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きみのこえ  作者: はんどろん
10.その声で呼ぶ
63/63

63.

 暗闇で小さな女の子が両腕で顔を拭いながら泣いている。

 これは誰だったっけと、スピカは目の前の少女の小さな頭を見下ろした。

 彼女はスピカの存在に気づいているのかいないのか、泣き止む気配はない。けれど暫くすると、片腕で顔を隠したまま、もう片方の手で何かを差し出した。スピカはほとんど無意識に両手で受け取ると、それを見た。

 銀色の鍵だ。スピカは当たり前の様にそれを首に下げた。

 どこからか甘い香りがする。スピカはその正体を確かめようと暗闇に目を凝らした。キラリと何かが光る。なぜかその光を追わなければいけないと焦燥感に駆られ、当たり前の様にまだ泣き止まない少女の手を掴むと歩き出した。

 柔らかな風が頬をくすぐると同時に甘い香りを運んできた。どうしてか急にスピカは泣き出しそうになった。まだ泣き止もうとしない少女に釣られたのだろうか。それとも、この暗闇が寂しさを掻き立てるからか。

 追っても追っても光に辿り着くことはできない。ふいに、手を引いていた少女が立ち止まった。それに引かれてスピカも立ち止まり振り返ると、少女の姿はもう消えていた。かわりに、いつの間にか手の中には小さな山吹色の花が乗っていた。

 再び前を向くと、よく見知った少年が透き通った青い目でじっと見つめてきていた。光の正体は彼の髪だったのかと気づく。

 スピカはそっと彼に近づくと、手の中にあった花を手渡した。すると、彼の頬を一筋の涙が伝った。

 ーースピカ。

 その声は微かに耳の中で響いた。

 水の中に落ちてしまった様に視界がぶれる。暫くしてはっきりとしてきた視界の先で、地面に仰向けに倒れた少女とその前で一人の少年が俯いていた。彼の白い衣装は所々赤黒く汚れている。よく見れば、寝そべる少女の頭からたくさんの血が流れ、地面を黒く濡らしていた。松明を手にした人々が彼らを中心にして輪を作り、その様子をじっと見守っている。

「久しぶり、スピカ」

 間近で聞こえた声にスピカが顔を上げれば、金髪の幼い少年が悪戯気な表情で顔を覗き込んできた。その姿は倒れた少女の前で俯く少年よりも幼く、けれども生き写しとも言えるものだった。それでも彼らは同じで違う存在なのだとスピカは思い出す。たとえその姿や耳によく馴染んだその声が彼と同じものだったとしても。

 スピカは首を傾げた。そうか、彼と会うのは久しぶりのことだったかと思い出す。

「死んじゃったの?」

 目の前の光景を眺めながらスピカが無感動に訊ねると、彼は小首を傾げた。

「ああ、そうなるかもしれない」

「そう」

「あれを欲しいと願う人間が邪魔なスピカを殺そうとした。今だったらもうスピカが死んでも大丈夫だろうと考えて」

「そっか……」

 相槌を打ってスピカは視線を落とした。頭が鈍く痛む気がするが、ぼんやりとしたものでよく分からない。ただ彼が言っていることはなんとなく理解できた。いろんな人にとって、スピカはもう用済みだったということだ。かみさまのスピカへの執着がなくなれば、スピカはただの邪魔な存在になってしまう。かみさまをいつまでも独り占めにはできない。初めから分かっていたことだ。

 スピカの薄い反応に彼は不可解そうに顔を顰めた。

「死にたいのか? あれに会えなくなるぞ」

 先ほどと同じ悪戯気な表情を取り戻すと彼は訊いたが、それに対するスピカの答えは否だった。

「死にたい訳じゃない。ただ……あの子の生きる理由が、スピカになればいいのになと思うだけ」

 意味が解らないと彼は言うと、不思議そうにスピカとその後ろに広がる光景を交互に見比べた。

 誰一人動かないその光景は時間が止まったかの様だったが、炎の揺らめきがそうではないことを物語っていた。スピカはその中の一人を見つめる。

「かみさまには、多分解らないよ」

 呟く様に言うと、幼いかみさまはどこか不満げな表情を浮かべた後一転、微笑んだ。

「誰が泣いているか分かるか、スピカ」

 幼いかみさまがそう言うと、再び先ほどの少女の泣き声が響いてきた。その瞬間に暗闇に浮かぶ光景もぶれ、頭の中からも薄れてしまう。その時には今までの会話の内容も頭の隅へと追いやられていた。

