ。
私はその横顔を見て、何だか嬉しくなった。
こういうところが、昔から変わらない。
フリーダは普段こそ豪快で、何でも遠慮なく言ってくるけれど、本当に大事なことになると妙に照れくさがる。私はそんな彼女に、何度も助けられてきた。
*
料理が運ばれてくると、話題は自然とタクマの故郷へ移った。
フリーダもクルシュも、タクマが別の世界から来たことは知っている。けれど、その世界がどんな場所なのか、本人から詳しく聞くのは初めてだった。
「で、タクマ。お前の国には魔法がねえんだって?」
「ええ。少なくとも、俺のいた世界では使えませんね」
「魔法なしでどうやって暮らしてんだ?」
「代わりに、機械とか電気っていうものが発達してるんです。明かりをつけたり、部屋を暖めたり、遠くの人と話したり。こっちだと魔道具でやってることを、別の仕組みでやってる感じですね」
「へえ。魔石なしでか?」
「はい」
フリーダは感心したように唸った。クルシュも興味深そうに話を聞いている。
「それは面白いですね。魔力を使わずに動く道具が、そこまで普及しているんですか」
「そうですね。普通の家庭にも色々ありますよ」
「じゃあ、お前の世界の人間は、みんな楽して暮らしてるのか?」
フリーダの質問に、タクマは苦笑した。
「いやあ……便利なものは多いですけど、だからって毎日が楽だったわけじゃないですよ」
「何でだ?」
「仕事が忙しかったり、人間関係で疲れたり。便利になった分、求められることも増えるというか」
タクマは料理を一口食べてから続けた。
「俺は家を売る仕事をしてたんですけど、朝から晩まで働いてましたね。休みの日でもお客さんから連絡が来たりして」
「家を売る?」
「はい。建てる人と買う人の間に入って、色々相談したり、手続きを進めたりする仕事です」
「ほう。商人みてえなもんか」
「まあ、近いかもしれません」
私は以前聞いた話を思い出した。
タクマは向こうの世界で、ずっと仕事をしていたらしい。話を聞く限り、かなり忙しい生活だったようだ。こちらへ来てからも、彼が荷物の整理や記録を細かく気にするのは、その頃の習慣が残っているからなのかもしれない。
「しかし、魔獣もいねえのに大変なんだな」
フリーダが呆れたように言った。
「こっちじゃ魔獣に食われる心配があるってのに、そっちは仕事に食われそうじゃねえか」
「……それ、結構うまいこと言いますね」
タクマが笑った。
「実際、そんな感じでしたよ」
「だったら、こっちに来て少しは気が楽になったんじゃねえか?」
「いや、最初は全然そんなことなかったですよ。言葉は通じても文字は読めないし、お金も仕事もないし。何より、元の世界に戻れるのかも分からなかったですから」
その言葉に、私は少し胸が痛んだ。
タクマは普段、あまり不安を口にしない。けれど、突然知らない世界へ放り出されたのだ。どれほど心細かったのか、私には想像することしかできない。
「でも、今は少し落ち着きました」
タクマは私たちを見回して笑った。
「リカに助けてもらって、仕事も少しずつ覚えて。こうして皆さんとも知り合えましたし」
「おう! そういうことなら、遠慮なく頼れよ!」
フリーダは勢いよくタクマの肩を叩いた。
「うわっ!」
「はははっ! 冒険者ってのは助け合いだからな!」
「フリーダ、力加減を」
「分かってるって!」
クルシュの注意に、フリーダは笑って答えた。タクマもつられて笑っている。
私はその光景を見ながら、何だか少し安心した。
彼がこの世界に来てから、まだそれほど長い時間は経っていない。それでも、少しずつ自分の居場所を見つけ始めている。
それが、私にはとても嬉しかった。
*
食事が進み、二杯目の酒を飲み終えた頃だった。
タクマがふと、フリーダとクルシュを見比べた。
「そういえば、お二人っていつから付き合ってるんですか?」
「ぶっ!」
フリーダが盛大にむせた。
