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剣は、足で振る

まだ空は暗かった。


ブンッ。


乾いた風切り音が、眠る野営地に響く。


ブンッ。


もう一度。


俺は、父さんにもらった木剣を振っていた。


目が覚めた――というより、眠れなかった。


目を閉じれば、セルウィスとステラの顔が浮かぶ。


笑っていた二人。


血に濡れ、動かなくなった二人。


何度寝返りを打っても、最後にはあの夜へ戻ってしまう。


だったら。


起きていた方がいい。


身体を動かしていた方が、少しだけ楽だった。


前世の俺なら、朝の五分に命を懸けていた。


夜更かしした自分を呪いながら目覚ましを止め、シャワーを浴びて、スーツを着て、駅まで小走り。


そんな俺が、誰に起こされるでもなく夜明け前に起きている。


人生というのは分からないものだ。


いや。


人生を一度やり直している俺が言うと、妙に説得力があるな。


「……よし」


木剣を握り直す。


墓へ置いていこうとして。


結局、持ってきた剣。


――やってみたいんだろ?


父の声が蘇る。


聖騎士になる。


あの日。


俺が初めて自分で決めた夢だ。


剣の才能があるかは分からない。


魔術の適性だって、まだ分からない。


それでも。


何もしなければ、何も始まらない。


前世でも、この世界でも。


本気で剣を振ったことなんて一度もなかった。


映画やアニメで見た記憶を頼りに、なんとなく足を開く。


木剣を頭上へ持ち上げる。


「……こんな感じか?」


振り下ろした。


ブンッ。


「おお」


思ったより気持ちいい。


もう一度。


ブンッ。


さらに一回。


ブンッ。


剣を振るたび、風を切る音がする。


『なんか……強くなった気がするな』


もちろん。


気のせいだ。


それくらいは分かっている。


だが、剣を握っているだけで、昨日までとは違う自分になったような気がした。


そんな単純な感覚が。


今は少しだけ心地よかった。


もう一度、木剣を持ち上げる。


そのとき。


コツ。


コツ。


背後から足音がした。


振り返る。


大きな影。


ガイルだった。


あれだけ大きな身体なのに、不思議と足音は静かだ。


寝起きなのだろう。


短い黒髪が少し乱れている。


ガイルは俺を見る。


それから、手にした木剣へ視線を落とした。


「……おい、坊主」


「何?」


「その剣」


少し間を置いて。


「誰に教わった」


「誰にも」


教わるも何も。


俺が剣を振り始めたのは、ついさっきだ。


ガイルは一度だけ頷いた。


「だろうな」


「……悪かったな」


即答するなよ。


やっぱり相当ひどいらしい。


「そんなに変?」


「変というか」


ガイルが頭を掻く。


「握り方からして、剣じゃなく棒を持ってるガキだな」


「ガキだけど」


「そうだったな」


腹が立つ。


「じゃあ、どうすればいいんだよ」


「もう一回振ってみろ」


「どうやって?」


「好きに」


「え?」


ガイルが腕を組む。


「俺を斬るつもりで振れ」


『木剣だけど、いいのか?』


まあ。


この男なら、俺が本気で振ったところで痛くもないのだろう。


俺は木剣を握り直した。


さっきより強く。


地面を踏む。


「いくよ」


「来い」


思い切り、振り下ろした。


ブンッ!


「……遅い」


「え?」


「もう一回」


俺は再び構えた。


今度こそ。


腕に力を込めて。


さらに速く。


「っ!」


ブンッ!


