第47話 見知らぬ森の奥へ
ふわぁ……と、柔らかで温かな風が頬を撫でた。
先ほどまで肌を突き刺していた絶対零度の刺すような激痛も、骨の髄まで締め上げていた氷の拘束具の感触も、すべてが嘘のように消え去っていた。
木々の葉が擦れ合う穏やかなざわめきと、心地よい鳥のさえずりが耳に届く。
ペイジン「……ん?ここはどこ?」
もふもふのピンクのフードを揺らしながら、ペイジンはゆっくりと重い瞼を押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、冷酷な時計塔でも、白銀に閉ざされた氷の世界でもなかった。木漏れ日が優しく降り注ぐ、青々とした木々が生い茂る静かな森の真ん中。芝生の上にぺたんと座り込んでいたペイジンは、カチコチに凍りついていたはずの自分の両手を不思議そうに開いたり閉じたりした。
氷の感覚は完全に消え去り、指先にはしっかりと温かな血が巡っている。
ニィ「う、うにゃぁ……っ!?」
すぐ隣で、同じく転がっていたニィが弾かれたように飛び起きた。
短い手足と尻尾をこれでもかと激しく振り回し、身体中をペタペタと触りまくって叫ぶ。
ニィ「と、溶けてるニィ!?ニィはカチコチの氷の置物にされて、クリスタのコレクション部屋に飾られてたんじゃないのかニィ!?」
ペイジン「あ、ニィも起きた!よかったぁ、ニィもちゃんと柔らかいよ!」
へらりと笑ってニィを抱きしめようとするペイジンの横で、草むらに転がっていたほうきちゃんが、ぽわんと小さくピンクの煙を吐き出して優しく浮き上がった。
ニィ「ほうきちゃんも無事だニィ……!って、呑気に喜んでる場合じゃないニィッ!あんな絶対零度の中で星と天の川がペイジンの中に吸い込まれて、気がついたら知らない森にワープしてたんだぞニィ!?一体何が起きたんだニィッ!?」
頭を抱えてパニックになるニィをよそに、ペイジンは立ち上がると、お尻の葉っぱをぽんぽんと払って、きょとんとした顔で森の奥を見つめていた。
周囲をぐるりと見渡したペイジンは、もふもふのフードの端を指先でつまみながら、ぽかんと口を開けた。
頭上を覆い尽くす巨木たちの枝葉は幾重にも重なり合い、太陽の光をまだらに遮っている。風が吹き抜けるたびにザワザワと不気味な葉音が木霊し、どこを見ても同じような苔むした幹と歪んだ獣道が続いていた。
ペイジン「……なんか迷いの森みたいな所ねぇ……ッ」
ニィ「呑気に観察してる場合じゃないニィッ! ここはただの森じゃないニィ、魔力がぐわんぐわんに渦巻いてて方位磁針どころか空間の感覚まで狂いそうだニィッ!」
ニィがぴょんと跳ねてペイジンの肩へ飛び乗り、短い前足で周囲の鬱蒼とした木立を指差した。
ニィ「クリスタの絶対零度から星の力でワープしてきたのはいいけど、とんでもない魔境に飛ばされたかもしれないニィ……! 出口を探さないと、今度は森の怪異におやつにされちまうニィッ!」
ペイジン「え〜、おやつになるのはやだなぁ。どうせならおいしいホットケーキのおやつがいいもん!」
へらりと笑うペイジンに、ニィがずっこけそうになりながらツッコミを入れようとした、その時だった。
カサリ……。
二人の背後、深い霧が立ち込める木々の茂みの奥から、何かが静かに小枝を踏み砕く乾いた音が響いた。
ニィ「ひっ……!? な、何かいるニィッ!」
ペイジン「ん? だれかいるのー?」
ほうきちゃんが小さく身震いしながらペイジンの背後に隠れる中、霧の向こうから、ゆっくりと得体の知れない気配が近づいてきていた。
霧の奥の茂みがガサリと揺れ、ひょっこりと顔を出したのは、ふわふわとした毛並みの愛らしいうさぎだった。
薄茶色の柔らかな毛に、ピンク色の小さな鼻をひくひくと動かしている。そのつぶらな瞳でこちらをじっと見上げる姿は、おとぎ話の絵本から飛び出してきたかのように無邪気で愛らしかった。
ペイジン「わぁー、うさぎちゃんだー!おいでー☆」
警戒心のかけらもなく、ペイジンは破顔してしゃがみ込むと、もふもふの手袋を外して素手の左手を優しく差し伸べた。
ニィ「おいペイジン、待つニィ!こんな怪しい森の生き物が普通のうさぎなわけが……」
ニィの制止の叫びは、一瞬遅かった。
すり寄ってくるかのように見えた薄茶色のうさぎが、突然その口をカパッと信じられない角度まで大きく裂いた。
ぐわっ!!!