「あれは……いもうと? ことこ の、妹」

 そうだ、あれは妹だ。あの日置いてけぼりにしてきてしまった、ことこの小さな妹。どんなに心細かったことだろう。そのままいなくなってしまった姉に、どれだけの不安や悲しみを感じたのだろう。ことこの母親も父親もそうだ。いなくなってしまった娘にどれだけ嘆き悲しんだのだろうか。今まで目の前のことに集中することで、考えない様にしてきた考えが頭を埋める。強い罪悪感や寂しさがぶり返す。

「そうか、ことこ の妹か……お前の耳にそう聞こえるなら、そうなんだろう」

「行かなくちゃ。かわいそう」

「だったら行けばいい。お前が選んだ」

 そう言って微笑むと、スペルカは人差し指を暗闇に向けた。その先にはぽっかりと穴が空いた様に丸い夕暮れが見えた。そこで袖で顔を拭いながら泣いている小さな少女が見えた。ことこ とお揃いが良いと言って母に買ってもらった赤いワンピースを着た、小さな妹の姿が。

 ことこ は小さく頷くと、夕暮れに立ち竦む妹の元へ駆けた。けれど、あと少しで妹のところへ辿り着くというところで、暗闇からでは目も眩みそうな橙に疑問が湧く。

 ことこ が妹の元へ行くと、今度はあの男の子がひとりぼっちになってしまうのではないだろうか。あの子には悲しい思いや寂しい思いをして欲しくないし、本当は、幸せになって欲しいと願っているのに。誰よりも大切にしたいと思っていたのに。

 そうだ、だからその自分の想いを捨てきれなくてどれだけ苦しくても、許される限りは一緒にいようと思ったのだ。迷って、後悔すると解っていながらも自分で選んで、決めたこと。嘘を吐いて、自分を偽り続けてでも叶えようとした願いだ。

 ことこ の手が小さな手に辿り着く。強い風が吹いて、黄色い花が舞った。




 ぽたぽたと頬に何かが落ちてくる。

 雨かなと思ったけれど、雨にしては温かい。ガサガサとあちらこちらから音が響いている。スピカはゆっくりと瞼を開くと、目の前に見えた青に目を瞬かせた。その間にも温かい水は頬を濡らしていく。

「トト」

 ほとんど無意識にスピカは目の前の男の子の名前を呼んでいた。

「トト、どうしたの……泣かないで」

 掠れた声でそう言って、スピカは手を伸ばすとトトの頬を撫でた。ゆらゆらと揺れる灯りで分かりにくいが、彼の頬や前髪は赤く汚れていた。撫でるとその赤がスピカの手の平にもこびり付く。顔を歪めて涙を流すトトはそれでもやっぱり綺麗だとずきずきと酷く痛む頭でスピカは思った。

 トトはそのままスピカの背に腕を回すと、細い肩に顔を埋めた。

 ぽたぽたと草を叩く音が耳元で響く。どうやら本当に雨が降ってきたらしい。

 徐々に頭もはっきりとしてくると、スピカは自分が草の上に寝転んでいることや周囲がやけに騒がしいことに気づいた。周りを見渡そうとして頭の痛みに顔を歪める。するとふと影が覗き込んできた。逆光で誰か分からなかったが、目を凝らしてみればオスカだと気づいた。

 一体どういう状況なのだろう。スピカはトトの背に手を伸ばすと頭をあまり動かさない様にして横に視線を向けた。

「ーー生きてるぞ! 運べ!」

 誰かがそう叫んで、数人の男たちが何かを持ち上げるのが視界の端に映る。

 彼らが運んでいるものの正体に気づいたスピカは息を呑んだ。金色の髪の少年だ。閉じられた目や鼻、口から血を垂れ流している。だらんと下がった手の平は自身のものか血塗れだった。他にも少年と同じ様な姿で運ばれる数人の男たちがいた。

「トト、トト……なにがあったの」

 肩に顔を埋め動こうとしないトトを抱きしめる様なかたちでスピカは尋ねた。

 僅かな間を空けて顔を上げたトトは、スピカの額に自分の額を合わせた。その目にはもう涙の気配はなかった。焦点も合わない様な目の前で、暗闇を映した青い瞳が揺れるのがぼんやりと見えた。

