第43話 再復活
ゴオオオオオオッと荒れ狂う風の音が、破壊されたクロノスの街を支配していた。
突き立つ無数の巨大な氷柱、倒壊した建物の残骸、そして白銀の闇に呑み込まれた沈黙の静寂。すべてを拒絶し、粉々に打ち砕いたはずの時計塔の頂で、クリスタは一人、氷の杖にすが熱狂の余熱を冷ますように立ち尽くしていた。
肩で息を刻む彼女の胸の奥で、破壊の快感など微塵も湧き上がってこない。あるのは、冷え切った空虚と、説明のつかない激しい動揺だけだった。
荒野の果て、二人を埋め尽くしたはずの雪原の方向を見つめるクリスタの青い瞳が、痛ましげに細められる。
クリスタ「....でもどうして?あの2人にだけは...敵意が何故か持てない.....ッ」
クリスタ「これでもまだまだ手加減してるハズなのに.....ッ」
震える声で呟き、自らの胸元をぎゅっと掻きむしった。
自分を嘲笑い、拒絶し、傷つけてきたかつての人間の大人たちへの憎悪とは、明らかに何かが違っていた。あの少女ペイジンが自分に向けた眼差しは、哀れみでも嘲笑でもなく、ただ凍てついた心を包み込もうとする純粋な光だった。そして相棒の小さな黒猫ニィが放っていたのは、仲間を必死に守ろうとする、あまりにも真っ直ぐで温かな命の輝きだった。
本気で命を奪うつもりなら、出会った瞬間に心臓ごと粉砕して氷塊に変えることなど造作もなかったはずなのだ。
なぜ、ただ凍らせて吹き飛ばすだけに留めたのか。
なぜ、あの二人の温もりに触れた瞬間、胸の奥底で失われたはずの妹フリスの笑顔が、痛いほど鮮明に蘇ってしまったのか。
クリスタ「どうしてよ……どうして私を迷わせるのよ……ッ!」
クリスタは氷の杖を強く握り直し、自らの内に芽生えかけた温かな迷いを振り払うように、冷たい白銀の夜空へ向けて鋭く叫んだ。しかし、冷え切った風が彼女の銀髪を揺らすばかりで、その問いに答えてくれる者はどこにもいなかった。
幾重もの雪と万年氷の底、完全なる沈黙が支配する暗闇の中で、ペイジンの切なくも静かな心の声が、ニィの意識へと届いていた。
身体は頭の先から足の爪先までカチコチに凍りついていて、吐息ひとつ漏らすことはできない。抱きしめたスリーピィステッキの冷たさが胸を圧迫し、四肢は鉛のように重く、感覚すら奪われている。それでも、凍てついた魂の奥底で、ペイジンは隣で眠る相棒へとそっと問いかけていた。
ペイジン(ねぇ...ニィ....。私たちはこのまま氷と雪で埋もれて凍えたい?それとも....どうしたい?)
その問いかけは、絶望に身を任せて永遠の安らぎに逃げ込むためのものではなかった。寒さに震え、光を奪われ、すべてが止まりかけた極限の底で、もう一度自分たちの進むべき道を確かめようとする、純粋な祈りのような声だった。
雪の毛布に深く沈み、同じように冷たい結晶に閉じ込められているニィの小さな意識が、その言葉に激しく震え上がる。
ニィ(……んなの、決まってるニィッ! こんな冷たくて真っ暗な雪の底で、カチコチの氷漬けになったまま終わるなんて、死んでもごめんだニィッ!)
声に出すことのできないニィの叫びが、氷の檻を内側から叩き割るかのように、ペイジンの心へと強く、熱く響き渡る。
ニィ(クリスタのやつ、あんなに悲しい顔をして泣いてたんだニィ! 一人ぼっちで凍えて、世界中を恨んで、自分から冷たい氷の中に閉じこもって……そんなの、放っておけるわけがないニィ! ニィたちはあいつを助けに来たんだニィ! あいつの手を引いて、あったかいお日様の下に連れ出してやるって決めたんだニィッ!)
黒い小さな身体はピクリとも動かない。冷酷な絶対零度の圧力が、二人の息の根を今も止めようと締め付け続けている。
ニィ(ペイジン、立ち上がるニィ! こんな氷も、重たい雪も、あいつが抱え込んだ寂しさに比べたら何でもないニィ! もう一回、ニィたちの温もりをあいつにぶつけてやるニィッ!)
