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第5話 姉のぬくもり

「これより、ベック男爵一家を、正式に告発いたします」


絶対零度のように澄み切ったその声が、広間の隅々まで染み渡っていく。

それきり、誰ひとりとして身じろぎできなかった。


シャンデリアの光だけが、何事もなかったかのように煌々と降り注いでいる。


リックの厚手の外套にくるまれたニノンは、マリアに支えられながら、まだ小さく震えていた。


——これは、夢ではないのか。

何度も、何度も見た、あの優しい夢の続きではないのか。


けれど、夢の中のお姉様は、こんなにも確かに、目の前に立ってはいなかった。

広間に響く、澄み切った声。

迷いなく伸びた背筋。

伯父たちを前にしても一歩も退かない、凛とした横顔。


そして、倒れた自分を見つけた瞬間、まっすぐ駆け寄ってくれた深い碧眼。

そのどれもが、これは現実なのだと、凍えきったニノンの心へ少しずつ、けれど確実に染み込んでくる。



最初に沈黙を破ったのは、ガストンだった。

「ま……待ってくれ、シノン」

たるんだ頬に脂汗を浮かべ、彼は必死に両手を揉みしだきながら、一歩、また一歩と近づいてくる。

「これは身内の、ちょっとした行き違いに過ぎん。後見人として、私はただ、若すぎるお前たちに代わってベルトランの家を守ろうと……」

「守る?」


シノンは冷ややかに反問すると、懐から一冊の帳簿を取り出し、ガストンの目の前に掲げてみせた。

「これは、ベルトラン伯爵家の財政帳簿です」

それを見た瞬間、ガストンの顔が土気色に変わった。

「な、なぜお前がそれを持っている……!」

その狼狽だけで、その帳簿が本物であることは明らかだった。


シノンは伯父の無様な狼狽を冷ややかに見下ろし、ぱらり、と無慈悲な手つきで紙束を広げた。

「ベルトラン家の銀器、絵画、宝飾品の売却記録。領地税の三年分の前借り契約書。帝都商会からの多額の借入証書」

氷の刃のような声が、次々と不正を暴き立てていく。

「この五年で、伯爵家の財産の大半が消え失せています」

「そ、それは、領地運営のためだ!」

ガストンが青ざめた顔で必死に言い募る。

「決して私腹を肥やしたわけでは……!」

「では、こちらは?」

シノンは間髪入れず、次の書類を突きつけた。

「宝石商への莫大な支払い明細。闇の賭博場への送金記録。そして、ゲクラン名義の遊興費……」

ガストンの顔から、一気に血の気が引いた。

反論の余地もない、完全な横領の証拠だった。


「それから、行き違い、と言いましたね」

シノンが、先ほどのガストンの言葉を遮るように静かに繰り返した。

抑揚のない、それでいて底冷えのする声だった。

「五年です、伯父様」

シノンは一度だけ、マリアに支えられたニノンへ視線を落とした。

「五年もの間、正当な伯爵家の娘を馬の飼料小屋へ追いやり、氷水でひび割れた手で働かせ、骨が折れても医者ひとり呼ばず、あげくに今夜、見も知らぬ相手へ愛人として売り渡そうとした——それを、ちょっとした行き違い、と?」

ガストンの顔が引きつった。

「なぜ知って……ち、違う、それは……」

「違いません」

シノンは、ガストンの言い逃れを許さなかった。


「私はこの目で見た」

低く、重い声が、横から割って入った。

老侯爵だった。

「この娘は、己の意思を問われることもなく、明らかに傷を負ったまま、無理やりこの席へ引き出された——男爵。あなたが今宵この私に売りつけようとしたのは、ほかでもない、この姪御だったはずだな」

