今あるものを、全部使って
昼を少し過ぎた頃。
馬車は、ディアドラへ続く街道を進んでいた。
周囲には緩やかな丘と、背の高い草。街道を行き交う人の数も少しずつ増えている。
ディアドラが近づいているのだろう。
そのとき、前方から甲高い悲鳴が聞こえた。
「助けてくれ!」
ガイルが手綱を引き、馬車が速度を落とした。
街道の先。
荷馬車が一台、道の端へ追い詰められている。
荷台の陰には男と女。そして、十歳にも満たない少女が身を寄せていた。
その周囲を三頭の獣が取り囲んでいる。
灰色の毛。
背中へ並ぶ、黒い針のような体毛。
人間の指など簡単に噛み切れそうな牙。
『グレイファング』
忘れるはずがない。
父さんと母さんと首都へ向かった日、馬車の中から冒険者たちが倒す姿を見た。
俺が初めて見た魔獣だった。
「みんな、あれ!」
ジルが杖を掴む。
「ああ」
ガイルは馬車を止めた。
「俺は正面の二頭を押さえる」
ダイスを見る。
「お前は右だ」
「はいよ」
「ジルは商人たちを守れ」
「分かったわ」
最後に俺を見る。
「坊主」
「うん」
「お前は後ろにいろ」
ガイルの目が鋭くなる。
「襲われたら、避けることだけ考えろ」
「分かった」
「打ち返すなよ」
ヴァルドで用心棒へ反撃し、殺されかけたときのことを思い出す。
「……うん」
ガイルたちが一斉に馬車から飛び降りた。
「こっちだ!」
ガイルが大剣を抜き、正面の二頭へ向かう。
一頭の牙を大剣で受け止める。
もう一頭が、側面から飛びかかる。
ガイルは最初の個体を蹴り飛ばし、身体を反転させた。
「《プロテクト》!」
ジルが杖を掲げる。
淡い光の膜が、荷馬車の陰にいる家族を包み込んだ。
右側ではダイスが杖を構えている。
「収束」
先端の魔導晶石へ、光が一点に集まっていく。
「穿て――《ポルティクスアロー》!」
光の矢が走った。
グレイファングが横へ飛ぶ。
だが、完全には避けきれない。
光が肩を貫き、獣の身体が地面へ転がった。
『やっぱり』
この人たちの敵ではない。
そう思った。
そのときだった。
背後の草が大きく揺れた。
『え?』
振り返る。
灰色の影が、目の前まで迫っていた。
一回り小さい。
若い個体。
三頭だけではなかった。
背の高い草へ身を潜め、俺たちが前方へ注意を向けるのを待っていたのだ。
グレイファングの肩が沈む。
前脚が地面を強く掻いた。
首都へ向かう街道で、初めて見た個体と同じ動き。
『来る!』
俺は身体を横へ投げた。
直後。
牙が、さっきまで俺の肩があった場所を噛み砕く。
ガチンッ!
歯と歯がぶつかる音。
獣臭い息が頬を撫でた。
「坊主!」
ガイルの声。
だが、ガイルはまだ二頭の成獣を相手にしている。
ダイスの前にも、肩を貫かれたグレイファングが立ち上がっていた。
ジルは商人一家を守る防御術を維持している。
俺は言われた通りに下がった。
戦うな。
避けろ。
逃げろ。
だが、グレイファングも俺の動きに合わせて向きを変える。
さらに一歩下がる。
背中へ硬いものがぶつかった。
木だ。
『しまった』
後ろへは行けない。
左右へ逃げようとする。
それより先に、グレイファングが回り込んだ。
低い唸り声。
口元から垂れた唾液。
月どころか、真昼の光の下でも。
その牙は恐ろしかった。
『逃げ道がない』
腰の反対側。
短剣の重みを感じる。
――抜くのは、逃げ道がなくなったときだけにしろ。
『今だ』
右手を短剣の柄へ添える。
グレイファングの肩が再び沈んだ。
前脚が持ち上がる。
次の踏み込み。
その着地点に、親指ほどの丸石があった。
『地面全部じゃない』
ダイスの声を思い出す。
『石ころ一つでいい』
周囲から魔元素を取り込む。
地属性へ変換し、小石へ細く流す。
『動け!』
グレイファングの前脚が地面へ下ろされる。
その瞬間。
小石が転がった。
獣の足が丸石の上へ乗る。
ガクッ!
