第38話 前置き
クリスタ「あの記憶ッ?」
クリスタは目を見開き、張り詰めた声で問い詰めた。吹き荒れていた猛吹雪が一瞬だけ勢いを緩め、張り裂けそうな緊張感が広場を支配する。誰もが固唾を呑むような決定的瞬間に、ペイジンはきょとんと首を傾げた。
ペイジン「あ、忘れた」
ニィ「ずっこおおおおおっ!?」
あまりの急転直下に、しがみついていたニィが盛大にずっこけて叫んだ。
ニィ「ちょっとペイジン!?今のめちゃくちゃシリアスで大事な場面だったニィ!なんでこのタイミングで綺麗さっぱり全部忘れちゃうニィ!?」
ペイジン「えへへ、なんだかすっごく良いこと思いついた気がしたんだけどね!頭の中がふわあーって真っ白になっちゃった!さっきまで何の話してたっけ?」
ペイジンはスリーピィステッキでぽくぽくと自分の頭を叩きながら、悪びれる様子もなく無邪気に笑った。先ほどまでの緊迫した空気は一瞬で吹き飛び、天真爛漫な空気が広場を包み込む。
クリスタ「な、な……っ!?」
気迫満面で構えていたクリスタは、完全に調子を狂わされて杖を取り落としそうになった。絶対零度の殺気はどこへやら、あまりの気の抜けように額に青筋を浮かべて震えている。
クリスタ「貴様、人を散々煽っておいて忘れただと!?この緊迫した命のやり取りの中で、そんな馬鹿な話があるものか!」
ペイジン「だって忘れちゃったものは仕方ないもん!でもね、細かいことは忘れちゃっても、クリスタと仲直りしてお菓子食べたいなってことだけは覚えてるよ!」
ニィ「もう、本当にペイジンはおバカさんなんだからニィ!でも、そういうところもペイジンらしくて大好きなんだニィ!」
ニィは呆れつつもふにゃりと頬を緩め、ペイジンの首元にすり寄った。
クリスタ「ふ、ふざけるな……!調子を狂わせるなと言っているのだ!」
怒りと困惑で顔を真っ赤にしたクリスタだったが、その手から放たれる吹雪は、先ほどまでの刺すような冷たさをすっかり失っていた。
ペイジン「あと、速くニィと散歩したいんだけどッ?」
ペイジンは頬をぷくっと膨らませて、退屈そうにスリーピィステッキをくるくると回した。世界を巻き込む大決戦の真っ只中だというのに、その意識はすっかり戦いの先にある楽しいお散歩へと向いている。
ニィ「わぁっ、ペイジンとのお散歩だニィ!広場のおいしい屋台をいっぱい巡りたいニィ!」
ニィはぱあっと表情を輝かせ、ペイジンの胸元で小さな手をパチパチと叩いて喜んだ。命懸けの戦場とは思えないほどほんわかとした二人の空気に、凍てつく広場の冷気さえもぽかぽかと温まっていくかのようだった。
クリスタ「何も分かってないようだなお前はッ」
クリスタは額を押さえ、絞り出すような声で呻いた。全身から立ち上っていた禍々しい魔力の嵐は完全に勢いを失い、杖の先から零れる冷気も今やそよ風程度にまで弱まっている。すべてを滅ぼそうとしていた絶対零度の氷の魔女としての威厳は、目の前のお気楽な少女によって完全に打ち砕かれていた。
ペイジン「えー?分かってるよ!世界を凍らせるよりも、みんなで笑ってお散歩したほうが絶対に楽しいってことくらい!」
ペイジンは胸を張って満面の笑顔を向けた。その言葉には何の打算も裏表もなく、ただただ純真で真っ直ぐな想いだけが込められている。
ニィ「そうだニィ!クリスタも意地を張ってないで、一緒に美味しいクレープでも食べに行くニィ!ペイジンのおごりだニィ!」