「な、何だよ急に!」
「いや、仲がいいなと思って。どういうきっかけだったのかなって」
「そ、そんなの、別にどうでもいいだろ!」
フリーダは慌てて杯を置いた。その隣で、クルシュは涼しい顔をしている。
「そうですね。もう何年かになりますか」
「クルシュ!」
「きっかけは、リカさんの元恋人の件でしたね」
「おいっ!」
フリーダが勢いよく立ち上がりかけた。
私は思わず顔を上げた。
「……え、私の話になるの?」
「そうなりますね」
クルシュは平然と答えた。
タクマが不思議そうに私を見る。
「リカの元恋人?」
「……うん。まあ、昔ちょっとね」
私は曖昧に笑った。
正直、あまり思い出したくない話ではある。けれど、もう何年も前のことだ。今さら隠したところで、どうなるものでもない。
それに、タクマには昨夜、昔の恋愛で失敗したことがあると話したばかりだった。
「……ああ、昨日言ってた話か」
「うん。それ」
タクマは納得したようにうなずいた。
私は酒を一口飲んだ。
……まあ、いいか。
どうせいつかは話すことになるだろうし、フリーダたちがいるなら、変に深刻な話にもならないはずだ。
「……で、どこから話すの?」
「おっ、リカ。自分で話す気になったか?」
フリーダがにやりと笑った。
「別に、隠すことでもないでしょ。もう昔の話だし」
「そうか。じゃあ遠慮なくいくぞ」
「……ちょっと待って。やっぱり嫌な予感がする」
私の言葉など聞こえなかったかのように、フリーダはタクマへ向き直った。
「昔な、こいつがとんでもねえ男に引っかかったことがあってよ」
「……とんでもない男?」
「ああ。口だけは達者な、ろくでもねえ野郎だった」
「ちょっとフリーダ! 最初からそこまで言わなくても!」
「事実だろ?」
「……事実だけど!」
タクマが困ったように笑った。
クルシュはそんな私たちを眺めながら、静かに酒を飲んでいる。
「当時のリカは、今よりずっと若かったですからね」
「今だって若いよ!」
「ええ。もちろんです。ただ、あの頃は冒険者として急速に実績を上げていた時期でしたから、周囲との付き合い方には慣れていなかったのでしょう」
クルシュの言葉に、私は少し黙った。
それは、確かにそうだった。
あの頃の私は、自分の力にかなり自信を持っていた。魔法なら誰にも負けない。依頼を受ければ成果を出せる。危険な魔獣だって、一人で倒せる。
だから、自分は何でもできるのだと思っていた。
けれど、人を見る目まで優れていたわけではなかったらしい。
「……最初はね、優しい人だったのよ」
私は杯を指先で回しながら話し始めた。
「冒険者の仕事について色々教えてくれたし、私が困ってると相談にも乗ってくれた。年上で、頼りになる人だと思ってたの」
「ふむふむ」
タクマは真面目に聞いている。
「それで、付き合うようになったんだけど……」
「そこからがひでえんだ」
フリーダが口を挟んだ。
「こいつが稼いだ報酬を、あの男が勝手に管理し始めてな」
「勝手にっていうか、私がお願いしたのよ。依頼の報酬とか、素材の売却代金とか、そういうのをまとめてくれるって言うから」
「それを信じたんだよな?」
「……うん」
私は少しだけ肩をすくめた。
当時の私は、金銭管理にあまり興味がなかった。依頼を受けて、魔獣を倒して、報酬を受け取る。それだけで十分だったし、細かな計算は面倒だと思っていた。
だから、恋人が代わりに管理してくれるという話を、何の疑いもなく受け入れてしまったのだ。
「で、実際にはどうだったんですか?」
タクマが尋ねた。
私はため息をついた。
「……ごまかされてたのよ。かなりの額を」
「うわ……」
「しかも、素材の売却額まで偽ってたんだぞ。ギルドに提出する記録も適当でな」
フリーダは呆れたように言った。
「そのうえ、他の女にも手を出してやがった」
「……え?」
タクマが目を丸くした。
「浮気まで?」
