43 【キリク】 運命の女神
キリク・セリド、四歳。
ソランジュの息子にしてセリドの第二王位継承者の彼は、哀れな子供であったと言わざるをえない。
彼は生まれた当時、既に様々な事を理解していた。
というのも、ソランジュと触れあった全ての人の目が見たものを、彼もまた見ることが出来た。腹の中の赤子として数世紀、彼は様々なものを見続けていた。
かすかに感情も受け取れた。それがキリクの魔女としての特異能力であった。
キリクがソランジュの腹の中で成長し、周囲を知覚できるようになった時、父レオの目を通して彼は幾多のものを見ていた。
だからレオがユアール国王に話しかけて、罪悪感に塗れた王が彼を見つめたその瞬間も、レオが妻のソランジュを案じながら死んだその時も、全て目にしていたのだ。
ソランジュが深い眠りについてからは、サムリとエリスが彼の目だった。
外はとても刺激的なものに溢れていた。サムリはエリスを大事に思い、そしてソランジュのこともまた大事な妹として愛していた。
エリスもまた兄や姉、夫、そして生まれてきた息子を何よりも大事に思っていた。彼らの日常を見るのは好きだった。幼いアベルが両手を広げて満面の笑みで、エリスに抱きついてくる。そしてエリスは目を細めて、笑い声を漏らすのだ。聞こえないはずの声すらも聞こえるほどに、愛おしさに溢れていた。
「母上、母上」
「アベル、愛しているわ」
暖かな空間からソランジュの元に戻ってくると途端に心細くなる。自分の母だからか、あるいは眠りに落ちているせいか、何故かソランジュの目から見える物は何もなかった。
時が過ぎてソランジュが目を覚まし、キリクは赤子として生を受けた。生まれたときに泣かなかったキリクは最初死産かと思われたようだった。
その後もサムリやエリスだけでなく、アベルや王ジョセフ、果てはアベルの部下エルベルや友トビアスの目もまたキリクの目になった。キリクは自分と触れた人の目を自分のものとして見ることが出来たのだ。
生まれた後、殆どをソランジュの部屋で過ごしていたキリクだったが、彼は沢山の人の目を通して色々なものを吸収した。そしてやっと分かった。
――ソランジュは、もう何も見ていないのだ。
だから彼女の目を通して何かを見ることが出来ない。彼女の目は憎しみに濁り、誰も見ようとはしていなかった。もちろんキリクのこともだ。
それを悟った瞬間、キリクは初めて泣いた。
彼は生涯、息子を抱き上げる母の愛しい視線を感じることはできない。キリクにとっての母の愛は、エリスがアベルに与えたものを、幻のように思い出すだけとなった。
「母様、お願いです。僕を見て下さい」
「なあにキリク、おかしいことを。もう赤子ではないのですよ」
微笑んだソランジュは、キリクがただ駄々をこねていると思ったのだろう。抱き上げて抱きしめられても、母が遠い。彼女の眼を覗き込むとガラス玉のような空色の眼にキリクが映っていた。
見えなくても映るのか、とキリクは悲しそうに微笑んだ。
時が経ち、アベルとソランジュの対立は激化した。キリクにとってアベルは、エリスの目を通して息子のような大事なものとして映っていた。しかし自分の母はもはや憎しみに焦がされるように破滅へと進んで行く。止めても彼女は止まらない。
閉じ込められたアベルの牢屋の鍵を、キリクはそっと開けた。
――終わらせるべきなのだ、憎しみの連鎖は。異世界も準備が出来ただろう。
アベルが逃げ出して、様々なものや人と出会うのをキリクは見ていた。奇妙な服、バナナ、ロープ。トビアス、そして和葉。予想外な姿ではあったが、彼女のことは知っていた。サムリの目で見ていたからだ。
サムリは彼女に託していた。ソランジュの真名を。もしもそれがアベルに渡らないのであれば運命の神はソランジュの味方をしたと思い、母がユアール国もこの国も滅ぼすのを見守ろうと思った。
だけどもしもそれがアベルに渡ったのならば。
「終わらせましょう、母様」
全て終わらせてあげようと、キリクは思った。何よりも愛しい母のために。
* * * * * * * * * *
キリクが現れたときに、アベルは警戒した。
カズハはキリクと話せと言っていた。助言通りにキリクの部屋に行ったがそこに彼はおらず、進むうちにソランジュの私兵に襲われたのだ。
「殿下、先に行って下さい!」
「俺たちに後は任せて下さい!」
「……しんどい」
エルベル達はアベルを見送り、そうしてアベルは一人ソランジュの部屋に来た。ソランジュの加勢をするためにキリクが現れたのかと思ったが、そうではないようだった。
血を吐き、ぴくりとも動かず倒れているソランジュを、キリクは大事そうに小さな腕で抱えた。
「……キリク」
「兄上。……いえ、本当は従兄と呼ぶべきかも知れませんが」
小さな目がアベルを見上げると、にこりと微笑んだ。
「キリク、どうしてここに」
「母の最期を見届けに」
「……!?」
キリクの腕の中のソランジュは、もう動かなかった。
しかし何故だろう。その顔には笑みのようなものが浮かんでいる。
「あの呪符は母が仕込んだものです。まだ未完成で、使おうとすれば逆流し母の中を貫かれる可能性も高かった」
逆流した光がソランジュの命を奪い、アベルを貫こうとした光は呪主の死と共に消えた。
でも、とキリクが呟く。
「それでもいいから兄上を殺そうと思わなければ多分、母は死ななかったでしょう」
その目をそっと閉じさせてキリクは母を見つめた。結局最後まで彼女は息子を見ることはなかった。生きて彼を育てることよりも、死んでも復讐することを選んだのだ。母を見つめるキリクの瞳には、寂しそうだった。
窓枠に座ったままソランジュとキリクを交互に見たトビアスは、立ち上がった。
「終わったね。また来るねアベル。じゃ、あとは身内でどうぞ」
そう言って彼はふわりと窓の外に身を躍らせる。お礼を言う暇も与えない去り方だった。
アベルは彼が去った窓から見える月に、少し目を細めた後にキリクに尋ねた。
「キリク……お前は知っていたのか?」
「はい、母の隣で見ておりました。母が気付いていたかどうかは分かりませんが」
寒々としたソランジュの視線は呪符を作り上げた前も後も変化しなかった。その目に重なることの出来ないキリクには、彼女の気持ちは察することは出来なかった。
呪符を呑み込んだ母は、一体何を思っていたのだろう。もう永遠に理解することはできなかった。
「僕の真名を、届けては下さらなかったのですね。和葉さんは」
「カズハのことも知って!?」
「はい」
残念そうにキリクは頷いた。純血の魔女であるキリクがもし、ソランジュのように憎しみに溺れるときがきたら、アベルや他の人には止められないだろう。
彼女はアベルに届けてくれなかった。キリクを制し殺せる真名を。
なればキリクは憎しみに狂うことはできない、誰も彼を止めることが出来ない以上。運命が彼を死なせようとしてくれなかったのならば、従うしかないのだろう。それが運命の女神である彼女の意図なのだと思った。
アベルにとっても運命の女神でもある和葉のことを思って、キリクは微笑んだ。
「もう少しあの方ともお話したかったです」
「カズハなら俺の部屋にいる。落ち着いたら迎えに行くと言ってあるから後で話すといい」
そう言うアベルの言葉にキリクは、首を横に振って笑った。
「いいえ、もうお帰りになりました。――あの方のいた世界へ」




