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父さん、俺、冒険者になるよ

 その日は。


家の窓を開け、できる範囲で掃除をした。


昼過ぎには、朝会った近所のおばさんが、パンとスープを持ってきてくれた。


一人で、三脚の椅子が並ぶ食卓へ座る。


少し寂しかった。


でも。


不思議と、逃げ出したいとは思わなかった。


ここは。


父さんと母さんがいなくなった場所じゃない。


二人と、八年間を過ごした場所だ。


夜。


俺は、昔使っていた自分の部屋へ入った。


小さなベッド。


低い机。


壁際の本棚。


何もかもが、今の身体には、少し小さく感じる。


ベッドへ横になる。


『そういえば』


この世界で話せるようになった頃。


俺は、一刻も早く一人で寝たがった。


前世で三十六歳だった男が、両親と一緒の寝台で眠るのは、さすがに落ち着かなかったからだ。


母さんは、随分と寂しそうな顔をしていた。


普通の子供なら、もっと両親と一緒に寝たがる年齢だったのだろう。


『変な子供だったよな』


今なら。


あと何度かくらい、一緒に寝てもよかったと思う。


そんなことを考えながら、俺は目を閉じた。


     


気づけば、俺は、家の居間に立っていた。


窓から、柔らかな昼の光が差し込んでいる。


父さんの机。


積み上げられた本。


飲みかけの茶。


そして。


椅子に座り、手帳へ何かを書いている男。


「父さん……?」


男が顔を上げた。


セルウィス。


記憶の中と変わらない。


少し頼りなさそうで、穏やかな顔。


「どうした、アドリス」


当たり前のように、父さんが笑った。


その瞬間、分かった。


これは、夢だ。


父さんが生きているわけじゃない。


俺の記憶が、俺に見せている夢。


それでも、俺は、父さんの前へ歩いていった。


「父さん」


「うん?」


「俺、適性試験を受けたよ」


「そうか」


父さんが手帳を閉じる。


「どうだった?」


「剣を褒められた」


「頑張ったんだな」


「魔術も」


「うん」


「俺、五属性全部使えるんだ」


父さんが目を丸くする。


「それはすごいな」


「うん」


「母さんが聞いたら、明日から勉強の量を倍にしそうだ」


「やりそう」


二人で笑った。


本当に、母さんならやりかねない。


笑い声が止まる。


俺は、父さんの前に立ったまま、拳を握った。


「父さん」


「何だ?」


「俺」


喉が詰まる。


それでも、今度は、誤魔化さなかった。


「冒険者になりたい」


父さんは、驚かなかった。


ただ、一度だけ頷いた。


「そうか」


「……うん」


「なら、なればいい」


あまりにも、簡単に言うから。


胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れた。


「ごめん」


父さんが、不思議そうに首を傾げる。


「なぜ謝るんだ?」


「だって」


声が震えた。


「俺、聖騎士になるって言った」


「うん」


「父さんに木剣まで買ってもらった」


「そうだな」


「なのに」


聖騎士ではなく、別の道を選ぼうとしている。


あの日、父さんに言ったことを、なかったことにするような気がした。


父さんは、しばらく俺を見ていた。


それから、いつものように穏やかに笑った。


「アドリス」


「うん」


「あの木剣は、お前を聖騎士にするために買ったんじゃない」


「え?」


「お前が、やってみたいと言ったから買ったんだ」


父さんの声が、静かに部屋へ響く。


「今は、冒険者をやってみたいんだろ?」


俺は、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


「なら、やってみればいい」


「でも」


「最初に選んだものが、最後まで正解である必要なんてない」


あの日、父さんが言った言葉。


「やってみて」


「違うと思ったなら」


「そのとき、また選べばいい」


父さんが、俺を見る。


「自分の人生だろ?」


「……うん」


涙が流れた。


父さんの顔が滲む。


夢の中なのに、胸が痛い。


それでも、苦しいだけじゃなかった。


ずっと引っ掛かっていたものが、ようやく、ほどけていく。


「父さん」


「何だ?」


「ありがとう」


父さんは、答えなかった。


ただ、いつものように笑った。


窓から差し込む光が、少しずつ強くなっていく。


机も。


本棚も。


父さんの姿も。


白い光の中へ溶けていく。


「父さん!」


手を伸ばす。


でも、届かなかった。


     


目を開ける。


見慣れた天井があった。


朝の光が、窓の隙間から差し込んでいる。


「……夢か」


都合のいい夢だったのかもしれない。


父さんなら、そう言ってくれる。


俺が、そう思いたかっただけなのかもしれない。


でも。


夢の中で聞いた言葉は、父さんが生きていた頃に、何度も俺へ伝えてくれたものだった。


最初に選んだものが、最後まで正解である必要はない。


失敗しても、選び直していい。


枕元へ目を向ける。


父さんからもらった木剣が、壁へ立てかけてあった。


手を伸ばし、木剣を握る。


二年前より、少し小さく感じた。


それでも、手放すつもりはない。


これは、聖騎士になると誓った証じゃない。


俺が、この世界で初めて、何かをやってみたいと思った証だ。


朝になれば、アレスへ戻る。


今度は、迷わず、自分の希望を伝えられる。


俺は、誰もいない部屋で、はっきりと口にした。


「父さん」


木剣を、強く握る。


「俺、冒険者になるよ」

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