第41話 目を覚ます悪夢
ゴオオオオオオッ、ズガガガガッ!
夜が深まるにつれ、クロノスを包む冷気はさらにその牙を研ぎ澄ませていた。空を閉ざす分厚い氷雲からは、まるで生き物のように渦を巻く凶悪な吹雪が雪崩れ込み、容赦なく街並みへと襲いかかる。
それはもはや単なる寒波ではなかった。すべてを奪い去った氷の魔女がもたらす、具現化した「氷の悪夢」そのものだった。
建物の屋根を削り取るように吹き荒れる突風は、凍りついた窓ガラスをギリギリと軋ませ、隙間から部屋の中へと青白い冷気の刃を差し込んでいく。暖炉の跡に残っていたわずかな温もりさえも瞬時に凍結し、室内の花瓶の水はカチリと音を立てて破裂した。床を這うように広がる霜の波は、怯える住人たちの足元をじわじわと包み込み、逃げ場を完全に塞いでいく。
街路を埋め尽くす猛吹雪は、人々の視界も、声も、思考さえも白銀の闇の中へと呑み込んでいく。誰もが寒さに身を縮め、いつ訪れるとも知れない夜明けを待つことすら諦めかけていた。
街の息吹を容赦なく凍てつかせる極限の嵐は、どこまでも冷たく、どこまでも深く、クロノスを永遠の眠りへと引きずり込もうと吹き荒れ続けていた。
窓枠の隙間から吹き込んできた純白の冷気が、ベッドの上へと音もなく忍び寄る。
布団にくるまる子供の身体は、逃げ場のない寒さに晒され、小さく震えることすらできなくなっていた。額に張り付いた髪の毛先には白い霜が降り、まつ毛の先には小さな氷の粒が宿っている。吐き出す息は白く濁り、その間隔は刻一刻と長く、弱々しくなっていった。
夢の中に広がるのは、楽しい思い出や温かな光などではなかった。見渡す限りの氷の世界で、ただ一人冷たい風に打たれ続けるという、逃れられない氷の悪夢。温もりを奪われた小さな心は、凍てつく闇の底へと果てしなく沈んでいく。
ピキピキと音を立てて、ベッドのシーツの端から白銀の結晶が這い上がり、子供の指先を冷たく撫でていく。
子供「……さむ……い……」
かすかに開いた唇から漏れ出た最後の呟きも、冷酷な空気の刃に切り裂かれ、形を失って霧散した。手足はすでに硬く冷え切り、感覚は失われ、ただ深く、どこまでも痛烈な極限の眠りの中へと引きずり込まれていった。
ビューオオオオッ、と乾いた吹雪の咆哮が窓を激しく揺らし、微かな隙間から純白の冷気の刃が容赦なく室内に雪崩れ込んでいた。
部屋の空気は極限まで冷え切り、吸い込むだけで喉の奥が張り裂けそうになるほどに痛烈だった。ベッドの上で一人、薄い毛布に包まる女の子の小さな身体は、寒さから逃れるように丸まり、今や小刻みな震えさえも止まりかけていた。
パキパキと硬質な音が室内に響き渡る。女の子が握りしめていた毛布の端から、白銀の霜が蔦のように這い上がり、繊維の一本一本を硝子細工のように硬く凍てつかせていく。熱を保つはずの布地はすでに氷の板のように冷たく硬直しており、寒さを遮る役目を完全に失っていた。
女の子の小さな手詰まりは、胸元でぎゅっと固められたまま、みるみるうちに血の気を失っていく。可愛らしかった指先は痛々しいほどの青紫色へと変色し、関節の一つひとつが氷の結晶に覆われて、自らの意志ではピクリとも動かすことができなくなっていた。爪の表面には薄い氷の膜が張り、冷たい月明かりを浴びて青白くギラギラと光を反射している。
女の子「……っ、こお……り……が……」
夢の底から絞り出すように漏れた微かな声も、凍てつく空気に触れた瞬間に白い霧となって霧散した。声帯さえも冷気に締め上げられ、言葉の形を保つことすら許されない。
閉じた瞼のまつ毛には、白く尖った霜がびっしりと降り積もっている。時折、寒さによる苦痛から微かに眉間を歪めるものの、その表情さえも皮膚の表面から這い上がる結晶化の波によって、仮面のように冷たく固定されていく。頬の柔らかさは失われ、触れればカチリと音を立てそうなほどに硬く凍りついていた。
女の子の意識の奥底では、逃げ場のない極寒の悪夢が渦巻いていた。見渡す限り青白く透き通った氷の迷宮の中、出口を探して裸足のまま走り続ける夢。いくら足を前に踏み出しても、触れる地面はすべて絶対零度の氷であり、足の裏から骨の髄へと鋭い痛みが突き刺さる。誰の名前を呼んでも返事はなく、聞こえるのはただ自らの凍りついていく心臓の音と、吹き荒れる吹雪の冷たい笑い声だけだった。
