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欠けた車輪の先にあったもの

欠けた車輪の跡は、ヴァルドの南へ続いていた。


俺たちは地面に残った三日月形の窪みを追い、街の中を進んでいく。


しばらくすると。


周囲の景色が、少しずつ変わり始めた。


人と荷車で溢れていた商業区が遠ざかり。


道幅が広くなる。


石畳はきれいに整えられ、道の両側には高い塀が続いていた。


塀の向こうに見えるのは。


何階建てもある屋敷。


手入れされた庭。


噴水。


色鮮やかな花。


「すごいな……」


ダイスが、塀の向こうを見上げる。


「ああ」


ガイルは轍から目を離さずに答えた。


「この辺りは、ヴァルドの商売で財を成した連中が住んでる」


商人。


問屋。


工房の経営者。


多くの人間と金を動かす者たち。


表通りから少し離れただけなのに。


俺たちが訪ねた孤児院とは、まるで別の世界だった。


『この世界にも、当然あるんだな』


貧しい者。


富を持つ者。


人が暮らす以上。


そういう差は、どこにでも生まれるらしい。


「ニナと会った商人も、この辺りに?」


ジルが尋ねる。


「分からねえ」


ガイルの声が低くなる。


「ただ、そうだとしたら……あまり想像したくねえな」


どういう意味だろう。


聞こうとしたとき。


ガイルが立ち止まった。


「ここだ」


一本の轍が。


大通りから外れ、屋敷と屋敷の間にある細い道へ続いている。


俺たちは、その跡を追った。


細い道の先には。


周囲の屋敷より、さらに大きな建物があった。


立派な石造りの本館。


左右へ伸びる別棟。


広い庭。


正面には、黒い馬車が何台も停まっている。


門の上には、商人を迎えるための館であることを示す看板が掲げられていた。


「私邸じゃないみたいね」


ジルが言う。


「商人向けの迎賓館か」


ダイスが周囲を見る。


「それなら門が開いてるのもおかしくない」


正面では。


上等な服を着た商人や、その従者らしい者たちが出入りしている。


誰も。


ここを怪しい場所だとは思っていない。


だが。


俺たちが追ってきた轍は、正面入口へは向かっていなかった。


館の裏側。


荷物を運び入れるための通用門へ続いている。


ガイルが屈み込み、地面を確認する。


「間違いねえ」


片側にだけ残された、三日月形の窪み。


欠けた車輪の跡だ。


俺たちは塀に沿って裏へ回った。


通用門は半分ほど開いている。


中には荷車を停めるための広い裏庭と、屋根付きの車庫があった。


その奥。


一台の黒い荷馬車が停まっている。


ガイルは周囲に人がいないことを確かめ、門の内側へ入った。


俺たちも後へ続く。


荷馬車へ近づく。


左側の後輪。


その一部が。


三日月形に欠けていた。


「当たりですね」


ダイスが小さく言った。


「でも」


ジルは館の方を見る。


「これだけで中へ入るのはまずいわ」


「分かってる」


ガイルが答える。


「轍がここへ続いてたってだけじゃ、何の証拠にもならねえ」


正規の商売に使われている荷馬車かもしれない。


ニナとは無関係かもしれない。


俺たちは、依頼を受けた冒険者だ。


だが。


衛兵ではない。


それだけで他人の館へ踏み込むことはできない。


ガイルは車庫の周囲を調べ始めた。


俺たちも、手掛かりを探す。


車庫の床。


荷馬車の荷台。


積み上げられた空の木箱。


どこにも。


ニナがここへ来た証拠はなかった。


「何もないな」


ダイスが呟く。


そのときだった。


コンッ。


小さな音がした。


全員の動きが止まる。


「今の、何?」


俺が聞く。


誰も答えない。


しばらく。


静寂が続いた。


風。


遠くを走る荷車。


表側から聞こえる商人たちの声。


そして。


コンッ。


もう一度。


何かが、硬いものへ当たったような音。


「下だ」


ガイルが言った。


地面を見る。


車庫の脇。


雑草が伸びた場所に、低い石壁がある。


その下部。


草に隠れるように、小さな鉄格子が取り付けられていた。


地下室の通気口だ。


ガイルが雑草を払い、耳を近づける。


「…………」


俺たちも息を殺す。


鉄格子の奥から。


何かを引きずる音が聞こえた。


金属。


鎖。


そして。


「……みず」


かすかな声。


「みず……ください……」


女の声だった。


ガイルが立ち上がる。


表情が変わっていた。


「ダイス」


「はい」


「衛兵へ知らせろ」


ダイスはすぐに通用門を出た。


高級住宅街だからだろう。


通りの先には、巡回中の衛兵が二人いた。


ダイスが駆け寄り。


冒険者認定証と依頼票を見せながら、事情を説明する。


衛兵の一人が詰所へ走った。


残った一人が、ダイスと共に戻ってくる。


「応援を呼びました」


衛兵がガイルへ告げる。


「ですが、到着までしばらくかかります」


その間にも。


鉄格子の向こうから、弱い咳が聞こえていた。