ペイジン「えっ、わたしのおごりなの!?まあいっか、ニィが喜ぶなら!」
クリスタ「誰が行くか……!勝手に話を進めるなと言っているのだ!」
真っ赤な顔で怒鳴り散らすクリスタだったが、その瞳の奥にあった底知れぬ氷のような孤独は、完全に消え失せていた。
クリスタ「このままこのクロノスの街を、みんなの夢ごと冷たく閉ざしてみせるのッ!」
クリスタが最後の魔力を振り絞り、氷の杖を天へと突き上げた。広場の頭上に展開された巨大な氷の月が不気味に輝きを増し、クロノス全体を覆い尽くすほどの絶対零度の吹雪が渦を巻いて降り注ぐ。建物の屋根や石畳が急速に凍りつき、人々の温かな息吹さえも冷たく奪い去ろうとしていた。
ペイジン「そんなの、させないよおお!」
ペイジンは大きく大地を踏みしめ、スリーピィステッキを正面へと構え直した。その瞳には一切の迷いも恐れもなく、ただ街のみんなの笑顔と、ニィと過ごす温かい明日を守りたいという無邪気で純粋な決意が満ち溢れている。
ニィ「ペイジン、負けちゃだめだニィ!私の持っている魔力も、全部全部使っていいニィッ!」
ニィはペイジンの首元にしっかりと抱きつき、小さな身体から眩い桃色の光を放ち始めた。その光はステッキへと流れ込み、黄金色のオーラと混ざり合って、まるで生まれたての太陽のような眩しい熱気を帯びていく。
ペイジン「いくよ、クリスタ!冷たい氷なんかに、みんなの夢は閉じ込められないんだからッ!」
ペイジンがステッキを力いっぱい振り抜くと、先端から巨大な光の奔流が放たれた。降り注ぐ絶対零度の猛吹雪を真っ向から押し返し、冷気と熱気がぶつかり合って広場全体に眩い光の火花が激しく飛び散る。
クリスタ「消えなさい!私の世界を邪魔するんじゃないわ!」
ペイジン「消えないよ!わたしたちのポカポカな想いは、絶対に負けないんだからアアアアッ!」
天真爛漫な叫びとともに、ペイジンの放つ光はさらに輝きを増し、クリスタの氷の月を真っ二つに切り裂くように突き抜けていった。
光と氷が激突する轟音が響き渡り、クロノスの広場が激しく揺れ動いた。ペイジンとニィの温かな魔力がクリスタの氷の月を押し返していたが、クリスタの瞳に宿る執念の光は消えていなかった。
クリスタ「甘いわ!私の絶望と孤独の深さは、そんな小娘の思いつきで覆せるほど浅くはないのよ!」
クリスタが杖の両端を強く握り締めると、凍てついた大気からさらなる極寒の奔流が噴き出した。砕け散りかけた氷の月が怨嗟の叫びを上げるように再構築され、無数の鋭利な氷柱となって全方位からペイジンへ襲いかかる。
ペイジン「う、うわわっ!すっごい力……!」
押し寄せる猛烈な冷気の圧力に、ペイジンの足が石畳を激しく擦りながら後退していく。全身から放っていた黄金の光が、氷の嵐に削られるように少しずつ小さくなっていった。
ニィ「ペイジンッ!押し負けちゃうニィ!このままだと……!」
ニィが必死にペイジンの服を掴みながら叫ぶ。ペイジンは踏ん張ろうとするが、絶対零度の吹雪は容赦なく吹き荒れ、視界を白銀一色に染め上げていく。息を吸うたびに肺が凍りつくような激痛が走り、ステッキを構える小さな腕が小刻みに震え始めた。
クリスタ「終わりよ!その無邪気な笑顔ごと、永久の氷棺へと沈みなさい!」
クリスタが杖を振り下ろすと、壁のような氷の津波が前方を完全に塞ぎ、ペイジンを背後へと激しく吹き飛ばした。
ペイジン「きゃあああっ!」