相棒の叫びを受け止めたペイジンの凍てついた胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。
永遠の眠りに誘い込もうとしていた甘美な冷気の悪夢が、ふっと退いていく。
黄金の光が灯りかけたのも束の間、深海の底のような雪の重圧と絶対零度の冷気が、容赦なくペイジンの魂を押し潰そうと襲いかかってきた。
氷棺の内壁はみしみしと音を立て、内側から滲み出そうとしたわずかな熱を瞬時に吸い尽くしていく。
ペイジン(もうダメ....力も入らないくらいに.....)
ペイジンの心から漏れ出た弱々しい呻きは、凍てついた闇の底へ溶けて消えそうだった。
指先は感覚を失ったまま冷酷な石のように固まり、ステッキを握り直そうとすることすら叶わない。全身の関節を縛る氷の楔はさらに深く食い込み、呼吸を忘れた胸は鉛を詰められたように重かった。立ち上がろう、温もりを取り戻そうと意識を奮い立たせようとするたびに、絶対零度の冷気が鋭い刃となって思考を切り裂き、激痛と抗いがたい脱力感へと変えていく。
上から幾重にも覆い被さる万年雪の重みが、二人の存在をこの世界の底へと永遠に縫い止めようとしていた。
すぐ傍らの雪中に沈むニィの心にも、ペイジンの命の火が急速に細まっていく感覚が痛いほど伝わってくる。
ニィ(ペイジン……ッ! 諦めちゃダメだニィ……! 目を閉じちゃいけないニィッ!)
ニィはカチコチに凍りついた身体の奥底で、喉を引き裂くように必死で叫び続けていた。しかし、伸ばされた右手の爪先も、白銀の霜に閉ざされた小さな黒い身体も、依然として冷たい置物のように微動だにしない。
ステッキの星のレリーフに宿りかけた淡い黄金の光が、氷棺を包む強烈な冷気の波に煽られ、ふっと小さく揺らいだ。
冷たく、暗く、重い雪の底。
二人の意識は再び、すべてを諦めて永遠に眠りについてしまいそうな、甘く残酷な凍結の深淵へと引きずり戻されかけていた。
暗く冷たい雪の底で、ペイジンの心の輪郭が、輪をかけて曖昧にほどけていく。
全身を苛んでいた激痛はすっかり遠のき、クリスタが語った通りの恐ろしいまどろみが、甘美な毒のように少女の意識を麻痺させていた。頭の先から爪先までをガチガチに縛り上げる氷は、今や冷たさすら感じさせず、まるで自分自身が最初から冷たい鉱物だったかのような錯覚さえ抱かせる。
ペイジン(....なんで..なんで目を閉じないでって言うの.....ッ?楽になれるんだよぉ.....ッ?)
動かない唇の代わりに、凍てついた魂から零れ落ちたその思念は、あまりにも弱々しく、痛々しいほどに澄んでいた。
ペイジン(もう痛くないよ……寒くもない……。ただ、このままふわふわ眠っちゃえば、苦しいことも、哀しいことも、全部ぜんぶ消えていくのに……どうして、そんなに必死に止めるの……?)
重力すら失ったような無音の深淵で、ペイジンの心は安らかな虚無の底へ、一歩、また一歩と沈みかけていた。
その弱音を受け止めたニィの意識が、激しい怒りと涙で一気に燃え上がった。
ニィ(何言ってんだニィッ!! ふざけるなニィ、ペイジンッ!!)
カチコチに凍りついた黒い身体の奥底から、魂そのものを絞り出すような絶叫がペイジンの心へ叩きつけられる。
ニィ(楽になんかなってどうするニィ! そんなの……そんなの、全部を諦めてクリスタを一人ぼっちにしていく言い訳だニィッ! あいつがどれだけ寂しくて、どれだけ傷ついて泣いてたか、ペイジンが一番よく分かってるはずだニィッ!)
ニィの激しい叫びは、凍りついた暗闇の空間を激しく揺さぶった。
ニィ(ここで目を閉じたら、二度とあいつを抱きしめてやれないニィ! あいつの手を握って、もう大丈夫だよって笑いかけてやれるのは、世界中でペイジンしかいないんだニィッ! ニィを置いていくなニィ……! クリスタを置き去りにするなニィッ!!)
