42 【ソランジュ】 終わりの時間
両手から呪符を撒き散らし、床に倒れたソランジュは痛みに呻いた。
左手できつく右手を掴みながらアベルを、そして窓枠に腰をかけているトビアスを睨む。
「僕は別に邪魔はしてないよ? 紙が風で飛んじゃっただけだし」
隣国の王子は飄々(ひょうひょう)とした様子で、ソランジュの足元に落ちた絵を見て笑った。その赤毛からぽたりと水滴が落ちる。
「カズハのセロハンテープのおかげで、水の中に落ちても濡れなかったみたいだね。良かったね」
トビアスの言っていることは理解出来なかったが、多少歪んでいたとはいえ久しぶりにソランジュは夫の姿を見た。もはや記憶に薄れていた彼の笑顔。
だが、それ以上に自分の姿を見て衝撃を受けた。
あれはレオと結婚した夜を絵師に描いてもらったものだ。レオが一年目の結婚記念日に送ってくれたもの。
ああ、かつてのソランジュの目は輝いて喜びと幸せに染まっていたのに。今の自分としたらどうしたことだ。こんなでは、レオと同じ場所に行ったところで彼はきっと分からない。
憎しみに染まったソランジュの姿など、自分の妻だと気付いてくれないだろう。
「アベル」
弱々しい声がソランジュの喉から漏れた。倒れ込んだソランジュの両手にはもう何も無い。痛みで右手は符を持てず、左手は痛みを堪えるように右腕をぎゅっと握りしめていた。
「アベル、来て……」
ソランジュの頬を涙が伝った。苦しい。胸が苦しい。
涙と共にアベルを呼ぶソランジュに、彼は戸惑った。
トビアスはアベルを見て、首を横に振る。警戒心の強いトビアスはその場を動こうとしなかった。
「術を解く言葉を教えるわ。王も正気に戻るでしょうし。エリスもサムリ兄様も、こちらに戻って来られるはずよ。来て」
「……ソランジュ」
ゆっくりとアベルが近寄ってきた。
それでも一定以上近寄らない彼に、ソランジュは言った。
「アベル、あなたの真名も知っているわ。ここで口にしてもいいのよ?」
「っな!?」
思わず駆け寄ったアベルの両腕を、痛みを堪えて掴むとソランジュはその顔を間近で見た。妹に良く似た顔立ちが、ソランジュを見つめていた。エリスの息子で、彼女が何より愛したもの。
――苦しい。この胸のどす黒い想いは、どうしたら消えてくれるというのだろうか。
引きつったように口を開けて、ソランジュは嗤った。
「嘘よ、兄は警戒して、あんたの真名だけは決して教えてくれなかった」
「!」
アベルが彼女の両手を振り払おうとするより先に、ソランジュの口、喉の奥からは呪符の光が漏れた。ソランジュは呑み込んだその呪符を発動させる。彼女も無事ではないだろうが、その光線はアベルの脳天を貫くだろう。
――憎しみは何も生みはしないと、兄の言葉が頭をよぎる。エリスに笑顔で伝えてやろう。息子を失った彼女に、私が。
「アベル!」
トビアスが右手を振り上げて風の魔法を使ったが遅かった。ソランジュの中からの光がアベルを貫くと思った瞬間に。
突然光はかき消すように消えて、代わりにソランジュが血を吐いた。真っ赤な、血を。
アベルが突き飛ばしたソランジュの体は、トビアスの風魔法でさらに後ろまで吹っ飛んでいった。壁に叩き付けられると思ったその前に、ソランジュの体を小さな手が支えた。糸の切れた人形のように動かないソランジュの体を支えたのは、彼の息子だった。
「母様」
キリクは悲しそうに笑った。
「もう、終わりの時間ですよ。母様」