ピキピキッ、ミシミシッ。
冷気は容赦なく女の子の小さな足先をも侵食していく。靴下の先から這い上がった霜が足首を硬く縛り付け、膝から太ももへと冷たい感覚麻痺が広がっていく。全身の血潮がゆっくりと粘度を増し、まるで冷たい泥のように動きを鈍らせていくのが感じられた。体温という名の最後の砦が、クリスタの放った支配の嵐によって無慈悲に奪い去られていく。
胸の上下する動きは、今や一分間に数回あるかないかというほどに浅く、弱々しくなっていた。唇の隙間から漏れ出る細い吐息は、吐き出された瞬間にキラキラと輝く微細なダイヤモンドダストへと姿を変え、空中に浮遊して儚く散る。
手足のかじかみはもはや痛みを通り越し、感覚そのものが完全に消失していた。凍てついた闇の底で、女の子の魂は果てしない冷たさに呑まれ、ただ静かに、永遠のような冬のまどろみへと引きずり込まれていくのだった。
カチッ、カチリと、ベッドの周囲で時を刻むような凍結音が小さく響いた。
女の子の胸元にまで這い上がった白銀の霜は、着ていたパジャマの胸元を硬い氷の板へと変え、もはや胸の微かな上下すらも完全に封じ込めていた。浅かった呼吸は完全に止まり、吐き出される白い息すらも途絶える。
閉ざされた瞼は完全に氷の膜に覆われ、もう二度と開くことのない人形のように冷たく静止していた。かつて頬に宿っていた薔薇色の温もりは完全に吸い尽くされ、月明かりを透かす大理石のような青白さだけが残されている。
ピキィン……。
指先をぎゅっと丸めた形のまま、女の子の身体は毛布ごとベッドの上に完全に結晶化し、ひとつの美しい氷の彫刻となって沈黙した。心臓の微かな軋みさえもクリスタの冷気によって均され、部屋の中には完全な無音の静寂が満ちていく。
悪夢の中で出口を探し求めていた女の子の意識も、やがて寒さの痛みを忘れ、底知れない絶対零度の暗闇の中へと深く、深く沈み込んでいった。
窓の外では、クロノスの街をすっぽりと覆い尽くした猛吹雪が、獲物を仕留めた獣のように低く唸り声を上げている。街中の家々で、同じように温もりを奪われた命たちがひとつ、またひとつと冷たい結晶の中へ閉じ込められていく。
誰も目覚めることのない、そして誰も助けに来ない。
氷の魔女がもたらした支配の夜は、クロノスに生きるすべての者から夢を奪い去り、ただ果てしない永遠の冬を刻み続けていた。
時計塔の頂で、吹き荒れる吹雪を見下ろしながら、クリスタは感情の抜けた冷たい声で静かに語り始めた。その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ白銀に閉ざされた街の虚空へと向けられていた。
クリスタ「極寒の中で眠りに落ちることが、どれほど甘美で残酷か……人間は何も知らないのね」
クリスタは氷の杖を軽く撫で、自らの冷気を愛おしむように指先を滑らせた。
クリスタ「猛吹雪の中で体温を奪われ続けると、最初は耐えがたい激痛が全身を襲うわ。手足の先から感覚が失われ、皮膚は凍りつき、骨の芯まで針で刺されたように痛む。助けを求めて叫ぼうとしても、肺に吸い込んだ冷気が喉を凍らせ、声すら出せなくなる」
吹雪がゴオオッと唸りを上げ、クリスタの銀髪を激しく揺らす。彼女の青い瞳には、一切の慈悲は宿っていなかった。
クリスタ「けれど、本当の恐ろしさはその先にあるの。限界を超えて熱を奪われ続けると、激痛はふっと消え去り、今度は信じられないほど甘やかな幻の温もりが全身を包み込むのよ。まるで温かい毛布に抱かれたような錯覚に囚われ、重い瞼を閉じたくなる。抗うことのできない猛烈な眠気が、意識を優しく誘うの」
クリスタは冷たい自嘲の笑みを唇の端に浮かべた。
クリスタ「そして、一度でも目を閉じてしまえば……二度と目覚めることはない。思考はゆっくりと白く染まり、心臓の鼓動は間隔を広げ、最後の一滴の血潮までもが静かに凍りつく。眠った者は、自分が死んでいくことすら気づかないまま、永遠の静寂という名の美しい氷像に変わるだけよ」
