確かに届いた、でも
ギイィ――。
重い扉が開いた。
部屋の中にいた男たちが、一斉にこちらを振り返る。
中央には、大きな長机。
その上には。
帳簿。
金の入った革袋。
何枚もの書類。
机の向こうには、上等な服を着た男が座っていた。
その傍らには、細身の杖が立てかけられている。
そして、その隣。
扉越しに名前を呼ばれていた男。
エルド。
部屋の奥には。
両手を鎖で繋がれた若い女が、床へ膝をついていた。
さっき。
扉の向こうで。
荷物のように値段を付けられていた女性だ。
俺たちを見た瞬間。
エルドの顔から笑みが消えた。
「何者だ」
ガイルは答えない。
鎖に繋がれた女性。
机に置かれた金。
そして。
周囲に立っている三人の男へ、順番に視線を向けた。
三人とも武器を持っている。
一人は長剣。
一人は片刃の大剣。
もう一人は、両腕に厚い革製の籠手を装着していた。
用心棒。
そう思った瞬間。
男たちが動いた。
驚いた様子はない。
一人が椅子を蹴り飛ばし。
一人が剣を抜き。
もう一人が腰を落とす。
その動きには迷いがなかった。
まるで。
こんな事態を、最初から想定していたようだった。
エルドの顔色が変わる。
だが。
取り乱したのは、本当に一瞬だけだった。
「三人、前へ」
低い声で命じる。
「時間を稼げ」
用心棒たちが、ガイルとダイスの前へ並ぶ。
エルドは机の上にあった帳簿を掴んだ。
「私は裏へ回る」
「させるかよ」
ダイスが短杖を床へ向ける。
先端の赤い魔導晶石が、強く輝いた。
「地を走れ。縛れ――」
杖先から青白い術式が床へ流れ落ちる。
「《ボルティクスフィールド》!」
円形の光が、一気に部屋へ広がった。
床を這う光は。
ガイルたちと、鎖に繋がれた女性の足元を避け。
敵の立つ場所だけを縫うように走る。
「床だ! 跳べ!」
用心棒の一人が叫んだ。
三人が、ほぼ同時に地面を蹴る。
『高っ!?』
普通の跳躍じゃない。
男たちの身体が。
床を走る光の波を軽々と飛び越えた。
一人はガイルの前へ。
一人はダイスの横へ。
そして。
最後の一人は二人の頭上を越え。
俺とジルがいる通路側へ着地した。
一方。
反応できなかったエルドの両脚には、青白い光の帯が絡みついていた。
「なっ……!」
足が床へ縫い止められる。
エルドの手から。
掴んでいた帳簿が落ちた。
机の向こうにいた買い手の男にも、光の帯が巻きついている。
椅子ごと床へ拘束され。
細身の杖が、乾いた音を立てて倒れた。
「何だ、これは!」
「商人のおっさんには、ちょっと速すぎたな」
ダイスが笑う。
直後。
光の波を飛び越えた用心棒の剣が、ダイスへ迫った。
短杖と刃がぶつかる。
甲高い音が響いた。
ガイルの前でも。
片刃の大剣を持つ男が、勢いよく武器を振り下ろしていた。
だが。
ガイルは一歩も退かない。
大剣を斜めに構え。
相手の刃を受け流す。
そのまま。
自分の大剣の腹を、男の胸へ叩き込んだ。
ドゴッ!
男の巨体が吹き飛ぶ。
長机を巻き込み。
帳簿や革袋を周囲へ撒き散らしながら、壁へ激突した。
動かない。
一撃だった。
「アドリス!」
ジルの声。
振り返る。
俺たちの側へ跳んできた用心棒が。
目の前に立っていた。
俺より。
遥かに大きい。
顔には古い火傷の痕。
両腕には分厚い革製の籠手。
男の視線が。
ジルではなく、俺へ向いた。
「そのガキを押さえりゃ」
口元を歪める。
「お前らも動けねえだろ」
「下がって!」
ジルが俺の前へ出ようとする。
だが。
男の方が速かった。
床を蹴る。
その瞬間。
『――何だ?』
何かが動いた。
目には見えない。
それでも。
男の全身を薄く巡っていた何かが。
右腕へ一気に集まった。
理由なんて分からない。
ただ。
『右から来る!』
頭で考えるより先に。
身体が動いた。
俺は左へ飛ぶ。
ブォンッ!
男の右拳が。
ついさっきまで俺の顔があった場所を通過した。
風圧だけで頬が痛い。
「なっ……」
男の顔が歪んだ。
自分でも。
どうして避けられたのか分からない。
だが。
拳を振り抜いた男の脇が空いている。
『今なら!』
腰の木剣を抜く。
ガイルの声を思い出す。
――腕だけで振るな。
足で地面を押す。
その力を腰へ通す。
肩。
腕。
そして。
剣。
「っ!」
ヒュッ!
今までで。
一番真っ直ぐ振れた。
木剣が。
革鎧の切れ目。
男の脇腹を正確に捉える。
届いた。
ガイルに教わった一振りは。
確かに、男へ届いた。
だが。
ガッ!
