ノア、初めての火球
最初の実地課題を迎えた朝、いつものように二百回の素振りを終える。
俺は木剣を置いた。
「ノア、お待たせ」
返事はなかった。
「ノア?」
振り返る。
少し離れた場所で、ノアは《五相杖》を両手で握り、目を閉じていた。
俺が剣を振り終えたことにも気づいていないらしい。
透明な晶石には、小さな光。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
魔力が僅かに揺れる。
『そろそろだな』
そう思った、その時。
ノアは自分から魔力を切った。
「今、自分で止めた?」
「う、うん。少し太くなりそうな感じがしたから」
「できるようになってきたじゃん」
ノアが、少しだけ嬉しそうに杖を見る。
「ま、前よりは、分かるようになってきたかも」
毎朝、同じことを繰り返してきた。
最初は、魔力が膨らむ時機を俺が伝えていた。
でも最近は、ノア自身も、その前兆に気づけるようになってきている。
「じゃあ」
俺は、ノアが机の横へ置いていた細身の杖を手に取った。
父親からもらった、ノア自身の杖だ。
「今日は、こっちを使ってみよう」
ノアの表情が固まった。
「じ、自分の杖で?」
「ああ」
これまでは、俺の《五相杖》を使って訓練してきた。
初心者用に作られた《五相杖》は、属性変換を補助するだけではなく、術の出力もある程度抑えてくれる。
だから、魔力を細く流す練習や、少量だけ属性変換する練習には向いていた。
でも、今日の実地課題で使うのは、ノア自身の杖だ。
なら、本番へ行く前に、一度くらいは成功させておいた方がいい。
「火球までやってみよう」
「え、え?」
ノアが、自分の杖と俺の顔を交互に見る。
「で、でも……」
「大丈夫」
「ま、また大きくなったら」
「膨らみ始めたら、俺が合図する」
俺は杖をノアへ渡した。
「合図したら、すぐに自分で魔力を切れ」
「う、うん……」
「無理だと思ったら、形成する前に止めてもいい」
この訓練場には、魔術訓練用の的が並び、周囲の石壁には防火の術式も刻まれている。
それでも、無理に撃たせるつもりはない。
ノアは、父親からもらった杖を両手で握った。
的の前へ立つ。
深く息を吸った。
「い、いきます」
「いつも通りでいい」
俺は、少し離れた場所へ立つ。
「取り込む量を増やすな。魔力は細いまま」
「う、うん」
周囲の魔元素が、ノアの身体へ取り込まれていく。
以前に比べれば、かなり量を抑えられている。
ノアの魔力が動く。
細い流れが、取り込んだ魔元素へ触れた。
杖先に、小さな赤い光が灯る。
魔元素が、火属性へ変換されていく。
『やっぱり速い』
流している魔力は、以前よりずっと細い。
それなのに、火属性へ変わっていく量は多い。
ノアの異常な変換効率。
少しでも魔力が太くなれば、火球は、すぐに膨れ上がる。
「焦るな」
俺は、ノアの魔力だけを見る。
「拳くらいの大きさを意識しろ」
「う、うん」
赤い光が集まる。
小さな炎が生まれ、少しずつ丸い形を取り始めた。
拳大。
そこで、火球の膨張が止まる。
『止まった』
試験の日。
頭より大きく膨れ上がった炎が、今は、ノアの杖先で、拳ほどの大きさを保っている。
一呼吸。
二呼吸。
魔力は、まだ細いままだ。
「そのまま」
「う、うん」
ノアの腕が震える。
それでも、火球は大きくならない。
『いける』
「今だ」
俺は的を指差した。
「放て!」
「《イ、イグニス》!」
ノアが杖を振る。
火球が放たれた。
少しだけ左右へ揺れながら、真っ直ぐ的へ向かっていく。
バッ!
中心には当たらなかった。
的の端を掠め、火球は空中へ散る。
それでも、木製の的には、小さな焦げ跡が残っていた。
ノアが、杖を握ったまま、固まっている。
「……できた」
小さな声だった。
「できたな」
「で、でも、真ん中に当たらなかった」
「初めて自分の杖で撃って、的まで届いたんだぞ」
俺は、黒く焦げた跡を指差す。
「十分だろ」
ノアが、何度も的と自分の杖を見比べる。
「ほ、本当に……?」
「ああ」
試験の日とは違う。
誰かへ当たらないように、空へ逃がした火じゃない。
自分で大きさを決めて、自分で形成して、狙った方向へ放った火球だ。
「今の感覚、忘れるなよ」
「う、うん!」
ノアが、力強く頷いた。
その顔には、今までにない笑みが浮かんでいる。
『……何だか』
俺は、腕を組みながら、ノアを見る。
『俺まで、ダイスみたいになってきたな』
今度会ったら、少しくらいは、教師として認めてやってもいいかもしれない。
本人に言えば、絶対、調子に乗るけど。
◇
朝の訓練を終えた俺たちは、そのまま学院の食堂へ向かった。
食堂は、いつもの朝より、明らかに騒がしかった。
足元へ剣を置き、食事をしながら手入れをしている者。
片手でパンを食べながら、課題用の図鑑を開いている者。
バディ同士で地図を広げ、どの課題から回るか、相談している者。
今日が、初めての実地課題だからだ。
俺たちも料理を受け取り、空いている卓へ座った。
「朝から頑張ったな」
俺は、焼いた卵を口へ運ぶ。
「う、うん」
ノアは、まだ、自分の杖を何度も見ていた。
火球を撃てたのが、よほど嬉しかったらしい。
「おお!」
前方から、聞き覚えのある声がした。
「アドリスとノアじゃねえか」
赤茶色の髪をした少年。
ウォルス=ハーゲンが、料理を山盛りにした皿を持って近づいてきた。
「朝から早いな」
「訓練してたんだよ」
「訓練?」
ウォルスが、俺たちの持っている木剣と杖を見る。
「ま、毎朝、アドリスと一緒にやってるんだ」
ノアが答えた。
「毎朝?」
ウォルスの眉が上がる。
「お前ら、そんなことやってたのかよ」
「来る?」
俺が聞く。
「日の出前だけど」
「日の出前……」
ウォルスの表情が、一瞬だけ引きつった。
「ま、まあ。そのうちな」
「来ない奴の返事だな」
「行くって! そのうち!」
ウォルスは、俺たちの向かいへ座る。
そして、皿の上のパンを一つ掴んだ。
「それより」
俺とノアを交互に指差す。
「今日の実地課題。絶対に負けねえからな」
「昨日も言ってたぞ」
「大事なことだからな」
「負けても泣くなよ」
「そっちこそ!」
ウォルスが不敵に笑う。
俺も笑い返した。
隣では、ノアが少し困ったように笑っている。
「ふ、二人とも、楽しそうだね」
「ノアも同じバディだろ」
「そ、そうだけど」
「勝つぞ」
俺が言うと、ノアは一瞬だけ目を丸くした。
それから、自分の杖を握る。
「う、うん」
小さく。
でも、はっきりと頷いた。




