ここで別れる、はずだった
ヴァルドへ入ったのは、日が沈む少し前だった。
城門を抜けた瞬間。
いくつもの音と匂いが、いっせいに押し寄せてきた。
荷車の車輪。
商人の呼び声。
工房から響く金属音。
焼いた肉。
香辛料。
革。
獣の匂い。
大通りの両脇には、所狭しと店が並んでいる。
通りへ卓を広げた食堂。
昼間から客の入っている酒場。
煙を上げる屋台。
色鮮やかな布を吊るした衣料品店。
武器と防具を正面へ飾った店もある。
店先では、人間の商人と獣人の職人が帳簿を挟んで何かを言い争っていた。
その横を、大量の木箱を積んだ荷車が通り過ぎていく。
『すごいな……』
首都アレスも大きかった。
だが、ヴァルドは少し違う。
アレスが王国の威厳を見せる街なら。
ここは、人と物と金が絶えず動き続ける街だった。
「よそ見してると轢かれるぞ」
ガイルに言われ、俺は慌てて道の端へ寄った。
直後。
大きな角を持つ荷役獣が、二台の荷車を引いて俺たちの横を通り過ぎた。
「危な……」
「この街じゃ、子供より荷物の方が優先されることもあるからな」
ダイスが笑う。
「笑い事じゃないだろ」
「轢かれてねえからいいだろ」
「よくないわよ」
ジルがダイスの後頭部を軽く叩いた。
そんな二人を見ながら歩いていると。
通りの向こうで、ひときわ大きな建物が目に入った。
白い石造りの外壁。
広い正面階段。
入口の上には、秤と硬貨を組み合わせた大きな紋章が掲げられている。
何台もの馬車が停まり、商人たちが書類を抱えて出入りしていた。
「ガイル」
俺は建物を指差した。
「あれは?」
「ヴァルド商会だ」
答えたのはダイスだった。
「この街でまともに商売したいなら、ほとんどの奴があそこの世話になる」
「一つの店じゃないの?」
「商人をまとめる組合みたいなものね」
ジルが説明する。
「問屋の認可、仕入れ先の登録、取引の仲裁。ヴァルドで大きな商売をするには、商会の承認が必要なの」
『商工会議所みたいなものか』
完全に同じではないだろうが。
前世の感覚では、それが一番近そうだった。
そのとき。
ヴァルド商会の正面が、にわかに騒がしくなった。
黒塗りの立派な馬車が停まる。
扉が開き。
一人の若い男が降りてきた。
二十代半ばくらいだろうか。
整えられた淡い金髪。
濃紺の上着。
派手な装飾は少ないが、生地も仕立ても明らかに上等だ。
集まっていた商人たちが、次々と頭を下げる。
だが、男は偉そうに胸を張るでもなく。
一人一人へ笑顔を返していた。
年老いた商人から書類を受け取ると、足を止めて内容へ目を通す。
何かを尋ね。
相手の話を最後まで聞いてから、隣の職員へ指示を出した。
年老いた商人の顔が、ぱっと明るくなる。
「人気者なの?」
俺が聞く。
「領主家の息子らしいわ」
ジルが男を見る。
「若くして商会の幹部になって、問屋の仕組みを立て直したんですって」
「親の力じゃなくて?」
「最初はそう言われてたみたいだけどね。実績を出してからは、商人たちも認めてるらしいわ」
周囲の商人の顔を見る。
お世辞だけで頭を下げているようには見えなかった。
『本当にやり手なんだな』
俺はそう思った。
男は多くの商人に囲まれながら、ヴァルド商会の中へ入っていく。
俺たちの馬車も、そのまま大通りを進んだ。
その日の役所は、すでに受付を終えていた。
だから。
俺たちは近くの宿で一泊し。
翌朝、改めて市政庁へ向かうことになった。
ヴァルド市政庁は、大通りから一本入った場所にあった。
石造りの大きな建物。
入口には何人もの市民が列を作っている。
商業都市だからだろうか。
店の営業許可。
荷物の受け取り。
住居の登録。
掲示された案内だけでも、前世の役所に負けないくらい手続きが多そうだった。
俺たちは列へ並び。
順番を待って、受付へ向かった。
受付に座っていたのは、猫のような耳を持つ若い女性だった。
ガイルが冒険者証を差し出す。
「旅の途中で、この坊主を保護した」
女性が冒険者証を確認し、俺を見る。
「お名前を教えてください」