相棒の怒りと哀しみが混ざり合った熱い叫びが、氷の棺を突き破り、眠りへと傾いていたペイジンの心臓の奥深くに、ダイレクトに突き刺さった。
トクン……ッ。
停止しかけていた鼓動が、痛烈な跳ね返りを見せる。
心地よい安らぎの靄の向こう側に、泣き叫びながら氷の刃を振り回していた、孤独なクリスタの泣き顔が、強烈な色彩を伴ってペイジンの脳裏に蘇った。
冷たく硬い氷の深淵で、ペイジンの揺らぐ思考が、ニィの必死な叫びを手がかりにして微かに宙を手繰り寄せる。
甘やかな眠りの誘惑をかき分け、停止しかけていた少女の意識が、自分たちを閉じ込めた雪の層のさらに上、遥か頭上に広がる世界の惨状へと向けられた。
ペイジン(...そもそもこのままだと外もどうなるの??)
凍てついた胸の奥で、恐ろしい予感が冷たい波となって広がっていく。
ペイジン(私たちがここで眠っちゃったら……クリスタは? クロノスの街は……? 外の世界はどうなっちゃうの……?)
その問いかけに、すぐ傍らで雪に埋もれるニィの意識が、歯を食いしばるようにして答えた。
ニィ(最悪なんてもんじゃないニィッ! 外はもう、クリスタの暴走した絶対零度の嵐で全部滅茶苦茶だニィ! ニィたちがこのまま目を閉じて終わっちまったら、あの街も、あそこにいた住人たちも、子どもたちも、ぜーんぶ永遠に凍りついたまま目を覚まさなくなるニィッ!)
ニィの切迫した思念が、ペイジンの麻痺した感覚を叩き起こすように響き渡る。
ニィ(街だけじゃないニィ! クリスタの心は今、怒りと悲しみで完全に壊れかけてるんだニィ! あいつを止められる奴が誰もいなくなったら、この猛吹雪はクロノスを飛び越えて、世界中のすべての国、すべての命を白銀の底に沈めちまうニィ! 花も咲かない、お日様も昇らない、誰一人として笑えない、冷たい氷の墓場がどこまでも広がるだけなんだニィッ!)
ニィの叫びとともに、ペイジンの脳裏に、先ほど見下ろしたクロノスの凍てついた光景と、ベッドの上で寒さに震えながら氷像へと変わっていった幼い子供の姿が鮮明に浮かび上がった。
そして何より、世界を拒絶し、泣き叫びながら氷の刃を振り回すクリスタの姿。
ニィ(そして一番可哀想なのはクリスタ自身だニィ! 世界中を凍らせて、全部を壊したあと、あいつはたった一人きりで、誰のぬくもりも届かない絶対零度の頂上に永遠に取り残されるんだニィ! そんなの……そんなの、あんまりにも残酷すぎるニィッ!!)
ニィの魂の叫びが、氷の牢獄を揺さぶる。
外の世界に残された悲惨な未来と、孤独の果てに自らを永久の氷に閉じ込めようとしている哀しい少女の運命。
ペイジン(……そんなの、絶対に嫌……ッ!)
麻痺していたペイジンの心に、凍てつく冷気を焼き切るような、強烈な使命感の熱が再び灯り始めていた。
どれほど心に使命感の火を燃やそうとしても、肉体を縛り付ける絶対零度の現実は、あまりにも冷酷だった。
頭上には何十トンもの重たい雪が幾重にも覆い被さり、外界からの光も空気も完全に遮断されている。少女の四肢をガチガチに固定する氷棺は、ビクともしない分厚い岩盤のように硬く、胸を圧迫する冷気は肺腑の芯まで凍てつかせたままだった。
ペイジン(でも...ここから動けないね。...このまま待とうかな....ッ?)
焦りや絶望を通り越した、どこか静かな諦めを含んだペイジンの思念が、氷の暗闇にぽつりと落ちる。
指先を動かそうとするだけで神経を氷の刃で抉られるような激痛が走り、ステッキを握る力すら入らない。全身の筋肉は硬直し、血潮は冷たく淀み、立ち上がることなど物理的に不可能な状態だった。
その切なくも無力な声を受け止めたニィもまた、凍りついた身体の奥で、無念そうに呻いた。
ニィ(そうするしかないニィ.....ッ)
黒い毛並みを覆う氷の層はびくともせず、伸ばされたままの右手も、丸まった小さな身体も、冷たい大理石の置物のように固まり果てている。力ずくで破ろうと抗えば抗うほど、絶対零度の冷気が容赦なく魂の温もりを削り取っていく。
今はどれだけ叫んでも、この分厚い氷と雪の檻を内側から打ち破る力は残されていなかった。
ペイジン(……うん。今は、じっと待とう……。いつか、少しでもこの氷が緩む時まで……)
ニィ(悔しいけど……耐えるんだニィ。意識だけは、絶対に完全に消させないように踏ん張るニィ……ッ!)