広間のあちこちで、非難の息を呑む音がした。


シノンが突きつけた横領の証拠と、老侯爵の人身売買の証言。

これによって、ガストンが後見人などではなく、正真正銘の「簒奪者」であることが誰の目にも明らかになったのだ。


それまで「他家の事情」として目を伏せていた貴族たちの顔が、はっきりと、容赦のない嫌悪の色に染まっていく。



バルバラは、ガストンの背に隠れるように後ずさりながら、それでも首元の宝石だけは両手で必死に庇っていた。

かつて、ニノンの母フローラが身につけていた、ひときわ美しいサファイアを。


「い、いやよ……わたくしは、何も知りませんわ! ぜんぶ、ぜんぶこの人が勝手にやったことよ!」

金切り声を上げて、夫を指さす。

ガストンが、信じられないという顔で妻を振り返った。

「貴様っ、いまさら自分だけ逃げようと!」

底なしに浅ましい、責任のなすりつけ合いだった。


そんな両親の姿を見て、ゲクランはいつのまにか、じりじりと出口の方へ後ずさっていた。

その動きを、シノンの深く澄んだ碧眼が逃さず捉える。

「ゲクラン」

名を呼ばれただけで、ゲクランの肩がびくりと大きく跳ねた。

「ニノンの右足は、なぜあのように折れているのですか?」

「……し、知るかよ! 俺は知らない!」

問い詰められてもいないのに、ゲクランは裏返った声で叫んでいた。

「あいつが、勝手に階段から落ちただけだ! 俺は、突き飛ばしてなんか——!」

そこまで叫んでから、ゲクランははっと口をつぐんだ。

けれど、遅かった。

広間中の貴族が、確かにそれを聞いていた。


シノンは、ゆっくりとゲクランへ視線を移した。

その瞳の奥で、何かが音もなく凍りついていく。


怒鳴りはしなかった。

ただ、シノンはマリアに支えられたニノンの前へ一歩戻ると、外套の上から、壊れた右足の添え木に……そこに結ばれた、無惨に汚されたリボンへ、そっと触れただけだった。


「……そうですか」

たったそれだけの声が、ゲクランには、どんな怒声や刃を向けられるよりも恐ろしく聞こえた。


歯の根が合わず、彼はその場に腰を抜かしてへたり込んだ。



シノンが、わずかに片手を上げた。

それだけで、背後に控えていた騎士たちが、一糸乱れぬ動きで音もなく前へ出た。


洗練された揃いの礼装。

隣国カールセンの王太子殿下が、シノンのために遣わした直属の精鋭たちだった。

「ベック男爵ご一家には、然るべき場所で申し開きをしていただきます」

「ま、待て! 私は正当な後見人だぞ! 貴様に、いったい何の権利が——!」

「権利」

シノンの声が、ぴしりと空気を裂いた。

「その言葉を、よくも口にできましたね」

騎士たちが、ガストンの、バルバラの、ゲクランの腕を、それぞれ静かに、しかし有無を言わさず冷酷に取り押さえた。


「離せ! 離しなさい! わたくしは伯爵夫人なのよ!」

身悶えした拍子に、バルバラの首元からサファイアの首飾りがちぎれ、床へと滑り落ちる。


「いいえ」

シノンは、這いつくばって宝石を拾おうとする伯母を、見下ろしもしなかった。

「あなたは、伯爵夫人だったことなど、ただの一度もありません」



引き立てられていくその間際、ガストンが血走った目で振り返った。

「シ、シノン……お前は、いったいどこまで知っている……あの日の馬車事故のことも、まさか——」


その一言に、シノンの呼吸が、一瞬だけ止まった。

ニノンには、何が起きたのか分からなかった。

けれどその瞬間だけ、姉の碧眼の奥に、凍てつくような何かがよぎった気がした。


五年前のあの日を思い出しているのだと――なぜか、そう思った。

けれど、それはすぐに、いつもの凛とした氷の表情の下へ、静かに仕舞い込まれた。


「——それは法廷で、すべて、白日の下に明らかにしてもらいます」

ガストンが、なおも何かを言いかけた。

けれど、もう声にはならなかった。


騎士によって猿轡を噛まされ、無様に喚き散らす伯父一家は、広間の外へと引き立てられていく。


ニノンにとって、あれほど大きく、恐ろしい存在だった伯父たちの背中は、今やひどく小さく見えた。



広間に、再び静寂が戻った。


シノンは、ようやく、その場で振り返った。

「マリア。リック」

短く、けれど、確かな温度を持った声で呼んだ。


リックの外套にくるまれたニノンを支えていたマリアが、びくりと肩を震わせて顔を上げる。

栗色の髪は乱れ、目は真っ赤だった。

裏口の陰からは、リックが丸太のような腕を所在なげに下げたまま、おずおずと歩み出る。


二人とも、まるで死刑宣告を待つ罪人のように、顔を強張らせていた。


冷たい使用人を演じ続けたこの五年間。