「一人じゃねえぞ」
「フリーダ!」
「何だよ。事実だろ?」
「……そうだけど!」
私は思わず酒を飲み干した。
思い出すだけで腹が立つ。今となっては笑い話だけれど、当時は本当にひどかった。
何しろ、私はあの男を心から信じていたのだから。
「……それで、フリーダさんが気づいたんですか?」
タクマが尋ねた。
「ああ。最初は妙だと思っただけだったんだけどな」
フリーダは杯を置いた。
「リカの稼ぎにしちゃ、手元に残る金が少なすぎたんだよ。それに、あの男がやたら羽振りよくなっててな」
「なるほど……」
「だから、ちょっと調べてみたんだ。そしたら、出るわ出るわ」
フリーダは呆れたように首を振った。
「最初にリカへ話したときなんか、こいつ、何て言ったと思う?」
「……フリーダ」
「『あの人がそんなことするはずない! 私は信じてる!』だぞ?」
「やめてぇ!」
私は思わず両手で顔を覆った。
タクマが吹き出す。
「……リカが?」
「そうだよ! しかも一回じゃねえからな!」
「フリーダ! もういいでしょ!」
「いやあ、あのときは参ったぜ。何を言っても聞かねえんだから」
私は顔を覆ったまま唸った。
覚えている。
ちゃんと覚えているからこそ、恥ずかしいのだ。
あの頃の私は、フリーダの忠告を疑っていた。彼女が私を心配してくれていることは分かっていたはずなのに、恋人の悪口を言われたと思い込んで、ひどいことまで言ってしまった。
それでも、フリーダは諦めなかった。
「……でもね、タクマ」
私は顔を上げた。
「フリーダは、私が何を言っても見捨てなかったの」
フリーダが少しだけ表情を変えた。
「……何だよ、急に」
「だって、本当のことでしょ?」
私は笑った。
「私、あのときフリーダに随分ひどいこと言ったと思う。それなのに、ずっと調べてくれてたんだよね」
「……まあ、放っとけなかったからな」
フリーダは照れくさそうに鼻を鳴らした。
その隣で、クルシュが静かにうなずいた。
「僕も、あのときのフリーダには驚かされました」
「……クルシュ?」
「当時、僕たちはまだそれほど親しくありませんでした。でも、彼女がリカさんのために必死になっている姿を見て、手伝いたいと思ったんです」
クルシュは少し懐かしそうに笑った。
「ギルドの依頼記録や素材の売却記録を調べて、数字が合わないところを一つずつ確認しました。最初は小さな食い違いでしたが、調べるほど不自然な点が増えていって」
「お前、ああいうの得意だったもんな」
「ええ。フリーダは人に話を聞くのが上手かったですし、僕は記録を調べる方が向いていましたから」
二人は顔を見合わせて笑った。
私はその様子を見ながら、あの頃のことを思い出していた。
フリーダは、私が怒っても、泣いても、決して諦めなかった。何度も私のところへ来て、話を聞いてほしいと言った。
そして最後には、私自身が否定できないほどの証拠を集めてきたのだ。
「……それで、全部分かったんですか?」
タクマが尋ねた。
「ああ。報酬の着服、素材の売却額の偽装、ギルドへの虚偽報告。それに、他の女との関係までな」
フリーダは肩をすくめた。
「もう言い逃れできねえところまで追い詰めたんだ」
「……すごいですね」
「いや、すごいのはクルシュだよ。あたしは腹が立って走り回ってただけだからな」
「そんなことありませんよ」
クルシュは穏やかに答えた。
「僕が手伝おうと思ったのは、フリーダがそこまでしてリカさんを助けようとしていたからです」
「……おい」
「何です?」
「そういうの、今言わなくてもいいだろ」
クルシュは少し笑った。
「でも、本当のことですから」
それから、タクマへ向き直った。
「僕がフリーダを好きになったのも、あの頃でした」
「……へえ」
タクマが感心したように声を漏らした。
フリーダは耳まで赤くなっている。
「ちょっと待て! 何でそうなるんだよ!」