クリスタの杖から放たれた極小のダイヤモンドダストが、風に乗ってキラキラと虚しく舞い散った。
クリスタ「痛みも、哀しみも、失う恐怖も……すべてはその眠りの中に溶けて消える。だから私は、この街のすべてを眠らせてあげるのよ」
ヒョオオオオオオッ、と地平線を削り取る風鳴りが、果てしない荒野に横たわる二つの氷を叩き続けていた。
クリスタの言葉通りの冷酷な現象が、今まさにペイジンとニィの身を極限の深淵へと引きずり込んでいた。
雪煙に半ば埋もれたペイジンの氷棺の内側では、あらゆる生体反応が停止へと向かっていた。外側を覆う絶対零度の結晶は、吹雪から吹き付ける新たな雪を取り込み、さらに分厚く、さらに青白く密度を増していく。激突の衝撃で走った表面の亀裂すらも、過冷却された大気によって瞬く間に修復され、少女を外の世界から完全に隔絶していた。
氷棺の中で固まったままのペイジンの四肢には、もはや一欠片の力も入らない。指先から始まった凍てつきは肘を越え、肩を巡り、少女の胸元を万力のように締め上げている。肺腑は凍てつく氷塊と化し、熱い血の巡りは途絶え、心臓はまるで硬直した石のように固く押し黙っていた。
意識の底に漂うペイジンを襲っていたのは、激痛の果てに訪れる、甘美で恐ろしい偽りの温もりだった。
ペイジン「あたたかい……お日さまの……におい……」
動かない喉の奥で、そんな幻影が溶け出していく。まるで春の陽だまりの中に身を投げ出し、柔らかい草の上に寝転がっているかのような、抗いがたい眠気の誘惑。思考は白銀の靄の中に溶け込み、自分が誰なのか、なぜ戦っていたのかという記憶の輪郭さえも、心地よい安らぎの中に薄れて消えかけていた。
その数メートル先、雪の斜面に転がるニィの氷像もまた、同じ永遠のまどろみに沈んでいた。
黒い毛並みは霜に覆われて白銀へと変わり、小さく伸ばされた右手の爪先は硝子細工のように透明に透き通っている。胸元で必死に訴えかけていた命の火は風前の灯となり、丸まった身体は冷酷な大理石の置物のように微動だにしない。相棒を助けたいという必死の叫びも、甘やかな虚無の底へと沈み、瞳の奥に宿っていた輝きは完全に曇り果てていた。
二人の時間は完全に凍結し、肉体はクリスタの語った通りの「永遠の静寂を保つ美しい標本」へと変わり果てていた。
だが、完全なる死の静寂へと落ちきる直前、ペイジンの胸元に抱かれたスリーピィステッキの星のモチーフが、氷の牢獄の最深部で、誰にも気づかれぬほど微かに、トクンと震えた。それは極寒の底に置き去りにされた、たった一つの消えない祈りの残光だった。
時間が静かに、ただ残酷に流れていった。
吹雪が荒野の雪面を削り取り、凍てついた大気がヒョオオオと冷たく鳴り響く。長い刻が経過し、わずかに風の勢いが弱まった瞬間があっても、大地を覆う絶対零度の支配が揺らぐことは一切なかった。
期待された奇跡も、熱を帯びた逆転の光も、訪れる気配はない。
横倒しになったペイジンの氷棺は、時が経つにつれて周囲の冷気をさらに吸い寄せ、より青く、より深く、ダイヤモンドよりも硬い結晶の塊となって荒野に根を張っていた。ステッキの奥底で微かに明滅していたはずの極小の火種も、圧倒的な極寒の重圧に押し潰され、やがて静かにその瞬きを止めていく。
少女の身体を封じる氷が、緩む兆しすら見せることはなかった。水滴の一粒すら滴り落ちず、表面に浮かぶ霜の結晶は溶けるどころか、鋭利な刃のように研ぎ澄まされていくばかりだった。
数メートル先に転がるニィの小さな身体も同じだった。雪に埋もれた黒い毛並みは完全に白銀の鉱物と同化し、伸ばされた右手の指先は、冷たい氷原の風景の一部として完全に固定されていた。相棒を呼ぶはずだった小さな魂は、解凍のぬくもりを一度も感じることなく、完全な沈黙の底へと縫い止められている。
時間差によって訪れたのは、救済の熱などではなかった。
それは、クリスタの放った凍結が一時的な術などではなく、万物を恒久的に停止させる「完全なる永遠」であるという、冷徹な現実の証明にすぎなかった。
二人の身体を閉じ込めた硬質な結晶は、陽光の届かない白銀の荒野で、何ひとつ溶けることなく、ただ物言わぬ美しい彫刻として冷たく静止し続けていた。