「アドリス・ライラス」
「お住まいは?」
「モニス」
「保護者の方は?」
少し。
答えに詰まった。
ガイルが代わりに口を開く。
「父親はセルウィス・ライラス。母親はステラ・ライラス」
「お二人は現在、どちらに?」
「死んだ」
女性の手が止まった。
「街道で山賊に襲われた」
ガイルは冒険者証と一緒に、ダイスがまとめていた襲撃の報告書を差し出した。
女性はそれを受け取り。
一枚ずつ、慎重に内容を確認していく。
「事情は分かりました」
声が少しだけ柔らかくなる。
「まず、モニスの役所へ親族照会を送ります」
「親族照会?」
俺が聞く。
「お父様かお母様のご親族を探すための手続きです。引き取れる方がいれば、こちらから連絡します」
「どれくらいかかる?」
ガイルが尋ねる。
女性は少し困ったような顔をした。
「早くても三週間ほどです」
「三週間?」
「街道の状況によっては、二か月近くかかる場合もあります」
ガイルが眉を寄せる。
「そんなにこの街にいねえぞ」
「でしたら、照会の結果が出るまで、市内の孤児院で一時的に保護してもらう方法があります」
女性は机の引き出しから紙を取り出した。
三つの住所が書かれている。
「ただ、近頃は街道で親を亡くす子供も増えています。空きがあるかどうかは、直接確認していただく必要があります」
街道。
山賊。
その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。
俺たちだけではない。
この世界では。
俺と同じように、突然一人になる子供がいる。
「分かった」
ガイルは紙を受け取った。
「全部回ってみる」
受付の女性が頷く。
「受け入れ先が見つからなかった場合は、もう一度こちらへお越しください」
一つ目の孤児院は、すでに満員だった。
二つ目は。
怪我や病気の子供を優先していて、新たな受け入れはできないと言われた。
そして。
三つ目。
大通りから離れた、古い住宅街の中にある孤児院。
色の剥げた木の看板。
壁には何度も補修した跡がある。
庭では、十人以上の子供が遊んでいた。
ガイルが扉を叩くと。
恰幅のいい中年の女性が顔を出した。
「市政庁から?」
「ああ」
ガイルが事情を説明する。
女性は何度も頷きながら聞いていた。
そして。
申し訳なさそうに俺を見る。
「ごめんなさいね」
「駄目か?」
「今は、廊下に寝台まで置いてるの」
女性が扉を少し開ける。
中には。
俺より小さな子供。
同じくらいの子供。
少し年上の子供。
大勢が一つの部屋へ集まっていた。
何人かが、こちらを見る。
その視線に。
敵意はない。
ただ。
新しく来た子供を見ている。
それだけ。
「食事も、どうにか全員へ回してる状態なのよ」
女性は続ける。
「あと一人なら、と言いたいところだけど……今受け入れたら、この子にも満足な場所を用意できない」
「そうか」
ガイルが頭を掻く。
「無理言って悪かったな」
「こちらこそ、ごめんなさい」
女性は俺へ視線を戻した。
「本当に、ごめんね」
「……ううん」
俺は首を振った。
この人が悪いわけじゃない。
中にいる子供たちも。
ここで働く人たちも。
誰も悪くない。
それでも。
孤児院の中を見た瞬間。
胸の奥へ。
冷たいものが広がった。
知らない子供たち。
知らない大人。
知らない場所。
父さんと母さんを失って。
次は。
ガイルたちとも離れる。
また。
何も知らないところへ、一人で置いていかれる。
『嫌だ』
その気持ちが。
はっきりと浮かんだ。
孤児院を離れ。
俺たちは少し先の路地で立ち止まった。
ガイルが、役所でもらった紙を見る。
「全部駄目か」
「市政庁へ戻るしかないわね」
ジルが言う。
「一時的な宿泊施設くらいは用意してもらえるかもしれない」
「でも、その先は同じだろ」
ダイスが壁へもたれる。
「親戚が見つかるまで、どこかへ預けるしかない」
ガイルが俺を見る。
「坊主」
「……うん」
「お前は、どうしたい」
俺は選択を迫られた




