第37話 決断
絶対零度の冷気が吹き荒れる広場の中央で、無情にも氷のリボンがニィの細い身体を容赦なく締め上げていく。結晶化の侵食はすでに胸元を越え、銀色の冷たい輝きが少女の命を瞬く間に呑み込もうとしていた。
ペイジン「ニィッ!」
ペイジンの悲痛な叫びが、凍りついた大気を切り裂いて木霊する。目の前で失われゆく相棒の姿に、胸が引き裂かれるような衝撃が走った。
ニィ「助けてペイジンッ!わたし、凍りたくないニィッ!」
涙の粒さえも瞬時に氷の粒となって零れ落ち、ニィの震える悲鳴が途切れる。直後、硬質な音が響き渡り、彼女の姿は美しくも残酷な氷像となって完全に沈黙した。
クリスタ「無駄よ。私の氷は、この世界にあるすべての感情と苦しみを等しく眠りへ誘う。その子ももう、二度と目覚めることはないわ」
冷然と言い放つクリスタの背後で、天を突く巨大な氷の月が不気味に輝きを増していく。街全体を覆い尽くす吹雪は勢いを増し、石畳を削るような鋭い音を立てていた。
ペイジン「ニィを離してよ!そんな理由で、ニィの命まで奪わないで!」
クリスタ「奪うのではないわ。永遠に守ってあげるの。失う痛みを味わう前に、時を止めてあげるのが私の優しさよ」
ペイジン「それは優しさなんかじゃない!ただの逃げだよ!」
ペイジンはスリーピィステッキの両端を両手で強く握りしめた。回廊で出会ったフリスの言葉、温かな宮殿の思い出、そして何より、自分を信じて手を伸ばしてくれたニィの叫びが胸の奥で激しく燃え上がる。
ペイジン「苦しくても、悲しくても、人は明日へ向かって歩いていかなきゃいけないの!フリスだって、あなたにそんな世界を作ってほしくて消えたんじゃない!」
クリスタ「黙りなさい!あの子の何を知っているというの!」
激昂したクリスタが氷の杖を振り下ろすと、数十本に及ぶ巨大な氷柱が大地を裂いてペイジンへ殺到した。
ペイジン「知ってるよ!あの子は今でも、あなたの笑顔が見たいって願ってた!」
ペイジンの身体から溢れ出た純白の魔力が黄金の光を帯び、迫り来る氷柱の群れを一瞬にして光の粒子へと蒸発させる。ペイジンは大地を強く蹴り、氷像となったニィのもとへと一直線に突き進んだ。
ペイジン「絶対に連れ戻す!わたしたちの未来を、止まらせたりしない!」
光の刃をまとったステッキの切っ先が、ニィを縛る冷酷な氷のリボンへ向けて閃光のように振り下ろされた。
ペイジンの身体から溢れ出す黄金の光が、凍てついたクロノスの広場を真昼のように照らし出した。突き抜けるような明るい瞳には、怯えも迷いも微塵もない。彼女はぎゅっとスリーピィステッキを握り直し、満面の笑みを浮かべるように胸を張った。
ペイジン「あなたがどう思っても!私とニィの心は消えない!まっすぐ前を歩く!それが私の決断なんだからッ!」
天真爛漫な叫びとともに、ペイジンは軽やかに地面を蹴って宙へと跳び上がった。まるで花畑を駆け回る少女のように無邪気な動きでありながら、その一撃に込められた魔力は太陽のように熱く、眩しい。
クリスタ「な、何なのその力は!私の絶対零度をものともしないなんて!」
クリスタが放った吹雪の渦を、ペイジンはくるりと身を翻して軽快にすり抜けた。ステッキの先から弾けた光のリボンが、ニィを閉じ込めていた氷像をふわりと優しく包み込む。
パキン、と澄んだ高い音が広場に響き渡った。冷酷な氷のリボンが瞬く間に光の粒子となって弾け散り、拘束を解かれたニィが重力に従ってふわりと落ちてくる。ペイジンは満面の笑みで両手を広げ、落ちてきた相棒をしっかりと受け止めた。
ニィ「ふぇ……っ! ペイジン! 本当に助けてくれたニィ……!」
