第6話 陽だまりの妹
夜会での断罪から、一年が過ぎた。
ベック男爵一家の罪は、帝国貴族院の場で、ひとつ残らず暴かれた。
五年前のあの事故が、ガストンの仕組んだ罠であったことも。
伯爵位を弟アルマンに奪われた——そう思い込み続けた男の、底のない逆恨み。
それが、父アルマンと母フローラの命を奪った、本当の理由だった。
ガストンは爵位を剥奪され、バルバラも、ゲクランも、それぞれの罪に応じた重い裁きを受けた。
彼らがその後どうなったのか。
それは、もう、ニノンの心を煩わせるものではない。
◇
シノンの死亡認定は取り消され、彼女は正当な後継者として、ベルトラン女伯爵の座に就いた。
荒れ果てた領地を、かつて父と母がそうしていたように、まず領民の声を聞くことから立て直していく。
重すぎた税を見直し、膨らんだ借財を整理し、傷んだ水路や田畑を直す。
痩せた土地は、ゆっくりと息を吹き返しはじめていた。
領民たちは、いつしか、こう囁くようになった。
「まるで、前の伯爵様ご夫妻が、帰ってきてくださったみたいだ」
——帰ってきたのは、その娘である。
けれど、両親が遺したあの温かさは、確かに、シノンへと受け継がれていた。
◇
春の、穏やかな日。
シノンとニノンは、新しく整えられた両親の墓へ、花を供えた。
赤と、白の花を。
ニノンは、墓前で、心の中だけでそっと語りかけた。
——お父様。お母様。
——お姉様は、ちゃんと、帰ってきてくださいました。
——だから、わたしたちは、もう、大丈夫です。
涙は、こぼれた。
けれど、それはあの暗い飼料小屋で流していた、冷たくて痛い涙とは、まるで違うものだった。
◇
やがて、裁きも相続の手続きも落ち着いたころ、ニノンは、貴族令嬢として表舞台に立つことを望まなかった。
シノンは、その願いを黙って受け入れた。
ベルトラン家の娘であることは変わらない。
けれど、ニノンが暮らす場所は伯爵邸ではなく、領地の町外れにある、日当たりのいい小さな平屋だった。
そして、その家には、ふたりの家族がいる。
マリアと、リック。
十分な恩賞を受け取り、揃って伯爵邸を退いた二人は、晴れて夫婦となっていた。
五年間、誰にも本音を明かせないまま、二人だけでニノンを見守り続けた。
恐怖の中で互いを支え合った時間は、いつしか、生涯を共にしたいという想いへ変わっていた。
リックは、庭と馬の世話をしながら、堂々とニノンへ無骨な笑顔を向ける。
マリアは、台所であたたかいお茶を淹れ、えくぼを浮かべて、昔のように丁寧に髪を梳いてくれる。
ニノンの壊れた右足は、帝都の医師の治療をもってしても、もう元のようには戻らなかった。
それでも、痛みは少しずつ和らぎ、短い距離なら杖をついて自分の足で歩けるようになっていた。
部屋の机の上には、小さな額がひとつ。
その中には——あの、リボン。
踏みにじられ、泥に汚れていた古いリボンは、いまはマリアの手によって丁寧に洗われ、繕われて、やわらかな光の中に飾られている。
◇
ある昼下がり、その小さな平屋に、にぎやかな客人が訪れた。
ベルトラン女伯爵——シノン。
そして、その後ろから、隣国カールセンの王太子と、その婚約者の令嬢までもが顔を出した。
「ベルトラン女伯爵へ届けた復興支援の様子を、少し見に来ただけだ」
王太子は涼しい顔でそう言ったが、その腕には、見舞いの菓子の包みが山と抱えられている。
「……というのは建前で。本当は、シノンが毎日のように自慢していた妹君に、どうしてもお会いしたかったのよ」
くすくすと笑ったのは、婚約者のレッシィだった。
慈愛深く、聡明な令嬢。
異国でひとりきりだったシノンを支え、いつしか、身分を越えた無二の親友となった人である。
他国の王族の突然の訪問に、ニノンは驚きながらも慌てて居住まいを正した。
「あ、あの……はじめまして。ニノン・ポピレア・ド・ベルトランと申します。本日は遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」
緊張で声を震わせながらも、杖をついて立ち上がり、懸命にカーテシーをするニノン。
その健気で礼儀正しい姿を見た瞬間、レッシィはたまらないというように目を輝かせた。
「まあ……!シノンの言う通り、なんて可愛らしいの……!」
レッシィはニノンの隣へ腰を下ろすと、その髪を優しく撫で、お菓子の包みを開いた。
「さあ、ひとつ召し上がって。遠慮しないでね。今日は私にも甘やかさせてちょうだい」
突然のことに、ニノンは目を丸くしている。
それを見たシノンの眉が、ぴくりと跳ねた。
「レッシィ様。ニノンから離れてください」
シノンはすっと二人の間に割って入り、妹の肩を抱く。
「まあ、つれないこと!」
レッシィはおかしくてたまらないと、ころころ笑い転げた。
「ねえ、ニノンちゃん。あなたのお姉様はね、カールセンでも誰も寄せつけない『氷の令嬢』だったのよ。でも、あなたのことを話す時だけは顔がふにゃふにゃに溶けてしまって。『私のニノンは本当に可愛い』って、それはもう毎晩うるさかったんだから」
