父さんが残したもの
翌朝。
宿を出た俺は、かつて暮らしていた家の前に立っていた。
小さな家だ。
石を積んだ低い壁。
木製の扉。
母さんが育てていた花壇。
花はもうない。
それでも、庭は雑草だらけにはなっていなかった。
窓も割れていない。
壁も、思っていたほど汚れていなかった。
『誰かが手を入れてる?』
扉には、モニス役所の印が押された封が付けられている。
勝手に開けられないよう、管理されているようだ。
「あら?」
後ろから声がした。
振り返る。
籠を抱えた女性が、こちらを見ていた。
「もしかして……アドリス?」
「おばさん」
近所に住んでいた女性だった。
昔、焼いた菓子を持って、よく家へ遊びに来ていた。
女性は、俺の顔を確かめるように、しばらく見つめた。
「大きくなったわね……」
「うん」
「帰ってきたの?」
「少しだけ。適性試験を受けたから、父さんと母さんに報告しようと思って」
「そう……」
女性の表情が、僅かに曇る。
それでも、無理に慰めるようなことは言わなかった。
「立派になったわね」
「まだ試験を受けただけだよ」
「一人でここまで帰ってきたんでしょう?」
「うん」
女性は、家へ目を向ける。
「この家は、今役所が鍵を預かっているのよ」
「やっぱり」
「中に残っていたお金や、大事そうな物もね。勝手に持ち出されないよう、全部記録してくれているわ」
それで、扉に封があるらしい。
「でも」
女性が少しだけ笑う。
「家って、ずっと閉め切っていると傷むでしょう?」
「うん」
「役所の人に許可をもらって、私たちも、ときどき窓を開けていたの」
「おばさんたちが?」
「近所だったんだもの。当然よ」
どうりで、二年近く誰も住んでいない家にしては、荒れていないはずだ。
「……ありがとう」
「お礼なんていいの」
女性は俺の肩へ手を置いた。
「役所へ行ってらっしゃい。あなたが帰ってきたと分かれば、鍵を渡してくれるはずよ」
「うん」
少し歩いてから、もう一度振り返る。
女性は、まだ家の前に立っていた。
俺が手を振ると、向こうも笑って、手を振り返してくれた。
モニスの役所は、ヴァルドやディアドラで見たものに比べれば、随分と小さい。
平屋の細長い建物。
入口の両脇には花壇。
壁には、町からの知らせが何枚か貼られている。
中へ入る。
受付にいた女性が顔を上げた。
「どうしました?」
「あの」
俺は、ガイルから渡されていた身分証を取り出した。
「アドリス・ライラスです。家のことで来ました」
「ライラス家?」
女性が身分証へ目を落とす。
次の瞬間、表情が変わった。
「少し待ってください」
奥へ姿を消す。
しばらくして、年配の職員を連れて戻ってきた。
書類を確認し、俺の顔と身分証を、何度か見比べる。
「間違いありませんね」
年配の職員が言う。
「セルウィス・ライラス氏と、ステラ・ライラス氏のご子息」
「はい」
「お待ちしていました」
「俺が来るって知ってたんですか?」
「いいえ」
職員が僅かに笑った。
「ただ、ご子息がいずれ戻られる可能性はあると考えていました」
奥の棚から、一本の鍵と、小さな木箱を取り出す。
「ご自宅の鍵です」
机の上へ置かれる。
「家屋と、残された財産の一部については、現在も役所で管理しています。あなたはまだ成人していないため、金銭をすべて引き渡すには保護人を通した手続きが必要です」
「分かりました」
今すぐ、すべてを受け取る必要はない。
学院へ入ることになれば、しばらくアレスで暮らすことになる。
「ただし、個人的な遺品については、あなたが確認できます」
職員が木箱の蓋を開ける。
中には、細い銀の首飾り。
小さな指輪。
何冊かの手帳。
束ねられた書類が入っていた。
「お父上が勤めていた研究所から返却された私物も含まれています」
「研究所から……」
父さんが、毎日のように持ち歩いていた物かもしれない。
「持ち帰りますか?」
「はい」
俺は、家の鍵と木箱を受け取った。
「ありがとうございます」
「家を出るときは、戸締まりだけお願いします」
「分かりました」
木箱を抱え、役所を出る。
来たときより、箱が、ずっと重く感じた。
家の前へ戻る。
役所から預かった鍵を差し込む。
少し錆びていたのか、最初は動かなかった。
もう一度、強く回す。
ガチャリ。
鍵が開いた。
扉に付いていた封を剥がし、ゆっくりと押す。
ギィッ。
軋んだ音が鳴る。
閉め切られていた空気が、外へ流れ出した。
薄暗い室内。
家具には白い布が掛けられている。
床には、薄く埃が積もっていた。
それでも、湿った匂いも、腐ったような匂いもない。
誰かが、ときどき風を通してくれていたからだろう。
家の中へ入る。
「……ただいま」
口に出してから、自分でも驚いた。
当然、返事はない。
母さんの本棚。
父さんが研究資料を広げていた机。
食卓。
三脚の椅子。
どれも、記憶の中と、ほとんど変わっていなかった。
窓を開ける。
朝の光が差し込む。
空気の中を、細かな埃が舞った。
俺は、木箱を食卓へ置いた。
白い布を外し、椅子へ座る。
箱の中から、細い銀の首飾りを取り出した。
「ああ……これ」
見覚えがある。
父さんが、母さんとの結婚記念日を忘れた年。
お詫びに買ってきた首飾りだ。
――忘れていたわけじゃないよ。
――忘れていた人は、みんなそう言うの!
