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第6話 陽だまりの妹

夜会での断罪から、一年が過ぎた。

ベック男爵一家の罪は、帝国貴族院の場で、ひとつ残らず暴かれた。


五年前のあの事故が、ガストンの仕組んだ罠であったことも。

伯爵位を弟アルマンに奪われた——そう思い込み続けた男の、底のない逆恨み。


それが、父アルマンと母フローラの命を奪った、本当の理由だった。


ガストンは爵位を剥奪され、バルバラも、ゲクランも、それぞれの罪に応じた重い裁きを受けた。


彼らがその後どうなったのか。

それは、もう、ニノンの心を煩わせるものではない。



シノンの死亡認定は取り消され、彼女は正当な後継者として、ベルトラン女伯爵の座に就いた。


荒れ果てた領地を、かつて父と母がそうしていたように、まず領民の声を聞くことから立て直していく。

重すぎた税を見直し、膨らんだ借財を整理し、傷んだ水路や田畑を直す。

痩せた土地は、ゆっくりと息を吹き返しはじめていた。

領民たちは、いつしか、こう囁くようになった。

「まるで、前の伯爵様ご夫妻が、帰ってきてくださったみたいだ」


——帰ってきたのは、その娘である。


けれど、両親が遺したあの温かさは、確かに、シノンへと受け継がれていた。



春の、穏やかな日。

シノンとニノンは、新しく整えられた両親の墓へ、花を供えた。

赤と、白の花を。

ニノンは、墓前で、心の中だけでそっと語りかけた。


——お父様。お母様。

——お姉様は、ちゃんと、帰ってきてくださいました。

——だから、わたしたちは、もう、大丈夫です。


涙は、こぼれた。

けれど、それはあの暗い飼料小屋で流していた、冷たくて痛い涙とは、まるで違うものだった。



やがて、裁きも相続の手続きも落ち着いたころ、ニノンは、貴族令嬢として表舞台に立つことを望まなかった。

シノンは、その願いを黙って受け入れた。

ベルトラン家の娘であることは変わらない。

けれど、ニノンが暮らす場所は伯爵邸ではなく、領地の町外れにある、日当たりのいい小さな平屋だった。


そして、その家には、ふたりの家族がいる。

マリアと、リック。


十分な恩賞を受け取り、揃って伯爵邸を退いた二人は、晴れて夫婦となっていた。


五年間、誰にも本音を明かせないまま、二人だけでニノンを見守り続けた。

恐怖の中で互いを支え合った時間は、いつしか、生涯を共にしたいという想いへ変わっていた。


リックは、庭と馬の世話をしながら、堂々とニノンへ無骨な笑顔を向ける。

マリアは、台所であたたかいお茶を淹れ、えくぼを浮かべて、昔のように丁寧に髪を梳いてくれる。


ニノンの壊れた右足は、帝都の医師の治療をもってしても、もう元のようには戻らなかった。

それでも、痛みは少しずつ和らぎ、短い距離なら杖をついて自分の足で歩けるようになっていた。


部屋の机の上には、小さな額がひとつ。

その中には——あの、リボン。


踏みにじられ、泥に汚れていた古いリボンは、いまはマリアの手によって丁寧に洗われ、繕われて、やわらかな光の中に飾られている。



ある昼下がり、その小さな平屋に、にぎやかな客人が訪れた。


ベルトラン女伯爵——シノン。

そして、その後ろから、隣国カールセンの王太子と、その婚約者の令嬢までもが顔を出した。


「ベルトラン女伯爵へ届けた復興支援の様子を、少し見に来ただけだ」

王太子は涼しい顔でそう言ったが、その腕には、見舞いの菓子の包みが山と抱えられている。


「……というのは建前で。本当は、シノンが毎日のように自慢していた妹君に、どうしてもお会いしたかったのよ」

くすくすと笑ったのは、婚約者のレッシィだった。


慈愛深く、聡明な令嬢。

異国でひとりきりだったシノンを支え、いつしか、身分を越えた無二の親友となった人である。


他国の王族の突然の訪問に、ニノンは驚きながらも慌てて居住まいを正した。

「あ、あの……はじめまして。ニノン・ポピレア・ド・ベルトランと申します。本日は遠路はるばる、ようこそおいでくださいました」

緊張で声を震わせながらも、杖をついて立ち上がり、懸命にカーテシーをするニノン。


その健気で礼儀正しい姿を見た瞬間、レッシィはたまらないというように目を輝かせた。

「まあ……!シノンの言う通り、なんて可愛らしいの……!」

レッシィはニノンの隣へ腰を下ろすと、その髪を優しく撫で、お菓子の包みを開いた。

「さあ、ひとつ召し上がって。遠慮しないでね。今日は私にも甘やかさせてちょうだい」


突然のことに、ニノンは目を丸くしている。

それを見たシノンの眉が、ぴくりと跳ねた。

「レッシィ様。ニノンから離れてください」

シノンはすっと二人の間に割って入り、妹の肩を抱く。


「まあ、つれないこと!」

レッシィはおかしくてたまらないと、ころころ笑い転げた。

「ねえ、ニノンちゃん。あなたのお姉様はね、カールセンでも誰も寄せつけない『氷の令嬢』だったのよ。でも、あなたのことを話す時だけは顔がふにゃふにゃに溶けてしまって。『私のニノンは本当に可愛い』って、それはもう毎晩うるさかったんだから」

