第33話 現実と冥界の間の廊下
それでも、背景に広がっているのはいつもの街だった。
見慣れた石畳。港へ続く坂道。遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
みんながいる街。
けれど、ここは現実ではない。
どれほど温かく見えても、どれほど懐かしく感じても、すべては生と死の間に作られた仮初めの景色だった。
そんな街角に、一人の少女が立っていた。
淡いピンク色の髪を二つに結び、真っ白なワンピースを風に揺らしている。
幼い顔には曇りのない笑顔が浮かび、その姿は、この先に待つ運命など何も知らないように健気で明るかった。
それは、とある彼女の生前の姿だった。
女の子「お姉ちゃん!あそぼッ!!!」
少女はペイジンを見つけるなり、嬉しそうに駆け寄ってきた。
ペイジン「君は……ッ?」
ペイジンには、その少女が誰なのか分からない。
どこかで会ったような気もする。
けれど、記憶を辿っても、その名前も顔も浮かんではこなかった。
フリス「私はフリス!よろしくね!!」
フリスは白いワンピースの裾を揺らしながら、元気よく手を差し出した。
その笑顔には、今のフリスからは想像もできないほど真っ直ぐな無邪気さが宿っていた。
ペイジン「フリス……?」
フリス「うん!ねえ、一緒に遊ぼうよ!あっちに綺麗なお花がいっぱい咲いてるの!」
フリスはペイジンの手を取ると、答えを待たずに街の奥へ走り出す。
ペイジン「ちょ、ちょっと待ってよッ!」
少女の手は温かかった。
この場所が現実ではないと分かっているのに、その温もりだけは不思議なほど本物のように感じられた。
フリス「私ね!どこまでも冒険するのが大好きなんだー!!」
フリスはペイジンの手を引いたまま、石畳の坂道を元気いっぱいに駆け下りていく。淡いピンク色のツインテールが弾むたび、白いワンピースの裾もふわりと揺れた。
ペイジン「冒険……?」
フリス「うん!知らない街も、遠い山も、海の向こうも!まだ見たことのないものを、ぜーんぶ見てみたいの!」
フリスは足を止めると、両手を大きく広げて空を見上げた。
フリス「怖いことがあってもね、その先にすっごく綺麗なものがあるかもしれないでしょ?」
ペイジン「……君、ずいぶん元気なのね。」
フリス「えへへ!元気だけは負けないもん!」
その笑顔はあまりにも明るく、ペイジンにはこの少女が死者の姿だとは到底思えなかった。
フリス「ねえ、お姉ちゃんも一緒に冒険しようよ!」
ペイジン「うちが……?」
フリス「そう!ここなら、どこまで行っても怒られないし、疲れないし、ずっと遊んでいられるんだよ!」
フリスは無邪気に笑いながら、再びペイジンの手を強く握った。
けれど、その言葉だけが、この優しい街には似合わないほど冷たく響いた。
フリスの正体を知る者は、ここにはいなかった。
ペイジンにとって彼女は、ただ元気で人懐っこい、淡いピンク髪の女の子にすぎない。
二人は港町を抜け、その先に広がる草原へ向かうことにした。
石畳の道を下り、潮風の吹く通りを駆け抜ける。港には小さな船が揺れ、海面には現実ではないほど眩しい光がきらきらと反射していた。
フリス「早く早くー!!草原まで競争しよッ!!」
ペイジン「ちょっと待ってよ!そんなに走ったら転ぶわよッ!」
フリスは笑いながら振り返り、そのまま港町の外へ続く坂道を駆け上がっていく。
やがて建物が途切れ、二人の目の前に果ての見えない草原が広がった。
風に揺れる草は波のようにうねり、遠くの丘には小さな花々が星のように散らばっている。
フリス「わあああッ!!すっごく広い!!」
少女は嬉しそうに草原へ飛び込み、両腕を大きく広げながら走り出した。
ペイジンもその後を追いながら、胸の奥に残る小さな違和感を振り払うように、草原の風を浴びていった。
フリス「私はね、今でも、この時も、あの時も、ここが好きなんだー!!!」
フリスは草原の真ん中で大きく両腕を広げ、身体いっぱいに風を受けた。淡いピンク色のツインテールがふわりと舞い、白いワンピースの裾が緑の波の上で軽やかに揺れる。
ペイジン「今でも……?あの時も……?」
聞き慣れない言い回しに、ペイジンは僅かに首を傾げた。
フリス「うん!ずっとずっと好きなの!」
フリスは振り返り、何も隠していないような明るい笑顔を浮かべる。
けれど、その言葉には幼い少女には似つかわしくない、長い時間を知っているような響きが混じっていた。