「待てねえ」


ガイルが言った。


「中に助けを求めてる人間がいる」


衛兵は少し迷った。


やがて。


腰の剣へ手を添える。


「私も同行します」


「表を見張ってくれ」


ガイルは館を見る。


「連中が逃げようとしたら止めろ。俺たちは地下へ入る」


「しかし――」


「地下に女が閉じ込められてる」


ガイルの声は低かった。


「議論してる時間はねえ」


衛兵はガイルの顔を見た。


それから。


短く頷いた。


「分かりました」



地下への入口は。


荷馬車を停めていた車庫の床にあった。


荷台の陰へ隠れるように、鉄製の扉が取り付けられている。


扉の周囲には。


新しい擦り傷。


木箱や荷物を、何度も引きずった跡が残っていた。


錠前が一つ。


まだ新しい。


ガイルが大剣を抜く。


「少し下がれ」


俺たちは距離を取った。


大剣の柄が。


錠前へ振り下ろされる。


ガンッ!


金属が歪んだ。


もう一度。


ガンッ!


錠前が砕け、地面へ落ちる。


ガイルが扉を持ち上げた。


下へ続く石階段。


冷たい空気。


そして。


鼻をつく、湿気と汚物の臭い。


「ジル」


「分かってる」


ジルが掌を掲げた。


「《ルクス》」


小さな光が生まれる。


白い光球が宙へ浮かび、地下への階段を照らした。


ガイルが先頭。


その後ろにダイス。


俺。


最後にジル。


一段ずつ。


音を立てないように階段を下りていく。


地上の喧騒が。


少しずつ遠ざかる。


代わりに。


水が滴る音。


金属が擦れる音。


誰かの浅い呼吸が聞こえてきた。


階段を下りきる。


細い石造りの通路。


ジルの光が、その先を照らす。


そして。


俺は。


足を止めた。


通路の左右に。


いくつもの鉄格子が並んでいた。


檻。


その中に。


人がいる。


女性。


一人ではない。


壁へ背中を預け、こちらを見ようともしない者。


唇が乾き、何度も水を求めている者。


片目が大きく腫れ、切れた口元に血を滲ませている者。


何人かは。


俺たちが来たことにも反応しなかった。


その手首には。


縄が食い込んだ赤黒い痕が残っている。


目を逸らしかけた。


だが。


逸らせなかった。


数日前。


母さんも。


あんなふうに血を流していた。


「ひどい……」


ジルの声が震える。


鉄格子へ駆け寄ろうとする。


「待て」


ガイルが止めた。


「でも、早く治療を――」


「まだ奥に人がいる」


通路の先。


さらに。


重い木製の扉がある。


その向こうから。


複数の男の声が聞こえていた。


「先に連中を押さえる」


ガイルは檻の女性たちを見る。


「今ここで鍵を開けて騒ぎになれば、人質にされるかもしれねえ」


ジルは唇を噛んだ。


それでも。


頷く。


「分かったわ」


「ここに残って、この人たちを守れ」


「ええ」


ガイルが俺を見る。


「坊主」


「……うん」


「ジルから離れるな」


「分かった」


勝手に動くな。


戦うな。


逃げろと言われたら逃げろ。


ヴァルドで。


ガイルと交わした約束。


俺は木剣の柄を握りながら、頷いた。


ガイルとダイスが。


通路の奥へ進んでいく。


扉の手前で立ち止まり。


声へ耳を澄ませた。


俺とジルも息を殺す。


扉の向こうから。


男たちの声が聞こえてきた。


「今夜の荷は?」


「若い女が一人です」


落ち着いた男の声。


「外見も悪くありません。目立つ傷もない」


「二十万」


別の男が答える。


「安すぎますな」


最初の男が笑う。


「東へ回せば、その倍にはなります」


「二十二万だ、エルド殿」


「二十五万」


「二十三」


少し沈黙。


「……よろしいでしょう」


紙を動かす音。


硬貨の入った袋が。


机へ置かれるような音。


何の話をしている。


荷。


外見。


傷。


値段。


考えたくなかった。


だが。


頭の中で。


嫌な答えが形になり始めていた。


扉の向こうで。


鎖が引かれた。


ジャラッ。


「顔を見せろ」


「いや……」


女の声。


小さな悲鳴。


「離して……!」


男たちが笑った。


そこで。


ようやく分かった。


値段を付けられているのは。


荷物ではなかった。


人間だった。


ジルが。


奥歯を噛みしめる音がした。


ダイスは、短杖へ手を添えている。


そして。


ガイル。


何も言わない。


怒鳴りもしない。


ただ。


大剣の柄を握る指が。


低く。


ギリッ、と鳴った。


ガイルが振り返る。


「ジル」


「ええ」


「ここを頼む」


「任せて」


「ダイス」


「いつでも」


ガイルは扉へ手をかけた。


その横顔から。


感情は読み取れない。


ただ。


声だけが。


恐ろしく低かった。


「行くぞ」


扉が開いた。

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