二人は暗く冷たい雪の底で、互いの魂の熱気だけを微かな命綱にして、抗うことをやめ、耐え忍ぶ時間を選んだ。
地表では、クリスタの放った猛吹雪がクロノスの街を破壊し、天を衝く氷柱が白銀の虚空を切り裂き続けている。その遥か遠く、何メートルもの雪の下に沈んだ二つの氷像は、完全な沈黙と停止の底で、ただじっと、訪れるかどうかもわからない奇跡の時を待つことしかできなかった。
ズズズ……と地鳴りのような重低音が響き、頭上に降り積もった万年雪の層がさらに密度を増して圧縮されていく。
じっと耐えて時を待つという二人の決断を嘲笑うかのように、周囲を取り巻く環境は一秒ごとに過酷さを極めていった。周囲の雪はただの雪であることをやめ、クリスタの底知れぬ魔力を吸い上げて、鋼鉄よりも硬く、冷たい永久凍土の塊へと変貌していく。
氷棺そのものもまた、外気と地中の両方から極限の冷気を供給され続け、パキパキと音を立てて内側へ内側へと凍結の圧力を強めていた。
ペイジンの身体から、最後の抵抗の力さえも奪われていく。
胸元に抱え込んだ両腕は、皮膚の表面から骨の髄まで完全に感覚が麻痺し、もはや自分の腕であることすら認識できない。指先は紫色を通り越して陶器のような青白さに染まり、関節は氷の楔を打ち込まれたようにぎちぎちに固定されていた。
ペイジン(さむ……い……。さっきよりも……ずっと……冷たくなっていくよ……ッ)
心の中で叫ぼうとしても、その思考の速度さえも冷気に凍らされ、鈍く引きずられるようになっていく。胸の奥底で必死に守っていた体温の火種が、四方八方から押し寄せる絶対零度の濁流に押し流され、急速に熱を奪われていく。
すぐ隣で雪に呑まれているニィの状況も、限界を遥かに超えていた。
小さな黒い身体を覆う霜はさらに鋭利な結晶へと成長し、耳の先も、肉球も、全身の筋肉という筋肉が完全に凍結してカチカチに硬直していた。毛並みの一本一本までがガラス細工のように凍てつき、かすかな身震いすら許されない。
ニィ(息が……止まりそうだニィ……ッ。身体の中まで……氷が……入り込んできて……ッ)
ニィの心の声も、激しいかじかみによって途切れ途切れになっていく。
待っていればいつか氷が緩むなどという希望は、絶対零度の前ではあまりにも儚い幻想にすぎなかった。耐えれば耐えるほど、二人の身体は冷気に侵食され、細胞のひとつひとつが完全な停止へと追いやられていく。
二人の意識の明滅はさらに弱まり、ただ冷たく、痛烈な凍結の深淵へと、ゆっくりと沈み続けていた。
暗く冷たい雪の底で、二人の魂を支えていた最後の意地の糸が、ぷつりと音を立てて切れかけていた。
骨の芯まで凍てつかせる絶対零度の冷気は、激痛を奪い去った代わりに、底知れない無力感と冷酷な虚無感を二人の心へと注ぎ込んでいく。何重にも積み重なった氷と雪の重圧は、自分たちという存在が最初からこの世界に必要なかったかのような錯覚さえ抱かせた。
カチコチに凍りついた氷棺の中で、ペイジンの思考が力なくほどけていく。
ペイジン(....ニィ、私のような代わりなんているのかな?もうこうなったらここでずっと眠ってもいいやって.....ッ)
かつて世界を守ろうと握りしめたステッキの温もりも、クリスタを救いたいと願った優しい祈りも、極限の凍結の前では儚い幻のように思えてしまう。手足の先から感覚は完全に失われ、身体の芯まで冷え切った少女の意識は、冷たく心地よい永遠の眠りの誘惑に、静かに身を委ねようとしていた。
そして、いつもなら相棒を叱咤激励するはずの小さな黒猫の心にも、同じ冷酷な絶望が覆い被さっていた。
氷に縛り付けられ、雪の圧力で押し潰されそうになりながら、ニィの意識もまた暗い淵へと沈んでいく。
ニィ(...代わりなんて1番に沢山いるニィ。もうニィもどうでも良くなってきたニィ.....ッ)
抗う気力さえも完全に凍てつき、投げやりな諦めが小さな胸を染め上げていく。誰かのために立ち上がることの痛みも、世界を救うことの重さも、この絶対零度の暗闇の前ではすべてが無意味に感じられていた。
二人の意識の繋がりは、急速に薄れ、冷たい沈黙の中へと溶け出していく。
光の届かない雪の深淵で、二つの氷像はもはや希望を抱くことすらやめ、ただ世界の果てに取り残された冷たい石ころのように、永遠の停止へと落ちていこうとしていた。
暗く冷たい雪の底で、ペイジンの途切れかけた思考が、最後の疑問をニィへと投げかけた。
身体の境界線すら曖昧になり、どこまでが自分の肉体で、どこからが自分を閉じ込める氷なのかさえ分からない。ただ、肌を這い回る冷酷な感覚だけが、停止寸前の神経に鈍く焼き付いていた。
ペイジン(...私たちこのままどうなるの?どんな感触を味あわされちゃう?)