「タクマさんが馴れ初めを聞いたんでしょう?」
「だからって、そこまで話さなくても!」
クルシュは気にした様子もなく続けた。
「リカさんは当時、フリーダの忠告を聞こうとしませんでした。それでも彼女は諦めなかった。どうしてそこまでするのか、僕は不思議だったんです」
「……で?」
タクマが続きを促した。
「尋ねたら、こう言われました。『友達が騙されてんだぞ。放っとけるわけねえだろ』って」
フリーダは顔を覆った。
「……覚えてねえよ、そんなの」
「僕は覚えていますよ」
クルシュは微笑んだ。
「そのとき、この人と一緒にいたいと思ったんです」
私は思わず笑ってしまった。
フリーダは豪快で、少し乱暴で、細かいことを気にしない。けれど、本当に大切な人のためなら、誰よりも真剣になれる。
クルシュが惹かれたのも、きっとそんなところなのだろう。
「……いい話ですね」
タクマがしみじみと言った。
「だろ?」
フリーダは少し照れくさそうに笑った。
「まあ、こいつがあたしに惚れたのは、見る目があったってことだな!」
「ええ。そう思っています」
「……だから、そういうことを平然と言うなって!」
私たちは声を上げて笑った。
*
そこから先は、もう完全に昔話になってしまった。
フリーダが当時の私の様子を語り、クルシュが時々補足する。私はそのたびに反論したけれど、残念ながら二人の記憶は妙に正確だった。
しかも、タクマが面白がって聞くものだから、話はますます止まらない。
気がつけば、私の杯も何度目かのおかわりを迎えていた。
「……だからね! 本当に最低な男だったのよ!」
私は酒杯を握りしめて言った。
「私が討伐してきた魔獣の素材を勝手に売って! 報酬までごまかして! そのお金で他の女と遊んでたのよ!?」
「……うわぁ」
タクマが顔をしかめた。
「それはひどいな」
「でしょ!?」
私は勢いよく身を乗り出した。
「しかも私、フリーダに何度も忠告されてたのに、あの人がそんなことするはずないって!」
「お前、本当に言ってたからなあ」
フリーダが笑う。
「分かってるわよ! もう何度も言わないで!」
「いやあ、今思い出しても傑作だぜ」
「傑作じゃない!」
私は杯を机に置いた。
思い出せば思い出すほど、腹が立ってくる。
あの男がしたことも許せないけれど、それ以上に、あんな相手を信じ切っていた自分が情けない。
私は大きく息を吸い込んだ。
「だいたいね!」
「お、おう?」
タクマが少し身を引いた。
「私が一番許せないのは、お金のことでも浮気のことでもないのよ!」
「……まだ何かあるのか?」
「あるわよ!」
私は勢いよく言い放った。
「あんな奴に純潔を捧げたなんて、人生最大の汚点よ!!」
……一瞬、食卓が静まり返った。
タクマが飲みかけていた酒を危うく吹き出しかける。
「ぶっ……げほっ、げほっ!」
「タクマ!?」
私は慌てて彼の方を向いた。
けれど、その隣ではフリーダが腹を抱えて笑い始めていた。
「ぶははははっ! お前、それ言うか!?」
「何よ! 本当のことでしょ!」
「いや、そうだけどよ! タクマの前で言うことか!?」
「別にいいじゃない! 今さら隠したって仕方ないでしょ!」
クルシュは苦笑しながら、私の前に水の入った杯を置いた。
「リカさん。少しお水を飲みましょうか」
「私、そんなに酔ってないわよ!」
「ええ。そういうことにしておきます」
「……絶対信じてないでしょ」
私は不満を口にしながらも、水を一口飲んだ。
タクマはようやく咳が収まったらしく、目元を拭いながら苦笑している。
「……いや、まあ、それは確かに腹立つな」
「でしょ!?」
「うん。そこまで信用してた相手に裏切られたら、そりゃ怒るよ」
その言い方があまりにも普通だったので、私は少し拍子抜けした。
てっきり、もっと困った顔をするかと思っていたのだ。
「……タクマは気にならないの?」
「何が?」
