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明日のことは、明日決めればいい

戦いが終わって、ほどなく。


応援の衛兵たちが地下へ駆け込んできた。


買い手の男。


三人の用心棒。


そして、エルド。


動ける者には縄を掛け。


負傷した者には止血だけを施し、次々と連行していく。


「待ってくれ!」


両腕を衛兵に掴まれたエルドが叫んだ。


「私はただ、この場所を貸していただけだ!」


誰も答えない。


「本当だ! 人を集めたのは別の者で――」


「歩け」


衛兵が背中を押す。


「違う! 私はヴァルド商会とも取引がある人間だぞ!」


エルドの声が、地下通路の奥へ遠ざかっていく。


俺は、その姿を見送らなかった。


ニナ。


俺たちは、まだ彼女を見つけていない。


「アドリス」


ジルが俺を呼んだ。


「戻りましょう」


「うん」


俺たちは、鉄格子の並ぶ部屋へ引き返した。


衛兵の一人が、エルドから取り上げた鍵束を持っている。


一つずつ。


檻の鍵が開けられていった。


だが。


中にいた女性たちは、すぐには動かなかった。


扉が開いても。


外へ出ていいのだと理解できないように、壁際へ身を寄せている。


「もう大丈夫よ」


ジルが杖を地面へ置き、膝をついた。


「助けに来たの」


返事はない。


それでも。


ジルは一人ずつ目を見て、同じ言葉を繰り返した。


「もう、誰もあなたたちを売ったりしない」


ようやく。


一人の女性が、声を上げて泣き始めた。


その声をきっかけに。


別の檻からも。


押し殺していたような嗚咽が聞こえてくる。


俺は、依頼票に描かれていたニナの顔を思い出しながら、一人ずつ確認した。


違う。


この人も違う。


次も。


いない。


『まさか……』


すでに売られてしまったのか。


胸の奥に、嫌な考えが浮かぶ。


そのとき。


一番奥の檻から。


かすかな声が聞こえた。


「……けて……」


俺は振り返った。


「何?」


「たす……けて……」


檻の隅。


古い布の上に、一人の女性が横たわっている。


俺は鉄格子へ駆け寄った。


「鍵!」


衛兵が鍵束を持ってくる。


何度か違う鍵を試し。


ようやく、錠前が開いた。


俺とジルは、すぐに中へ入った。


女性の片目は、大きく腫れ上がっていた。


鼻は不自然な方向へ曲がり。


切れた唇には、乾いた血がこびりついている。


依頼票で見た顔とは。


まるで違った。


それでも。


髪に残った、小さな赤い飾り。


マルタたちから聞いていた特徴と一致している。


「……ニナさん?」


女性の瞼が、わずかに動いた。


「だれ……?」


「冒険者ギルドの依頼で来た」


俺は、できるだけゆっくり話した。


「マルタさんたちが、あなたを捜してる」


ニナの目から。


一筋の涙が流れた。


「帰れ……るの……?」


「うん」


俺は頷いた。


「帰れるよ」


ジルがニナの首筋へ指を当てる。


呼吸と脈を確認し。


顔。


腹。


腕。


脚。


傷の状態を順番に見ていく。


「命に関わる傷から治すわ」


ジルは杖を両手で握った。


目を閉じる。


そして。


短い祈りの言葉を唱え始めた。


杖の先へ。


白い光が集まっていく。


通常の魔元素とは違う。


温かく。


静かな光。


ジルが日々の祈りによって聖なるものへ変え、身体の中へ蓄えてきた力。


聖なる魔元素。


その光が。


ニナの傷ついた身体を、ゆっくりと包み込んだ。


荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


腹部に残っていた青黒い痕が薄れ。


切れた唇から流れていた血が止まった。


だが。


ジルの表情は晴れなかった。


「ジル?」


俺が呼ぶと。


彼女は光を維持したまま、小さく首を振った。


「治癒の神官魔術は、時間を巻き戻す術じゃないの」


「……うん」


「傷口は塞げる。腫れも、ある程度は引かせられる」


ジルはニナの顔を見る。


「でも、砕けた骨や、深く残った傷痕まで……すべて元通りにできるとは言えない」


ニナの身体が。


小さく震えた。


「そんな……」


かすれた声。


「私……逃げようとしたの」


「逃げようと?」


ジルが尋ねる。


「連れてこられたとき……男を蹴って……」


ニナは震える手で、自分の頬へ触れた。


「そしたら、何度も……」


それ以上。


言葉にはできなかった。


涙が、次々と頬を流れていく。


「最後に……聞こえたの」


「何を?」


「これじゃ、売り物にならないって……」


誰も答えられなかった。


怒り。


嫌悪。


悲しみ。


色々な感情が胸の中で混ざり合う。


それでも。


今は、ニナの前で何を言えばいいのか分からなかった。


ニナが、喉を震わせる。


「私……これから、どうすればいいの」


白い光の中で。


涙だけが止まらない。


「今まで、この仕事しかしてこなかった」


「…………」


「顔も、こんなになって……」


自分の頬を隠すように、両手で覆う。


「明日から……どうやって生きればいいの……?」


ジルも。


ガイルも。


ダイスも。


すぐには答えなかった。


簡単な言葉で。


どうにかできることではないからだ。


俺は。


前世の自分を思い出していた。


会社へ行くのが嫌だった。


同じ仕事。


同じ人間関係。


同じような一日。


飽きていた。


それでも。


辞めようとは思わなかった。


会社を離れた自分に、何ができるのか分からなかったからだ。


俺には、これしかない。


心のどこかで。


そう決めつけていた。


そして。


セルウィスの言葉が蘇った。


――最初に選んだものが、最後まで正解である必要なんてないんだよ。


俺は、ニナを見る。


「大丈夫だなんて、言えない」


ニナが。


指の隙間から俺を見た。


「俺も、父さんと母さんが死んだ」


ジルたちの視線が俺へ向く。


「今も全然、大丈夫じゃない」


腰の木剣へ触れる。


父さんが買ってくれた。


俺の最初の剣。


「俺も、これからどうなるのか分からない」


「…………」


「でも、父さんが言ってたんだ」


一度。


息を吸う。


「最初に選んだものが、最後まで正解である必要はないって」


ニナは何も言わない。


ただ。


泣きながら、俺を見ている。


「だから……」


何を言えばいい。


俺にだって分からなかった。


それでも。


一つだけ。


今の俺にも言えることがあった。


「明日から何をするかなんて、今日決めなくていいと思う」


ニナの唇が震える。


「明日のことは」


俺は言った。


「明日決めればいいよ」


ニナは。


しばらく俺を見ていた。


そして。


両手で顔を覆ったまま。


声を上げて泣いた。


俺たちは。


誰も止めなかった。


今は。


泣いていいのだと思った。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

これからどんどん成長していくアドリスをお願いします。

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