「……レッシィ様」

めずらしく、シノンの白い頬がほのかに赤らんだ。


ニノンは、姉とその親友のやりとりをきょとんと見比べていたが、やがて、おずおずとレッシィへ口を開いた。

「あの……レッシィ様」

「なあに?」

「お姉様が、ひとりぼっちだった五年間……おそばにいてくださって。本当に、ありがとうございました」


レッシィのいたずらっぽい笑みが、ふっと止まった。

「私は、なんにもできませんでした。ただ、待つことしか——だから、お姉様のおそばにいてくださった方に、どうしても、お礼が言いたくて……」


レッシィはしばらく言葉をなくし、それから、そっとニノンの手を取った。

「……ねえ、ニノンちゃん。ひとつ、教えてあげる」

「はい」

「あなたのお姉様はね。どんなに苦しい夜でも、眠る前には必ず、あなたのリボンと同じ色の糸を、指に巻いていたのよ」

ニノンの碧眼が、大きく揺れた。

「『妹が、おそろいのものを持って待っている』——そう思えば、いくらでも頑張れるのだ、って。だから、なんにもできなかったなんて、言わないで」

レッシィの声が、やさしく滲む。

「あなたは、ちゃんと海の向こうのお姉様を、支えていたのだから」

ニノンは、こくり、と頷いた。

目の縁に、あたたかいものがにじむ。


それから、ニノンは傍らの卓に飾られていた一輪の花を、そっと手に取った。

庭で、リックが咲かせた白い花だった。

「あの……これ。お礼の、しるしです。お姉様のお話を、聞かせてくださって……とても、嬉しかったから」

差し出された小さな花に、レッシィは、今度こそ目を潤ませた。

「……ああ、もう。これは、シノンが自慢するわけだわ」

そして、たまらず、ぎゅっとニノンを抱きしめる。

「ねえ、シノン?」

レッシィは、抱きしめたニノンを見て、それからシノンを見て、楽しそうに笑った。

「親友の妹は、私の妹も同然よね?」

「違います」

即答だった。

「それより、離れてくださいと、言いました」

すかさずシノンが妹を奪い返した。


そこへ、マリアがお茶と一緒に何通かの手紙を運んできた。

女伯爵となったシノン宛ての、名だたる家々からの、山のような縁談の釣り書である。


シノンはひととおり目を通すと、帳簿の不備でも見つけたかのような無表情で、それらを一瞥して脇へ積み上げた。

「……シノン。せめて、返事くらいは書いてやれ」

王太子が、呆れ顔で言う。

「『お断りします』と書く時間が、惜しいので」

「だが、自分自身の後継についても考えないといけないだろう?」

「今はニノンの療養が何よりの最優先事項です。しばらくは他のことを考えるつもりはありません」

シノンの迷いのない即答に、王太子とレッシィは顔を見合わせて苦笑した。

「シノンは優秀な女性だと思っていたが……妹君のことになると、本当に極端だな」


大真面目に言い切るシノンに、ニノンは困ったように——けれど、心底幸せそうに、笑った。



やがて、お茶の時間になり、ニノンが椅子から立ち上がろうとすると……シノンが、ごく当然のように、その身体をひょいと抱き上げた。

「お姉様。もう、お茶の席までなら、一人で歩けます」

「知ってるわ」

「では、どうして……」

シノンは、当たり前のことのように答えた。

「私が、そうしたいからよ」

ニノンは、ほんのり頬を染めて笑う。


——歩けなくなっても、大丈夫。

——お姉様が迎えに来てくれたら、きっと、抱っこしてくれるもの。


あの暗い飼料小屋で、痛みに震えながら抱きしめていた、ささやかな願いは。

いま、思いがけない形で、ちゃんと叶っていた。


その日、小さな平屋は、久しく忘れていた、にぎやかな笑い声に満ちていた。



客人たちが帰り、シノンもまた領主の務めへと戻っていった、夕暮れ。


日当たりのいい部屋に、ニノンはひとりで座っていた。

膝には、やわらかな膝掛け。

窓からは、傾きはじめたあたたかな光が、淡い色の床へやさしく差し込んでいる。

台所からは、マリアがお茶を支度する、ことことという音。

庭では、リックが咲きはじめた花に水をやっている。


ニノンは、机の上の繕われたリボンへ、そっと指を伸ばした。


——わたしは、ずっと、待っていた。

——暗い小屋の中で、お姉様が迎えに来てくれる日を、何度も、何度も、夢に見ていた。


ニノンは思う。


今度は、お姉様、いつ帰ってくるだろう。

帰ってきたら、マリアにお茶を淹れてもらおう。

それから、「おかえりなさい」と言おう。

だって、ここはもう、あの冷たい飼料小屋ではないのだから。


窓辺の光が、繕われたリボンをあたたかく照らしている。

遠くで馬のいななきと、リックの笑い声が聞こえた。

お茶のいい香りが、部屋いっぱいに広がっていく。


——ここは、わたしの、陽だまり。

ニノンは、光の中でそっと微笑んだ。

(了)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
結局、姉が戻ってくるまで5年もかかった理由は? 妹の状況をここまで細かく把握しながら放置して生贄にした理由は?
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