母さんは怒っていたけど、その日の夕食は、いつもより少し豪華だった。
結局、父さんを許していたんだと思う。
「仲良かったよな」
俺は、首飾りを箱へ戻した。
次に、一冊の手帳を手に取る。
革張りの表紙。
角は擦れ、何度も開かれた跡がある。
表紙には、見慣れた字が書かれていた。
《原魔術から考察する複数属性形成の可能性》
「父さんの字だ」
手帳を開く。
最初の数ページには、細かな文字と、俺には意味の分からない記号が並んでいた。
計算式。
魔術式らしき図。
何度も書き直された跡。
余白にまで、小さな文字が書き込まれている。
半分以上は理解できない。
それでも、何ページかめくったところで、読める文章を見つけた。
始祖の魔術師サルーンが用いたとされる術群を。
後世では《原魔術》と総称している。
「サルーン……」
名前くらいは知っている。
現代魔術が形作られるより前の時代。
始祖と呼ばれた魔術師。
手記を読み進める。
現存する《原魔術》の記録には。
火・水・風・地・雷という、現代の五属性分類がほとんど見られない。
これは。
原魔術に属性が存在しなかった証明にはならない。
ただし。
現代の五属性という分類そのものが。
一人の術者でも魔術を扱いやすくするため、後世に整理された可能性はある。
『属性が、後から作られた?』
もちろん、火も、水も、風も、世界には昔から存在していたはずだ。
父さんが書いているのは、自然現象の話ではない。
魔術として、それを五つに分ける考え方が、後から生まれたのではないか。
という仮説だろう。
次のページ。
二本の線が描かれていた。
それぞれの線は、離れたまま伸び、最後に、一つの点で重なっている。
その横に、短い文章が書かれていた。
異なる属性は。
単純に混合すれば、互いに干渉し。
多くの場合、術そのものを崩壊させる。
では。
混ぜなければどうか。
二つの属性を、それぞれ独立した術として形成する。
混ぜない。
それぞれを放出した後、空間上の同じ一点へ重ねる。
「……混ぜずに、重ねる」
思わず声に出した。
ページへ顔を近づける。
その下には、さらに文章が続いていた。
ただし。
単に同じ場所へ重ねれば成立するわけではない。
位置。
時機。
出力比。
この三つが適切でなければならない。
位置がずれれば、二つの術は、ただ別々に通過する。
時機がずれれば、先に到達した術が、後から重なる属性を乱す。
出力比が崩れれば、一方が他方を押し潰し、あるいは互いに干渉し、打ち消し合う。
それぞれの属性を混合させることなく、性質を保ったまま、同一の対象へ重ねることができれば、単属性では成立しない作用を生み出せる可能性がある。
結果として、術の出力や効果を、大幅に高められる可能性も否定できない。
「位置と……タイミングと、出力の割合」
俺は、二本の線が重なる図を見つめた。
それぞれは、最後まで別々だ。
一つの線になっているわけじゃない。
ただ、同じ一点に、寸分違わず重なっている。
『……これ』
頭に浮かんだのは、クオン・レオンディアの白銀だった。
俺には、一つの白銀には見えなかった。
あの中には、三つの異なる魔力の流れがあった。
三つとも、混ざっていなかった。
別々のまま、寸分違わず、重なっていた。
『まさか……』
クオンが使っていたものと。
父さんが考えていた理論は。
同じ?
分からない。
父さんの手記は、あくまで仮説だ。
クオンの白銀が、どういう術なのかも、俺は詳しく知らない。
ページの最後。
父さんの文字が、少しだけ乱れていた。
だが。
この試行には。
複数の属性を、それぞれ独立した術として。
ほぼ同時に形成・放出する必要がある。
私の知る限り。
一人の術者が、異なる二属性を同時に発現させた例はない。
私自身にも、魔術適性はない。
ゆえに。
現時点では、検証不能。
文章は、そこで終わっていた。
「父さん……」
これは、俺のために残した物じゃない。
父さんは、俺が五属性を使えることなんて知らなかった。
息子への遺言でも、未来を見越した研究でもない。
ただ、魔術を使えなかった父さんが、それでも魔術について考え続けた。
その途中の記録だ。
俺は、二本の線が描かれた図を見つめた。
混ぜない。
別々の術として放つ。
そして、位置、時機、出力比。
そのすべてを合わせて、放った後に重ねる。
『俺にできるわけないだろ』
俺は五属性を使える。
でも、一度に使えるのは、一つだけだ。
火を解いてから水へ。
水を解いてから風へ。
一つずつ切り替えている。
二つの属性を、同時に形成して放つなんて、やったこともない。
それこそ、これに近いことを一人でやっているのは、クオンくらいじゃないのか。
「……無理だな」
手記を閉じる。
今すぐ試すつもりはない。
適当にやって、魔力の流れをおかしくしたら、ダイスに何を言われるか分からない。
――分からねえもんを、いきなり自分の身体で試すな。
たぶん、杖で頭を小突かれる。
でも、捨てることもできなかった。
これは、父さんが最後まで答えを出せなかった研究だ。
俺は手記を、持ってきた荷物の中へ、大切にしまった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
これからどんどん成長していくアドリスをよろしくお願いします。
続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークしていただけると励みになります!




