↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/67

今度こそ、幼馴染に別れを告げる

     ◾️ アドリス ◾️


 黒い靄がエリックの身体から噴き出した。


月明かりすら呑み込むような、濁った黒。それが空中で膨らみ、人の上半身に似た形を作った。


顔はない。


目も。


鼻も。


口もない。


それでも、どこを向いているのかは分かった。


ラギドだ。


『来る!』


黒い靄が、ラギドへ飛びかかる。


「ラギド、下がれ!」


俺が叫ぶ。


だが、ラギドは動けない。


振り下ろした剣を握ったまま、草の上へ落ちたエリックの頭を見つめている。


黒い靄が目前まで迫った。


「させない!」


ジルが杖を掲げる。


白い光が、ラギドの前へ広がった。


ジュッ!


焼けるような音。黒い靄が、光の壁へ衝突する。


「ギィィィィィッ!」


人間の声ではない。耳の奥を引っ掻くような、甲高い悲鳴。


黒い靄が白い光を避けるように左右へ広がり、その一部が細い糸となって結界の隙間を探し始めた。


「逃げるつもりだ!」


ダイスが短杖を向ける。


「《ポルティクスフィールド》!」


青白い術式が丘の地面を走った。


光の帯が、黒い靄の周囲へ幾重にも伸びる。


だが、実体がない。


光の帯は、靄の中を通り抜けてしまう。


「駄目だ!」


ダイスが舌打ちする。


「こいつ、掴めねえ!」


黒い靄が膨らむ。


次の瞬間、いくつもの細い影へ分かれた。


四方へ。


一斉に逃げようとする。


「ジル!」


ガイルが叫ぶ。


「結界は!?」


「維持してる!」


ジルの声は苦しそうだった。額から汗が落ちる。


死霊が肉体から出たことで、動きはさらに速くなっている。


ジルを中心に広がる白い結界が、何度も黒い影へ叩かれ、激しく揺れた。


「長くは保たないわ!」


「どうすればいい!」


「本体を見つける!」


ジルが歯を食いしばる。


「分かれた影のどこかに、死霊の核がある!」


影は全部同じに見えた。結界の内側を飛び回っている。


「アドリス!」


ジルが俺を見る。


「分かる!?」


俺は黒い影へ意識を向けた。


目で追うな。


魔力を感じろ。


ダイスの教えを思い出す。


見えているものに惑わされるな。


影は五つ。


いや。


六つ。


そのどれもが魔力を纏っている。


『違う』


全部が本体じゃない。


薄い。


ほとんどは、魔力の形だけを真似た囮だ。


その中に一つだけ、濁った塊がある。


右。


違う。


上へ動いた。


速い。


「待って……!」


白い結界が、また大きく揺れる。ジルの膝が沈んだ。


「早く!」


「分かってる!」


焦るな。


一つずつ。


流れを追う。


右へ行った影が、途中で二つへ分かれる。


片方は薄い。


もう片方には、さらに奥へ沈む何かがあった。


『そこだ!』


「ジル!」


俺は指差した。


「左上! 大きく曲がった影の中!」


ジルが顔を上げる。杖の先を、俺が示した場所へ向けた。


「聖なるものよ」


白い光が杖へ集まっていく。


「迷える魂を導き」


ジルの身体から、さらに強い光が溢れた。


ヴァルドで、傷ついた女性たちを治療した力。


毎朝、誰にも見られなくても祈り、少しずつ体内へ蓄えてきた聖なる魔元素。


そのすべてが白い光となって、丘を照らす。


「死者を穢すものを」


黒い影が逃げようとする。


だが、周囲を包む結界がその動きを許さない。


「在るべき場所へ還せ――」


ジルの声が、静かな夜へ響いた。


「《エリミネア》!」


白い光が放たれた。


黒い影を、真正面から貫く。


「ギィィィィィィィッ!」


悲鳴。


黒い靄の中に、一瞬だけ小さな黒い塊が見えた。


それが白い炎に包まれる。


逃げようと、何度も形を変える。


人の手。


獣の口。


そして最後には、エリックの顔を作った。


「ラギド……」


親友の声だった。


「助けてくれ……」


ラギドの肩が震える。


だが、今度は一歩も動かなかった。


「違う」


小さく。


それでも、はっきりと言う。


「その声を使うな」


白い光が、さらに強くなる。


「エリックを」


ラギドは剣を握ったまま、黒い影を見た。


「これ以上、汚すな」


黒い塊に亀裂が走る。


一本。


二本。


無数の光が、内側から溢れ出す。


そして。


音もなく、砕けた。


黒い靄が消える。


夜風が丘を吹き抜けた。


ジルの白い結界も、ゆっくりと薄れていく。


最後の光が消えた瞬間、ジルの身体が揺れた。


「ジル!」


俺が駆け寄るより先に、ダイスが肩を支えた。


「大丈夫か?」


「平気……」


ジルは荒い息を吐く。顔色が悪い。


「少し、使いすぎただけ」


「少しって顔じゃねえだろ」


「毎日祈っておいて、よかったわ」


ジルは疲れたように笑った。


その言葉を聞いて、今朝の光景が浮かんだ。


木の下へ膝をつき、誰かが傷ついた日に備えて一人で祈っていた姿。


あの何でもない朝の積み重ねが、今夜、俺たち全員を救った。


「終わったのか?」


ラギドが聞いた。


ジルはゆっくり頷いた。


「ええ」


「本当に?」


「今、浄化したのは死霊よ」