その弱々しい問いかけに、意識の灯火が消えかけているニィの思念が、力なく、けれど残酷なほど鮮明に応じた。
ニィ(……どんな感触かって、もう始まってるニィ……。身体の芯に、冷たい鉄の杭を何本も打ち込まれたみたいに、ずっしりと重くて動かない感覚だニィ……)
ニィの思考も、凍てつく泥のように重く濁っていた。
ニィ(手足の先からじわじわと感覚が消えて……まるで自分の身体が、冷たくて硬いガラスか陶器の塊にすり替わっていくような感触だニィ。皮膚を撫でる雪の重みも、最初は冷たかったはずなのに、今はただ押し潰されるだけの岩みたいに感じて……骨の髄まで、ギシギシと氷の結晶に締め上げられていくんだニィ……)
凍結の波は、容赦なく二人の五感を侵食していた。
ニィ(そのうち……痛いのも重いのも全部消えて、冷たい水の中にどこまでも深く沈んでいくような、ふわふわした麻痺に包まれるニィ。何ひとつ触れられない、何ひとつ感じられない……ただ硬くて冷たい完全な『無』の中に、身体ごと閉じ込められて固まるだけだニィ……ッ)
ペイジンの意識の奥底に、ニィの語る残酷な感触が染み渡っていく。
胸を圧迫する氷の棺は、まるで冷たい鉱物の鎧のように少女の肌に張り付き、心臓の最後の震えさえもぎっちりと押し固めていた。指先はもはや凍りついた小石のようで、呼吸をしようとする喉の奥には、鋭利な霜の棘がびっしりと詰まっているかのように冷たく乾ききっている。
温もりを知っていたはずの肉体は、一秒ごとに生きた命の柔らかさを失い、冷酷な絶対零度の彫刻へと完全に作り変えられていく。
思考を紡ぐことすら耐えがたいほどに鈍化し、二人はただ、自らの全身が冷たい氷の結晶へと成り果てていく恐ろしい感触の中に、静かに、深く呑み込まれていった。
ピキィ……ピキピキッ……。
分厚い雪の底で、二人の身体を完全に包み込んだ氷の結晶が、最終段階の凍結を告げる冷酷な音を立てて硬度を増していった。
限界の境界線は、すでに足元を通り過ぎていた。
ペイジンの華奢な身体は、もはや人間としての柔軟性を完全に喪失していた。皮膚の表面は雪のように真っ白に脱色され、その下を巡っていたはずの血液は、一滴残らずドロリと凍りついて血小板の一つひとつまでがガラス質の結晶と化している。
胸元を万力のように圧迫する氷の塊は、少女の肋骨の軋みさえも許さない。
ト……クン……。
心臓の鼓動は、何分かに一度、極小の震えを返すのがやっとだった。肺はカチコチに凍りついた冷たい石の塊のようで、喉の奥には絶対零度の空気が凍結したまま詰まり、もはや吐息の欠片すら漏れ出す隙間はない。握りしめようとした指先は、ステッキの柄ごと完全に石膏のように固定され、ピクリとも、ミクロン単位ですら動かすことはできなかった。
ペイジン(あ……冷たい……もう……何も……)
思考の速度さえも凍結し、言葉の輪郭が溶けたロウソクのように崩れ落ちていく。視界の奥を埋め尽くすのは、果てしない白銀の闇だけだった。
すぐ傍らに沈むニィの小さな命も、今まさに最後の閃光を失おうとしていた。
黒い毛並みの先端から根元に至るまで、びっしりとダイヤモンドダストが張り付き、全身は青白い氷のオブジェへと変貌している。尖っていた耳先も、丸まっていた尻尾も、指先で触れればパキリと折れてしまいそうなほど極限まで冷却され、カチカチに硬直していた。
ニィ(つめ……た……い……ニィ……)
