第46話 苦戦の死闘
両腕をカチコチに凍らされ、体勢を崩したペイジンの無防備な隙を、クリスタは見逃さなかった。
氷の翼が一閃し、冷気の残像を残しながらクリスタの身体がふわりとペイジンの背後へ回り込む。逃げ場のない空中、絶対零度の魔女は凍りつく少女の華奢な肩へそっと手を添えると、その青白い唇をペイジンの無防備な左耳のすぐ横へと寄せていた。
クリスタ「……おやすみ、暖かな子」
囁きとともに、クリスタの唇から淡く煌めく青白い氷の息吹が、ゼロ距離でペイジンの左耳へと吹き込まれた。
ふぅぅぅぅぅ……っ。
ゾクッ、ピキィッ……!
それはまるで、温かな春風のように甘やかで、けれど触れた瞬間に魂の灯火を奪い去る絶対零度の口づけだった。
ペイジン「ひゃ……っ、あ……っ!?」
チリチリチリッ、ビキビキビキッ!
耳の穴に直接吹き込まれた凍てつく吐息が、触れた瞬間から凄まじい勢いで耳奥の神経を侵食していく。鼓膜が一瞬でガラス細工のようにカチッと硬化し、耳元で聞こえていた風の唸り声も、ニィの叫び声も、ぷつりと完全に遮断された。
パキパキパキッ、ミシミシミシッ……!
冷気の結晶は耳の奥から頭蓋骨の内部、そして脳幹へ向けて電光石火の速さで突き抜けていく。頭の芯を巨大な氷柱で直接貫かれたような、息もできないほどの強烈な「キーン」という頭痛と冷気が、ペイジンの思考回路を一瞬で真っ白に塗り潰した。
ペイジン「ん……ぁ……つ、めた……あたま、が……っ」
ピキキキキッ!
左耳の周囲から青白い霜の波紋が急速に広がり、柔らかな髪の毛が一筋残らず凍てつき、陶器のように硬質化していく。
思考する力も、痛みに叫ぶ力も、瞬く間に凍結の波に呑み込まれていく。まるでテレビの主電源をいきなり引っこ抜かれたかのように、ペイジンの瞳からすうっと光が抜け落ち、琥珀色の瞳孔が白銀の虚ろな光を湛えて固まっていく。
ニィ「ペイジンッ!?返事をするニィッ!
ペイジンッ!!!」
耳元から頭の芯まで完全な氷の檻に囚われ、少女の身体はピシリとも動かないまま、脱力すら許されずその姿勢のまま硬直し始めていた。
左耳から頭の芯までを凍てつかせ、虚ろな眼差しで硬直するペイジン。その無抵抗な姿を見つめながら、クリスタは感情の読めない冷酷な眼差しで、さらにその顔を寄せていった。
逃れる術など、どこにもない。氷の魔女の青白い唇が、今度はペイジンの右耳のすぐ側へと、残酷なほど滑らかに滑り込む。
クリスタ「もう何も考えなくていい。永遠に、私の庭で眠るがいい」
慈悲の欠片もない囁きとともに、二度目の氷の息吹が、ゼロ距離から無防備な耳奥へと深く吹き込まれた。
ふぅぅぅぅぅぅ……っ。
ゾクゾクッ、ビキキキキキッ!
先ほどの一撃で辛うじて残っていたわずかな体温すら、情け容赦なく消し飛ばす絶対零度の暴風。吐息が触れた瞬間、耳の輪郭から首筋、そして頭部の右半分へ向けて、青白い氷の亀裂が雷のように一瞬で走り抜ける。
ミシミシミシッ、パキィィィィンッ!
頭蓋の内側で、思考を司る中枢そのものが完全にガラスの結晶へと置換されていく。
ペイジン「…………っ」
声帯を震わせることすら許されない。息を吸い込むことすらできない。
頭部全体が硬質な氷の塊と化し、ペイジンの意識の灯火は、最後の火の粉が吹き消されるように完全にプツリと断絶した。瞳からは一切の感情と輝きが消失し、ただクリスタルのように冷たく澄み切った、動かない硝子玉となって虚空を見つめたまま固定される。
ピキピキピキッ、ギチチチチッ!
耳元から始まった凍結の波は、首筋を伝って肩、胸元、そしてファイターの装甲へと凄まじい勢いで雪崩れ込んでいく。柔らかかったはずの肌も、翻っていた赤い布地も、すべてがみぞれのように張り付き、次のコンマ数秒で鉄よりも硬い氷の拘束具へと変貌していく。
ニィ「ペイジンッ……!? 息をしてないニィ……! 目を覚ますニィッ、ペイジンッ!!!」
ニィの絶叫すら届かない。二度にわたる耳への直接の氷吹によって、少女の脳と精神は完全な活動停止へと叩き落とされ、全身が音を立てて冷たい彫像へと変わり果てていった。
完全に物言わぬ氷の彫刻と化したペイジンを腕の中に収めたまま、クリスタは冷たい視線をほうきの端にしがみつく黒猫へと向けた。
クリスタ「次は、お前だ」
クリスタが氷の杖を優雅に宙で一回転させると、夜空の冷気が一箇所へと急速に凝縮されていく。
キィィィィン……ッ!