ペイジンは身体を丸めてニィを庇いながら後方へ大きく飛ばされ、背中から硬い冷気に激突した。そこは広場の端、高くそびえ立つクロノスの巨大な防壁の前だった。背後の石壁はすでにクリスタの冷気によって完全に凍結し、逃げ道のない氷の壁となってペイジンの退路を塞いでいた。
ニィ「ペイジン、大丈夫ニィ!?後ろはもう壁だニィ……!」
ニィが涙を浮かべながらペイジンの頬に手を当てる。冷たい氷壁を背にしたペイジンの前には、圧倒的な冷気を纏ったクリスタが、勝利を確信した冷酷な笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄ってきていた。
クリスタ「もう逃げ場はないわ。さあ、冷たく美しい静寂を受け入れなさい」
クリスタリアの杖先から放たれる絶対零度の魔力は、留まるどころか猛烈な勢いで膨れ上がっていた。凍てついたクロノスの広場には、大気そのものが軋みを上げて砕け散るような不気味な音が響き渡る。背後の防壁へと追い詰められたルーナは、荒い息を吐きながら必死にステッキを構え直した。
クリスタリア「無駄よ、ルーナ。その程度の光で私の氷が溶かせるものですか」
クリスタリアが冷酷に杖を一振りすると、地面を覆っていた霜が一斉に牙を剥き、巨大な氷の槍となって次々とルーナへ撃ち出された。鋭利な切っ先が空気を切り裂き、白い尾を引いて迫り来る。
ルーナ「そんなことない!どんなに寒くたって、諦めなければ温もりは届くんだから!」
ルーナは叫び、ステッキから放つ黄金の魔力を盾のように展開した。ガガガッ、と硬質な衝突音が連続して響き渡り、氷の槍が光の盾に激突して火花のように弾け散る。しかし、防ぎきるたびに手首へと伝わる凄まじい衝撃と冷気に、ルーナの小さな足は後方へとじりじりと押し戻されていく。
ニィ「ルーナッ!後ろはもうカチコチの氷壁だニィ!これ以上下がれないニィ!」
胸元でしがみつくニィが悲鳴を上げる。防壁に背中が触れるほどの至近距離まで追いやられ、逃げ場は完全に断たれていた。そこへクリスタリアは一切の容赦なく、天へと掲げた杖から吹雪の渦を解き放つ。
クリスタリア「終わりにしてあげるわ。永遠の静寂の中で、もう誰も傷つかない世界へ行きなさい!」
吹き荒れる暴風は視界を真っ白に染め上げ、ルーナの光の盾を外側から激しく削り取っていく。足元から這い上がってきた氷の蔦がルーナのブーツを縫い止め、逃走の自由を奪った。冷気の奔流は凄まじい圧迫感となって少女の身体を押し潰し、指先から感覚を奪い去っていく。
ルーナ「くっ……!負けない……絶対に負けないんだから!」
ルーナは必死に魔力を振り絞り、ステッキを前へと押し出そうとした。だが、クリスタリアは躊躇なく、ルーナへ向けて決定的な冷気の波動を浴びせかけた。今度はさらに深く、心ごと凍るような純白の氷だった。
吹き付けられた極寒の霧が、ルーナの胸元、腕、そしてステッキを瞬く間に覆い尽くしていく。光が急速に失われ、少女の身体は冷酷な魔法の結晶へと飲み込まれていく。
ルーナ「眠りも夢も、やさしさで溶けるはず!」
最後の力を振り絞ったルーナの叫びも虚しく、純白の氷は少女の輪郭を完全に包み込み、硬く冷たい魔法の結晶となって沈黙させた。広場には、吹き抜ける乾いた風の音だけが虚しく響いていた。
パキン、と耳を劈くような硬質な亀裂の音が響き渡った。冷酷な魔法の結晶に閉じ込められた直後、その内側から眩い黄金の閃光が幾筋も噴き出した。
ペイジン「おあああああっ!!!