心の中の叫び声すらも、極度の寒熱によって引き裂かれ、途切れ途切れの残響へと成り果てる。抗う意志も、相棒を想う情熱も、クリスタへの憐憫さえも、すべては絶対零度の巨大な氷河に押し流され、平坦な無へと均されていく。
極限を超えて冷え切った二人の肉体は、周囲の万年雪や永久凍土と何ひとつ温度の差を失い、完全にその冷たい大地と同化しつつあった。
光もなく、熱もなく、音もない。
二つの命の火は、吹き荒れる白銀の深淵の底で、今まさに完全に吹き消されようとしていた。
ヒョオオオオオオッ、と地表を撫でる暴風の咆哮すら、もはや幾重にも降り積もった万年雪の深淵には何ひとつ届かなかった。
完全なる停止の刻が、二つの命に等しく訪れようとしていた。
ペイジンの身体を覆う氷棺の内壁は、少女の肌に完全に密着し、わずかな隙間すら残さず一体化していた。衣服の繊維の一本一本までが凍てつき、青白く透き通った皮膚は、磨き抜かれた氷の大理石のように硬化している。
ト…………クン。
途方もなく長い沈黙の果てに響いた微弱な脈動を最後に、ペイジンの胸元からあらゆる生体反応が消失した。
肺腑は完全に氷結し、血の巡りは永遠に凍りつき、かつて星のような希望を宿していた瞳は、半透明の氷の皮膜の奥で硝子玉のように冷たく固定されている。手放すことすら許されなかったスリーピィステッキも、少女の腕ごと強固な結晶に呑まれ、かつて放っていた黄金の温もりを完全に奪われて沈黙した。
ペイジンの意識は、もはや思考という形を留めていなかった。寒さという感覚すら消え失せ、痛覚も、悲哀も、遠い昔に見た夢のように白銀の霧の中へ霧散していく。ただ底知れない安らぎと、果てしない氷の暗闇だけが、少女の魂を優しく、そして冷酷に包み込んでいた。
そして、そのすぐ傍らに沈むニィの姿もまた、完全な静止画となって凍てついていた。
小さく丸まっていた黒猫の輪郭は、周囲の雪の圧力によってさらに押し固められ、ひとつの冷たい氷塊へと変貌を遂げていた。伸ばされた右手の小さな肉球も、霜を纏った髭も、風に揺れるはずだった尻尾の先も、指先で叩けばカチリと高い金属音を響かせそうなほど極限まで冷却され、完全にその形を止めている。
ニィ(…………ニィ…………)
心の中で相棒の名を呼ぼうとした最後の思念の残滓も、凍てつく絶対零度の波に呑み込まれ、プツリと途絶えた。
二人の間を結んでいた魂の交信は完全に断ち切られ、そこに残されたのは、世界で最も冷たく、最も硬い、二つの美しい氷の彫刻だけだった。
何メートルもの分厚い雪の層の下。
光も、音も、熱も届かない永久凍土の最深部で、ペイジンとニィの時間は完全に停止し、二人は永遠の眠りの中へと深く、深く閉じ込められた。
ゴオオオオオオッ、と死の静寂を切り裂くような轟音が、遥か彼方の天空から響き渡った。
暗雲立ち込める白銀の空を切り裂き、一筋の閃光が凄まじい速度で急降下してくる。それは、この絶対零度の世界には決して存在し得ない、眩いばかりの桃色の光条。猛り狂う極彩色――強力なピンク色の火柱を螺旋状に纏った、一本の魔法のほうきだった。
ごわああああああっ!!!!!
吹き荒れる暴風雪を焼き払い、何十トンもの分厚い万年雪の層を瞬時に蒸発させながら、炎のほうきは二人が埋もれていた永久凍土の深淵へと一直線に突き刺さった。
ドッゴオオオオオオンッ!!
凄まじい熱量と破壊的な衝撃波が炸裂する。ダイヤモンドよりも硬く二人を閉じ込めていた絶対零度の氷棺に、無数の亀裂が走った。
バキバキッ、ガギィィィンッ!