「……だから、その。私が昔、そういう関係の人がいたってこと」
タクマは少し考えた。
「いや、別に。リカだって大人なんだし、昔付き合ってた人くらいいるだろ」
「……そう?」
「そりゃそうだよ。俺だって元カノいたし」
私は思わず笑ってしまった。
そうだった。
タクマだって、昨夜自分の過去を話してくれたばかりなのだ。
「……そっか」
「うん。それより、そこまでひどいことした奴が、そのあとどうなったのかの方が気になるな」
タクマはそう言って、少し首を傾げた。
「……ちなみに、その人はどうなったの?」
私は杯を置いた。
そして、できるだけ普通の声で答えた。
「焼いたわ」
「……え?」
「焼いたの」
「…………」
タクマが固まった。
フリーダが再び笑い出す。
「はははっ! まあ、そうなるよな!」
「……いや、ちょっと待ってください」
タクマは困惑した顔で私を見た。
「焼いたって、どういう……?」
「だから、魔法で」
「……魔法で?」
「うん。火の魔法」
タクマはゆっくりとフリーダへ顔を向けた。
「……生きてるんですか?」
「安心しろ。生きてる」
フリーダは笑いながら答えた。
「命までは取ってねえよ。まあ、ひどい目には遭ったけどな」
「……それ、安心していいんですか?」
「いいんじゃねえか? 少なくとも、あいつがやったことを考えりゃ自業自得だろ」
私は少しむっとした。
「だって、あの男、最後まで嘘ついてたのよ?」
「……最後まで?」
「そう。証拠を突きつけても、全部誤解だって言い張って。挙げ句の果てには、私が悪いみたいなことまで言い出したんだから!」
思い出しただけで腹が立つ。
あのとき、私は本当に頭に血が上っていた。
フリーダたちが集めてくれた証拠を見て、ようやく自分が騙されていたことを理解した。けれど、それでも心のどこかでは、何か事情があるのではないかと考えていたのだ。
そんな私に、あの男は最後まで嘘をついた。
そして、自分のしたことを棚に上げて、私を責め始めた。
あの瞬間、何かが切れた。
「……まあ、あのときは大変でしたね」
クルシュが静かに言った。
「リカさんが魔法を使ったとき、僕たちも慌てて止めに入りましたから」
「そうそう。あたしらが止めなかったら、もっとひでえことになってたぞ」
フリーダがうなずいた。
私は少しだけ視線を落とした。
「……うん。あのときは、本当にごめん」
「何だよ、今さら」
フリーダは笑った。
「まあ、気持ちは分からなくもなかったけどな」
クルシュも穏やかにうなずいた。
「幸い、命に関わる事態にはなりませんでしたし。そのあと、ギルドの調査で規定違反も次々に明らかになりましたから」
「……それで、どうなったんですか?」
タクマが尋ねた。
「ノヴァグラードから永久追放だ」
フリーダが答えた。
「ギルドの信用を悪用して報酬をごまかしてたんだから、当然だろ。冒険者としても、ここじゃ二度と仕事できねえよ」
「……なるほど」
タクマはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ苦笑した。
「……何というか、すごい話ですね」
「そうでしょ?」
私はため息をついた。
「本当に、人生最大の失敗だったわ」
「まあ、でも……」
タクマは少し考え込んだ。
「そのおかげで、フリーダさんとクルシュさんが付き合うことになったんですよね?」
「……あ」
私は思わず二人を見た。
フリーダは少し照れくさそうに笑い、クルシュは穏やかにうなずいた。
「そうですね。あの出来事がなければ、僕たちは今ほど親しくなっていなかったかもしれません」
「……何よ、それ」
私は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、私の黒歴史にも少しは意味があったってこと?」
「おう! そういうことだ!」
フリーダは勢いよく杯を持ち上げた。
