今度こそ、幼馴染に別れを告げる
◾️ アドリス ◾️
黒い靄がエリックの身体から噴き出した。
月明かりすら呑み込むような、濁った黒。それが空中で膨らみ、人の上半身に似た形を作った。
顔はない。
目も。
鼻も。
口もない。
それでも、どこを向いているのかは分かった。
ラギドだ。
『来る!』
黒い靄が、ラギドへ飛びかかる。
「ラギド、下がれ!」
俺が叫ぶ。
だが、ラギドは動けない。
振り下ろした剣を握ったまま、草の上へ落ちたエリックの頭を見つめている。
黒い靄が目前まで迫った。
「させない!」
ジルが杖を掲げる。
白い光が、ラギドの前へ広がった。
ジュッ!
焼けるような音。黒い靄が、光の壁へ衝突する。
「ギィィィィィッ!」
人間の声ではない。耳の奥を引っ掻くような、甲高い悲鳴。
黒い靄が白い光を避けるように左右へ広がり、その一部が細い糸となって結界の隙間を探し始めた。
「逃げるつもりだ!」
ダイスが短杖を向ける。
「《ポルティクスフィールド》!」
青白い術式が丘の地面を走った。
光の帯が、黒い靄の周囲へ幾重にも伸びる。
だが、実体がない。
光の帯は、靄の中を通り抜けてしまう。
「駄目だ!」
ダイスが舌打ちする。
「こいつ、掴めねえ!」
黒い靄が膨らむ。
次の瞬間、いくつもの細い影へ分かれた。
四方へ。
一斉に逃げようとする。
「ジル!」
ガイルが叫ぶ。
「結界は!?」
「維持してる!」
ジルの声は苦しそうだった。額から汗が落ちる。
死霊が肉体から出たことで、動きはさらに速くなっている。
ジルを中心に広がる白い結界が、何度も黒い影へ叩かれ、激しく揺れた。
「長くは保たないわ!」
「どうすればいい!」
「本体を見つける!」
ジルが歯を食いしばる。
「分かれた影のどこかに、死霊の核がある!」
影は全部同じに見えた。結界の内側を飛び回っている。
「アドリス!」
ジルが俺を見る。
「分かる!?」
俺は黒い影へ意識を向けた。
目で追うな。
魔力を感じろ。
ダイスの教えを思い出す。
見えているものに惑わされるな。
影は五つ。
いや。
六つ。
そのどれもが魔力を纏っている。
『違う』
全部が本体じゃない。
薄い。
ほとんどは、魔力の形だけを真似た囮だ。
その中に一つだけ、濁った塊がある。
右。
違う。
上へ動いた。
速い。
「待って……!」
白い結界が、また大きく揺れる。ジルの膝が沈んだ。
「早く!」
「分かってる!」
焦るな。
一つずつ。
流れを追う。
右へ行った影が、途中で二つへ分かれる。
片方は薄い。
もう片方には、さらに奥へ沈む何かがあった。
『そこだ!』
「ジル!」
俺は指差した。
「左上! 大きく曲がった影の中!」
ジルが顔を上げる。杖の先を、俺が示した場所へ向けた。
「聖なるものよ」
白い光が杖へ集まっていく。
「迷える魂を導き」
ジルの身体から、さらに強い光が溢れた。
ヴァルドで、傷ついた女性たちを治療した力。
毎朝、誰にも見られなくても祈り、少しずつ体内へ蓄えてきた聖なる魔元素。
そのすべてが白い光となって、丘を照らす。
「死者を穢すものを」
黒い影が逃げようとする。
だが、周囲を包む結界がその動きを許さない。
「在るべき場所へ還せ――」
ジルの声が、静かな夜へ響いた。
「《エリミネア》!」
白い光が放たれた。
黒い影を、真正面から貫く。
「ギィィィィィィィッ!」
悲鳴。
黒い靄の中に、一瞬だけ小さな黒い塊が見えた。
それが白い炎に包まれる。
逃げようと、何度も形を変える。
人の手。
獣の口。
そして最後には、エリックの顔を作った。
「ラギド……」
親友の声だった。
「助けてくれ……」
ラギドの肩が震える。
だが、今度は一歩も動かなかった。
「違う」
小さく。
それでも、はっきりと言う。
「その声を使うな」
白い光が、さらに強くなる。
「エリックを」
ラギドは剣を握ったまま、黒い影を見た。
「これ以上、汚すな」
黒い塊に亀裂が走る。
一本。
二本。
無数の光が、内側から溢れ出す。
そして。
音もなく、砕けた。
黒い靄が消える。
夜風が丘を吹き抜けた。
ジルの白い結界も、ゆっくりと薄れていく。
最後の光が消えた瞬間、ジルの身体が揺れた。
「ジル!」
俺が駆け寄るより先に、ダイスが肩を支えた。
「大丈夫か?」
「平気……」
ジルは荒い息を吐く。顔色が悪い。
「少し、使いすぎただけ」
「少しって顔じゃねえだろ」
「毎日祈っておいて、よかったわ」
ジルは疲れたように笑った。
その言葉を聞いて、今朝の光景が浮かんだ。
木の下へ膝をつき、誰かが傷ついた日に備えて一人で祈っていた姿。
あの何でもない朝の積み重ねが、今夜、俺たち全員を救った。
「終わったのか?」
ラギドが聞いた。
ジルはゆっくり頷いた。
「ええ」
「本当に?」
「今、浄化したのは死霊よ」