ニィは瞳に涙をいっぱいに溜めながら、ペイジンの首元へぎゅっと抱きついた。小さな身体を震わせ、温もりを確かめるように頬をすり寄せる。
ペイジン「えへへ、言ったでしょ! わたしがニィを置いていくわけないじゃん! ほら、もう寒くないよ!」
ニィ「うぅ、怖かったニィ……! もう二度と離れないニィ! ペイジン大好きニィ!」
ニィが涙声で甘えるように言うと、ペイジンはニィの頭を優しくぽんぽんと撫でて笑った。そして、いまだ信じられないといった表情で立ち尽くすクリスタへ向かって、ステッキを元気いっぱいに突きつける。
ペイジン「さあクリスタ! 意地悪な氷の魔法はおしまいだよ! わたしとニィのあったかい魔法で、あなたの心の寒さも全部ポカポカに溶かしちゃうんだから!」
クリスタは力なく氷の杖を下ろし、冷え切った自らの両手を見つめた。その瞳には、かつての冷酷さはなく、世界から置き去りにされたような深い孤独の色が揺らめいている。
クリスタ「何が違うって言うの?この世界が私を拒んでるのかしら?」
ぽつりと零れ落ちたクリスタの呟きは、凍てつく風にかき消されそうになるほど儚かった。ペイジンは抱きしめていたニィをそっと腕の中に落ち着かせると、とてとてと屈託のない足取りでクリスタの前へと歩み寄った。その顔には、怒りのかけらもない、太陽のようなとびきりの笑顔が咲いている。
ペイジン「世界が拒んでるなんて、そんな難しいことないよ!ただね、立ち止まっちゃうと寒くなっちゃうでしょ?走ったり笑ったりしてると、体がぽかぽかしてくるのと同じだよ!」
ペイジンはスリーピィステッキをくるりと回し、胸の前で両手を広げてみせた。無邪気で、なんの疑いも持たない純粋な言葉に、クリスタは目を丸くして息を呑む。
ニィ「そうだニィ!ペイジンの言う通りだニィ!悲しいからって全部を凍らせて止めても、心はあったかくならないニィ!私だって、ペイジンがぎゅってしてくれたから、こんなにあったかいニィ!」
ニィはペイジンの腕の中から身を乗り出し、一生懸命にクリスタへ向かって小さな手を広げた。二人の放つ無垢な熱気と温もりが、クリスタの周囲に張り巡らされていた氷の結界を、音もなく柔らかに溶かしていく。
クリスタ「走ったり、笑ったり……。そんな単純なことで、この胸の痛みは消えないわ」
ペイジン「消えなくたっていいんだよ!痛かったら、痛いよーって泣けばいいの!そしたらわたしが、ニィと一緒においしいお菓子をいっぱい持ってきてあげるから!ね、だからもう、世界を凍らせてひとりぼっちになるのはおしまいにしよ!」
ペイジンは悪戯っぽく笑いながら、躊躇うことなくクリスタの冷たい手を取った。小さな温かい手のひらが重なった瞬間、クリスタの瞳から、凍ることのない大粒の涙が零れ落ちた。
クリスタ「貴様アアアアアアア!」
クリスタの絶叫とともに、凍てつく広場へ突如として規格外の暴風が吹き荒れた。足元から巻き上がった無数の氷刃が白い竜巻を形成し、視界のすべてを純白の絶望で埋め尽くしていく。手を取ろうとしたペイジンの温もりを拒絶するかのように、クリスタの全身から噴き出した絶対零度の冷気が大気を軋ませ、巨大な氷の嵐となって二人を呑み込んだ。
ペイジン「きゃああああ!」
あまりの風圧と突き刺すような冷気に、ペイジンは悲鳴を上げて吹き飛ばされそうになる。踏ん張ろうとする小さな足が石畳を滑り、手にしたスリーピィステッキが激しい吹雪の中で激しく揺れた。
ニィ「ペイジンッ!しっかり掴まるニィ!吹き飛ばされちゃうニィ!」
ニィは必死に身を乗り出し、小さな両腕でペイジンの首元へしがみついた。凍えるような冷風がニィの長い髪を激しく乱し、冷たい氷の粒が二人の柔らかな肌を容赦なく叩きつける。