ガブゥゥッ!
ペイジン「ヌゲェッ!?」
鋭利な前歯が、差し伸べられたペイジンの左手の甲へ容赦なく深々と突き刺さった。
痛みに目を白黒させて変な悲鳴をあげるペイジン。しかし、うさぎの凶行は噛みつきだけでは終わらなかった。
ガブッと噛みついた支点を軸にして、うさぎは空中でくるりと身を翻した。丸くてフサフサしていたはずの短い尻尾が、ボフンッと三倍ほどの大きさに膨れ上がり、鋼鉄の棍棒のような質量を帯びる。
ブンッ、ドガガガガガッ!!
うさぎ「ぶるるるるっ!」
ペイジン「ふぎゃああああっ!?」
遠心力をこれでもかと乗せた、容赦のない超高速の尻尾回転攻撃がペイジンの顔面と胸元へと炸裂した。連続でビンタを食らったかのように首を左右へ激しく揺らされ、ペイジンは芝生の上へ尻もちをついて派手に転がった。
役目を終えたとばかりに、薄茶色のうさぎはペイジンの手からパッと口を離すと、着地してすまし顔で毛づくろいをひとつ。
ぴょんぴょーん……ッ。
挑発するようにフリフリとお尻を揺らしながら、霧深い獣道の奥へ向かって軽やかに跳ねて逃げていく。
真っ赤に腫れた左手をさすり、目を回しながら起き上がったペイジンは、もふもふのフードを直しながら去りゆく後ろ姿へ向けてプンプンと両手を振り回した。
ペイジン「ちょっと逃げないでよぉー!!」
ニィ「だから言ったニィッ!!あんなの完全に詐欺うさぎだニィッ!!」
逃げていったうさぎの背中を見送りながら、ニィは深いため息を吐き出して額をペシッと叩いた。
背筋を撫でる冷たい風、木々の間から差し込む歪な木漏れ日、そして静寂の奥から時折聞こえてくる名もなき魔獣の遠吠え。さっきの凶暴なうさぎの一件も重なり、ニィの警戒レベルはとっくに限界を突破していた。
ニィ「……しかし、この森不気味だニィ。ペイジン、気をつけェ……」
真剣な表情で振り返り、相棒へ注意を促そうとしたニィ。しかし、そこにいるはずの少女の姿はすでになく、数メートル先の巨木の根元へトコトコと駆け寄っていくピンク色の後ろ姿があった。
ペイジン「見てよニィー!ここに果物たくさんあるよー!!」
ニィ「ペイジーンッ!!!!!(泣)」
※wwww。
話の通じなさに涙目になりながら、ニィは短い足を必死に回転させて追いかけた。
巨木の根元、綺麗に平らにならされた芝生の上に、ぽつんと素朴な木の看板が立てられていた。ひび割れた木板には、拙い手書きの文字でこう刻まれている。
『自由です!お取りくださいッ!!』
そしてその看板の真下には、使い古された頑丈な木箱がひとつ。中を覗き込むと、みずみずしい赤に染まったリンゴのような果実、黄色く熟れたバナナのような房、青紫に輝く大粒のブドウのような房が、山盛りに積まれていた。
甘く芳醇な香りがふわりと漂い、見た目にはどこからどう見ても、ただの美味しそうな普通の果物そのものだった。
ペイジン「わぁ〜、すごいすごい!森の親切な誰かが置いてくれたのかなぁ?ちょうどお腹ぺこぺこだったんだよね〜!」
目をキラキラと輝かせながら、ペイジンは躊躇なくリンゴのような果実へ両手を伸ばそうとする。
ニィ「待つニィィィッ!絶対に触っちゃダメだニィッ!こんな怪しい森のど真ん中に、そんな都合よくタダのフルーツバイキングがあるわけないニィッ!絶対になんかの罠だニィッ!!」
ニィが必死にペイジンの袖口をくわえて引っ張る中、木箱の影で、甘い香りに混ざって何やらカサカサと蠢く小さな気配が漂い始めていた。
ニィの必死の制止も、腹ペコな少女の耳にはまったく届いていなかった。
両手で真っ赤なリンゴのような果実をすくい上げ、大きなお口をあーんと開けるペイジン。
ペイジン「いただきまー」
ニィ「待つニィイイイイイ!!!!」
ニィは全身のバネを限界まで縮め、決死のダイビングヘッドバットを敢行した。空中でくるりと回転し、短い前足を扇のように広げてペイジンの鼻先へと突っ込む。
べしっ!!!