「……レッシィ様」
めずらしく、シノンの白い頬がほのかに赤らんだ。
ニノンは、姉とその親友のやりとりをきょとんと見比べていたが、やがて、おずおずとレッシィへ口を開いた。
「あの……レッシィ様」
「なあに?」
「お姉様が、ひとりぼっちだった五年間……おそばにいてくださって。本当に、ありがとうございました」
レッシィのいたずらっぽい笑みが、ふっと止まった。
「私は、なんにもできませんでした。ただ、待つことしか——だから、お姉様のおそばにいてくださった方に、どうしても、お礼が言いたくて……」
レッシィはしばらく言葉をなくし、それから、そっとニノンの手を取った。
「……ねえ、ニノンちゃん。ひとつ、教えてあげる」
「はい」
「あなたのお姉様はね。どんなに苦しい夜でも、眠る前には必ず、あなたのリボンと同じ色の糸を、指に巻いていたのよ」
ニノンの碧眼が、大きく揺れた。
「『妹が、おそろいのものを持って待っている』——そう思えば、いくらでも頑張れるのだ、って。だから、なんにもできなかったなんて、言わないで」
レッシィの声が、やさしく滲む。
「あなたは、ちゃんと海の向こうのお姉様を、支えていたのだから」
ニノンは、こくり、と頷いた。
目の縁に、あたたかいものがにじむ。
それから、ニノンは傍らの卓に飾られていた一輪の花を、そっと手に取った。
庭で、リックが咲かせた白い花だった。
「あの……これ。お礼の、しるしです。お姉様のお話を、聞かせてくださって……とても、嬉しかったから」
差し出された小さな花に、レッシィは、今度こそ目を潤ませた。
「……ああ、もう。これは、シノンが自慢するわけだわ」
そして、たまらず、ぎゅっとニノンを抱きしめる。
「ねえ、シノン?」
レッシィは、抱きしめたニノンを見て、それからシノンを見て、楽しそうに笑った。
「親友の妹は、私の妹も同然よね?」
「違います」
即答だった。
「それより、離れてくださいと、言いました」
すかさずシノンが妹を奪い返した。
そこへ、マリアがお茶と一緒に何通かの手紙を運んできた。
女伯爵となったシノン宛ての、名だたる家々からの、山のような縁談の釣り書である。
シノンはひととおり目を通すと、帳簿の不備でも見つけたかのような無表情で、それらを一瞥して脇へ積み上げた。
「……シノン。せめて、返事くらいは書いてやれ」
王太子が、呆れ顔で言う。
「『お断りします』と書く時間が、惜しいので」
「だが、自分自身の後継についても考えないといけないだろう?」
「今はニノンの療養が何よりの最優先事項です。しばらくは他のことを考えるつもりはありません」
シノンの迷いのない即答に、王太子とレッシィは顔を見合わせて苦笑した。
「シノンは優秀な女性だと思っていたが……妹君のことになると、本当に極端だな」
大真面目に言い切るシノンに、ニノンは困ったように——けれど、心底幸せそうに、笑った。
◇
やがて、お茶の時間になり、ニノンが椅子から立ち上がろうとすると……シノンが、ごく当然のように、その身体をひょいと抱き上げた。
「お姉様。もう、お茶の席までなら、一人で歩けます」
「知ってるわ」
「では、どうして……」
シノンは、当たり前のことのように答えた。
「私が、そうしたいからよ」
ニノンは、ほんのり頬を染めて笑う。
——歩けなくなっても、大丈夫。
——お姉様が迎えに来てくれたら、きっと、抱っこしてくれるもの。
あの暗い飼料小屋で、痛みに震えながら抱きしめていた、ささやかな願いは。
いま、思いがけない形で、ちゃんと叶っていた。
その日、小さな平屋は、久しく忘れていた、にぎやかな笑い声に満ちていた。
◇
客人たちが帰り、シノンもまた領主の務めへと戻っていった、夕暮れ。
日当たりのいい部屋に、ニノンはひとりで座っていた。
膝には、やわらかな膝掛け。
窓からは、傾きはじめたあたたかな光が、淡い色の床へやさしく差し込んでいる。
台所からは、マリアがお茶を支度する、ことことという音。
庭では、リックが咲きはじめた花に水をやっている。
ニノンは、机の上の繕われたリボンへ、そっと指を伸ばした。
——わたしは、ずっと、待っていた。
——暗い小屋の中で、お姉様が迎えに来てくれる日を、何度も、何度も、夢に見ていた。
ニノンは思う。
今度は、お姉様、いつ帰ってくるだろう。
帰ってきたら、マリアにお茶を淹れてもらおう。
それから、「おかえりなさい」と言おう。
だって、ここはもう、あの冷たい飼料小屋ではないのだから。
窓辺の光が、繕われたリボンをあたたかく照らしている。
遠くで馬のいななきと、リックの笑い声が聞こえた。
お茶のいい香りが、部屋いっぱいに広がっていく。
——ここは、わたしの、陽だまり。
ニノンは、光の中でそっと微笑んだ。
(了)
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