「君は、騙されたんだよ……スペルカだと思ったんだろう。スペルカは僕なんだ。僕とスペルカが離れるなんて、誰がそんな馬鹿なこと言ったんだ」

 そう言って血に濡れた手で白い頬を撫でる。

「君はあと少しで殺されるところだった。僕から離れたところで、知らない人間に。ここの水や空気が少しでも君の身体に馴染んでいたから。じゃないと、死んでいたんだ……」

 最後の方は絞り出す様な声だった。頬に触れている手が僅かに震えていることに気づき、スピカは自分の手を重ねた。その手が撥ね除けられないと分かった時、スピカは顔を歪めた。視界が滲む。

 正体が分かっていても、トトにとってスピカの存在は必要なのだろうか。いなくなることが怖いと泣いてくれたのだろうか。だとしたら、それだけで十分だ。そう思えるほどにもう心の中は毒で満たされてしまっている。ほんの少し垣間見た違う未来への希望も掻き消えてしまうほどに。

「ごめん……ごめんね、トト」

 口から出た謝罪は、心配をかけたからだけではなく、自分がいなくなったらトトは悲しむのだと知れた時の仄暗い感情の後ろめたさからだった。

 もしかすると、トトは再び目の前でスピカと同じ姿の少女が死んでしまうのを昔の光景と重ねて恐怖を感じただけなのかもしれない。だとしたら、その感情は今のスピカに向けられたものではない。それでも、かつての少女がいない今、その感情の向かうところは喩え別ものでも一つしかないのだ。

 松明の灯りを映したトトの瞳が僅かに揺れる。その様子を見たスピカは、先ほど夢で見た夕焼けの光景を思いだした。これからもきっと何度でも思い出すだろう。置いてけぼりにしてしまった小さな妹に、家で帰りを待っているだろう両親にまだ小さな愛猫。ばいばいと手を振った友達たちの笑顔に夕日に沈む光景。思い出しては胸を締め付ける、もう二度と手に入らないもの。それをたとえ目の前の子が奪ったのだとしても、もうそれでも良い。最後はスピカが選んだのだから。

「トト、大好きだよ。トトが、ここにいて良いと言ってくれるなら、スピカはここにいられるの」

 スピカがそう言うと、トトはまた泣きそうに顔を歪めた。どこか苦しげなその表情に、スピカは目を細めた。

 



 雨はあっという間に土砂降りに変わった。

 過去、月祭りの間に雨など降ったことはなかったので、村人も祭りに来ていた人々もそれには酷く驚き、そして怖れた。

 祭りの最中にその中心であるトトが立ち去ったことで、ことのあらましは瞬く間に知れ渡ったのだ。かみさまの怒りを買ってしまったのだと誰もが思った。不変であることを願われ続けていたことに、とうとうひびが入ってしまったのだと。

 森の木々や地面を打つ雨の音を聴きながら、スピカはぼんやりと窓の外を眺めていた。

 あの後、傷の手当をされたスピカはおばあちゃんの家へ運ばれた。わけも分からない内に意識を失ってしまったので知らなかったが、何度も頭を殴られ随分と酷い状況だった様だ。今でも酷く痛む頭はこれでも大分回復してのことらしい。どれだけ酷かったのかは怖くて訊くことはできなかった。ただ随分と血を流してしまったのだということは今の状態から分かった。いくらトトでも、流れてしまった血を元には戻せなかったのだろう。

 今回のスピカの迂闊な行動で、一緒にいた四人には罪悪感を抱かせてしまった。トトの傍にいるということは、スピカもただの村人ではいられないのだ。何年も一緒にいて、ようやくそのことが理解できた。今までは真綿に包まれた様な状況だったが、これからは少し違う。状況は刻々と変化していっているのだ。それは以前死んでしまった老人の時に理解しておくべきことだった。

 トトだけではなく、スピカにもずっと監視と警護役が付けられていたらしい。それでも月祭りの間はイーノスもいるということで人手の足らない祭りの方にまわされていた様だ。

「怖くなったか?」

 扉横に凭れ掛かったイーノスが、スピカと目も合わさずに訊ねた。

「こわいけど、スピカはトトと一緒にいる。もうそれは変わらないよ」

 そう言ってから、スピカは小首を傾げて苦笑した。

「前にね、偉いおじいさんが言ってたの。トトはまやくみたいな存在だって。その時はよく意味が解らなかったけど、今ならちょっと解るよ。かみさまが好きでどうしようもない気持ち……だからきっと、トトは皆と同じになっちゃったスピカをつまらなく感じたんだ。それでもスピカが本物だったら違ったかもしれないけど」