一瞬にして沸点を超えた激しい熱衝撃が、凍りついていた二人の身体を容赦なく揺さぶる。超低温から急激な爆散への移行――肉体を切り裂くような激痛と衝撃波の嵐が、停止しかけていた神経系にダイレクトに叩きつけられた。
「ぐ、ああっ……ッ!?」
「ぎゃにゃああああっ!!」
肉体を縛っていた氷の檻が粉々に吹き飛ぶと同時に、ペイジンとニィの身体は激しい爆風によって雪原の表面へと弾き飛ばされた。
ドササッ、と雪煙の中に投げ出された二人の全身からは、ジュウジュウと白い蒸気が立ち上っている。あまりの急激な衝撃と激痛に肺腑が軋み、激しく咳き込みながら血を吐き出しそうになるほどのダメージを負いながらも、その瞳には確かに、失われていた生きた光が蘇っていた。
停止していた心臓が早鐘のように激しく脈打ち、凍てついていた血液が一気に全身を駆け巡る。手足は激しい痺れと痛みに焼かれていたが、それでも二人は、自らの力で雪の大地を踏みしめていた。
視線の先、熱風を巻き上げて雪原に突き刺さっていたのは、ピンク色の炎を誇らしげに揺らす、見紛うことなき相棒の姿だった。
顔を上げたペイジンは、痛む胸を必死に押さえ、掠れた声を振り絞って叫んだ。
ペイジン「ほうきちゃんッ!!!」
ペイジンの切実な叫びに呼応するように、雪原に突き刺さっていたほうきが、カチリと音を立てて自ら浮き上がった。
先端に纏っていた激しいピンク色の火柱はふわりと穏やかな陽だまりのような温もりに変わり、吹き荒れる吹雪の冷気を心地よく払いのけていく。ほうきは嬉しそうに柄をくるりと回転させると、ペイジンとニィの元へ静かに滑空してきた。
その柄の中央には、見たこともないほど分厚く、見るからに暖かそうな生地がしっかりと括り付けられていた。
ふわり、と二人の前に差し出されたのは、桜の花びらのように淡く優しい桃色をした、もふもふのフード付きコートと防寒着のセットだった。触れずとも伝わってくる、芯から温まるような陽光の熱気。極寒と熱衝撃でボロボロになり、激痛と悪寒に歯をガチガチと鳴らしていたペイジンの手元へ、ほうきは慈しむようにその服をそっと預けた。
ペイジン「これ……あったかい……」
凍えて感覚を失いかけていた指先でその柔らかな毛並みに触れた瞬間、胸の奥底までじんわりと優しい熱が染み渡っていく。
ニィ「ニィの分まであるニィ……! 助かったニィ、ほうきちゃん……ッ!」
ニィもまた、ほうきが差し出してくれた小さなもふもふのケープに飛び込み、震える身体を必死に擦り寄せた。
二人は冷え切った身体にその桃色のもふもふの服を急いで羽織り、極寒の嵐を遮断するようにぎゅっと抱きしめた。全身を包み込む圧倒的な温もりは、絶対零度の冷気によって傷ついた四肢の痛みを和らげ、失われかけていた生気と魔力を急速に呼び覚ましていく。
完全な停止の闇から這い上がり、暖かなピンクの光を纏った二人は、時計塔の頂で愕然とこちらを見下ろしているであろう氷の魔女を見据えるように、しっかりと顔を上げた。
もふもふのフードを目深に被り、あたたかな桃色の毛並みに顔を埋めながら、ペイジンはまだ微かに震える指先を見つめた。
皮膚の奥底には、あの絶対零度に押し潰されそうになった時の冷酷な重みと、骨がきしむような感覚が、いまも生々しくこびりついている。吹き飛ばされた氷の破片が散らばる雪原の上で、ペイジンは隣のほうきとニィを見つめ、掠れた声でぽつりと呟いた。
ペイジン「で?もしあそこで来なかったら?」
その問いかけは、助かった安堵の裏側に潜む、底知れない恐怖の記憶をなぞるようだった。
小さなピンクのケープをきゅっと引き寄せ、毛づくろいするように身体を震わせていたニィが、真剣な顔つきで顔を上げた。その金色の瞳には、冷たい深淵で味わった絶望の生々しさが色濃く残っている。
ニィ「……もしあと数分、いや数秒遅れてたら、ニィたち完全に終わってたニィ」
ニィは雪原の足元、自分たちがさっきまで埋もれていた巨大な大穴を忌々しそうに見下ろした。