主家の大切な娘を守ってやれなかった、その不甲斐なさ。

シノンの咎める言葉を、二人は覚悟していた。

どんな罵倒を受けても、甘んじて受け入れるつもりだった。

けれど。


「ありがとう」

シノンは、心からそう言って、深く頭を下げた。

「あなたたちが、耐えて、傍にいてくれたから……ニノンは、生きて、私を待っていてくれた」


マリアは、ニノンを支える腕だけは離さないまま、両目からぼろぼろと涙をこぼした。

リックは、何度も、何度も首を横に振りながら、「もったいないお言葉です」と嗚咽を漏らし、日に焼けた無骨な顔を涙で濡らしていた。


シノンがそっとニノンの肩に手を添えると、マリアは涙を拭いながら、ほんの半歩だけ身を引いた。


そしてシノンは、その場に、静かに膝をついた。

美しいドレスの裾が床につくのも構わず、マリアに支えられているニノンと、視線の高さを合わせる。


「ニノン」

優しい、あまりにも優しい声だった。

伯父たちへ向けていた、あの絶対零度の響きが、春の雪解けのように嘘のように消え去っている。


「もう、大丈夫よ。本当に、本当によく頑張ったわね」

ニノンは、シノンの服を強く握りしめたまま、それでも、まだ夢から覚めるのが怖くて震えていた。


「……お姉様。ニノンは……ずっと、いい子で、待っていました」

「ええ。知っているわ」

「お姉様が……約束を、破るはずないって……みんな、笑ったけど……それでも……」

声が、嗚咽に途切れる。

シノンは、その小さな頭を、そっと自分の胸へ抱き寄せた。


服越しに伝わってくる、規則正しい鼓動。

記憶のままの、陽だまりのようなほのかな香り。

髪を撫でる指先の、確かな温かさ。

そのすべてが、夢ではないのだと告げていた。


「破るわけ、ないでしょう」

そして、髪を撫でながら、耳元で囁いた。

「世界でいちばん可愛い、私の妹との、約束だもの」



シノンは、ニノンの右足へ目を落とした。

馬に使うような、無骨な添え木。

その上に、ゲクランに踏みにじられ、泥と靴跡に汚れてもなお、命綱のように健気に結ばれている、一本の古いリボン。


——五年前、自分が、この子の小さな手に握らせたもの。


それを見つめるシノンの指先が、ほんの少しだけ震え、唇を強く噛み締めた。

「すぐに、帝都でいちばん腕の良い医師に診せます。必ず治すわ」

そう言うと、シノンはニノンの背と、膝の裏へ、そっと両腕を差し入れた。

「……お姉様?」

「もう、歩かなくていいの」

ニノンを、分厚い外套ごと、ゆっくりと抱き上げる。


——軽い。

あまりにも軽すぎる、その身体。

五年前、裏庭の木の下で肩車をねだって笑っていたあの頃よりも、ずっと、ずっと細く、折れそうに軽かった。

その事実が、シノンの胸を、刃物でえぐるように深く痛めつけた。

それでも、シノンは堪え、微笑んでみせた。


——この子の前では、絶対に泣かないと決めていたから。


「迎えに来たら、抱っこしてくれるって、そう祈っていたのでしょう?」

ニノンの目が、大きく見開かれた。

どうして、それを、お姉様が。

マリアか、リックが伝えたのだろうか。

それとも、あの夜、小屋の外にいたのは、本当はお姉様……。


けれど、もう、そんなことはどうでもよかった。

ニノンは、姉の細い首に、痩せ細った両腕をしっかりと回した。

そして、その肩口に顔を埋めて、子どものように声を上げて泣いた。


五年間、誰の前でも決してこぼさなかった、五年間分の、涙だった。



シノンは、ニノンを胸に抱いたまま、広間の出口へと歩き出した。

静かに、恭しく道を開ける貴族たち。

深く頭を垂れる、老侯爵。


煌びやかで、冷酷な品定めの場だった夜会の灯りが、今はただ、寄り添うふたりの背を静かに、祝福するように見送っている。


外套の中で、ニノンは、頬に触れる姉の鼓動を聞いていた。

とくん、とくん、と。

確かに生きて、自分を迎えに来てくれたという、命の音を。


——お姉様の、匂いがする。

凍えきっていたニノンの身体の芯へ、忘れていた温もりがゆっくりと戻ってくる。

それはまるで、五年前に失われた陽だまりが、再び自分のもとへ帰ってきたようだった。


「お姉様」

「なあに、ニノン」

「ニノンの……お姉様、ですよね」

「ええ。ずっと、ずっと、あなたのお姉様よ」


シノンの腕の中で、ニノンは、ようやく本当に安心して目を閉じた。

痛みを忘れるための気絶ではなく、明日への希望に満ちた、穏やかな眠り。


長かった、冷たくて暗い夜が、ようやく明けようとしていた。

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