グレイファングの肩が沈んだ。
転んではいない。
それでも、ほんの一瞬だけ体勢が崩れた。
『まだだ』
ガイルの声。
――先に相手を動かせ。
俺は左手を、グレイファングの顔へ突き出す。
もう一度、魔元素を取り込む。
今度は火属性。
熱。
赤。
燃える炎。
『出ろ!』
ボッ。
掌の先に小さな火が灯った。
その炎を、グレイファングの鼻先へ突きつける。
「キャンッ!」
毛先が僅かに焦げた。
獣は驚き、反射的に顔を上げた。
首が伸びる。
喉元が、無防備に露出した。
『空いた』
踏み込むのは今だ。
短剣を抜く。
鋼の刃が、日の光を反射した。
初めて握る本物の剣。
怖い。
手が震える。
それでも。
足で地面を押した。
何度も、ガイルに止められた間合い。
空いた場所へ。
真っ直ぐ踏み込む。
「っ!」
短剣を、グレイファングの喉へ突き出した。
ザシュッ。
入った。
刃が、硬い毛皮を裂く。
その下にある肉へ沈んでいく。
手のひらへ、硬く、生々しい感触が返ってきた。
『刺さった』
赤い血が俺の手へ流れ落ちる。
温かい。
鼻をつく、生臭い匂い。
だが、刃は途中で止まった。
『浅い』
八歳の腕では、急所まで押し込めない。
「グルルルル……!」
グレイファングの身体が激しく暴れた。
短剣が抜けない。
柄を握っていた手が弾かれる。
俺は地面へ倒れた。
血を流しながら、グレイファングが顔を下げる。
牙が目の前へ迫った。
『駄目だ』
『殺せてない』
次の瞬間。
視界を、巨大な刃が横切った。
ザンッ。
グレイファングの首が、地面へ落ちた。
血が街道の土へ広がっていく。
首を失った身体が、俺の目の前へ倒れた。
「……あ」
何も言えなかった。
ガイルが大剣についた血を払う。
「立てるか」
「……うん」
答えたが、足に力が入らない。
俺はその場へ座り込んだ。
ガイルは倒れたグレイファングの喉元を見る。
俺の短剣が作った、浅い傷。
「今持ってるもんを全部使って」
低い声で言う。
「よく持たせた」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
だが、ガイルは続けた。
「ただし、仕留めたのは俺だ」
「……うん」
「次も間に合うと思うな」
「うん」
「それと」
ガイルが俺を見る。
「考えて動いたのは、悪くなかった」
それだけ言って、俺の頭を一度だけ叩いた。
少し遅れて、ダイスの声が飛んでくる。
「石ころ、ちゃんと動いてたぞ!」
「…………」
「火は、相変わらずしょぼかったけどな!」
「うるさい!」
声を出した瞬間、全身の力が抜けた。
ジルが困ったように笑っていた。
「本当に、ありがとうございました」
救出された男が何度も頭を下げる。
妻と娘にも怪我はないらしい。
「私は、ディアドラで商いをしているキルティと申します」
男は一枚の小さな木札を、ガイルへ差し出した。
「ディアドラへお越しの際は、ぜひ店へお立ち寄りください」
「何も返せねえぞ」
「命を助けていただいた方へ、お礼をするのは当然です」
ガイルは少し迷い、木札を受け取った。
「分かった。覚えとく」
キルティたちの馬車が、再び街道を進み始める。
姿が見えなくなったあと、俺は地面へ落ちていた短剣を拾った。
刃には、まだ赤黒い血が残っていた。
それを見た瞬間。
掌にさっきの感触が蘇った。
その夜。
俺は焚き火の前へ座り、短剣の刃を拭いていた。
布で血を拭い、水を掛ける。
それでも、生臭い匂いが残っている気がした。
刃が肉へ入った感触も、まだ手のひらから消えない。
「眠れない?」
声を掛けられる。
顔を上げる。
ジルが、俺の隣へ腰を下ろした。
「……うん」
俺は短剣を見る。
「初めて、生き物を刺した」
「そうね」
「思ってたより」
言葉を探す。
「硬くて」
「…………」
「重かった」
ゲームなら、攻撃が当たれば数字が減る。
アニメなら、魔獣は倒され、物語は先へ進む。
でも現実は違った。
毛皮があった。
肉があった。
血が流れた。
相手は、傷ついても俺を噛み殺そうとした。
「冒険者は」
俺は尋ねる。
「みんな、あれに慣れるの?」
「慣れてはいくわ」
ジルは焚き火を見た。
「手が震えなくなって」
「血の臭いがしても、動けるようになる」
「…………」
「でも」
ジルが俺を見る。
「何も感じなくなる必要はないのよ」
「え?」
「怖かったことも」
「重かったことも」
「忘れなくていい」
炎がジルの横顔を照らす。
「命を奪うことに慣れるのと」
静かな声だった。
「命を軽く見ることは、違うから」
俺はもう一度、短剣へ目を落とした。
初めてグレイファングを見た日。
俺は馬車の中から、冒険者たちが倒す姿を眺めていただけだった。
すごい。
格好いい。
魔獣との戦いを、そんなふうに見ていた。
今回も、最後に仕留めたのは俺じゃない。
ガイルが来なければ、俺は間違いなく死んでいた。
それでも、あのときとは違う。
石ころ一つ。
蝋燭ほどの火。
一本の短剣。
今の俺にあるものを、全部使った。
そして、ほんの少しだけ。
生き残るための時間を、自分で作ることができた。
焚き火の炎が夜風に揺れていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
これからどんどん成長していくアドリスをよろしくお願いします。
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