大気を震わせる幻想的な鈴の音のような共鳴とともに、クリスタの足元から眩い青白い光が螺旋を描いて立ち昇った。それは攻撃魔法とは思えないほどに幻想的で、幾千、幾万ものダイヤモンドダストが夜空を舞い踊る、息を呑むほどに美しい氷の竜巻だった。
キラキラと七色に煌めく氷の結晶が、まるで満天の星々を紡ぎ合わせたような神秘的なカーテンとなってニィの視界を埋め尽くしていく。
ニィ「ひぎゃっ……て、あれ……? な、なんだニィ、これ……?」
逃げようと身構えていたニィの足が、そのあまりの神々しさにピタリと止まった。
荒れ狂う嵐のはずなのに、その竜巻はどこまでも静かで、優雅で、まるで白銀の天女が舞い踊っているかのような圧倒的な美を放っていた。竜巻の中心で冷たく微笑むクリスタの姿すら、世界の誰よりも気高い女王のように見えてしまう。
ニィ「う、美しいニィ……。なんだか、すごく……綺麗だニィ……」
うっとりと瞳を輝かせ、ぽかんと口を開けてその光景に見惚れてしまうニィ。警戒心も恐怖も、その眩い煌めきの前に跡形もなく溶け去っていた。
シュルルルルッ、ピキキキキッ……!
吸い寄せられるように立ち尽くすニィの身体を、美しき氷の竜巻が優しく包み込んだ。
触れた瞬間、それは甘美な恍惚とともに牙を剥いた。
チリチリチリッ、パキィィィンッ!
ニィ「ふニャ……ぁ……ぽかぽか……じゃなくて、すごく……冷たくて……すてき……ニィ……」
黒い毛並みの先端から、青白い霜が波紋のように一瞬で広がっていく。
見惚れて頬を緩ませたマヌケな表情のまま、ニィの短い手足、ピンと立った耳、そして小さく揺れていた尻尾までが、まるで最高級のクリスタルガラス細工のように、ビキビキと音を立てて透明な氷の中へと閉じ込められていく。
ピキッ……カチィィィンッ。
肉球の先まで完全な氷塊と化し、ニィの意識は美しい白銀の光の中で、うっとりとしたまま完全にプツリと途絶えた。
ほうきの上には、思考を奪われ硬直した戦士姿のペイジンと、綺麗に見惚れたポーズのまま完璧に凍りついたニィの氷像が、静かに夜空へ取り残されていた。
主人であるペイジンとニィの二人が物言わぬ氷の彫刻と化してなお、ほうきちゃんはその健気な使命感を失っていなかった。
キィィィンッ!
凍りついた二人を乗せたまま、ほうきちゃんは最後の気力を振り絞るように、尾の先からかすかなピンクの火の粉を爆発させた。二人をこの死の空域から逃がすべく、一気に機首を返して急加速しようとした、その瞬間だった。
クリスタ「逃がすとでも思ったか」
冷徹な声の落下と同時に、クリスタが氷の杖を水平に一閃させた。
バキキキィィィィンッ!!
夜空を真横に両断するように、逃げ場の一切を奪う絶対零度の氷の疾風が、一直線の青白い光帯となって奔流した。
その風速は光の矢のごとく、回避する間など微塵も与えられない。桃色の炎を吹き出そうとしたほうきちゃんの全方位を、横一直線の極寒の刃が真横から瞬時に貫いた。
ジュッ……ピキキキキキッ!!
推進力となっていたピンクの炎が、煙を上げる間もなく一瞬で青白い氷の結晶へと凍りついて沈黙した。
パキパキパキッ、ギチチチチッ!
柄の木肌から藁の穂先に至るまで、疾風が触れたコンマ数秒のうちに、大気中の水分を巻き込みながら分厚い氷の装甲が急速に膨れ上がっていく。温もりを宿していたはずの魔法の繊維は完全に硝子化し、もはや飛翔するための道具ではなく、ただの巨大で重苦しい「氷の塊そのもの」へと姿を変えられてしまった。
キィィィン……コォォッ。
すべての熱を奪い去られ、完全な氷塊と化したほうきちゃんは、空中でピタリとその推進力を完全に失い、白銀の冷気を虚しく漂わせるだけの置物となって静止した。
吹き荒れる外の吹雪は、もはや天候という生易しい概念を完全に逸脱していた。
ヒュオオオオオオ……ッ、ビキビキビキッ!