ニィ「身体の中の血も魔法も、最後のひとかけらまで全部カチコチに凍りついて、二度と目覚めることのない氷像になってたニィ。思考も魂も真っ白な雪の底に溶けて消えて、何百年経っても、誰にも見つけてもらえないまま永遠にあの冷たい暗闇の中で眠り続けるところだったんだニィッ……!」
想像するだけで背筋が凍りつくような結末を口にしながら、ニィはほうきの柄にぎゅっとしがみついた。
ニィ「だから、本当にギリギリのところで間に合ってくれたんだニィ。ほうきちゃんがニィたちの心の火種を見失わずに突っ込んできてくれなかったら、今頃ふたりとも、あの冷たい棺桶の中でただの石ころだったニィ……」
ほうきはペイジンの心配そうな声とニィの震える言葉に応えるように、その柄を優しく傾け、ペイジンの頬をもふもふの穂先でそっと撫でた。そこから伝わってくる確かなピンク色の炎のぬくもりが、二人が生きているという現実を強く証明していた。
ペイジンは奥歯をきつく噛み締め、痛む足で白銀の雪原を力強く蹴りつけた。
全身に残る凍傷の痛みも、急激な熱衝撃による軋みも、今の彼女を止める理由にはならない。もふもふのピンクのコートを翻し、胸元に抱えたスリーピィステッキを固く握り直すと、少女は時計塔の天辺――孤独の冷気に震えるクリスタがいる場所を見据えて叫んだ。
ペイジン「とにかくいかないと!!ニィもはやく!行くよ!ほうきちゃん!!!」
ニィ「わかってるニィ!今度こそあの意固地な氷の頭を、あったかい愛で叩き割ってやるニィッ!」
ニィは素早く身を翻し、ピンクのケープをはためかせながらペイジンの肩へと飛び乗った。
その声に応え、ほうきちゃんは嬉しそうに柄を大きく鳴らすと、切っ先から爆発的なピンク色の炎の推進力を噴射させた。二人の身体をふわりと宙へ掬い上げ、雪原を薙ぎ払う猛吹雪を真っ向から焼き払いながら、白銀の空へと急上昇を開始する。
ゴオオオオオオッ!
ほうきが引く鮮烈な桃色の軌跡は、暗雲に閉ざされた絶対零度の世界に、まるで朝焼けのような暖かい光の道を切り拓いていく。
吹きつける冷酷な風を物ともせず、二人は時計塔の頂上を目指して、一直線に飛び去っていった。
猛吹雪をピンク色の炎で切り裂きながら、ほうきちゃんは猛スピードで時計塔へと急上昇していく。
さっきまでカチコチに凍りついて絶望の底に沈んでいたことなんて、まるで全部夢だったかのように、ペイジンはもふもふのピンクのフードをパタパタさせながら満面の笑みを咲かせた。
ペイジン「わあああっ、すごいすごいっ!ほうきちゃん、あったか〜い!それにこのお洋服、いちごみるくみたいで超かわいい〜!」
肩にしがみついているニィは、その切り替えの早さと能天気さに目を丸くしてひっくり返りそうになる。
ニィ「ちょ、ちょっとペイジンッ!?呑気に喜んでる場合じゃないニィ!ニィたちさっきまで死にかけてたんだニィ!全身ガチガチの氷漬けで、あと一歩で永久冷凍の置物になるところだったんだニィッ!」
ペイジン「えへへ、そうだっけ?でも今はぽかぽかだから大丈夫だよ〜!クリスタちゃんもきっと、こんなに寒いところで一人でいたらお腹冷やしちゃうもんね。早くぎゅーってしてあっためてあげなきゃ!」
にこにこと無邪気に笑いながら、ペイジンはスリーピィステッキをくるくるとバトンのように回してみせる。氷の魔女が街を破壊して激怒しているという緊迫した状況すら、彼女の中ではただの「構ってほしい寂しがり屋さん」に変換されているようだった。
ニィ「あいつはそんな可愛い理由で暴れてるんじゃないニィ……!まったく、誰に似てこんなにお気楽なんだかニィ……!」
ニィは思わず肉球で額を押さえて深いため息をついたが、その口元にはどこか呆れ混じりの安堵が浮かんでいた。どんな絶望的な極寒の中でも、この底抜けの明るさこそがペイジンの最大の武器なのだ。
ペイジン「よーし、ほうきちゃん、全開でいっちゃお〜!クリスタちゃん、いま行くからね〜っ!」
ピンク色の温かな光の尾を夜空に引きながら、少女の屈託のない笑い声が、白銀に凍てついたクロノスの空へと響き渡っていった。