「……え?」
通らなかった。
木剣が弾かれる。
衝撃が両手へ跳ね返り。
指先まで痺れた。
男は。
一歩も動いていない。
まるで。
分厚い岩でも叩いたようだった。
「ガキが……!」
男の顔から笑みが消える。
腰の剣へ手を伸ばした。
そのとき。
ガイルの怒鳴り声が飛んだ。
「坊主、離れろ!」
俺は男を見る。
「そいつら、身体強化術を掛けられてやがる!」
『身体強化術……?』
男の身体を薄く巡っていた何か。
拳を振るう直前。
右腕へ集まったもの。
『あれが、魔力だったのか?』
だが。
考えている時間はなかった。
男が剣を両手で握る。
再び。
魔力が動いた。
脚。
腰。
肩。
最後に。
剣を握る両腕へ集まっていく。
『来る』
今度は分かった。
どこから。
どう振り下ろされるのか。
頭では。
確かに分かっている。
それでも。
八歳の身体が、追いつかなかった。
速い。
さっきとは比べものにならない。
男が一瞬で俺の前へ迫る。
両手で握った剣が、頭上まで振り上げられた。
「死ね!」
刃が落ちる。
その瞬間。
横から。
黒い影が走った。
ザンッ。
何かが。
俺の目の前へ落ちた。
剣。
その柄には。
まだ二本の腕がついていた。
「――え?」
男の両腕。
肘から先が。
剣を握ったまま床へ転がっていた。
一拍遅れて。
切断面から血が噴き出す。
「ぎゃああああああっ!」
男が絶叫する。
その前に。
ガイルが立っていた。
大剣の刃から。
赤い血が、ぽたりと落ちる。
「ガイル……」
大男は俺を一度だけ見る。
「一発避けたくらいで、打ち返すな」
「でも――」
「避けたら下がれ」
ガイルが、両腕を失った男へ視線を戻す。
「確かに当たった」
低い声だった。
「だが。今のお前じゃ、倒すにはまるで足りねえ」
反論できなかった。
百回振った。
今までで一番綺麗に当てた。
それでも。
身体強化された大人には、何も通らなかった。
「……ごめん」
「説教は後だ」
ガイルが大剣を構え直す。
「今は下がってろ」
俺は木剣を拾い。
ジルのそばまで後退した。
そのとき。
部屋の奥で、鋭い金属音が響いた。
ダイスと戦っていた用心棒が。
全身を巡っていた強化の魔力を、剣を握る両腕へ集中させる。
そして。
エルドの脚を拘束している光の帯へ。
刃を叩き込んだ。
ブツンッ!
青白い光が弾ける。
「エルド様!」
男は剣を投げ捨てた。
エルドの身体を肩へ担ぎ上げる。
「ひっ……!」
「裏口へ!」
エルドが叫ぶ。
「早く私をここから出せ!」
部屋の奥には。
壁灯が等間隔に並ぶ、長い通路が伸びていた。
用心棒はエルドを担いだまま。
その通路へ駆け出す。
身体強化術。
大人一人を担いでいるとは思えない速度で。
二人が遠ざかっていく。
「ダイス!」
ガイルが叫んだ。
「分かってる!」
ダイスは追わなかった。
その場で足を止め。
短杖を、逃げる男へ向ける。
距離は。
すでに数十メートル。
しかも相手は、身体強化術を掛けられたまま走っている。
『当たるのか?』
ダイスの顔から。
いつもの軽さが消えた。
短杖の先端。
赤い魔導晶石の光が、一点へ収束していく。
細い光が。
一本の矢の輪郭を形作った。
ダイスが息を吐く。
「収束」
光が、さらに細くなる。
「穿て――」
杖先が。
逃げる用心棒の脚を正確に捉えた。
「《ボルティクスアロー》!」
ヒュンッ!
光が消えた。
そう見えた。
次の瞬間。
ドシュッ!
「ぐあっ!?」
数十メートル先。
光の矢が。
用心棒の太腿を正確に貫いていた。
男の脚が崩れる。
担がれていたエルドが、床へ投げ出された。
「ひぃぃっ!?」
何度も転がり。
壁際で止まる。
「な、何をしている!」
エルドが、倒れた用心棒へ叫ぶ。
「早く立て! 私を連れていけ!」
「無茶……言うな……!」
用心棒は太腿を押さえたまま、動けない。
ダイスが短杖を肩へ担いだ。
「悪いな」
いつもの軽い口調だった。
「逃がすなって言われたんでね」
だが。
その額には。
薄く汗が浮かんでいた。
ガイルが床を蹴る。
一瞬でエルドとの距離を詰める。
大剣の切っ先が。
エルドの喉元へ突きつけられた。
「動くな」
「ひっ……」
エルドの身体が固まる。
「わ、私は何もしていない!」
「それは後で聞く」
「本当だ! 私はただ場所を――」
ガイルが。
大剣をわずかに前へ動かした。
刃先が、エルドの皮膚へ触れる。
「黙れ」
エルドの口が閉じた。
ガイルが周囲を見回す。
砕けた長机の中で、気を失っている男。
両腕を失い、床で呻いている男。
太腿を貫かれ、通路の奥で倒れている男。
ポルティクスフィールドに拘束された買い手。
そして。
両手を鎖で繋がれたまま、震えている若い女。
戦いは終わった。
ガイルは、エルドを見下ろす。
「捕まえたぞ、エルド」
その声は。
怒鳴っていないのに。
地下室のどんな悲鳴よりも、冷たく響いた。
だが。
俺たちが捜していたニナは。
まだ。
見つかっていなかった。