「お前があんな馬鹿に引っかかってなきゃ、あたしらも付き合ってなかったかもしれねえからな!」
「……それ、全然嬉しくないんだけど!」
私たちはまた声を上げて笑った。
あの頃は、本当に辛かった。
自分が信じていた人に裏切られたことも、フリーダの忠告を聞かなかったことも、何もかもが恥ずかしくて、しばらく誰にも会いたくなかった。
けれど、今はこうして笑い話にできている。
それはきっと、あのとき私を見捨てなかった人たちが、今もこうして隣にいてくれるからなのだろう。
フリーダは杯を置くと、ふと思い出したようにタクマへ顔を向けた。
「そうだ。タクマ、お前も気をつけろよ!」
「……え?」
「リカを騙すと焼かれるぞ!」
フリーダは大声で笑った。
「ぶはははっ! こいつの火魔法は洒落にならねえからな!」
「ちょっとフリーダ! 変なこと言わないでよ!」
「いやいや、事実だろ?」
「だからって、そんな言い方しなくても!」
私は慌ててタクマを見た。
彼は一瞬きょとんとしていたけれど、すぐに笑い出した。
「……それは怖いですね」
「だろ?」
「でも、騙さなきゃいいんですよね?」
「おう! そういうことだ!」
「だったら、問題ないですよ」
タクマはあっさりと言った。
その言葉に、私は少しだけ目を瞬かせた。
何だか、随分と簡単に言う。
けれど、タクマは特別なことを言ったつもりもないらしく、いつもどおりの顔で料理を食べ始めた。
私はそんな彼を眺めながら、何となく頬が緩むのを感じていた。
*
それからもしばらく、私たちは食事と酒を楽しんだ。
途中でクルシュが明日以降の仕事について話を切り出し、四人で受けられそうな依頼をいくつか相談した。
フリーダは少し遠出する採取依頼を提案し、クルシュはまず四人の連携を確かめられる仕事がいいだろうと言った。
私もそれに賛成した。
タクマはまだ剣の訓練を始めたばかりだし、無理に危険な場所へ連れていく必要はない。それに、彼にはポーターとしての仕事がある。
「タクマさんには、引き続き荷物の管理をお願いしたいですね」
クルシュが言った。
「昨日も助かりました。僕たちが戦っている間、素材や道具のことを気にしなくて済みましたから」
「ありがとうございます。でも、俺ももう少し役に立てるようになりたいです」
「十分役に立ってるって!」
フリーダが笑った。
「それに、剣を習うんだろ? 自分の身を守れるようになりゃ、それだけでも随分違うさ」
タクマは嬉しそうにうなずいた。
「はい。頑張ります」
私はそんな彼を見ながら、今日ハーケンに言われたことを思い出していた。
タクマには剣術の素地がある。そのうち前衛でも使えるようになるかもしれない。
けれど、それを今の彼に伝えるつもりはなかった。
タクマはまだ、この世界で生きていくための道を探している途中なのだ。彼がどんな冒険者になりたいのか、それは本人が決めることだと思う。
私は、彼が選んだ道をできるだけ支えてあげたい。
そんなことを考えているうちに、食堂の外はすっかり暗くなっていた。
*
店を出る頃には、フリーダはすっかり上機嫌になっていた。
「いやあ、今日は楽しかったな!」
「フリーダ。足元に気をつけてください」
「分かってるって! あたしは酔ってねえ!」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
クルシュは苦笑しながら、フリーダの肩を支えている。
私はその様子を見て笑った。
「相変わらずだね、二人とも」
「お前も人のこと言えねえだろ!」
「私はちゃんと歩けるもん!」
「はいはい。分かったから、今日はもう帰って寝ろよ」
フリーダは笑いながら手を振った。
「じゃあな、リカ! タクマも、また一緒に仕事しようぜ!」
「はい! よろしくお願いします!」
タクマが頭を下げると、クルシュも微笑んだ。