ジルは地面へ横たわるエリックの身体を見る。
「エリックさんではないわ」
ラギドの顔が歪んだ。
「彼は……」
ジルが言葉を選ぶ。
「三日前に、亡くなっている」
「……分かってます」
ラギドは俯いた。
「分かってたはずなんです」
それでも、泣いていた。
エリックの身体はもう動かない。さっきまで浮かべていた不自然な笑みも消えている。
そこにいるのは、ただの死者だった。
ガイルが腹へ突き刺していた大剣を引き抜き、身体を静かに地面へ横たえた。
誰もしばらく声を出さなかった。
風が草を揺らす。
月は何も知らないように、丘を照らしていた。
そのとき、小さな音がした。
チリン。
エリックの首元から、一本の細い紐が落ちる。
紐の先には楕円形の金属タグ。
血と土に汚れ、表面には無数の細かい傷が付いていた。
ラギドがゆっくりと膝をつく。
タグを拾い、親指で表面の汚れを拭った。
裏側には不器用に刻まれた名前。
エリック。
その文字を見た瞬間、ラギドは堪えきれないように顔を伏せた。
声を殺して泣いた。
十五年間。
ずっと一緒だった。
兄のような親友。
いつも先を歩き、進む道を決め、何度も助けてくれた人。
その人が。
今度こそ。
本当にいなくなった。
俺は何も言えなかった。
慰める言葉なんて、見つからない。
俺も、父さんと母さんを失った。
大丈夫だと言われても。
大丈夫になんて、なれなかった。
だから。
ただ泣き終わるまで、待つことしかできなかった。
やがてラギドが顔を上げた。
自分の首へ手を伸ばす。
そこにも、同じ形の金属タグが下がっている。
紐を外し、自分のタグを手に取った。
二枚。
同じ形。
同じ大きさ。
十五年間、別々の首へ掛けられていたタグ。
ラギドはエリックのタグを、自分の紐へ通した。
二枚を並べる。
金属同士が触れ合った。
チリン。
小さな音が鳴った。
ラギドは二枚のタグを握りしめる。
「君についていくんじゃない」
横たわる親友へ、静かに語りかけた。
「これからは」
涙に濡れた顔で、少しだけ笑う。
「僕が決めた道へ、君を連れていくよ」
翌朝。
村の共同墓地で、エリックはもう一度埋葬された。
前の墓は、内側から土を押し上げたように崩れていた。
村人たちが穴を掘り直し、エリックの身体を今度こそ静かに横たえた。
ラギドは、最後まで自分の手で土をかけた。
一掬い。
また一掬い。
前に埋めたときとは違う。
今度は誰かに言われたからではない。
自分で、親友へ別れを告げるために。
土をかけていた。
墓標が立てられる。
エリックの名前。
生まれた年。
亡くなった年。
それだけ。
これまでの時間を、それだけの文字で表すことなんてできない。
ラギドは墓標の前へ座った。
胸元には、二枚のタグが下がっている。
「これから、どうするんだ?」
ガイルが聞いた。
ラギドはすぐには答えなかった。
以前なら、エリックの顔を見ただろう。
エリックが何と言うか。
それを待っていたはずだ。
でも。
もう隣には誰もいない。
ラギドは、自分で考えた。
長い時間をかけて。
そして、口を開く。
「今日は、村に残ります」
「そうか」
「ギルドに、エリックの死亡報告を出して」
胸元のタグへ触れる。
「それから、これからのことを考えます」
「冒険者は続けるの?」
俺が聞いた。
ラギドは少しだけ迷ってから頷いた。
「続けたい」
「怖くない?」
「怖いよ」
即答だった。
「一人で依頼を選ぶのも」
「知らない街へ行くのも」
「全部、怖い」
ラギドは墓標を見る。
「でも」
二枚のタグが朝の光を反射した。
「怖いからやめるのか」
「それでも行くのか」
「今度は、自分で決めてみたい」
その言葉を聞いて、父さんの声が蘇った。
――最初に選んだものが、最後まで正解である必要なんてない。
エリックが決めてくれた道を、ラギドは十五年間歩いた。
それは間違いではなかったのだと思う。
助けてもらい。
笑い合い。
二人で生きた時間があった。
でも、その道が終わったから。
今度は自分で次の道を選ぶ。
俺もいつか。
誰かが決めたからではなく。
自分で自分の道を選ばなければならない。
「行くぞ」
ガイルが言った。
「……はい」
ラギドが立ち上がり、服に付いた土を払う。
もう一度、エリックの墓標を見る。
しばらく黙って見つめたあと、ラギドは俺たちの方へ振り返った。
「行きましょう」
二枚のタグが、胸元で小さくぶつかった。
チリン。
今度は。
誰かに言われたからではなく。
ラギド自身が。
そう言った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
これからどんどん成長していくアドリスをよろしくお願いします。
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