大気中の気体分子すらその運動を極限まで止められ、空そのものがギチギチと音を立てて軋みをあげる。温度計の目盛りが存在し得ない領域――絶対零度。触れる熱のすべてを瞬時に無へと帰す、永遠の死の静寂が空域のすべてを呑み込んでいた。
その極限の吹雪の中、空中に取り残されたペイジンたちの姿は、もはや生物としての温もりを微塵も残していなかった。
思考を強制切断されたペイジンの琥珀色の瞳は、白銀の霜に完全に覆われ、冷たいガラス玉のようになって虚空を映すだけ。戦士の装甲も、肌も、髪の一筋までもが、周囲の吹雪と同じマイナス数百の氷塊と化し、ピシリとも動かない。
その足元では、美しい竜巻に見惚れたニィが、恍惚の表情を浮かべた姿勢のまま完璧なクリスタル彫刻となって凍結している。二人を乗せていたほうきちゃんも、炎を消されて分厚い氷の塊に成り果てていた。
ヒョオォォォ……ッ。
絶対零度の風が撫でるたび、彼女たちの表面には新たな氷の結晶が幾重にも咲き乱れ、外の世界との境界線を完全に閉ざしていく。
クリスタ「……静かになったな」
氷の翼を羽ばたかせ、ゆっくりと宙に浮かび上がるクリスタ。
その冷酷な瞳が、完全に活動を停止し、永久の眠りについた「白銀のコレクション」を、満足げに見下ろしていた。
絶対零度の静寂に包まれた夜空で、奇跡のような異変が起きていた。
ピキッ……ピキキッ……。
全身をガラス細工のように硬化させられていたはずのペイジンの胸元から、眩い桃色の光の筋が幾重にも迸り始めた。冷酷な氷の層を内側から突き破るように、暖かな光の粒子が溢れ出し、凍てついた戦士の装甲をじんわりと照らし出していく。
思考を凍結させられ、暗闇の底へと沈みかけていた少女の意識が、魂の奥底に残された最後の灯火を手繰り寄せていた。
ペイジン(まだ……負けられないよ……! ニィも、ほうきちゃんも……みんなカチコチになっちゃったのに、わたしだけ諦めるわけにはいかないもん……! うごいて、わたしの身体……みんなを助けなきゃ……っ!)
必死に指先を動かそうと、全身の魔力を絞り出すペイジン。
その足元で、完全にクリスタルの置物と化していたニィの凍てついた意識の奥底でも、必死の叫びが木霊していた。
ニィ(逃げるニィ、ペイジン……! ニィのことはいいから、お前だけでもその氷を破って逃げるんだニィ……! あいつの氷は冗談じゃない……これ以上触れられたら、本当にお前という存在そのものが永遠に消えちまうんだニィッ……!)
しかし、その小さな祈りと反撃の兆しを、絶対零度の魔女が見逃すはずもなかった。
クリスタ「……往生際の悪い」
氷の翼が一瞬で空間を跳躍した。
光を取り戻しかけていたペイジンの目の前へ、クリスタの冷徹な貌が音もなく迫る。魔女は逃げ場を完全に塞ぐように両腕を広げると、光を放つペイジンの華奢な身体を、正面から情け容赦なく包み込んだ。
ガシィィィッ!!
クリスタ最大の魔の手――極寒の氷の抱擁が、ペイジンを無慈悲に呑み込んだ。
ペイジン「あっ……や……っ!?」
ドッ、ゴオオオオオオオオッ!!
触れ合った胸元と両腕の接触面から、これまでの比ではない猛烈な絶対零度の吹雪が、渦を巻いて全方位へと爆発的に吹き荒れた。逃れようともがくペイジンの背中にまでクリスタの両腕が深く回り込み、万力のような力でギチギチと強く抱きしめられる。
触れ合った皮膚と布地が、瞬時にみぞれのように溶け崩れて互いに癒着し、次のコンマ数秒で鉄よりも硬いひとつの氷塊へと急激に結晶化していく。
ギチギチギチッ、ミシミシミシッ!
二人の身体の境界線が完全に消失し、引き剥がすことすら不可能な完全なる融合凍結。
そして、抱きしめられたまま首をすくめるペイジンの耳元へ、クリスタは残酷な笑みを浮かべながら、その凍てつく唇を密着させた。
クリスタ「ふぅぅぅ……っ、ふぅぅぅぅぅぅ……っ」
パキパキパキッ、カチィィィィンッ!!