こんな冷たい氷、ぜーんぶ割っちゃうんだからアアアっ!」
ドォン、という轟音とともに結晶が粉々に吹き飛んだ。ペイジンはスリーピィステッキを力いっぱいに振り抜き、閉じ込められていた氷の檻を一気に内側から粉砕した。無数の氷の破片がキラキラと広場に舞い散り、ペイジンは勢いよく着地する。
ニィ「さすがペイジンだニィ!でも油断しちゃだめだニィ、前を見てニィ!」
ニィが必死に叫んだ瞬間、舞い散る破片の隙間から猛烈な冷気の突風が吹き抜けた。クリスタは眉ひとつ動かさず、すでに次の一撃を放っていた。
クリスタ「砕いたところで無駄よ。私の氷は何度でも貴様を呑み込む!」
クリスタが杖を振るうと、砕け散った氷の破片が一瞬で鋭い無数の刃へと形を変え、嵐のようにペイジンへと殺到した。
ペイジン「わわっ、しつこいよーっ!」
ペイジンは身をよじり、ステッキを回転させて光の盾を張るが、次から次へと飛来する氷刃が激しくぶつかり、ガガガと火花を散らす。盾の魔力が削られ、衝撃が直接腕へと響く。
ニィ「ペイジン、足元だニィ!地面が凍りついてるニィ!」
ニィの警告に気づいた時には、石畳から這い上がってきた氷の棘がペイジンの足首を掠めていた。痛みに顔を歪めながらもペイジンは飛び退くが、背後の冷たい氷壁がすぐに迫る。逃げ場のない狭い空間で、クリスタの繰り出す変幻自在の氷魔法に防戦一方となり、じりじりと追い詰められていく。息を吸い込むたびに肺が凍りつきそうになり、ペイジンの額から冷や汗が滑り落ちた。
ペイジン「スリーピィシュートォ!!!」
追い詰められたペイジンは、背後の氷壁を蹴って力強く宙へと跳び上がった。スリーピィステッキを掲げ、全身の魔力を先端の星のモチーフへと一点集中させる。眩い黄金の光が膨れ上がり、それはまるで夜空を駆ける流星のような巨大な光弾となった。
ペイジン「いっけええええっ!」
空中で身を翻し、ペイジンはステッキをボールを蹴り飛ばすように豪快に振り抜いた。放たれた光弾は、凍てつく大気を真っ赤に熱しながら、螺旋を描いて猛烈なスピードでクリスタへと一直線に突き進む。
ニィ「いけえええっ!ペイジンのとっておきをお見舞いするニィ!」
ニィが胸元で身を乗り出して叫ぶ。光弾はクリスタが展開した氷の防壁を次々と粉砕し、激しい火花と蒸気を撒き散らしながらその懐へと迫った。
クリスタ「くっ……小癪な一撃を!」
クリスタは目を細め、咄嗟に氷の杖を両手で構えて分厚い絶対零度の氷鏡を展開した。衝突の瞬間、広場全体が白い閃光に呑み込まれ、耳を劈くような凄まじい衝撃波が巻き起こる。
轟音とともに爆風が吹き荒れ、クリスタの足が石畳を深く削りながら数メートル後方へと押し込まれた。強固な氷鏡には無数の亀裂が走り、結晶の破片がパラパラと零れ落ちる。
ペイジン「やったかな!?」
着地したペイジンが無邪気に身を乗り出す。しかし、立ち込める白い蒸気の向こう側で、クリスタは乱れた銀髪の隙間から、冷徹な青い瞳を鋭く光らせていた。
クリスタ「……いい一撃だったわ。けれど、私の絶対零度を貫くには、まだ温もりが足りないようね」
クリスタが低く呟き杖を一閃させると、残っていた氷鏡が砕け散り、さらに濃密な極寒の霧がペイジンを包み込もうと広がっていった。