ペイジン「君、前にもここへ来たことがあるの?」
フリス「どうだろー?覚えてないかも!」
フリスは楽しそうに笑いながら、草原の奥へ駆けていく。
フリス「でもね!ここに来ると、すっごく懐かしい気持ちになるんだー!」
ペイジンはその背中を見つめた。
初めて会ったはずなのに、なぜかずっと昔から知っているような、不思議な感覚が胸の奥へ残っていた。
そして二人が草原の先へ辿り着くと、フリスは勢いよく丘を駆け上がり、その頂上で両腕を大きく広げた。
フリス「着いたー!案内するねッ!私の家だよ!!!」
ペイジン「え……?」
丘の向こうに姿を現したのは、とても大きな白い宮殿だった。
何本もの細い塔が空へ伸び、真っ白な壁は陽の光を受けて淡く輝いている。広い庭には色とりどりの花が咲き、宮殿へ続く長い階段の両脇には、透き通る水の噴水が静かに流れていた。
ペイジン「これが……君の家なの?」
フリス「うん!広いから、走り回っても全然怒られないんだよ!」
フリスは嬉しそうに笑うと、ペイジンの手を引いて宮殿へ向かう。
その姿はどこまでも無邪気だった。
けれど、白い宮殿を見上げた瞬間、ペイジンの胸には説明のつかない冷たい違和感が浮かんでいた。
フリス「ほら!あがって!!!スプライト好きなんでしょ?飲むー?」
フリスは大きな扉を押し開けると、白い宮殿の中へ元気よく駆け込んでいった。磨かれた床には窓から差し込む光が反射し、長い廊下の奥まで淡く輝いている。
ペイジン「なんで知ってるの……ッ?」
足を止めたペイジンの声に、フリスはきょとんとした顔で振り返った。
フリス「え?だって好きそうだったから!」
ペイジン「そんなので分かるわけないでしょ……。」
フリス「分かるよ!ここではね、好きなものも、会いたい人も、ぜーんぶ分かるんだよ!」
そう言いながら、フリスは近くのテーブルから冷えたスプライトの瓶を取り上げる。表面には細かな水滴が浮かび、現実ではないはずなのに、炭酸の弾ける音まで妙にはっきり聞こえた。
フリス「はい!お姉ちゃんの分!」
ペイジンは差し出された瓶を見つめたまま、すぐには受け取れなかった。
この少女は、どうして自分の好みを知っているのか。
そして、なぜこの宮殿には自分が欲しいものが最初から用意されているのか。
ペイジン「……ここ、本当に君の家なの?」
フリス「もちろんだよ!」
フリスは何の迷いもなく笑った。
けれど、その笑顔の奥に、ペイジンはまた小さな違和感を覚えていた。
フリス「あ!そうだ!テレビでも見ようか!名前は……あれ?確かペイジンちゃんだっけ?」
ペイジン「そうだよー?」
フリス「あ!そういや、86伝説の新シリーズ、今日からだったね!!一緒に見ようか!!」
ペイジン「86伝説?なんで私の好きなマンガやアニメを……?」
フリスは答えず、楽しそうにソファへ飛び乗ると、テーブルの上にあったリモコンを手に取った。
ピッ。
白い宮殿の壁に埋め込まれた巨大なテレビが明るく点灯し、派手なオープニング映像とともに、熱狂的な歓声が部屋いっぱいへ響き渡る。
若林「全世界、全国のエーペックスカップファンの皆様!!お待たせしました!!!実況の若林ですッ!!!!」
会場に設置された巨大なスピーカーから、若林の張りのある声が爆音で鳴り響いた。
その声に呼応するように、集まった何万人もの観客から地鳴りのような歓声が上がる。
若林「ついに登場!エーペックスカップ最難関コースッ!“エンジェル46”開幕ですッ!!!!」
画面には山間部を貫く国道と、スタートを待つ無数のマシンが映し出されていた。
若林「ルートは簡単!R49争覇戦ッ!!R6との交点となる福島県いわき市上矢田交差点から、R7、R8の交点に位置する新潟市中央区までのR49を争覇しますッ!!!!」
モニターには、福島から新潟へと続く一本の長い、長い軌跡が映し出される。
市街地、峠、そして高速区間。あらゆる舞台を凝縮したこの道こそが、今回の戦場だった。
若林「早速予選からスタートしていきます!!!!!予選は例年通り、1人1台ずつ実施して参ります!!よろしくお願いします!!!」
スタートラインには、予選一番手のマシンが静かに待機している。
しかし、低く震えるエンジン音からは、今にも飛び出そうとする激しい力が伝わってきた。
ガソリンと熱気が混ざり合った独特の緊張感が、会場全体を支配していく。
若林「泣いても笑っても、ここからが本番!!誰がこの長い道のりを最速で駆け抜けるのかッ!?運命のカウントダウンが始まります!!!」