至近距離から注ぎ込まれる、逃げ場のない二連の極寒の吐息。
鼓膜の奥から脳の芯へ、直接流し込まれた絶対零度の息吹によって、ペイジンの頭蓋の内側が瞬時に白銀の氷へと置換されていく。先ほどまで灯っていた桃色の光の奔流は、ジュッと音を立てて無惨にも吹き消された。
ペイジン「…………っ」
声にもならない吐息が白く凍りつき、見開かれた瞳から光が完全に消失する。
激しい吹雪が二人の身体を完全に包み込み、抱きしめ合った姿勢のまま、世界で最も冷たく、二度と離れることのない巨大な氷の彫刻となって、永遠の静寂の中へと沈んでいった。
荒れ狂っていた吹雪がふわりと静まり返り、空には粉雪とダイヤモンドダストが音もなく舞い落ちていた。
その絶対零度の静寂の中心で、クリスタは抱きしめたまま凍りつかせたペイジンの冷たい背中に、細く青白い両腕を回したまま微動だにしなかった。彼女の纏う氷のドレスと、ペイジンの戦士の衣装は、接触面から完全に境界を失い、ひとつの澄み渡る白銀の彫刻として融合を果たしている。
クリスタの氷色の双眸には、勝利の高揚も、敵を打ち破った悦びすらも浮かんでいなかった。ただどこまでも冷たく、深海の底のように静まり返った光だけを宿している。
彼女はペイジンの凍てついた右耳のすぐ側からゆっくりと顔を離すと、ガラス細工のように動かなくなった少女の青白い頬へと、自らの冷たい指先を一筋這わせた。
チリッ……と、指先が触れた肌の表面で細かな氷の結晶が鳴る。
驚きと絶望の狭間で永遠に固定されたペイジンの表情は、まるで精巧に彫り出された人形のように完璧な美しさを湛えていた。温かな生命の熱は完全に消滅し、残されたのは二度と朽ちることのない純白の静止。
クリスタ「……やはり、美しいな」
クリスタの青白い唇から、薄い氷の粉を帯びた吐息がこぼれ落ちる。
彼女の瞳にわずかに宿ったのは、手に入れた最高のコレクションを愛でる、冷酷で底知れない独占欲の翳りだった。誰も侵すことのできない、永遠に変わらない冷気の世界。その中心に、最も眩しく輝いていた熱の残骸を閉じ込めたことへの、深い陶酔。
クリスタは背中の氷の翼を優雅に広げると、完全にひとつの塊となって抱きしめ合ったままの氷像を抱え上げ、ゆっくりと時計塔の最上階へと向けて舞い上がった。
足元には、置物となったニィと氷塊と化したほうきが、冷たい風に吹かれながら静かに夜空へ浮かんでいた。
キィィィィン……ッ!
絶対零度の静寂に閉ざされていた夜空の遥か高みで、突如として澄み切った鐘の音のような共鳴が響き渡った。
漆黒の空を覆い尽くしていた厚い雪雲が、まるで目に見えない巨人の手によって押し開かれるように、音もなく左右へと裂けていく。その裂け目の向こう側――冷酷な吹雪に隠されていた無数の星々が、これまでにない異様なまでの眩い瞬きを放ち始めた。
チカチカと小さく瞬くのではない。まるで一つ一つの星が燃え上がる恒星の鼓動を取り戻したかのように、圧倒的な極彩色の光を地上へと注ぎ始めたのだ。
抱きしめ合った氷像を抱え、時計塔へ向けて上昇していたクリスタの動きがピタリと止まった。
クリスタ「……なんだとッ!??」
絶対零度の魔女が、初めてその冷徹な仮面を崩し、信じられないものを見るように夜空を仰ぎ見た。
夜空を斜めに貫く天の川が、まるで生き物のように蠢き出していた。銀河の渦から溢れ出た幾千、幾万もの星屑の奔流が、重力を無視して螺旋を描きながら、夜空から一直線に地上へと向けて降り注いでくる。
その軌道の終着点は――クリスタの腕の中で完全に生命活動を停止していたはずの、ペイジンの身体だった。
ヒュオオオオオオッ、キィンッ!
神秘的な星の光帯が、大気中の冷気すら蒸発させる圧倒的な密度でペイジンを包み込む。
そして、信じがたい現象が起きた。天の川の光と星々の輝きが、外側から氷を溶かすのではなく、透明な絶対零度の氷の層をそのまま通り抜け、カチコチに凍りついたペイジンの身体の「内側」へと、吸い込まれるように雪崩れ込んでいったのだ。
ピキッ……カァァァッ!
厚い氷の奥底、凍てついて白銀色に染まっていたペイジンの心臓のあたりから、宇宙そのものを凝縮したような眩い天の川の光が逆流するように激しく輝き始めた。




