今度は僕が、行く
◾️ ラギド ◾️
「最後くらい、お前が決めろ」
ガイルさんの言葉が、頭の中へ重く落ちた。
決める。
僕が。
自分で。
そんなことを言われても、何をどう決めればいいのか、分からなかった。
丘へ縫い止められたエリックが僕へ手を伸ばしている。
腹には、ガイルさんの大剣が突き刺さっていた。
身体は傷だらけで、右腕は雷に焼かれ、脚は不自然な方向へ曲がっている。
それでも、顔だけは、僕が十五年間見続けてきた、エリックのものだった。
「ラギド」
聞き慣れた声。
何度も、何度も呼ばれてきた声。
「何してるんだよ」
エリックが笑う。
笑うと、左の口元だけが少し上がる。
間違えるはずがない。
エリックだった。
少なくとも、顔も、声も、癖も、記憶も、全部。
僕の知っているエリックだった。
「こいつらを止めろ」
エリックが言う。
「それで、帰ろうぜ、な?」
帰る?
どこへ。
あの村へ?
二人で借りていた部屋へ?
壁に剣を立てかけて、明日の依頼について話しながら、固いパンをスープへ浸して食べる。
あの生活へ。
「昔みたいにさ」
死んだ親友が、優しい声で言った。
「お前は、俺についてくればいいんだ」
その言葉を僕はずっと待っていたのかもしれない。
エリックが死んでから、何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか、何一つ、分からなかった。
また、エリックが決めてくれるのなら。
僕は何も考えなくていい。
その手を取れば、全部、元へ戻るのかもしれない。
僕の手が剣の柄から離れかけた。
――帰るぞ。
不意に、遠い日の声が蘇った。
母さんが縫ってくれた鞄を、村の子供たちに取り上げられた日。
僕は、泣きながら、返してくれと言うことしかできなかった。
そんな僕の前へ、エリックが現れた。
飛んできた鞄を片手で受け止め、いじめていた子供たちを睨む。
――何してんだよ。
――それ、ラギドのだろ。
エリックが一歩近づくと、子供たちは逃げていった。
取り返した鞄を、エリックは僕の胸へ押しつけた。
――ほら。
――……ありがとう。
――ったく。また取られてんのかよ。
――ごめん。
――何で俺に謝んだよ。
エリックは背を向けた。
少し歩いて、僕がついてきていないことに気づくと、面倒そうに振り返った。
――帰るぞ。
――え?
――いいから来い。
僕は、その背中を追った。
あの日から。
ずっと。
数年後。
僕たちは、今と同じ丘にいた。
夕暮れ。
大きな木の下。
村が赤い光に染まるのを、二人で眺めていた。
エリックは木の幹へ背中を預けて突然言った。
「村を出るぞ」
「どこへ?」
「まだ決めてない」
「決めてないの?」
「ああ」
エリックは笑った。
「でも、冒険者になる」
僕は、すぐには答えられなかった。
エリックならきっとなれると思った。
剣も強い。
足も速い。
怖いものなんてないように見えた。
でも、僕は違う。
「僕には無理だよ」
「何で?」
「剣も弱いし」
「うん」
「怖がりだし」
「知ってる」
「いつもエリックに助けてもらってばかりだ」
「そうだな」
否定してくれない。
僕は俯いた。
やっぱり、自分でも分かっているのだ。
「だから、僕が一緒に行っても――」
「俺は地図が読めねえ」
「……え?」
エリックが急に変なことを言った。
「薬草も見分けられねえ」
「それは勉強すれば――」
「金の計算も苦手だ」
「知ってる」
「一人で旅に出たら」
エリックは指を折った。
「三日で迷って、一週間で金を使い果たす」
「そこまで?」
エリックは、僕へ手を差し出した。
「俺が前で剣を振る」
「…………」
「お前は、俺が帰る道を覚えててくれ」
夕暮れの中で、いつものように笑う。
「二人なら、何とかなるだろ」
「僕でいいの?」
「違う」
エリックは、少し不満そうに眉を寄せた。
「お前がいいんだよ」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「お前も来るだろ?」
質問の形をしていた。
でも、エリックは、僕が断るなんて少しも考えていない顔をしていた。
僕は、差し出された手を取った。
「……うん」
「決まりだな」
その日、僕たちは冒険者になると決めた。
いや。
決めたのは、エリックだった。
僕は、ただ、その手を取った。
冒険者になって、初めて二人だけで依頼を達成した日。
報酬は、驚くほど少なかった。
畑を荒らす小型魔獣を追い払う。
半日走り回って、泥まみれになって、受け取ったのは、安宿へ一泊すれば、ほとんどなくなる程度の金だった。
それでも、僕たちは嬉しかった。
初めて、自分たちだけで稼いだ金だったから。
「行くぞ」
報酬を受け取ったエリックは、宿ではなく、露店へ向かった。
「どこへ?」
「いいから来い」
いつもの答えだった。
エリックが立ち止まったのは、古びた装飾品を並べた、小さな店だった。
指差したのは、二枚一組で売られている、金属のタグ。
楕円形。
飾りもない。
表面には、小さな傷まで付いている。
「これください」
「え?」
僕が止める間もなく、エリックは報酬の一部を店主へ渡した。
「何を買ってるんだよ」
「見れば分かるだろ」