「こちらこそ。次の依頼が決まったら連絡しますね」
「うん。またね、二人とも!」
私たちは二人を見送り、帰り道を歩き始めた。
夜のノヴァグラードは、昼間とは違って静かだった。通りには魔道具の灯りが並び、遠くから酒場の賑わいが聞こえてくる。店先に並んでいた商品も片づけられ、昼間は人で溢れていた道を、今は時折誰かが通り過ぎる程度だった。
タクマはしばらく黙って歩いていたけれど、やがて口を開いた。
「……いい人たちだな」
「うん。私の大切な友達なんだ」
「何か、よく分かった気がするよ」
「……何が?」
「リカがあの二人を信頼してる理由」
私は少しだけ笑った。
「……そっか」
フリーダとクルシュには、本当に感謝している。
あの頃の私は、二人がいなければどうなっていたか分からない。自分が騙されていたことを認められず、もっとひどい目に遭っていたかもしれないし、怒りに任せて取り返しのつかないことをしていたかもしれない。
そんな私を、二人は最後まで見捨てなかった。
「……それにしても、あの話。俺にしてよかったのか?」
タクマが尋ねた。
「……何の話?」
「元カレの話だよ。結構、色々聞いちゃったからさ」
「ああ……」
私は少し考えた。
確かに、普段なら自分から話そうとは思わなかったかもしれない。今日はフリーダたちがいて、酒も入っていた。何より、タクマには昨夜、自分の気持ちについて話したばかりだった。
だから、今さら取り繕う必要もない気がしたのだ。
「……別に、隠すようなことでもないし。今となっては笑い話よ」
「そっか」
「まあ、あのときは本当に辛かったけどね」
私は少しだけ夜空を見上げた。
あの頃の自分を思い出すと、今でも胸が痛むことはある。けれど、それ以上に、あんな相手を信じていた自分が情けなくて仕方がない。
それでも、あの経験があったからこそ、今は少し慎重になれたのかもしれない。
「……だからね、タクマ」
「ん?」
「私、もうあんなふうに騙されたくないの」
タクマは黙って私を見た。
「もちろん、誰かを好きになることが悪いとは思わない。でも、今度はちゃんと相手のことを見たいの。自分の気持ちだけで突っ走るんじゃなくて、相手がどういう人なのか、何を考えてるのか……そういうことを、ちゃんと知ってから決めたい」
私は少し笑った。
「……だから、昨日もあんな話をしたんだと思う」
タクマはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が少し気になって、私は彼の顔を覗き込んだ。
「……タクマ?」
「ああ、ごめん。ちょっと考えてた」
「何を?」
タクマは少し照れくさそうに笑った。
「いや……それってさ、結構すごいことだなと思って」
「……え?」
「だって、もう騙されたくないんだろ?」
「うん」
「だったら、相手に何も言わずに、黙って様子を見ることだってできるじゃないか」
私は少し首を傾げた。
「……そうだね」
「でも、リカは俺にちゃんと話してくれた。昔どんなことがあって、何が嫌で、これからどうしたいのかまで」
タクマは私の顔を見た。
「それって、俺に自分の考えを全部教えてくれてるってことだろ?」
私は少しだけ目を瞬かせた。
そんなふうに考えたことはなかった。
私はただ、自分の気持ちをきちんと伝えたかっただけだ。曖昧なままにしておくのが嫌だったし、タクマにも変な期待をさせたくなかった。
けれど、言われてみれば、確かにそうかもしれない。
「……それは、そうかも」
「だからさ」
タクマは少しだけ笑った。
「俺のこと、それだけ信用しようとしてくれてるのかな。なんて思った」
その言葉に、私は思わず足を止めそうになった。
信用しようとしている。
そう言われると、何だか胸の奥が少し温かくなった。
私はタクマを信用しているのだろうか。
もちろん、彼が悪い人ではないことは分かっている。今まで一緒に暮らしてきて、彼が真面目で、優しくて、何事にも一生懸命な人だということも知っている。