 イーノスの眉が顰められるのを見たスピカは、視線を落とした。

「スピカは、偽物のスピカのままで生きていく。これまでだってそうだったんだから。それに、トトが泣いてくれたんだよ。だから、スピカのままでいられるの」

 これはスピカを満たした毒だ。

 皆と違う自分を演じてきた。本当は解らなかったなんて嘘で、最初から老人の言うことも理解できていた。守らないといけないものはたくさん。絶対に破ってはいけないこと。村人たちが望み、いつしかそれはスピカの願いにもなっていた。

 スピカは死んでトトの一番の特別になった。それを偽物のスピカが引き継いだ。感情はすり替わり続ける。もうトト自身、自分がどうしてそこまでスピカに執着しているか解らなくなっているのではないだろうか。

 部屋の扉が叩かれて、イーノスが開けると入ってきた人にスピカは笑みを浮かべた。

「傷はまだ痛む?」

「ちょっとだけ、でももう大丈夫だよ。ありがとうね、トト」

 トトが寝台横の椅子に腰掛けると、イーノスは黙って部屋を出て行った。

「お祭りはどうなったの?」

「僕がいなくちゃ一旦中止だろうね」

「そう……」

 スピカがそう呟くと、その後は部屋には雨音だけが響いた。

 前例のない月祭りの中止に、村人も外からやってきた人々も驚愕しているかもしれない。大事に至らなかったのだから、トトは祭りに戻るべきだ。けれどこんな状況にありながら、スピカの心は穏やかだった。

 嘘がスピカを形作ってきたのなら、嘘を吐き続けよう。それはきっと、今となってはもうそんなにも悪いものではない。

「トト、スピカが言葉を忘れちゃった時のこと覚えてる? トトが何度もスピカ、スピカって呼んだの」

 それは初めてトトと出会った時のことだった。全く見知らぬ土地で言葉の通じない見知らぬ人たちに囲まれて、長かった髪を切られた ことこに、涙を流しながらその名前を呼んで縋り付いた男の子。人の弱い感情の波に呑まれて緩んだ心に滲んだ小さな不安。

 言葉を知れば知るほどにその状況に希望を断たれていった。おばあちゃんは言った。スペルカ様は悪戯好きでとても寂しがりなかみさまなのだと。

 月祭りの時の音楽や舞は、かみさまを人の身体に封じこめるためのもの。楽しい祭りの雰囲気でかみさまを呼び寄せ、人の世界に閉じ込めてしまう。なんて浅はかで傲慢なのだろう。結局のところ、スピカには『かみさま(スペルカ)』がスピカの思う神様なのかも解らない。スピカはここで、村人達から一人で言葉を学んできたのだ。もしかすると意味を間違えている言葉もたくさんあるのかもしれない。

「小さい頃、ずっとトトと同じものを、いろんなものを一緒に見れたらいいのになって思ってた。それは今も変わってないよ。ねえトト、今まで通り一緒にいよう? ……スピカには、それ以外どうすればいいかなんて、もう分からないよ」

 最後に小さく呟くと、トトは何かを諦めたかの様に小さく微笑み、視線を落とした。

 膝の上に置かれた手にスピカが手を重ねても拒むことはしなかった。

 スピカは幕を引く手はトトのものだと今まで思っていた。けれど、それはもしかしたら違うのかもしれない。境界線が曖昧になってしまった執着心に、強い罪悪感と恐怖をトトは抱えている。もう元に戻れないのならば、がんじがらめで解くことができないのなら、その感情に縋り付こう。

「つらい? トト、くるしい?」

 スピカが笑みを浮かべながら訊くと、トトは目を見開いた後、悲しみの滲んだ表情でスピカを見つめた。その顔を見て胸が痛むのを無視して、スピカは重ねていた手に力を篭めた。

「だったら、うれしい」

 そうだ、嬉しいのだ。トトがその感情に縛られて苦しむのなら、スピカはそれを一番傍で見届けることができる。スピカもたくさん苦しかったし、悲しかった。トトも苦しめば良い。

 そう思うのに、心のどこかで叶いもしない全く違うことを願ってもいる。

「スピカ……」

 冷たい手が頬を伝うのを目の端で捉えて、スピカは目を細めた。

 その顔に浮かんでいる笑みはどこか歪で、頬に流れる涙にスピカ自身気づいていないのかもしれない。トトはそんな表情を浮かべる彼女をただじっと見つめた。







 
















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