エリックは、二枚のうち一枚を、僕へ投げた。
慌てて受け止める。
「これ、何?」
「相棒の証」
「子供みたいだな」
「俺たち、まだ子供みたいなもんだろ」
「もう十五歳だよ」
「同じだ」
エリックは、自分のタグを首へ掛けた。
「ほら。お前もつけろ」
言われた通りに、僕も首へ下げる。
二人のタグを指で摘まみ軽くぶつけた。
チリン。
小さな音。
エリックは満足そうに笑った。
「失くすなよ」
「エリックこそ」
「俺が失くすわけないだろ」
そう言って、先に歩き出す。
「行くぞ、ラギド」
「待ってよ」
僕は、また、その背中を追った。
それから、十五年。
初めて魔獣を倒した日。
報酬を全部使い切って、二人で空腹に耐えた夜。
大雨の中で道に迷い、同じ場所へ三度戻ってきた日。
くだらないことで喧嘩して、三日間、口を利かなかったこともある。
それでも、最後にはいつもエリックが先に歩き出した。
――行くぞ。
その一言で、僕たちはまた歩き始めた。
依頼を選ぶのも、次に向かう街を決めるのも、危険な場所で進むか、戻るかを判断するのも。
全部。
エリックだった。
僕は、エリックの後ろにいればよかった。
それで、十五年間、生きてこられた。
三日前。
ダンジョンの浅層。
ゴブリンの群れに、前と後ろを塞がれた。
エリックは、血に濡れながら、僕の前に立っていた。
「ラギド!」
一体のゴブリンを斬り伏せる。
開いたのは、ほんの一人分の隙間。
「走れ!」
「一緒に行く!」
「助けを呼べ!」
「でも、エリックが――」
「うるせえ!」
エリックが、僕の背中を強く押した。
よろめきながら、開いた通路へ飛び込む。
「待って!」
振り返る。
エリックは、すでにゴブリンたちへ囲まれていた。
首から下げたタグが、松明の光を反射した。
「エリック!」
僕は、戻ろうとした。
だが、エリックが怒鳴った。
「今度は、お前が先に行け!」
足が止まった。
「何、言って――」
「助けを呼んでこい!」
「一緒に来いよ!」
「後から行く!」
嘘だった。
そんなこと、エリック自身が一番分かっていたはずだ。
それでも、笑った。
いつものように。
左の口元を、少しだけ上げて。
「行け、ラギド!」
それが、生きているエリックから聞いた、最後の言葉だった。
――俺についてこい。
ではなかった。
最後に、エリックが言ったのは。
――今度は、お前が先に行け。
だった。
「お前は、俺についてくればいい」
親友の顔をした死者が、手を伸ばしている。
十五年間、何度も握ってきた手。
その手に引かれて、ここまで歩いてきた。
でも。
違う。
僕は、ゆっくりと首を振った。
「……違う」
エリックの笑みが止まる。
「何が?」
「エリックは」
剣の柄を握る。
まだ、手は震えていた。
「最後に、俺についてこいなんて言わなかった」
「何を言ってるんだ」
「今度は、お前が先に行けって」
鞘から、少しずつ剣を抜く。
金属が擦れる音がした。
「僕を、生きて帰そうとした」
「ラギド」
「だから」
剣を抜ききる。
月明かりが、刃の上を滑った。
「お前は、エリックじゃない」
親友の顔が歪む。
初めて、エリックではない何かが、その表情に現れた。
「俺はエリックだ」
「違う」
「十五年一緒にいたんだろ?」
「だから、分かるんだ」
「ラギド!」
死者が叫ぶ。
「お前は俺がいなきゃ、何もできない!」
胸に、刃を突き立てられたような気がした。
僕自身、ずっとそう思っていた。
エリックがいなければ、依頼も選べない。
行き先も決められない。
一人では、何もできない。
それでも、剣を両手で構えた。
「十五年」
声が震える。
「ずっと、エリックが決めてくれた」
遊ぶ場所も、村を出ることも、冒険者になることも、次に進む道も。
「エリックが前を歩いてくれたから」
涙で、視界が滲む。
「僕は、ここまで来られた」
「だったら、今回も俺の言うことを――」
「でも」
僕は初めてエリックの言葉を遮った。
「これからは、僕が決める」
剣先の震えが、少しずつ止まった。
「僕は弱い」
「…………」
「怖がりで」
「…………」
「今だって、何をすればいいのか分からない」
エリックの顔を、目に焼きつける。
この顔を、忘れることはないだろう。
「それでも」
一歩、前へ出る。
「自分で考えて」
もう一歩。
「自分で決めて」
丘へ縫い止められた親友の前へ立つ。
「生きていくよ」
エリックの目が、僕を見る。
「ラギド」
一瞬だけ、その声が昔のエリックに戻ったように聞こえた。
胸が、また揺れた。
「十五年」
涙が頬を流れた。
「ありがとう」
剣を振り上げる。
「今度は」
息を吸う。
足で地面を踏みしめる。
「僕が先に行くよ」
剣を振り下ろした。
ザンッ。
刃が、エリックの首を断った。
頭部が、月明かりの下、ゆっくりと草の上へ落ちる。
身体から力が抜けた。
その瞬間。
切断面から、黒い靄が噴き出した。
「ジル!」
ガイルの声が響く。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
これからどんどん成長していくアドリスをよろしくお願いします。
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