けれど、恋愛の相手として信用しているのかと聞かれれば、まだ分からない部分もある。
だからこそ、もっと知りたいと思っている。
それなのに、タクマはそんな私の態度を、信用していないからではなく、信用しようとしているからだと受け取ってくれた。
「……タクマって、変なところで鋭いよね」
「えっ、そうか?」
「うん。そういうこと、普通は気づかないと思う」
「いや、俺もそんな大したこと考えてないよ。ただ、リカがちゃんと話してくれたのが嬉しかっただけで」
タクマは少し困ったように笑った。
「俺もさ、リカのことをもっと知りたいと思ってるし。だから、こういう話をしてくれるのはありがたいよ」
私はしばらく彼の顔を見つめた。
何だろう。
この人は、時々こういうことをさらりと言う。
昨夜だってそうだった。
私が好意を持っている可能性があると伝えたとき、タクマは驚きながらも、ちゃんと自分の気持ちを話してくれた。
そして今日も、私の過去を聞いて、変に慰めたり、気を遣いすぎたりすることなく、ただ受け止めてくれた。
それが、私にはとても心地よかった。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「私のこと、面倒な女だと思った?」
タクマは少し驚いたように私を見た。
「いや。別にそんなこと思わないけど」
「本当?」
「うん。むしろ、結構人間らしいところあるんだなって思った」
「……それ、どういう意味?」
「いや、だってリカって何でもできるからさ」
タクマは少し笑った。
「魔法もすごいし、冒険者としても一流だし。俺からすると、最初は何でもできる人に見えたんだよ」
「……何でもできるわけじゃないわよ」
「今日、よく分かった」
「……もう!」
私は思わず彼の腕を軽く叩いた。
タクマは笑いながら少し身を引く。
「いや、悪い意味じゃないって!」
「分かってるわよ!」
私もつられて笑った。
そう。
私は何でもできるわけじゃない。
魔法が得意だからといって、人の気持ちまで分かるわけではないし、冒険者として強いからといって、間違った選択をしないわけでもない。
昔の私は、そんな当たり前のことさえ分かっていなかった。
でも、今は少し違う。
自分が間違えることも、誰かに助けてもらう必要があることも、少しずつ受け入れられるようになった。
そして、今はその隣にタクマがいる。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「私、昔は本当に馬鹿だったと思う」
「……まあ、誰だってそういうことはあるだろ」
「うん。でも、今度はちゃんと相手のことを見たいの」
タクマは少しだけ私を見た。
私は笑って続けた。
「だから、これからもよろしくね」
彼は一瞬きょとんとしたあと、穏やかに笑った。
「……こちらこそ。よろしく」
夜風が少しだけ涼しかった。
私たちは並んで歩きながら、家へと続く道を進んでいった。
今日の食事会では、随分と恥ずかしい話までしてしまった。明日になったら、少し後悔するかもしれない。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
自分の失敗も、恥ずかしい過去も、笑いながら話せる相手がいる。そして、その話を聞いても、変わらず隣を歩いてくれる人がいる。
何より、私が自分の気持ちを伝えることを、タクマは信用しようとしている証拠だと受け取ってくれた。
それが、何だかとても嬉しかった。
私は隣を歩くタクマをちらりと見た。
彼はいつもどおりの顔で、夜道を歩いている。
……本当に、不思議な人。
昨夜、私はタクマに好意を持っている可能性があると伝えた。
けれど、その可能性は、今日また少しだけ大きくなったような気がした。