「遅い」


「…………」


二回連続。


さすがに腹が立った。


「じゃあ、どうすんだよ」


つい声が強くなる。


ガイルは怒りもしなかった。


ただ、小さく息を吐いた。


「腕だけで振るな」


「腕で振らなかったら、何で振るんだよ」


「足だ」


「……足?」


意味が分からない。


剣を持っているのは手だ。


振るのは腕。


足は立つためのものだろう。


俺の顔を見て、ガイルは呆れたように言った。


「その顔、何も分かってねえな」


「分かるわけないだろ。初心者なんだから」


「それもそうか」


ガイルが手を差し出した。


「貸せ」


木剣を渡す。


ガイルが柄を握った。


その瞬間だった。


『……ん?』


何かが変わった。


何が、とは言えない。


足の位置。


肩の高さ。


視線。


さっきまで、ただ立っていた大男から。


一切の無駄が消えた。


子供用の木剣を握っているだけなのに。


ガイルの周囲だけ、空気が静まったように感じた。


俺は無意識に息を止めた。


「腕だけで振るな」


ガイルは片足をわずかに前へ出した。


「足で地面を押す」


腰が回る。


「その力を腰へ通す」


肩。


腕。


そして――剣。


ヒュッ。


一振り。


ただ、それだけ。


なのに。


俺がさっきまで出していた音とは、まるで違った。


木剣が空気の中へ吸い込まれ、遅れて音だけが届いたように聞こえた。


「……今」


俺はガイルを見る。


「力、入れた?」


「ほとんど」


「嘘だろ」


「嘘ついてどうすんだ」


ガイルは木剣を眺める。


「腕力だけで剣を振るなら、俺よりでかい奴に会った時点で終わりだ」


それは、確かにそうだ。


ガイルは俺へ木剣を返した。


「剣は腕だけで振るんじゃねえ」


「じゃあ?」


「足から振るんだ」


木剣を受け取る。


「構えろ」


俺なりに構えた。


次の瞬間。


コツッ。


「痛っ」


ガイルが俺の足元を軽く蹴った。


「足が狭い」


少し広げる。


今度は木剣の柄で肩を叩かれた。


「肩の力を抜け」


「抜いたら弱くならない?」


「いいから抜け」


次は手元。


コツッ。


「握りすぎだ」


「さっきから叩いてばっかりじゃん」


「口を動かす余裕があるなら構え直せ」


「…………」


何なんだ。


剣術って。


もっとこう。


構えた瞬間に。


必殺の型。


秘伝の剣技。


一振りで巨大な魔獣を吹き飛ばす技。


そんなものがあるんじゃないのか。


現実は。


足を開け。


肩の力を抜け。


握りすぎるな。


地味。


あまりにも地味だ。


「よし」


ガイルが言った。


「今日はこれだけだ」


「え?」


耳を疑った。


「これだけ?」


「そうだ」


「技とかは?」


「まだいらん」


「一振りで敵を吹っ飛ばすようなやつとか」


ガイルが俺を見る。


「あるぞ」


「あるの!?」


思わず食いついた。


「教えて」


「嫌だ」


「なんで!」


「今のお前に教えても、技じゃなく事故になる」


「じゃあ何するの?」


ガイルが俺の木剣を指差した。


「上から下へ」


「うん」


「真っ直ぐ振れ」


「……それだけ?」


ガイルの目が、ほんの少しだけ鋭くなった。


「坊主」


「何?」


「真っ直ぐ振るってのはな」


静かな声だった。


「お前が思ってるほど、簡単じゃねえ」


俺は木剣を見る。


真っ直ぐ。


ただ。


上から下へ。


それだけ。


「じゃあ」


ガイルが顎を動かした。


「百回」


「百回!?」


「嫌ならやめろ」


言い方が。


いちいち腹立つ。


でも。


やめるという選択肢だけは、最初からなかった。


俺は木剣を握り直した。


父さんの顔が浮かぶ。


――やってみたいんだろ?


「……やる」


「なら振れ」


俺は構えた。


一回。


振る。


「曲がってる」


二回。


「肩」


三回。


「握りすぎだ」


四回。


「足」


『細けえ……!』


それでも振った。


十回。


二十回。


最初は余裕だった。


三十。


四十。


『……あれ』


腕が重い。


五十。


手のひらが少し痛くなる。


六十。


額から汗が落ちた。


七十。


呼吸が荒くなる。


八十。


振り下ろした木剣が、目に見えて右へ逸れた。


「曲がってるぞ」


「分かってる……!」


「分かってんなら直せ」


『このおっさん……!』


それでも。


九十。


腕が震える。


さっきまでの「剣士になった気分」なんて。


とっくにどこかへ消えていた。


ただ、目の前へ。


真っ直ぐ振る。


それだけで精一杯だった。


九十八。


九十九。


最後。


俺は残った力を振り絞って。


木剣を落とすように――ならないよう。


足で地面を押した。


腰を回す。


肩。


腕。


剣。


ヒュッ。


「……百」


木剣を下ろす。


腕が鉛みたいに重かった。


呼吸が止まらない。


手のひらは真っ赤になっている。


ガイルは、最初から最後まで。


何もせず、ただ見ていた。


俺は息を整えながら聞いた。


「……どう?」


「九十九回はひでえ」


「ほとんど全部じゃん」


「最後の一回だけは」


ガイルが一瞬、木剣を見る。


「少し真っ直ぐだった」


俺は顔を上げた。


もう一度聞き返そうとしたときには、ガイルは背を向けていた。


「明日もやれ」


「……また百回?」


ガイルが足を止める。


「坊主」


嫌な予感がした。


大男は俺だけを振り返り、ほんの少し口元を歪めた。


「百回で済むと思ってたのか?」


「…………」


焚き火の近くから声がした。


「珍しいわね」


見ると、起きていたらしいジルが腕を組んで立っていた。


ガイルが眉を寄せる。


「何がだ」


「あなたが誰かに剣を教えるなんて」


「教えちゃいねえ」


ガイルはぶっきらぼうに返す。


「ガキが肩を壊しそうだったから直しただけだ」


「そういうことにしておくわ」


ジルが小さく笑う。


ガイルは面倒そうに鼻を鳴らした。


俺は二人を見比べた。


『……ガイルって、普段は人に教えないのか?』


少し気になった。


だが、それより先に。


もう一つ。


気になることがあった。


「ガイル」


「なんだ」


「明日も教えてくれるの?」


「次の町に着くまではな」


「……着いたら?」


ガイルの足が止まった。


ほんの一瞬だけ。


それから。


俺を見ないまま答えた。


「約束は、次の町までだ」


そう言って、ガイルは寝床へ戻っていった。


次の町まで。


あと二日。


俺は、赤くなった手で木剣の柄を握った。


手の痛みよりも。


ガイルの最後の言葉の方が。


ずっと長く、胸に残った。

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