ペイジン「わああ……!本当に今日からだったんだ!」
ペイジンが思わず画面へ身を乗り出す。
その隣で、フリスは内容をすべて知っているような顔で楽しそうに足を揺らしていた。
若林「早速ですが、ゲスト解説員はふたりいますが、予選ではそのうちの1人をご紹介したいと思います。ペイジンさん、どうぞよろしく……。」
若林が隣へ顔を向ける。
そこには鮮やかなピンク色の髪をショートロングのお団子頭に結い、雅な和風の服を纏った少女が座っていた。
彼女が動くたびに、放送席には濃厚な蘭花の香りが広がり、周囲の空気まで甘く塗り替えられていく。
ペイジン「はーい!謎の美少女ちゃんのペイジンちゃんだよー!!よろしくねー☆」
画面の中のペイジンは、カメラへ向かって愛嬌たっぷりにポーズを決めた。
華やかな和服に包まれた姿は強烈な存在感を放ち、モニターを見つめる観客たちの視線を一斉に集めている。
宮殿のペイジン「……は?」
ペイジンの笑顔が固まった。
フリス「ペイジンちゃん出てるね!!」
ペイジン「いやいやいやいやッ!!なんで私が解説席にいるのよッ!?こんなの知らないんだけど!!」
ペイジンは慌ててテレビへ駆け寄り、画面の中で笑っている自分の顔を凝視する。
髪型も、声も、表情も、間違いなく自分だった。
だが、そんな番組へ出演した記憶など一切ない。
ペイジン「これ、まだ放送されてない新シリーズなんでしょ……?それなのに、どうして私がいるの……ッ?」
フリス「ここではね、見たいものなら何だって見られるんだよ!」
ペイジン「それだけじゃ説明になってないよ……。」
※この後の86伝説のお話でマジでこのお話あります!
フリスはスプライトを飲みながら、無邪気に画面を見つめている。
その笑顔に悪意はない。
それでもペイジンは、白い宮殿へ入ってから何度も感じていた違和感が、さらに強くなっていくのを感じていた。
この場所は、ペイジンの好きなものを知っている。
それどころか、まだ知らないはずの未来まで見せようとしていた。
フリス「あー!そうそう、お風呂もう沸かしてたの!今日はローズのバブ入れたから、楽しんでねー!!」
ペイジン「お風呂まであるの……?」
フリスに背中を押され、ペイジンは宮殿の奥にある浴室へ案内された。
白い扉を開けると、そこには広々とした大理石の浴槽があった。湯気の向こうには淡いピンク色のお湯が満ち、ローズの甘く華やかな香りが浴室全体へ広がっている。
湯船の表面には細かな泡と薔薇の花びらが浮かび、見た目はどこからどう見ても普通のローズ風呂だった。
ペイジン「本当に普通のお風呂ね……。」
フリス「でしょー!ゆっくり入って、疲れを取るといいよ!」
ペイジンは浴槽の縁へ近づき、指先でお湯へ触れる。
ペイジン「あったかい……。」
氷の棺に閉ざされていた寒さが嘘だったかのように、柔らかな温もりが指先から身体へ染み込んでいく。
フリス「ここなら寒くないよ。痛いことも、怖いこともないからね!」
ペイジン「……ここなら?」
フリス「あっ!何でもないよー!」
フリスは元気よく笑うと、着替えと大きな白いタオルを棚へ置いた。
フリス「じゃあ私、外で待ってるね!のぼせるまで入っちゃ駄目だよー!」
バタンッ。
扉が閉まり、浴室には湯気とローズの香りだけが残る。
ペイジンは静かな湯船を見つめた。
普通のお風呂。
それなのに、お湯の表面へ映った自分の姿だけが、一瞬だけ氷の中で凍りついたように見えた。
ペイジン(何、あの子……すごく甘い匂いするし……ッ。でも、どこか元気というか……。)
湯気の向こうで、フリスが去っていった扉を見つめる。
白いワンピースから漂っていたのは、綿菓子や冷たいミルクを思わせる柔らかな甘い香りだった。けれど、その甘さとは裏腹に、フリスの笑顔には眩しいほどの生命力がある。
ペイジン(ずっと笑ってるし、知らない相手にもあんなに懐いて……変な子。)
そう思いながらも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、あの元気な声が聞こえなくなった途端、広い宮殿が少しだけ寂しく感じられる。
ペイジン(でも……どうして私の好きなものを、あんなに知ってるんだろう。)
ローズの湯へ指先を沈めると、温かな波紋が静かに広がった。
その奥で、ペイジンの胸に残った違和感だけは、消えずに揺れていた。