ジルは地面へ横たわるエリックの身体を見る。


「エリックさんではないわ」


ラギドの顔が歪んだ。


「彼は……」


ジルが言葉を選ぶ。


「三日前に、亡くなっている」


「……分かってます」


ラギドは俯いた。


「分かってたはずなんです」


それでも、泣いていた。


エリックの身体はもう動かない。さっきまで浮かべていた不自然な笑みも消えている。


そこにいるのは、ただの死者だった。


ガイルが腹へ突き刺していた大剣を引き抜き、身体を静かに地面へ横たえた。


誰もしばらく声を出さなかった。


風が草を揺らす。


月は何も知らないように、丘を照らしていた。


そのとき、小さな音がした。


チリン。


エリックの首元から、一本の細い紐が落ちる。


紐の先には楕円形の金属タグ。


血と土に汚れ、表面には無数の細かい傷が付いていた。


ラギドがゆっくりと膝をつく。


タグを拾い、親指で表面の汚れを拭った。


裏側には不器用に刻まれた名前。


エリック。


その文字を見た瞬間、ラギドは堪えきれないように顔を伏せた。


声を殺して泣いた。


十五年間。


ずっと一緒だった。


兄のような親友。


いつも先を歩き、進む道を決め、何度も助けてくれた人。


その人が。


今度こそ。


本当にいなくなった。


俺は何も言えなかった。


慰める言葉なんて、見つからない。


俺も、父さんと母さんを失った。


大丈夫だと言われても。


大丈夫になんて、なれなかった。


だから。


ただ泣き終わるまで、待つことしかできなかった。


やがてラギドが顔を上げた。


自分の首へ手を伸ばす。


そこにも、同じ形の金属タグが下がっている。


紐を外し、自分のタグを手に取った。


二枚。


同じ形。


同じ大きさ。


十五年間、別々の首へ掛けられていたタグ。


ラギドはエリックのタグを、自分の紐へ通した。


二枚を並べる。


金属同士が触れ合った。


チリン。


小さな音が鳴った。


ラギドは二枚のタグを握りしめる。


「君についていくんじゃない」


横たわる親友へ、静かに語りかけた。


「これからは」


涙に濡れた顔で、少しだけ笑う。


「僕が決めた道へ、君を連れていくよ」


翌朝。


村の共同墓地で、エリックはもう一度埋葬された。


前の墓は、内側から土を押し上げたように崩れていた。


村人たちが穴を掘り直し、エリックの身体を今度こそ静かに横たえた。


ラギドは、最後まで自分の手で土をかけた。


一掬い。


また一掬い。


前に埋めたときとは違う。


今度は誰かに言われたからではない。


自分で、親友へ別れを告げるために。


土をかけていた。


墓標が立てられる。


エリックの名前。


生まれた年。


亡くなった年。


それだけ。


これまでの時間を、それだけの文字で表すことなんてできない。


ラギドは墓標の前へ座った。


胸元には、二枚のタグが下がっている。


「これから、どうするんだ?」


ガイルが聞いた。


ラギドはすぐには答えなかった。


以前なら、エリックの顔を見ただろう。


エリックが何と言うか。


それを待っていたはずだ。


でも。


もう隣には誰もいない。


ラギドは、自分で考えた。


長い時間をかけて。


そして、口を開く。


「今日は、村に残ります」


「そうか」


「ギルドに、エリックの死亡報告を出して」


胸元のタグへ触れる。


「それから、これからのことを考えます」


「冒険者は続けるの?」


俺が聞いた。


ラギドは少しだけ迷ってから頷いた。


「続けたい」


「怖くない?」


「怖いよ」


即答だった。


「一人で依頼を選ぶのも」


「知らない街へ行くのも」


「全部、怖い」


ラギドは墓標を見る。


「でも」


二枚のタグが朝の光を反射した。


「怖いからやめるのか」


「それでも行くのか」


「今度は、自分で決めてみたい」


その言葉を聞いて、父さんの声が蘇った。


――最初に選んだものが、最後まで正解である必要なんてない。


エリックが決めてくれた道を、ラギドは十五年間歩いた。


それは間違いではなかったのだと思う。


助けてもらい。


笑い合い。


二人で生きた時間があった。


でも、その道が終わったから。


今度は自分で次の道を選ぶ。


俺もいつか。


誰かが決めたからではなく。


自分で自分の道を選ばなければならない。


「行くぞ」


ガイルが言った。


「……はい」


ラギドが立ち上がり、服に付いた土を払う。


もう一度、エリックの墓標を見る。


しばらく黙って見つめたあと、ラギドは俺たちの方へ振り返った。


「行きましょう」


二枚のタグが、胸元で小さくぶつかった。


チリン。


今度は。


誰かに言われたからではなく。


ラギド自身が。


そう言った。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

これからどんどん成長していくアドリスをよろしくお願いします。

続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークしていただけると励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。