クリスタ「生半可な優しさで私を救えるなどと思うな!私はフリスのいない世界など認めない!すべて凍れ!時も命も心も、永遠の氷の中で永久に眠りにつくがいい!」
氷の嵐の向こう側で、クリスタの瞳は狂気と悲哀に染まり、掲げられた氷の杖が不気味な青白い閃光を放つ。広場の建造物が次々と凍結し、逃げ場のない冷気の檻が急速に狭まっていく。息を吸い込むことすら激痛を伴う極寒の渦の中で、ペイジンはぎゅっと目をつぶり、必死にステッキを胸元へ引き寄せた。
ペイジン「うう……っ!すっごく冷たい!でも、こんなのへっちゃらなんだから!」
ペイジンは強烈な向かい風に抗いながら、力いっぱいに瞼を開いた。凍りつくような吹雪の中にあっても、その瞳は天真爛漫な輝きを一切失っていなかった。むしろ、目の前の頑なな心をどうにかして温めてあげたいという純粋な想いが、小さな胸の中で真っ赤な太陽のように激しく燃え上がっていく。
ニィ「ペイジン、すごい魔力だニィ!私の魔力も全部あげるニィ!あんな寂しい吹雪、ふたりで吹き飛ばしちゃうニィ!」
ニィがペイジンの胸元で強く念じると、ニィの身体から淡い桃色の光が溢れ出し、ペイジンの黄金の魔力と美しく溶け合っていった。二人の絆が重なり合い、凍てつく吹雪の真ん中で、眩い光の花が咲き誇るように巨大な熱量を放ち始める。
ペイジン「ありがとうニィ!よーし、いっくよー!こんな寒い吹雪、わたしたちのポカポカパワーで全部春にしちゃうんだから!」
ペイジンは無邪気な笑顔を浮かべ、嵐の風圧を真っ向から受け止めながら、スリーピィステッキを天空へと高々と掲げた。
クリスタ「ダメだ、お前はここで、死ねエエエエ!」
狂気と絶望に染まったクリスタの絶叫が、吹き荒れる吹雪を引き裂いた。頭上の巨大な氷の月が不吉な赤紫色に染まり、絶対零度を超えた破滅の冷気が広場全体を押し潰すように降り注ぐ。
クリスタ「私に妹がいた恨みが何になるんだあああ!」
悲痛な叫びとともに、クリスタの魔力が暴走し、周囲の空間そのものが凍りついてひび割れていく。その絶叫を聞いた瞬間、ペイジンの脳裏に、回廊の白い宮殿でフリスが寂しそうに語っていた記憶が雷のように駆け巡った。
ペイジン「あの記憶?まさかッ!」
ペイジンはハッと目を見開き、ステッキを握る手に力を込めた。フリスが大切に抱えていた寂しさ、そして妹を失ったクリスタが抱え続けてきた本当の心の傷が、点と点で完全に繋がったのだ。
ニィ「ペイジン、何に気づいたニィ!?このままだと空間ごとカチコチに凍らされちゃうニィ!」
ニィが吹き飛ばされそうになりながら、必死にペイジンの胸元にしがみついて叫ぶ。ペイジンは激しい向かい風に髪をなびかせながらも、恐れるどころか、いたずらっぽくも確信に満ちた天真爛漫な笑顔を浮かべた。
ペイジン「ニィ、わかったよ!クリスタは妹を取られたことが悔しいんじゃない!本当はね、フリスに『大好きだよ』って言えなかったことを、ずーっと後悔して泣いてるだけなんだよ!」
ニィ「ええっ!?そういうことだったのかニィ!?」
ペイジンの言葉が届いた瞬間、クリスタの動きがピクリと止まり、その瞳が激しく揺れ動いた。痛いところを突かれたように顔を歪め、杖を振り乱す。
クリスタ「黙れ黙れ黙れ!お前に私の何がわかる!そんな簡単な言葉で、私の氷が溶けるものか!」
ペイジン「簡単だから届くんだよ!よーし、クリスタの意地っ張りな氷、ぜーんぶ溶かしてフリスのところまで届けてあげる!いっくよー、ニィ!」
ペイジンはぎゅっとスリーピィステッキを抱え込み、全身の魔力をハートの形にして解き放つ準備を整えた。