小気味のいい乾いた肉撃音が、静かな森に響き渡った。
ペイジンの口元から果実がポロリとこぼれ落ち、代わりにニィのふかふかの肉球が、ペイジンの鼻頭を思い切りペタンと押し潰す。
ペイジン「ふがっ!?……ニィ!なにしてんのッ!?」
鼻を赤くして涙目になったペイジンが、抗議の声をあげながらニィを引き剥がす。
ニィ「命拾いしたと思って感謝するニィッ!ほら見ろ、あそこをよく見るニィッ!!」
ニィが引き剥がされたまま、短い前足で地面を指差した。
ペイジンの手から落ちて芝生を転がったリンゴのような果実。それが地面に落ちた瞬間――ジュウウウッ!と激しい煙が上がったのだ。
果実の皮がドロリと紫色の液体に溶け崩れ、触れていた芝生が一瞬で真っ黒に腐り落ち、シューシューと音を立てて地面を溶かしていく。
ペイジン「ふぇ……っ!?リ、リンゴさんが溶けちゃった……!?」
ニィ「毒林檎どころの騒ぎじゃないニィ!超強力な溶解トラップだニィッ!あんなの口に入れてたら、今頃お前の喉もお腹もドロドロのデロデロになってたニィッ!!」
木箱の陰から、ペタペタと無数の湿った足音が這い出してきていた。
地面に落ちた果実は、なおもジュクジュクと紫色の泡を噴き出し、草も土も容赦なく黒いヘドロへと溶かし続けていた。
その恐ろしい光景を目の当たりにしてもなお、ペイジンはもふもふのフードの下で首をこてんと傾げ、指先をあごに当てていた。
ペイジン「融解……?何それ。そもそもあの果物は何でできてたの?」
ニィ「お前という奴は本当に危機感という言葉をどっかの空に落としてきたのかニィッ!?」
ニィが耳をピンと逆立てて叫び、地面の紫色のヘドロを飛び越えるように後ずさりした。
ニィ「融解ってのはな、熱とか強力な酸の力でドロドロに溶かされちまうことだニィ!あの果物は本物のフルーツなんかじゃなくて、『メルティ・スライム』っていう擬態魔獣の卵か罠だニィッ!見た目と甘い匂いで獲物を誘い込んで、口に入れた瞬間に胃袋ごとドロッドロに溶かして吸収しちまうっていう最悪の罠植物なんだニィッ!!」
ペイジン「えぇ〜っ!?スライムさんの卵だったの!?じゃあ、あれ食べてたらわたしのお腹の中でスライムさんがぷるぷる生まれちゃうところだったの〜!?」
ニィ「生まれる前にペイジンの身体ごと溶けて消滅するニィッ!!メルティ・スライムの体液は岩すら数秒でジュースにしちまうんだぞニィ!」
ペタペタ、ペタペタ……。
二人がぎゃあぎゃあと言い合っている間にも、木箱の裏や看板の足元から、果物の皮のような色をした不定形のゼリー状の魔獣たちが、ぬめりを引いて這いずり出してきた。
木箱の中に山盛りになっていたはずの果物たちも、カパッと表面が裂けて不気味な黄色い単眼をギョロリと覗かせている。
ニィ「ひっ……!木箱の中の全部が擬態スライムの群れだったニィッ!ペイジン、呑気に観察してないで早くほうきちゃんに乗るニィッ!」
次回第48話 クロノスの森




